ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ダイモーン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「世界=漫画」理論での願いの叶え方

ある老僧が、亡くなられる直前、昏睡状態で意識もなかったのに、不意にむくりと起き上がり、
「わが力にあらず」
と言ったという。
これは、一般的に考えれば、「私がいろいろなことが出来たのは皆さまのおかげです」ということであるが、少し違うようにも思う。
老僧が実際には、どんな意味で言ったのかは分からない。
しかし、2400年も昔に、ソクラテスが同じことを言っている。
「優れたことを成す者は、それを自分が成しているのだと思っている。しかし、そうではない」
では、誰が(あるいは何が)成しているのかというと、それはソクラテスにとっても明晰ではなかったと思うが、事を成す存在をダイモーン(神霊、精霊)と呼ぶことがある。

イチローのバッティングも、イーロン・マスクの事業も、彼らがやっているのではなく、ダイモーンがやっているということかもしれないが、これでは分かり難い。
そこで、より真相に近いことを分かり易く述べる。
この世は漫画のようなもので、人々は漫画の登場人物だ。
漫画の登場人物が、どれほどのことをしようが、それは、登場人物自らやっているのではなく、漫画の作者がそうさせているだけだ。
作者は、作品を制作中、それぞれの登場人物になりきって、考え、感じる。
登場人物になる切っている時の作者の心は、その登場人物らしさという制限を受ける。
作者は、熱心に登場人物になり切ると、登場人物として何かをしていると錯覚するが、実際に全ての物事を動かしているのは、全ての登場人物と、彼らがいる世界を完全に支配下に置いている作者たる自分である。
作者が、登場人物になり切るのを止め、作者の意識に戻る時、「この登場人物に本当に力があって事を成すのではなく、作者たる自分がそうさせているだけだ」と、はっきり自覚する。

さて、この世界という漫画を描く作者は、イチローやイーロン・マスクという登場人物達に、あのような大きなことをさせる時、どのようにストーリーを導くだろう?
まず、登場人物本人に願わせるだろう?
イチローなら「優れたバッターになりたい」とか、イーロン・マスクなら「人類を前に進めたい」とか。
松下幸之助がセミナーで、「これからの会社は、社内留保を持たないといけない」と言うと、受講者の1人が、「どうすれば社内留保を持てますか?」と質問したら、松下幸之助は、「社内留保が欲しいと願うことです」と言ったという通りで、願わずとも得られるものは、だいたいにおいて小さなもので、しっかりとしたものを得るには、まず、願わねばならない。
ただし、立派に願わないといけない。
この世という漫画の作者は、我々より優れており、我々が想像するよりずっと立派だ。
立派でない願いが叶うストーリーを作ることはないと考えるべきだろう。
もし、立派でない願いが叶ったとしても、後で悲惨を味あわされるだけである。








偉大な実績ほど、成し遂げた本人には他人事だ

私はコンピュータソフトの開発をしているが、自分が1人で作ったソフトウェアを見た時でも、いつも、「これ、誰が作ったの?」と思うのである。
そして、「よく出来てるなあ」と自分で感心するのだが、自画自賛する気は毛頭ない。何せ、自分が作ったような気がしないからだ。

これは、私に限らず、特に、成果物が目に見える形で残る仕事をしている人なら、誰でもそうなのではないかと思う(実際は、成果物が見えない場合も同じだ)。
岡本太郎さんだったか横尾忠則さんだったか忘れたのだが、おそらく、2人とも同じようなことを言っているはずだと思うが、「自分で考えながら描いている時は良い作品にならない。自分でも何が出来るか分からない時に良い作品が出来る」ものらしい。

