ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ダンテ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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子供が使う引き寄せの超秘法

「マイナスを疑うメソッド」のように疑う必要すらなく、一瞬で出来る神秘的な引き寄せメソッドがある。
あまりに簡単で、小さな子供でも出来る。
逆に、大人や、子供らしくない子供は、うまくいかないかもしれない。
だが、実は、誰でも小さい時に使っているはずだと思う。

似たものとしては、ネヴィル・ゴダードの『AT YOUR COMMAND!』や、マイク・ハーナッキーの『成功の翼』に書かれているものや、YouTubeでしか見ていないが、108さんの「適切性に一致する」などがある(PDF書籍があるらしい)。
だが、どれも、おそろしく抽象的で、古いトーストのように食えず、信用詐欺に遭ったような気分になるのではないかと思う。
とはいえ、やはり、絶対に簡単なのである。
頭を使わないので疲れないし、いくらでも使えることから、どんな願いでも叶えられる。

あえてやり方を言えば、あるお婆さんが、「アビラウンケン」という大日如来の真言を「油売らんか」と憶えて唱え、効果抜群であったことや、小さな子供が「アブラカタブラ」といった呪文を唱えるようなものだ。
古いアニメでは、魔法使いサリーが「マハリクマハリタ」と唱えたり、魔女っ子メグちゃんが「テクニクテクニカシャランラ」と唱えるのを子供が真似するようなものだ。
ちなみに私は、棒状のものを、魔法の杖として振っていた。
ただ、これでうまくいく子供やお婆さん(お爺さんもだが)がいる一方、魔法力が発揮されない子供やお婆さんもいる。
思い込み次第なのかと言うと、それもあるだろうが、それだけではないと思う。

これについて、私が、ピンと来たことがある。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドのウィリアム・バトラー・イェイツが、「神秘を信じない者は想像力がないのだ」と書いていたが、彼が、最高の想像力の持ち主と言ったのは、イタリア最大の文学と言われる叙事詩『神曲』の著者であるダンテだった。
『神曲』は、アンデルセンも森鴎外も絶賛しているが、普通の人は一生読まない。
だが、どういうわけか、私は中学1年生の時に熱心に読んでいた。
ところで、いかに『神曲』が叙事詩の傑作と言っても、これを日本語の詩に翻訳するのは難しい。
それで、私は、普通の小説風に書かれた『神曲物語』(野上素一訳)を読んだが、これが分かり易かった。
詩の形式で書かれたものも何冊か読んだが、やはり詩だと、普段使わない特殊な言葉が使われ、それはそれで良いが、分かり難いかもしれない。
また、私が最も好きな画家の1人であるギュスターヴ・ドレの精密な版画がついたものも読んだが、これも良かった。
『神曲』は、ダンテが10歳くらいの時に出会ったベアトリーチェという美少女への憧憬が基になっている。
これは、ベートーヴェンにとってのエリーゼや、ダ・ヴィンチにとってのモナ・リザにも似ているかもしれない。
『神曲』には、何かがあると思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)神曲物語(上)(ダンテ。野上素一訳)
(2)神曲 地獄篇(ダンテ。平川祐弘訳)
(3)ドレの神曲(ダンテ。ギュスターヴ・ドレ。谷口江里也訳)
(4)新生(ダンテ。平川祐弘訳)
(5)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)『AT YOUR COMMAND』翻訳
(6)成功の翼(マイク・ハーナッキー)
(7)ケルトの薄明(ウィリアム・バトラー・イエイツ)

波の音
AIアート1206
「波の音」
Kay

大芸術家達の引き寄せ体質

満ち足りていることと飢餓感・・・この両方が必要だ。
世の中には、このどちらかを極端に嫌う人が多い。
満ち足りていることしか受け入れなければ小市民・小善人になり、飢餓感しか受け入れなければ極貧になる。

何事も、原動力は飢餓感・・・ハングリー精神だということはご存じだろうが、特に芸術はそうだ。
しかし、飢餓感しか受け入れない芸術家は、天才であっても一生貧しいままだ。そして、そんな天才は多い。
W.B.イェイツは、死の直前まで安らぎを拒否したのだが、大天才であったからと言うより不思議な縁で成功したし、アンデルセンとなると、著作権のない時代だから、本来なら極貧になったはずだが、幸い、人のアドバイスで国家から年金を貰えるようになったので遊んで暮らせ、世界旅行を続けることも出来た(贅沢三昧出来るほどの年金ではなかったが)。
ピカソは、たまたま大金持ちのファンがいて、絵をいくらでも買ってくれたから豊かだった。
ゴッホには、そんな金持ちのファンなどはおらず、また、彼は認められなかったと言うより、時代に迎合した絵を描かなかったので、絵は1枚も売れなかったが、心優しい弟のテオが、経済面の一切の面倒(高価な画材も含め)を見てくれた。
宮沢賢治も、文筆でほぼ全く金を稼がなかったが(5円だけ稼いだ。今の10万円程度か)、実家が大金持ちで、父親を散々罵りながら、心優しい父親は賢治を追い出さなかった。

まあ、なんだかんだ言って、大芸術家達は引き寄せを行っていたのだと思う。
そうでなければ、彼らのラッキーは特異過ぎる。
そして、彼らが書いたものや言ったことを見てみると、確かに、強い引き寄せマインドが感じられるのである。
彼らは、神、あるいは、神に準じるスピリチュアルな何かを信じていた。
イェイツは、神秘を信じない人を、想像力がないと言って非難し、彼はダンテを最高の想像力の持ち主だと褒めている。
そして、アンデルセンもダンテには心酔していたようだ。
そういえば、私も、中学生時代はダンテの『神曲』を物語風にした『神曲物語』を引き寄せの教科書にしていたものだ。どうせ日本語では、ダンテの詩の荘厳さは翻訳出来ないので、むしろ読み易くて良かった。

大金を払ってピカソに似顔絵を描いてもらいたい金持ちはいくらでもいたのに、ピカソは子供達にタダで似顔絵を描き、岡本太郎が「描いてやった子供が、似顔絵を気に入らないって言ったらどうする?」と尋ねたら、「描き直すよ」と言ったらしい。
ここらも引き寄せ体質であると思う。
アンデルセンの引き寄せ能力は、見事なものだった。彼も、自分には神様の奇跡が何度も起こり、幸福な人生であったと言っているのである。
大芸術家のマインドに学ぶことには価値があると思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)アンデルセン自伝(ハンス・クリスチャン・アンデルセン)
(2)まだらの鳥 ~自伝小説~ (W.B. イェイツ)
(3)青春ピカソ(岡本太郎)
(4)『宮沢賢治全集・283作品⇒1冊』
(5)ゴッホへの手紙(小林 秀雄)
(6)私のピカソ 私のゴッホ(池田満寿夫)
(7)神曲物語(上)(ダンテ著。野上素一訳)

椅子に座る乙女
AIアート916
「椅子に座る乙女」
Kay

文豪達が直観で見抜いたこの世のカラクリ

「人生は大したものではない」「人間は大したものではない」「あなたは大したものではない」と言うネットの人気者がいるようだ。
その理屈は、だいたい、
・ほとんどの人には、さほどの才能や能力がない
・スーパースターになれるのは、一握りの特別な才能がある人だけ
・自分に才能があると思うのは、自己啓発本に騙されているだけ
あたりに集約されると思う。
そして、才能もないくせに、凡人に甘んじるのは嫌だと思っている者(中二病)ほど滑稽なものはなく、また、そのままでは人生を棒に振る恐れもあるので、早めに諦めて楽な道を選べというわけだ。

実は、この論には、私も反対ではないのだが、1つ抜けているのだ。
『荘子』の中に、こんなことが書かれている。
「本物の神人は、お前には区別がつかない」
つまり、神人は、そこそこいるのだが、凡人のフリをしている。
一方、有名なスーパースターなんて、操り人形に過ぎず、少しも幸福でないものだ。
だから、学校やマスメディアや自己啓発本が宣伝するようなスターなど目指さないことだ。
神人は、力の及ぶ範囲に違いがあるだけで、その気になれば誰でもなれる。

私は、W.B.イェイツの『ラピス・ラズリ』は、暗記しておくべき詩と思う。
イェイツは、世界のカラクリを全部知っていたわけではなかったと思うが、天才詩人の直観で気付いた肝心なことは、この詩に全部書いてある。
イェイツの時代は漫画が無かったので、彼はシェイクスピアの戯曲を使って説明しているが、漫画の方が分かり易いので、漫画で考えても良いと思う。
劇の主役たる、ハムレットも、リア王も、オフィーリアもそこいらにいる。
で、本物のハムレットなら、これが劇であることを知っているし、自分が劇の登場人物、つまり、漫画のキャラクターであることも知っている。
だから彼らは・・・陽気なのだ。
彼らは泣いたりしない。シャンとしているのである。
また、高貴な魂を持とうとしている。でないと、劇の主役を張れないことも分かっているのだ。

ダンテにいたっては、イタリア文学の最高傑作とまで言われることになる自分の作品に『喜劇』と名付けた。
それが、『神聖なる喜劇』という御大層な題名になってしまい、日本では、森鴎外という困った人が(笑)『神曲』というわけのわからないタイトルにしてしまった。
だが、ダンテは、9歳の時からずっと憧れたが、相手にされないまま24歳で亡くなったベアトリーチェとの大ロマンスを書きたかっただけかもしれない。ただし、やはり、高貴な魂を持ってね。
ダンテは、この世界が劇であることは、あまり分からなかったのかもしれない。
だが、イェイツが「ルネッサンス最高」とまで言ったダンテの想像力は偉大だ。
だから、『喜劇』もしくは『神曲』を読んだ人は、分かってくれるだろう。








人生は喜劇だ

ゲーテの『ファウスト』や、ダンテの『神曲』は、いずれも人類の歴史に残る文学の傑作なのだが、何が良いのか分かり難いし、そもそも、これらを読んだ人は、そんなに多くはいないだろう。
いずれも、簡単に言えば、「人生が嫌になった中年男が救いを求めるお話」である。
そして、いずれも、鍵は「女」である・・・と言ったら下品に聞こえるかもしれないが、そんなものである。
ファウスト(錬金術師の怪しい男)は老人に近い歳と思うが、グレートヒェンという若い娘(何歳かは分からないが、15~17歳と思える)に夢中になるという、言ってみれば、スケベジジイと言ったら怒られそうだが、やっぱり、そんなものである。
そもそも、ゲーテ自体が、歳を取っても若い女の子が大好きで、いろいろやらかしている。
一方、ダンテの方は、実生活での片思いの相手、ベアトリーチェを『神曲』の絶対的ヒロインにするが、ダンテとベアトリーチェは、お互い9歳の時に出会って、ダンテの方が夢中になるが、ベアトリーチェがダンテに友好的だったことは全くなく、むしろ、拒否されていたところがあり、ベアトリーチェは他の男に嫁ぎ、24歳で病死した。
だが、ダンテは、『神曲』の中でベアトリーチェと深い交流を果たすという、妄想的願望がイタリア最大の文学を生み出したわけである。
ファウストとグレートヒェンは無残な結果に終わっているが、おそらく、グレートヒェンにはモデルがいて、それは、いい歳をしたゲーテのお気に入りの美少女だったのではあるまいかと勝手な想像をするが、ゲーテのことを考えれば、無理な想像ではない。

ゲーテもダンテも、きっと、彼らの人生が、自分で思うような人生ではなく、幸福感を感じておらず、むしろ、人生の辛さに苦しんでいたと言って間違いないだろう。
そもそも、満ち足りた人間が文学を生んだりしない。
だから、もし、あなたが文学的作家になりたいなら、幸福な人生は望めない。これは間違いない。
いや、たとえ、娯楽作品を書く作家だとしても、深い心の傷を抱えていない限り、読者の心を掴めるものは書けないはずである。

だが、作家というのは、どこか、人生の苦しみに折り合いをつけた者だとも言える。
ただ苦しい、悲しい、辛いだけでは、やはり作品は書けない。
自分が見つけた、人生の苦しみを克服する鍵が文学のテーマになる。
『ファウスト』にも『神曲』にも、それ(人生の苦しみを克服する鍵)がある。しかし、極めて難しい鍵であるし、鍵というよりは希望の欠片といったものだろう。
つまるところ、ゲーテもダンテも、生涯、救われなかった。
だが、それで良かったのだと言える。
『ファウスト』も『神曲』も、彼らが自分の生涯をお芝居(戯曲)にしたものであり、良い終わり方にはならなかったが、とにかく、「はい、芝居はここで終わり」というふうにした・・・つまり、落とし前をつけた(評価を下した)のだ。
自分で、どう落とし前をつけるかで、人生の満足度が決まるのである。
ベートーヴェンが死に際に「諸君、拍手を。喜劇は終わった」と言ったが、彼は、彼なりに、自分の人生に落とし前をつけたから、そんなことを言えたのだろう。

人生は、自分で落とし前をつけるべき喜劇だ。
実際、『神曲』というタイトルは、森鴎外が勝手につけたもので、本当のタイトルは『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は、タイトルをただ『喜劇』としていた。
ゲーテの生涯も、ダンテの生涯も、ただの喜劇だった。
それなら、私やあなたと何の違いもない。
我々の生涯は喜劇である。
だが、最初から、そう思えば、案外に面白いのである。
実を言えば、シェイクスピアも、イェイツ(「20世紀最大の詩人」と呼ばれた詩人・劇作家。ノーベル賞受賞)も、人生が芝居に過ぎないことはよく認識しており、それは、やはり喜劇であった。
何度も言うが、我々の生涯は喜劇である。
伊達政宗も言ったではないか。
「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」
馬に乗って戦場を駆け巡った少年(若い頃の自分)の時代は過ぎ、世の中は平和になり、私も歳を取った。
天が私をまだ生き長らえさせているのだから、大いに楽しもう。
・・・だいたい、そんな意味である。彼に深刻さはない。
我々も同じで、まだ馬上の少年なのか、戦う時代は終わったのかは分からないが、楽しむべきである。
だが、無理な楽しみ方をする必要はない。
どの時代であろうが、真言を唱えることを忘れなければ、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことだらけである。
そうなるように、真言が与えられたのである。
これは、多くの証拠があり、間違いのないことである。
人生はただの喜劇であるのだから、楽しまねばならない。
まあ、ゲーテもダンテも、そこそこは楽しんだと思う。
だが、あれだけの大天才でも、真言を知らなかった。
いや、知っていたかもしれない。知っていたら、彼らも人生を楽しめただろう。しかし、それは分からない。
だが、我々は間違いなく知っているので、人生は面白いに決まっているのである。








神聖なる存在を崇めることで神に近付いた人達

理想とする存在を崇めることが、魂を輝かせ、高めることには疑問の余地はないと思うようになった。

イタリア最大の文学である『神曲』を生み出したのもまた、崇める力だった。
ダンテは、ベアトリーチェを崇めることで、自分の魂を、神の魂と融合させていったのだ。
ベアトリーチェは確かに実在の女性であったが、ダンテが崇めたのは、ただの女性ではないことに注意しなければならない。
ダンテは9歳の時、同い年の少女ベアトリーチェに出逢い、一瞬で魂を奪われた。
ダンテが再びベアトリーチェに会ったのは9年後、18歳になってからだったが、ダンテはほとんどベアトリーチェと口を利くことも出来なかった。
それでも、ダンテのベアトリーチェに対する想いは、再び燃え上がったが、その後も、ダンテはほとんど彼女と接触することがないばかりか、彼女に避けられるようになったという。
だが、ダンテのベアトリーチェに対する憧れは、消えるどころか、募る(ますます激しくなる)ばかりだった。

ダンテは、ベアトリーチェとうまくいかなかったことが、彼の魂の向上の為には絶対的に良かった。
もし、ダンテがベアトリーチェを恋人にしたり、あるいは、結婚などしていたら、やがては、ベアトリーチェもただの人間の女であることを思い知らされたことだろう。
ダンテは、ベアトリーチェの実際のことは、ほとんど何も知らなかったのだ。
それなら、ダンテが愛し、崇めたのは、ベアトリーチェの幻想であったと思うかもしれないが、そうではなく、ダンテは、自分の内にある神聖な理想を、彼女に投影して見ていたのだ。
そして、ベアトリーチェが24歳の若さで夭逝することで、彼女はダンテにとって、永遠の女神になる。
そんな神聖なる存在を崇めることで、ダンテは、彼がこの上なく尊敬した、古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』にも並ぶ叙事詩の傑作『神曲』を生み出すことが出来たのだ。

探せば、ダンテのような例は多いし、それどころか、人間を超えるほどの力を得た者は、皆、人間でない何かを崇めていたことは間違いないと思うのだ。
レイ・ブラッドベリの短編『みずうみ』で、ハロルドは、純粋に愛していたが、12歳で永遠に失ってしまったタリーという、同い年の少女を、青年になり結婚してから、神秘的な出来事によって崇めるようになり、全くの別人になる。
まるで謎のような作品であるが、読む者は、これが恐ろしい傑作であることを感じるのである。
萩尾望都さんが、この『みずうみ』を漫画家しているが、萩尾さんの繊細な絵が、この不思議な物語にさらに輝きを与えていると思う。
ブラッドべりも、何かは分からないが、聖なる存在を崇めることで、魂を高めていたのであることを確信させるのである。

時々ご紹介する、ローマン・ガリーの『自由の大地』や、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』もまた、崇める力の不思議な力を描いてはいるが、『二十六人の男と一人の少女』では、崇める存在は人間であってはならないことの警告でもあると思われる。
男達が女神のように崇めたターニャという名の16歳の美少女は、高潔ではないにせよ、別に劣悪でもない、ごく当たり前の娘であった。
だが、やはり、人間は崇める対象には相応しくはなく、いつかは裏切られる。
その意味では、ダンテは幸運であったと言えるのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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