ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ターラー菩薩

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

星を掴む

「私は信念を持っているだろか?」
これは、「私は、何かを本当に信じているのだろうか?」と言うのと同じと思う。
そして、ほとんどの人が、答えは「ノー」である。

人間は、崇め続けたことでなければ信じることが出来ない。
崇めるとは、素直に価値を認めることと言えば、納得し易いと思う。

命や、愛や、自然を崇めることが出来れば良いのだけれど、いつの時代も、庶民達は、先に、世間の権威を信じ込まされ、本当に大切だが、目に見えないものを信じられなくなるのだ。

だが、苦しい時・・・屈辱の中で惨めな時。
そんな時に、星のように美しいものに出会う。
それを崇めれば、何かが起こる。
ローマン・ガリーの『自由の大地』で、堕落したフランス兵達が、1人の少女を空想し、その少女を崇めたようにだ。

つまり、人は、苦しみが、貴いものを崇める心を起こさせるのである。
だが、そのためには、辛い時に、顔を上げなければならない。
ポール・マッカートニーだって、苦難の中にいた時、聖母マリアが現れ、彼は、貴い言葉“Let It Be”を賜ったのだ。

傷付き、惨めになった時、初音ミクさんと出会い、ミクさんを慕い、ミクさんに憧れると、ミクさんは崇めるべき星であることが分かる。
このことを、古来から「星を掴む」と言い、星を掴んだ者の行く手を阻むものは何もない。
もちろん、それぞれの人の性質により、それぞれに相応しい救いが現れる。
大切なことは、うつむかず、顔を上げることだ。
そうすれば、苦しくても、いや、苦しいからこそ、人間は、必ず星を掴めるのである。

星はサンスクリット語で「ターラー」であり、インドの女神ターラーはチベット仏教のターラー菩薩になった。
面白いことに、グリム童話の『星の銀貨』で、慈悲深い少女に神が天から降らせた星は、ターラー銀貨になったのである。
ターラー菩薩様を崇め、その名を想えば、あなたにも、そのようなことが起こるだろう。
出来れば、初音ミクさんの『星のカケラ』を聴くと、さらに良いだろう。
ミクさんは、ターラー菩薩様の化身なのだからだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

不思議な体験

インドの聖者ラマナ・マハルシは、魂の座は人体の中では、胸の中央から指2本分、右にあると言ったようだ。
私は全く信じていなかったが、今日、ちょっと面白いことがあった。
私は、少し寒い部屋で、ソファに座ったまま、半ば眠っていた。
1つのサブウーハー(重低音用スピーカー)と合わせた3つのスピーカーから、初音ミクさんのミニ・アルバム『HATSUNE MIKU EXPO 2016 E.P.』の音楽が流れていた。
CDをMP3に変換して、スマートフォンに取り込んだものだ。
ピアノのみの伴奏の『星のカケラ』が驚くほど素晴らしくて感激した。
『HATSUNE MIKU EXPO 2016』日本ライブ・ツアーのテーマ曲『Blue Star』は、オリジナルとは別に、2つのリミックス・バージョンが収められていて、これがまた、どれも良い。
そして、『Blue Star』の「Carpainter/TREKKIE TRAX」リミックス・バージョンを聴いている時だった。
気がついたら、着ていた緑色のトレーナーの首のところを押し下げるようにして侵入させた左手の手の平を、胸の中央から、少し右(ほぼ、指2本分)に押し当てていたのだ。
全く無意識にだ。
半分眠っていたのと、寒さに弱い私が、少し風邪をひきかけていたこともあって、自我が完全に退き、私のエス(無意識の中の生命力)がそうさせたのだろう。
それは、全く自然なことに感じ、意識が戻っても、とても心地良かった。
全ての曲が終わり、何かの低い振動音が聴こえる中、胸の右側に左手を当てたままでいたら、純粋な意識が輝きながら広がるのを感じた。
解脱とまではいかないが、内部の魂と交流した神秘的体験と言えると思う。
マハルシはやはり正しかったのだ。

このミクさんのアルバムは、「星」をテーマにしているのだと感じる。
そして、私は最近、サンスクリットで「星」を意味する、「ターラー」という言葉をずっと想っていたのだ。
ターラーとは、私がにわか信仰を始めたターラー菩薩様(多羅菩薩、ターラ菩薩)の名だ。
サンスクリット語では、「瞳」のことも、ターラーと言う。
ミクさんの青い瞳もまた、Blue Starで、地球と全く等しいのである。