数多くの特許を持つ天才発明家だった政木和三さんは、発明品の設計図が頭の中に勝手に浮かび、発明は1秒で出来てしまうのだといつも言っておられた。
また、政木さんは、ピアノの練習をしたことは一度も無かったらしいが、世界的ピアニストが感激するほどの腕前で弾き、自分で作曲した曲を自分でピアノ演奏したCDも出している。カップリングは、中国の天才音楽家ウー・ルーチンの歌唱なのだが、その歌を創ったのも政木さんだった。
政木さんは、ピアノ演奏をする時、「上手く弾いてやろう」という気持ちがあると悪い演奏になるのだと言われていたが、それはつまり、自分が演奏しているという気持ちがあると駄目なのだということだと思う。
その政木さんの研究所を訪れた時、壁に横尾忠則さんによる見事な肖像画が掛けられていたのを思い出す。

こういった、「自分が作ったのに、自分が作ったとは思えない」「自分がやっているのに、自分でやっているとは思えない」という不思議なことがなぜ起こるのかについて、『ソクラテスの弁明』(プラトーン)を読んで納得した。
ソクラテスによれば、それが当たり前なのである。
それは、芸術家、作家、哲学者はもちろん、職人、技術者にいたるまで、全てそうなのである。
優れた仕事のために必要な知恵は、人の内部の奥深いところから運ばれてくるのであり、その知恵を運んでくるものを、ソクラテスはダイモーンと呼んでいた。
だが、ほとんどの人が、そのことに気付かずに、自分がそれをやっていると思っているのである。

また、こういったことを、もっと直接的に語ったのが、インドの聖者ラマナ・マハルシや、彼と同時代人のインドの聖者ニサルガダッタ・マハラジ、それに、マハラジの弟子のラメッシ・バルセカールだった。
彼らは、人は何もしていないと断言する。もっと正確に言うなら、行為をする者など存在しないのである。
ここまで来ると、もう普通の人には、全く理解不能になる。
そもそも、我々凡人には、ソクラテスのダイモーンでさえ、なかなか理解できない。
しかし、ソクラテスの話であれば、少し冷静になれば、割に分かるのではないかと思う。
よくは分からないが、イチローが200本安打を達成した後は、「俺は今年もやったなあ」と思うよりは、やはり、他人事のように感じていると思うのだ。
ラマナ・マハルシは言っていた。
「財務長官は、責任感を持って細心の注意を払いながら仕事をしている。しかし、実は彼は何もしていない」
「仕事は、自分が行為者であると自覚しながらやらなければならないという決まりはない。仕事は自動的に進んでいくのだ」

私は、マハルシの言うことは、心の奥では美しいと思っていたが、やはりよく分からなかった。
しかし、ラメッシ・バルセカールの本を読んで、はっきりと理解できた。
ただ、心の奥で美しいと思っていたということは、直観としては分かっていたということだ。しかし、自我がその理解を邪魔していたのだ。
自我が弱くなれば、抵抗が少なくなり、はっきり分かるというカラクリである。
つまりこういうことだ。
人の運命は、いかなる些細な部分も含め、生まれる前に全て決まっている。それは、いつ、どのように死ぬかまでだ。
だから、自我である自分が、いくらがんばって、ああしよう、こうしようと思ったところで、出来事に何の影響を与えることも出来ない。結果は既に決まっているのだ。
つまり、全てのことは、運命を創った神がやっているのであり、自我である自分は何もしていないのである。
普通は、この話はひどく突飛に聞こえるだろうし、反発する人も少なくない・・・いや、ほぼ全ての人が反発する。
しかし、自分の想いと出来事を冷静に振り返ると、それが明らかであることが分かるのである。

もし、このことを理解したいと思うのなら、無目的に、何かを毎日必ずやってみると良い。
最初のうちは目的があっても良いが、1年365日、何があっても必ず毎日ずっとやっていると、いずれ無目的になる。
それでもずっと続けていると、それをやっているのは自分でないことが分かってくる。そして、一切のことがそうであると分かる。
すると、心の奥から、こんな疑問が湧いてくる。
「私は何もしていない。では、私とは一体何なのだ?」
これが、ラマナ・マハルシが、現代に突きつけた至高の問いである、「私は誰か?」である。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

積極思考やプラス思考は人類を滅ぼす妖怪である

積極思考とプラス思考は、やや意味合いが異なる。
積極思考は、「出来る」と信じて、「やろう」と思うことで、意欲的なことを言う。
一方、プラス思考は、「肯定的な捕らえ方をする」というものだろう。
しかし、この2つが、世界を支配し、我々を惨めさのどん底に叩き落とし続けてきた妖怪であることに、いまだほとんどの者が気付かない。

積極思考は、かつては、ロバート・シュラーという、牧師でありながら大事業家という男が、「Yes,I can教の信者になれ」「思い通りになるのが人生だ」と説き、少し前は、オバマが「Yes,We Can」を連発して人気を集めたことの根本思想だ。
しかし、結果、シュラーは老齢になって、莫大な借金を抱えたことはともかくとしても、幸福とは言い難い。オバマが大統領になってからのアメリカは、経済が悪いのはさておき、国民はますます陰鬱さを増している。
しかし、シュラーは善意の塊だし、オバマは素晴らしい人物に違いない。
だが、どれほど成功者と言われる人間だって、ものごとがうまくいく割合と、うまくいかない割合というのは凡人と変わらないのだ。
相撲で言えば、せいぜいが2勝13敗である。
積極思考をすれば、うまくいくことも増えるかもしれないが、うまくいかないこともそれに伴って格段に増える。
うまくいかないことや、失敗自体は良いのである。
しかし、積極思考では、「出来る」と信じるので、失敗を認めないし、敗北の復讐戦をしたり、失敗の分を取り戻そうとする。
だが、やればやるほど、思う通りにいかないことが分かってくる。しかし、自分は出来ると考えたい。
心はどんどん分裂し、嵐のように揺れ動き、悲痛の叫びを上げ続けるのである。

日本の、戦後最大の書籍のベストセラーは『脳内革命』であるらしい。
これは著者である医師が、プラス思考を薦める本で、大変に肯定的に迎えられたが、本の内容が医学的に問題が多かったり、著者のビジネスのトラブルなどで、今や、すっかり忘れ去られた。著者は破産しているそうである。
書籍や著者は忘れられたが、プラス思考は根強く残った。
プラス思考を簡単に説明する例としては、「雨が降ったら憂鬱というのは、マイナス思考で良くない。良い面を考えないといけない」というものがある。
ガイナックスのアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は精神的な作品だと言われるが、最終回あたりで、赤木博士が「雨が降ったって、いいことがあるわ」と言ったのがプラス思考というものだろう。
しかし、どう考えようが、雨が降れば憂鬱なら、憂鬱で良いのである。
「憂鬱ではいけない。プラス思考をして爽やかな気分でいなければならない」と思うほど憂鬱になるし、その上、気分が明るくならないことに対して憂鬱になり、やがて自分が嫌になるのだ。
憂鬱なら、憂鬱な自分を受け入れれば良い。
しかし、それで気分が良くなることはない。悪いままだ。
そして、雨が降ることに対し、自分は何も出来ないことを思い知るが良い。
天が雨を降らせれば、我々は不便になり、憂鬱に感じることに抗うことが出来ない。その事実を受け入れることだ。
これは、たまたま天気について述べたが、どんなことでも同じだ。
憂鬱なことなら、毎日の生活の中でいくらでもあるはずだ。
それは、大富豪でも、スーパースターでも、凡人たる我々と何ら違わないということを、人々は意外に感じるかもしれないが、事実は絶対にそうなのだ。

天才も凡人も、ほとんどのことは上手くいかない。
出来事が我々を不快にすることは止められない。それもまた、どんな人間も同じである。
金持ちか貧乏か、エリートか庶民か、有能か無能か・・・そんな区別に何の意味もない。
ただ、唯一の違いがあるとすれば、自分は出来事に対し、何のコントロールも出来ないことを受け入れるかどうかだけだ。
それを受け入れれば、うまくいかないことや不愉快な出来事に翻弄される自我は弱くなる。
自我が弱くなれば、真我からの直観が現れる。それは、古代から、神の火花、ダイモーンとも呼ばれてきたものだ。
そして、我々は、人類に残された真の道を見出すのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

真のザナドゥ(桃源郷)には誰でも行ける

世界中に、至福に満ち、一切の苦しみのない理想世界である、桃源郷、ザナドゥ、シャングリラなどといった伝説がある。
中国の古典『列子』には、終北(しゅうほく)、列姑射(れっこや)、古モウ(こもう)などといった、理想世界の話がある。
言うまでもなく、聖書のエデンも同じものである。
気候は温暖で、働かなくても食物はふんだんにあり、人々は心穏やかで争わない。
現実の苦しみ多い世界の中で、人々はそんな世界を夢見たのだろうか?
イエスも天国について語ったし、浄土系仏教では、阿弥陀如来が造った極楽浄土があり、法然、親鸞は、阿弥陀如来の名を呼べば、即ち、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えさえすればそこに行けると言った。

先日放送された、『灼眼のシャナ・ファイナル』第14話のタイトルがまさに、『ザナドゥ』であった。
異世界の神である祭礼の蛇と、この世界の平凡な高校生だった坂井悠二の思いが一致して融合し、理想世界ザナドゥの創造を目指す。
(私は、原作は、悠二が祭礼の蛇になった少し後あたりで挫折して読んでいない。)
異世界の者は人間を喰う必要が無くなり、よって人間は死ななくて済む。シャナも戦いの世界から解放される。
悠二と祭礼の蛇は、救世主として、そんな理想を熱く語る。
だが、シャナはどうしても承服できない。胸の中で、何かが「違う!」と言っている。
シャナは正しい。それは、まさに、ソクラテスが言った、内なる英知ダイモーンの声を聞いたということだ。

私は原作を読んでいないので、結局はどうなるか知らないが、悠二や祭礼の蛇の言うザナドゥ(理想世界)など造ったら最悪の悲劇となる。
人類は、理想郷の結末まで考えなかったのだろうか?
そんな世界でも、必ず、いつか争いは起り、しかも、恵まれているだけに、あまりに悲惨なことになるのだ。

イエスの言う天国や、釈迦が言ったかもしれない、阿弥陀如来の極楽浄土は、悠二や祭礼の蛇の言うザナドゥとは全く違うのだ。
それは、我々の内側にあるのである。それを外に求めるのは愚かなことだ。
「何か違う!」と思ったシャナの中にちゃんとあるものだ。いや、ちゃんとあるから、そこへの道をおぼろにでも感じているから、シャナには分かるのだ。
イエスの言う天国-内なる王国-は誰の中にもある。
ソクラテスは、そこからの声を聞いていたから知恵を得たのだし、それと同じものがシャナに特別な感覚を与えた。何より、作者にこの作品を書かせた。
だが、ソクラテスは、作家自身は、そのことに気付いていないと言ったのだ。

内なる王国を知るには、ソクラテスのように、そこから流れてくる英知を感じれば良い。
そして、英知とは、実に、沈黙なのだ。
これは別に難しい話じゃあない。
沈黙の中から、抽象的概念が起る。抽象的概念は沈黙の子であり、これが高度な知恵である。
抽象的概念から思考が生まれる。それならこれは、沈黙の孫である。どんなに洗練させても、せいぜいが世俗の知恵、あるいは、悪知恵だ。
そして、思考から言葉が生まれるが、言葉は沈黙のひ孫で、何とも粗雑なものだ。

うまく言語化出来ない。情報の伝達に齟齬(そご)が発生するかもしれない。でも、聞いて。
~『涼宮ハルヒの憂鬱』より。長門有希の言葉~

だから、人類は詩というシンプルな美しい言葉で語ることを考案し、さらに、西洋でも東洋でも、文字を限定する形式の詩(日本では和歌や俳句)こそが、言葉としては最上のものと認識し、発展させた人々がいたのだ。

心の沈黙を守ること。それが英知であり、内なる王国、天国、真のザナドゥだ。
どうすれば、粗雑な思いを祓い、清らかな沈黙が得られるか?
それを共に得ようというのが、これまでの、そして、これからも変わらぬ本ブログのテーマといったところだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード