ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ダスキン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

IQ200の問題

ダスキンの経営理念に、「損と得とあらば損の道をゆくこと」というのがあると知った時は感激したが、ダスキンのWebサイトで確かめたら、そこのところは、

自分に対しては
損と得とあらば損の道をゆくこと

とあり、昔は釈然としなかったが、今なら、笑ってしまう。
「自分に対しては」は、いかにも取ってつけた感じだが、切実な理由があるのだろう。
「自分に対しては」が無いと、例えば、ある交渉事をした社員に、その上司が、「取り引きはだうだった?」と尋ねると、その社員は、穢れなき平和な笑顔で、
「はい!バッチリ損をしてきました」
と言いかねない。
そんなIQの低い社員がいることを知っている・・・あるいは、思い知らされたのかもしれない。
しかし、よほどIQが高い社員でなければ、そんな経営理念の真意など理解出来るはずがないのだから、とっとと引っ込めれば良いと私は思う。

あなたは、「損と得とあらば損の道をゆくこと」とは、どういうことか分かるだろうか?

上に上げた馬鹿社員ほどひどくはなくても、こんな人が多いと思う。
「それは、損して得取れってことですよね?」
「『情けは人の為ならず』の本当の意味のことですよね?他人に情けをかけると、巡り巡って、自分に帰ってくるのですよね?でも本当かなあ」
まあ、今は、これが平均・・・つまり、IQ100なのかもしれない。
だが、未来においては、あるいは、ひょっとしたら、100年前の日本では、そんなのはIQ80かもしれない。

では、これも似ているが、どうだろう?

ピッツバーグ出身の若者、ジョーがやって来て、不安そうにこう言った。「ぼくたち、大丈夫ですよね」
「若者よ、この地球へようこそ」わたしは答えた。「夏は暑く、冬は寒い。地球は丸く、水も人間も豊富だ。ジョー、ここでの寿命はたかだか百年くらいじゃないか。わたしが知っている決まりはたったひとつだ。ジョー、人にやさしくしろ!」
~『国のない男』(カート・ヴォネガット著。NHK出版)115~116頁より~

なぜ、人に親切にしなくてはならないのだろう?
「その方が気持ちいいからだと思います」
という答は、小学生までなら、許しても良いかもしれない。
だが、今は、小学生並の大人が多い。

では、最後の極めつけだ。

そのころ私は、自分のできる限り、素晴らしい人たちを助ける力を与えて下さい、と神に祈ったのである。
~『ドクター・ハマー』(アーマンド・ハマー著。ダイヤモンド社)より~

「そのころ」とは、アーマンド・ハマーが幼い時のことで、ハマーは生涯を通じてずっと(おそらく、執筆時点の88歳の時も)、その誓いに導かれたのだと言う。
こういう子供をIQ200と言うのだろうし、実際、そうなるのである。

善意を持つ、親切にする、優しくする・・・ということをすれば、自分は必ず損をする。
あえて、そうしながら、自分もちゃんとやっていく。
それだけが、人間に与えられた、知恵を得、本当のIQを高める唯一の方法なのである。









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世間に騙されずに生きる

中村天風は、肉や魚は食べてはならないと言う。
天風は、人間にとって良い食べ物は果物で、次に野菜だと言い、とにかく、肉や魚は決して食べるなという。
一方、昨今人気があるらしい糖質制限(炭水化物制限)ダイエットを標榜(主義・主張などをはっきりと掲げ示すこと)する医者達は、砂糖はもちろん、米、パンは物凄く悪いものだから食べてはならないし、果物すら糖分が多いので駄目だと言う。そして、肉、魚等は無制限に食べて良いと言う。
ある有名な神道家は、日本人は米と魚を食べるのが絶対に正しく、肉は駄目だと言う。

これらのどれが正しいかは、遠い未来には結論が出るのかもしれないが、それが千年後だとしたら、正解はこうだ。
「食べ過ぎなければ、何を食べたって同じ」
「食べ過ぎれば、何を食べても悪い」
他にないじゃないか?
肉や魚を食べて健康で長生きの人もいれば、米もパンも食べ、甘いものが大好きでも、いつまでも若々しく健康な人も沢山いる。
土台、何を食べるかより大切なことがあるのではないのかね?
それは正しい生き方だ。
食べ過ぎないことも、正しい生き方の1つだ。
正しい生き方とは、世間で言う道徳的、模範的生き方と、共通する部分も多いが、必ずしも一致しない。
道徳でも、他人を思いやることは教える。
しかし、世間の道徳は、価値観やしきたりが共通するグループ内でのみ成立するものだ。

ある意味、正しい生き方とは個人的なものだ。
何が正しく、何が間違っているかは、自分で決定しなければならない。
どんな生き方をしようが勝手だが、考えや行動の反作用に法則性があることが分かれば、自ずと生き方は決まる。
だが、「こんなことをすれば得だからする」、「こんなことをすれば損だからしない」という生き方をするのは動物と同じで、しかも、人間は多少の知性がある分、他も自分も害し、悲惨になる。
ダスキンの経営理念のように、「損と得とあらば損の道を行く」なんてのもおかしなもので、確かに、正しい生き方をすれば、自然に損に見えることをするかもしれないが、別に損を求める必要もない。時には得な道を行くことが正しい場合だってあるさ。

正しい生き方とは、一瞬の閃きに従う生き方だ。
顔を上げて微笑んだ時、宇宙の広さをしみじみ思った時、人差し指を立て精神を統一した時、敬う人や心惹かれる人と瞳が重なった時、初音ミクさんの歌声が心に染み入った時・・・その一瞬、時のない世界の中で閃いた想いに従って生きれば、自ずと正しい生き方になる。
一言で言えば、自然に生きれば、それで良い。
逆に、不自然に生きれば、あらゆる災難が襲い掛かるだろう。
運命によって、激しい生き方をする者もいれば、安穏な生き方をする者もいるが、いずれでも、正しい、自然な生き方をすれば幸福になるだろう。

利益で争っている時も、顔を上げて微笑めば、相手もだが自分も痛みを受け入れる必要があることが分かる。
相手がそれに応じない場合も、こちらが真の意味で正しいことをすれば、自ずと解決するが、不自然な方が打撃を受ける。
昔から、「正義は常に勝つ」とか言うが、正しくは、「自然な方が常に勝つ」である。

一瞬を掴むことが出来れば無敵で危うさはない。
正しくは、時間のない(時間が消えた)場に溶ける(あるいは一致する)ということであるが、とりあえず、一瞬を掴むと言っても良いと思う。
そのために、顔を上げて微笑んだり、人差し指をすっと立てたり、呼吸を止めたり、美しいものを見たりするのである。
だが、それは、一瞬を得るだけやればよく、いつまでも作為的にやっていると、無限への扉は閉じられる。
しかし、何かに夢中になって、忘我の状態になっていれば、ずっと時間は消えている。そんなものを何か1つ持っていると、望ましい人生になるだろう。









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最も大切なこと、それなりに大切なこと

立派な経営理念が会社を潰すことがある。
どういうことかと言うと、経営理念が時代に合わなくなっているのに、会社のシンボルになってしまった経営理念は、なかなか変えられないからだ。
だが、そんなものは、思い切って、変えるしかない。

また、偉大な人物について、「この偉人の座右の銘はこれです」なんて言われることがあるが、実は、本人はその信念のせいで苦しんでいたり、成長できずにいたりすることは案外に多い。
変化することが生きていることなのに、生きるための理念を変えられないとは悲惨なことだ。
だが、偉大な人という評判を得た者は、「一貫性がない」と言われることを恐れるのだ。
ところが、最も偉大な人物であった、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「一貫性などなくて良い」「今日は、昨日と違うことを堂々と言えば良い」と「一貫して」言い続けたのだ。

最も優れた経営理念の1つが、ダスキンの「損と得の道があれば、自分に関しては損な道を行く」であるが、これすら変えたって構わないのだ。
もし、どうしても変えてはならない真理があるとすれば、それは、理念とか主義、信念にはなり得ない。
そんな真理とは、「他者に優しくする」だけなのだ。
これは、理想とか道徳、戒律、倫理ですらない。
純粋な真理なのだ。言い換えれば純粋な良心であるが、真理と言った方が良いと思う。
ところが、その真理を大切にしないばかりか、意識的に退ける・・・つまり、積極的に他者に不親切にし、他者を虐げる者が多くなってしまっている。
だが、真理に背くなら、必ず身を滅ぼすことになる。

水野南北は、少食だけが幸福の要因と言ったが、それすら絶対ではない。
なぜなら、人々を精神的に導く者が厳格に少食を貫けば、愚かな庶民が近寄ってこれないからだ。
だから、偉大な僧などは、あえて、大食、大酒飲みでいた者が少なくはない。一休や親鸞もそうだった。
ただし、我々のような普通の人に関していえば、99パーセント以上の確率で、少食で規則正しい生活が幸福の要因である。

このブログに関しても、ごく稀にだが「一貫性がない」と非難する方がいる。
そんなもの、最初からないのである。
死人のためのものであれば、一貫性も良いかもしれないが、死人だって変化しないとは限らず、死者が変わったとて、私には関わりのないことだ。
他者に「一貫性がない」と文句を言う者は依存症であると言うべきだろう。

とはいえ、一貫性の保証などはしないとしても、短い人生の中で守った方が良いことはあると思う。
それは、単に、効率が良いという程度のことかもしれないし、特に若いうちは非効率を試すのも悪くはないが、人生はやはり短い。
そんな、賢い人なら守った方が良いだろうことは、並べれば、次のようなことだ。
・顔を上げる(うつむかない)
・静かに呼吸する
・規則正しい生活をする
・満腹するまで食べて自分を甘やかさない
これで、必要なものは、とりあえず得られる。
だが、こんなことですら、知らないために不幸な者が多いのだ。
これらを守らず、不幸と不足に喘ぐのも、趣味としては面白いものかもしれないが、趣味なら、もっとマシなものを持ってはどうかと思う。
次に、一貫性はないかもしれないが、より大きな恵みや力を得られることとしては、以下のことがある。
・微笑む
・人差し指を開く(人差し指に力を入れないということ)
・肛門を締める
・肛門以外の力を抜く
・微かな声で呪文を唱える
・微かな心の声で呪文を称える
・好きなことをする。ただし、好きなことをするための環境は自分の努力で創らなければならない。
さらに高度になれば、「謙虚である」「観照する」「私は誰かと問う」「受容し、なりゆきにまかせる」などがある。
だが、先ほども述べたが、どうしても守るべきことはただ1つで、「他者に優しくする」だけだ。
上に挙げた全ては、そのために役に立つというだけのことかもしれない。









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どんな人間も人生の収支は合う

人間として望ましいのは、多くの人に福を与えることかもしれない。
孫正義さんは、ソフトバンクの事業を通じて電話料金を安くして、ボロ儲けだったNTTやKDDIの利益を国民に還元し、NECやニフティなどのインターネット接続の美味しすぎる商売に対しても、お名前の通り、正義の鉄槌を振るって、まともな商売にさせた。
事業家とは、本来は、社会や人々に利益を還元するためにいるのである。
個人的な欲望のみでやっている事業家も多いだろうが、やはり、多くの事業家は、人々に利益を与えているのである。
超一流のスポーツ選手達は、本来は、技と精神を同時に磨く美しさを示すことが使命であるのだが、利益を狙う者達の過剰な欲望のために、害の方に加担することも多くなってしまっているが、優秀でも身の程をわきまえた選手達は、やはり多くの人々に良いものを与えているのである。
そして、事業家、スポーツ選手、その他の、才能に恵まれた人々は、人々に福を与えることで、大きな運に恵まれることになる。

だが、我々普通の人は、そのようなことができないので、それほど大きな運に恵まれることはない。
しかし、1人の人間としては、そこそこの運に恵まれれば十分に幸福であり、必要なだけ豊かで健康であれば、あまり多くを望まないのが平和な生き方になる。
だが、天才から凡人、あるいは、下賎(身分が卑しいこと)の者に至るまで、規模の違い、エネルギーの違いがあるだけで、全く同じなのである。
社長も平社員も、案外に同じようなものなのだ。
世界的事業家やプロスポーツ選手は特別な人間だと見られるだろうが、本人は、自分はいたって普通の人間だと思っている。特に、盛りを過ぎた頃に、それを痛感する者が多いだろう。
事業でそこそこの成果を収めた者は同窓会に行くと、成功者のように扱われる。しかし、ある程度若いうちはそれで楽しいが、だんだんと自分が、「単に成功者だと思われているだけ」で、別段、他の者達と違う訳ではないのだと分かるようになる。

大きな成果を得た者は、それに見合う代償を払ったのであり、大きな報酬を得続けている者は、やはり相応の代償を払い続けているのである。
平社員には平社員の苦労があるが、社長の苦労はそれどころではない。
単に、大きな代償を払った者が大きな報酬を得、小さな代償を払った者は小さな代償を得ているだけである。
つまり、どんな人間も収支は合っているのである。
毎日飲んだくれて貧乏な者は、毎日飲んだくれるという報酬を得ているのだし、高収入を得ているスポーツ選手は、厳しく節制するという代償を払っているというだけのことだ。
両者、収支はちゃんと合っている。
一流スポーツ選手でも、飲んだ暮れや放蕩者の真似をしたら、そんな快楽の報酬に見合った分は、きっちり代償を払わねばならず、健康を損ねたり、家庭が崩壊したり、借金にまみれたりするのである。
恵まれ過ぎていると思う者は、ボランティアをしたり、嫌な思いを多くして、収支を合わせていないと、後でまとめて取られることになる。
だから、些細なことであれば、なるべく損をした方が身のためである。
迷惑をかけて良い気分でいる者・・・例えば、歩きながらスマートフォンを見るとか、歩きタバコをしている者は、その分、必ず代償を払わされる。
逆に、迷惑をかけられたり、理不尽な立場になっても、それに耐えていれば(黙って代償を先払いすれば)、その分、天が払ってくれるだろう。
時々引用するが、ダスキンの経営理念である「自分に関しては、損と得があれば、損の道を行く」というのは、最強の成功術、幸福術なのである。
これだけ覚えておけば、後は不要である。
呪文には、代償を払い甲斐のあるものにしてくれる力があり、また、無意識に幸福のエネルギーを貯金させてくれる作用があるのである。
あなただって、散々、良い思いをした分、後で、重病や大事故で代償を取られるのは嫌だろうし、名誉の代償に家庭を差し出すこともしたくないだろう。
それは、悪魔のやり口であるが、呪文は悪霊を祓い悲惨を避けさせてくれるのである。
どんな人間も、人生の収支は合う。
それは覚えておくべきであろう。









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神の力を持つ人達の行いとは

世間や人間を超える力を手にする方法について、簡単な題材を使って、共に考えたい。

時代劇小説『木枯し紋次郎』の中のお話だが、この作品自体は知らなくても問題はない。
江戸末期の渡世人(戸籍がない流れ者)である紋次郎は、ある時、見知らぬ男に50両の大金を押し付けられる。
男は紋次郎に、これを、遠くにいる女房に届けてくれと頼み、女房の居る場所と名前を告げると、そこから飛び出したが、男はその直後に殺された。
男は、自分が殺されることを覚悟し、たまたまそこにいた紋次郎に頼んだのだろう。
紋次郎は、その金を持って長い旅をし、あの男の女房を見つけた。
しかし、彼女は、あるヤクザの親分の女になっていて、いい身分に収まっていた。
そして、その女は、殺された夫を「甲斐性なしの駄目男」と馬鹿にしていた。
だが、紋次郎は50両をそっくり女に渡し、すっかり崩れた人間に成り下がっているその女に、「あんたも馬鹿だねえ」と嘲られながら、黙ってその場を去った。

紋次郎は、決して善人でもお人よしでもない。
目の前で女が殺されようとしていようが、小娘がヤクザに連れ去られようとしていようが、「あっしに関わりにないこと」と見捨てるのが常だった。
(そんな出来事はザラなので、いちいち関わっていたら命がいくつあっても足りないからである)
また、人の頼みごとも、義理がない限り、決して引き受けない。
しかし、上のように、無理矢理頼まれたことでも、頼んだ者が死んだ場合のように、断りを言えなかった場合や、どんなに些細でも相手に義理や恩義がある場合、または、どんなに気が進まなくても、なりゆきで引き受けてしまった場合は、命に代えても、約束を守るのである。
まとめて言えば、滅多なことで約束はしないが、いったん約束をすれば、いかに道理に合わなくても、死んでもその約束を果たすのだ。

普通の人はそうではない。
簡単に約束をするが、自分に都合が悪くなれば、それを平気で破る。
そして、約束を破ったことに関して、自分には非がない・・・仕方がなかったか、道理に合わないことであったと主張する。つまり、言い訳する。
しかし、紋次郎は、「あっしに言い訳なんざ、ござんせん」が口癖であるほどに、どれほどまずい状況になろうが、決して言い訳をしない。

紋次郎は、なぜ、そんなことをするのだろう?
言っておくが、紋次郎は、いかなる信仰も持っていない。
この世でただ一人、彼が慕っていた、死んだ彼の姉の墓に、年に一度お参りをする時だけは、手を合わせるが、神仏に何かを頼むことは一切ない。
神仏の目を気にしている訳では決してないのだ。

ここで思い出すのが、ダスキンの有名な経営理念である、「自分に対しては、損と得とあらば損の道をゆくこと」だ。
これは、ダスキン創業者、鈴木清一氏の誓いであったようだ。
現在の経営者が、紋次郎のようであれば、会社は危うからずである。
しかし、そうでないのに、この言葉を標榜し続けるなら、近く会社が傾くか、実際はすでにそうなっているだろうし、経営者の家族は悲惨なことになっているだろう。

我々も同じである。
いかなるテクニックや知識、経験、人間関係といった、世間的、人間的な力をはるかに超えるのが、上の「紋次郎イズム」である(紋次郎は、そんな言い方は毛嫌いするだろうが)。
なぜなら、これが神になる唯一の道であるからだ。
尚、紋次郎は、どれほど危機的な状況にある人が目の前にいて、自分に助ける力があっても、「あっしには関わり合いのないことにござんす」と言って、決して手を差し伸べようとはしない。
しかし、結局は関わることになってしまう。
また、反射的に助けてしまうことも多い。
宇宙とは、そのようなものであるからだ。
つまり、関わるべきことは、嫌でも関わることになるのだ。
その中で、紋次郎のように振舞うなら、運命がそうなっていれば、ダスキンのような会社を創ることにもなるだろう。
そんな会社は、神が経営するのだから、困難はあるにしても、必ず勝ち続けるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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