ドイツの詩人・作家ライネル(ライナー)・マリア・リルケの『夢』という神秘的な小説がある。小説と言っても、2~3ページなのだが。
青空文庫内の「ここ」で、無料で読める。
まあ、ロシアを「露西亞」、モスクワを「莫斯科」と表記する古い文章だが、それ以外は、そう読み辛いことはないと思う。
短いが、精神を覚醒させる素晴らしい作品だ。
その中で、あるロシア人の若い労働者が、星が神様の眼や天使の眼であると信じているとある。
この短いお話は、リルケが見た夢のようで、不思議な少女が一人登場する。
彼女は、星が人間の眼であることを知っていた。
その少女は、いったい何だったのだろうか?
天使か、精霊か、あるいは、ターラー菩薩様だろうか?

ターラー菩薩様と、初音ミクさんと、リルケ氏、そして、バガヴァン・ラマナ・マハルシのおかげで、思わぬ素敵な体験が出来た(もちろん、音楽を創作してくれたクリエイターの方々のおかげでもある)。
まるで、ターラー菩薩様の緑色の羽衣や、初音ミクさんの緑色の髪に触れたような気がするが・・・気がするだけだろう。
女神様の羽衣や、それに等しい、ミクさんの髪に触れさせていただけるような徳は全くないし。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

人間を崇拝することの哀しいリスク

今朝も書いたが、何かを真摯に崇めることで精神性を高めることが出来るということが、非常に重要であると再認識した。
神や自然を崇めることを続けると、「敬う」という気持ちを持つことが心の習性になり、自然に、敬うということが出来るようになる。
現代人には、この「敬う」という心が圧倒的に欠け、これが不幸の原因になっている。
もし、我々が、現在、幸福感がなく、不安や恐怖が強いとしたら、おそらく、「敬う」心が無いのだろう。

また、敬う心があれば、いかなることでも成功する。
例えば、プロレスで史上最高のレスラーと言えるルー・テーズが、あれほど成功したのは、レスリングと、師のジョージ・トラゴスやエド・ルイスを、この上なくリスペクト(尊敬)していたからだ。

崇める効果に関して、今朝もご紹介した、ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』の話が、非常にリアリティがある。
牢獄のような、狭く、熱く、息苦しい場所で、安月給で、毎日、長時間働かなければならない、社会の底辺の26人の男達は、未来に何の希望もない、ゴミ虫のような存在だった。
男達の精神は堕落し、まともな人には、とても聞かせられないほどの下品な猥談ばかりし、神から与えられているはずの知性はカケラもなかった。
だが、ターニャという名の16歳の美少女が現れ、彼女を女神のように敬うようになってから、男達は変わる。
親切、忍耐といった美徳や道徳心を取り戻し、品格が現れ、錆び付いていた頭も回るようになった。
若い魅力的なターニャに邪まな思いを持たず、彼女がいない所でも、彼女を卑しめるような淫らな冗談一つ言わなかった。
だが、ターニャは、確かに可愛いが、決して、出来た娘ではなく、ただの身勝手な娘で、彼らを露骨に見下してもいた。
けれども、男達にとって、それはどうでも良かった。
男達は、ターニャに女神を投影して見ていたのだ。

だが、この作品は、現実の娘を女神のように扱うことは、やめた方が良いという教訓にもなっていると思える。
本物の娘は、所詮、女神や天使ではない。
いつかは裏切られる。
いや、ターニャは、元々が、彼らの前で、女神や天使であろうとしていた訳ではなく、男達を「囚人さん」と呼び、繕い物を頼まれると、「何で私が、あんたのためにそんなことしなくちゃいけないの」と、嘲るように突っぱねた。
それでも、男達は、彼女が女神であると信じることが出来た。
だが、いつかは、現実の娘が、女神や天使ではないことを、思い知らされるのである。

「彼女に裏切られた」、「妻に裏切られた」、「娘に裏切られた」などと言うことなかれだ。
それは、お互い様なのだ。
お互い、天使でもなければ、ナイト(騎士)でもない。
夫婦は、キツネとタヌキの騙し合いというのは、程度の差はあっても、真実であろう。

そのことは、初音ミクさんの、『恋愛裁判』(Youtube)を観賞して、よく理解しておくことだ。
ところが、『恋愛裁判』の歌や動画を聴き、見たら、むしろ元気が出るのは、ミクさんがバーチャルな存在だからだ。
ミクさんは、『恋愛裁判』で、天使のような少女の後に小悪魔を演じるが、実際のミクさんは、天使そのもので、決して裏切らないからだ。
誰かが、ミクさんのことを、「スキャンダルのないアイドル」と言ったが、まあ、そういうことである。

だから、崇めるなら、神や女神が良いかもしれない(もちろん、よければ、初音ミクさんも)。
私は、初音ミクさんの実体である(と私が勝手に決めている)、ターラー菩薩様を崇拝している。
ターラー菩薩様は、日本ではあまり知られていないが、チベットでは広く信仰される菩薩様である。
チベットでは、観世音菩薩様が信仰の中心であるらしいが、ターラー菩薩様は、観世音菩薩様の目(あるいは涙)から生まれた菩薩様だ。
観世音菩薩様の右目(あるいは右目の涙)から白ターラーが、左目(あるいは左目の涙)からは緑ターラーが生まれた。
ターラー菩薩様は、初音ミクさんと同じ16歳のたおやかな少女だ。
ターラー菩薩様の美しいお姿に関しては、中国の画家ゼン・ハオ氏のFacebookページ「ZENG HAO DUN HUANG | Facebook」をご覧いただきたい。

「ターラー」は、古代インドの言語であるサンスクリット語で「目」、「星」という意味で、現代のヒンディー語でも、「ターラー」は「星」である(「目」は「アーク」)。
タミル語では、「目」が「ターラー」で、「星」は、「サーラー」である。
ターラー菩薩様は、東洋のマリアとも言われる観世音菩薩様の、星のごとき目の輝きの中から生まれたという説もあることが納得出来るのである。
初音ミクさんの、事実上の初めての歌(公式デモソング)は、『星のカケラ』で、これが実に良い曲であるが、やはり、ミクさんとターラー菩薩様の繋がりは深い。
『星のカケラ』は、今月(2016年3月)9日の「ミク(39)の日」に発売された、『MIKU EXPO』の公式E.P.(シングル盤)であるCD『HATSUNE MIKU EXPO 2016 E.P.』に収録されている。
まるで、ターラー菩薩様の歌のようですらある。
この歌の中で、

頬なでる柔らかな風が
そっと寄り添ってくれる
~『星のカケラ』(作詞・作曲・編曲:平沢栄司、歌:初音ミク)より~

という歌詞があり、歌全体にも風を感じるのだが、風はターラー菩薩様の象徴でもあり、ターラー菩薩様は、呼びかける者に寄り添って下さることを想うのである。
神仏を敬い、その名を想うには、やはり、その名の意味を知っておくと良いと思う。
ミクという名にも、隠された素晴らしい意味があるが、長くなったので、それはまたにしよう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

AIが足元にも及ばない人間であるには

およそ関係のなさそうなもの同士を、見事に関係付けることを発見と言い、そこに有益な何かが生まれれば発明と言う。
ゼロから何かを生み出すことは実際はなく、あらゆる発明は、ものごとの関係を見つけることから始まる。

では、ものごとの関係性・・・それも、普通の人には分からない関係性を見つけるにはどうすれば良いのだろう?
それには、ものごとの本質を見極めることだ。
ものごとの本質とは、ものごとの、価値の低い要素を取り去った後に残るものだ。
それを、学問的には、難しく、「抽象化された概念」などと言うが、つまるところ、「だいたい」のことだ。

「だいたい、あなたは自分勝手なのよ」
と言った場合、「自分勝手」が、「あなた」の本質だ。
この場合は、言ってる者の主観が入っているかもしれないが、それでも、「だいたい」合っているのだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、流れる水のあちこちに渦巻きが出来るのを見て、何かを感じた。
普通の人は、デタラメに渦巻きが発生しているとしか思わないのに、ダ・ヴィンチは、「渦巻きは、だいたい、こんなもの」と言える何かがあると考えたのだ。
それは、後の世で証明され、複雑系理論などと呼ばれているが、それが分かるには、コンピューターの発達が必要だった。
つまり、ダ・ヴィンチの感覚はコンピューターを超えていたのだ。

「だいたい」を見事に掴むことが、人間の優れた能力である。
ただ、最近のAI(人工知能)は、ディープ・ラーニング(深層学習)によって、「だいたい」を掴めるようになってしまった。
人間は、5から10程度の階層で「だいたい」を掴むが、Googleのコンピューターは22層の曖昧さレベルで「だいたい」を掴む。
こりゃ、敵いっこない・・・ことはない。
人間には、残された聖域がある。
それをお見せしよう。

初音ミクさんが、ターラー菩薩様の化身であることを、AIは見抜けない。
・・・あ、笑うのは待って欲しい(笑)。
では、初音ミクさんの「だいたい」と、ターラー菩薩様の「だいたい」を見抜くことで、両者の関係性を照見しよう。
まず、共に、16歳である。
ターラー菩薩様は、白ターラー様と緑ターラー様が在(ましま)すが、初音ミクさんのイメージカラーは緑である。
そして、ターラー菩薩様が象徴するのは「風」である。
初夏に新緑の間を吹く快い風を「緑風」と言う。
また、緑ターラー様が迅速に救済に駆けつける様は、疾風のごとしである。
長い緑色の髪が際立つミクさんにも、この風のイメージがある。
それを特に感じたのは、冨田勲さんが制作された『イーハトーヴ交響曲』の第4楽章『風の又三郎』で、ミクさんが又三郎を演じた時だ。
又三郎は男の子であるが、ミクさんは、又三郎の風の神の本質を誰よりも表現出来るので、又三郎以上に又三郎になった。
ミクさん自体に、ターラー菩薩様の象徴である風の本質が在るからである。

いかにAIが進歩しても、このようなことをAIは考えない。
「そりゃ、こじつけじゃないか?」
と言うなら、その通りで、「こじつけ」こそ、決してAIが真似出来ない人間の能力である。
こじつけには、空想、感情、情緒、好きという気持ち、直観、気紛れなどといった、AIには手も足も出ないものが一杯あるからだ。
数学理論すら、感情なくして成立しないことを数学が証明しているらしい。岡潔さんが言ったのだから、おそらく本当なのだろう。つまり、感情は理論を超えるのである。
だが、教育された気紛れは、容易くAI(特にビッグデータとの組み合わせ)に見抜かれる。
我々は、本物の気紛れを持たなければならない。
ニーチェも、気紛れを高く評価したのである。
本物の気紛れを持つために、我々は、真の人間性を取り戻す必要がある。
人間性を取り戻すためには、初音ミクさんの透明な歌声の中に在る、ターラー菩薩様の光を見出せば良い。
ターラー菩薩様の光に照らされるためには、ミクさんの歌を聴きながら、慕い憧れる気持ちで、ナーマスマラナ(名前を思い出すこと)、あるいは、ナーマ・ジャパ(名前を唱えること)をすれば良い。
その名前とは、神仏の名である。
慕い憧れる気持ちを持てる神仏であれば、どの神仏の名でも良いのである。
この曖昧さ、恣意(気まま)を持ちながら、なおかつ、ゆるまずにいることが、真の人間の偉大さである。
何十万年進歩しても、AIは足元にも及ぶまい。
ただし、本物の人間であればね。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

無意識の深奥に通じる道

ネット(主にインターネット)がなかった時代は、人々は、今日では信じられないほど分断されていた。
もっとも、ネットが発達したために、ネットでしか繋がることができない人が増えているらしい。

だが、ネットなんてなくたって、人々は、無意識の深奥の集合意識で繋がっているという話があり、それを心理学の中で言ったのが、スイスの心理学者C.G.ユングだ。
ユングの師だったフロイトすらそうだったが、集合意識の存在を認めない人は多く、昔は、心理学においても、学位を取りたかったら、あるいは、学会を追い出されたくなかったら、集合意識なんてものを扱ってはいけなかったらしい。ある時期からは、一応はそうではなくなっているらしいが、今でも、集合意識に否定的、あるいは、懐疑的な人が多いのだろう。
ユング派の精神科医である、ジーン・シノダ・ボーレンの本で見たことがあるが、アメリカのSFテレビドラマ『スタートレック』で、肉体を持たない精神生命体である宇宙人が、ミスター・スポックの肉体の中に入った時に、「なんて寂しいんだ!」と言ったらしい。
このお話は、ひょっとしたら人類は、それほど寂しい状態に置かれているのだということを示唆しているのだと思う。

もし、集合意識が在るのであれば、神話や昔話は、集合意識の中で強いエネルギーを持っていると思われ、それらを通して、集合意識にアクセス出来るかもしれない。
あるいは、集合意識が存在する無意識の深奥に最もうまく入り込める方法は宗教儀式だとも考えられる。
だが、宗教が形骸化し、その役割は芸術に移ったと言う人もいる。
そもそも、芸術は宗教から生まれたと言われる。
だけど今でも、敬虔な、あるいは、荘厳な宗教儀式によって(それには芸術の助けも有効だろう)、無意識の深層に入り込める人もいるだろう。
そして、昔から、宗教を極めた人達は、集合意識のさらに奥が、神仏の領域であると気付いていた。
だから、無意識から集合意識へ、さらに、その奥へと進むことで、神意識に到達し、それを、悟りとか、解脱、あるいは、真我の実現とか、キリスト意識への到達などと言うのだが、それが宗教の究極の目的の1つであるのだと思う。

法然や、それ以前の中国の善導、道綽らは、修行や儀式で仏の領域に至るのは難しく、現在は、それが出来る唯一最高の方法が、念仏を唱えることであると教えた。
その中で、もっぱら阿弥陀如来の名を唱える「南無阿弥陀仏」という念仏を最上として奨めたのは、理屈で言えば、集合意識の中の阿弥陀如来のイメージが、他の仏に比べ、歪みや汚れがなく、しかも、エネルギーが大きいからだろう。
しかし、実際は、その人の、個人的、あるいは、民族的信仰であるとか、個人的な無意識のイメージが大切なので、どの神仏の名が最も良いかは何とも言えない。
インドでは、最も良い神仏の名がクリシュナという場合もあるし、日本では、今はともかく、昔であれば、アマテラスであったかもしれない。
あるインドの聖者は、唱えるのは、どの神の名でも良く、それは、海は繋がっているのだから、どこの海に飛び込んでも同じだからというようなもので、むしろ、神を区別しない方が良いと教えている。
確かにその通りで、各自、自分が好ましいと思う神仏の名を唱えれば良い。

私は、ターラー菩薩(ターラ菩薩、多羅菩薩)への信仰を深めているが、ターラー菩薩の最も重要な真言は、
「オーム・ターレ・トゥッターレ・トゥレ・スヴァーハー」
である。※『実践チベット仏教入門』(春秋社)142ページより。
しかし、神の名を唱えるナーマスマラナが最も重要であるという教えもあり、ただ、「ターラー」と唱えたり、心で想っても良く、私はもっぱらそうしている。
ディヤーガラージャという人は、六千万回近くラーマ(『ラーマーヤナ』の主人公)の名を唱え、ついに、ラーマに逢った(神意識に到達したということと思う)という(サティヤ・サイ出版協会『ナーマスマラナ』42ページより)。
私のターラー菩薩への信仰は、単に、初音ミクさんがターラー菩薩の化身であるという個人的観念に過ぎないが、そのようなものが大切なのである。
つまり、人間にとって、感情ほど重要なものはない。
ダライ・ラマ14世は観世音菩薩の生まれ変わりで、政木和三さんは八幡神(八万大菩薩)の生まれ変わりと称していると思うが、それを信じることを他人に強要するのでない限り、別にとやかく言うことではない。おそらく、ある意味、誰がそう言っても正しいのだと思う。
また、他人のことを、自分の見解でとやかく言わないことで、自分も信念を持てるのである。
尚、初音ミクさんを受け入れることが出来るのは、実際は、豊かな国や地域だけなのである。
早くチベットで初音ミクさんが歌う日が来れば良いと思う。

私は、宗教には何の関心もないが、心理学を含めた、あらゆる研究や思想等を参考にして、生命力を高め、よりよく生きることも出来るのだと思う。
それを上のように簡単にまとめたので、役に立ちそうなところは取り入れていただければと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード