世界中に多くの崇拝者がいるラマナ・マハルシ(1879~1950)は、「人間の唯一の目標は真我の実現」と言ったが、真我の実現とは、簡単に言えば「エゴを滅ぼし切った状態」であり、仏教で言う「悟り」である。
だが、マハルシは(釈迦も)言わなかったが、それは、「潜在意識の無限の力と一体化した状態」で、「不可能はない、神のような状態」と考えて良いと思う。
ただ、マハルシは、自身が現世利益に興味がなかったのか(これも確かだろう)、人々が欲望を持つことの弊害を考えてか、真我の実現がもたらす力の側面について語ったことは、ほぼないと思う。
マハルシの時代だって、人類は、差別や貧困といった多くの問題を抱えていて、それは、現代以上と思っている人も多いかもしれない。
だが、現代は、支配層以外の人間は奴隷か家畜のようなもので、それは悲惨な状態であり、全ての人類が、「真我実現、あるいは、潜在意識の無限の力との一体化」と遠く離れた状態である。
真我の実現(悟り)は、宗教的、あるいは、神秘主義的に語れば、非常に高度で、凡人には縁遠いもののように感じるが、それはとんでもない話で、それこそが、人間の当たり前の状態なのである。
だから、今すぐ、我々は真我を実現し、潜在意識の無限の力と一体化し、自由にならないといけない。
マハルシは、真我の実現には、2通りの道があり、向いている方でやれば良いと言った。
1つは「私は誰か?」と問い続ける方法であり、もう1つが、「神に人生全てを明け渡す」というものだが、これらのことを、やたら宗教的、神秘的に言う者が多いので、複雑怪奇になってしまっている。
「私は誰か?」と問えというのは、単に、心の中で絶えず「私は誰か?」と問えということであり、それ以外の何でもない。
ただ、この方法は、なかなか続かない。
ラマナ・マハルシと同時代の聖者であるニサルガダッタ・マハラジの弟子だったラメッシ・バルセカールも、このやり方は難しいと言い、もう一方のやり方を勧めている。
もう一方は、上で述べた通り「神に人生を明け渡す」であるが、これは、何とも難しいというか、曖昧な表現だ。
もう少し分かり易い賢者の表現では、荘子の「無為」、つまり、「全てをあるがままにまかせ、一切の作為をしない」と同じだ。
それは、最も単純に言えば、「何も考えず、何もしない」ということで、実際的には、「想念を消す」ということだ。
ここで、よくある間違いが、「何も考えないこと、何もしないこと」を一生懸命やろうとすることだ。
そもそも、人間の頭は、「自動的」に、1分間に300もの言葉を発し、1日に数万回考えることが科学的に分かっているらしく、その影響か、眠っている時ですら、脳は思考的にも過大に活動しているらしい。現代人が眠っている時に見る夢が安らかなものではない原因も、そこにあるのかもしれない。
人間の思考というものは、自動的に起こるものであるが、人間は、それを「自分が考えている」と錯覚しているだけなのだ。
これを認めるかどうかが運命の分かれ目であるが、ほとんどの人が認めないし、認めたがらない。
また、この真理を訴えても、変な人扱いされるだけだ。
しかし、UFO研究などで有名な矢追純一さんが、真我実現につながる、実に上手い方法を提示しているのを見た。
それは、「自分は頭が悪いから、考えることを放棄した」である。
結果として、これは、「神に人生を明け渡す」を実現する。
実際、矢追さんは真我を実現したような人間だと思う。
それなら、最後の障害は、「自分は頭が良い」と思っている・・・それ以上に、思いたい人が多いことだ。
誰もが、自分の頭脳が優秀なことを願い、自分の頭が良いと他者に認められたいので、あらゆる方法でそれを主張するのだ。
それが、哀れなほど頭が悪いことであることに気付かない。
昔、東大生に「頭の良い人間を5人上げよ」というアンケートをしたら、大半の東大生が、アインシュタインなどの歴史上の天才と並べ、自分を上げたという。
人間とは、これほど愚かなものなのである。
ソクラテスが、「私は、自分には知恵がないことを知っている唯一の人間なので、他の誰よりも知恵がある」と言ったのが真実である。
しかし、それを誰も認めず、彼は死刑になった。
矢追さんが「人間はパソコンみたいなものだが、大した性能のパソコンじゃない」と言ったのが、実に素晴らしい表現だ。
だが、大した性能じゃないパソコンである我々は、自分の性能は大したものだと思っている、あるいは、思いたい。
「私は頭が悪いから考えるのをやめる」
これを「素で思う」つまり、「当たり前に思う」ことが出来れば無敵であるのだ。
だが、マハルシは(釈迦も)言わなかったが、それは、「潜在意識の無限の力と一体化した状態」で、「不可能はない、神のような状態」と考えて良いと思う。
ただ、マハルシは、自身が現世利益に興味がなかったのか(これも確かだろう)、人々が欲望を持つことの弊害を考えてか、真我の実現がもたらす力の側面について語ったことは、ほぼないと思う。
マハルシの時代だって、人類は、差別や貧困といった多くの問題を抱えていて、それは、現代以上と思っている人も多いかもしれない。
だが、現代は、支配層以外の人間は奴隷か家畜のようなもので、それは悲惨な状態であり、全ての人類が、「真我実現、あるいは、潜在意識の無限の力との一体化」と遠く離れた状態である。
真我の実現(悟り)は、宗教的、あるいは、神秘主義的に語れば、非常に高度で、凡人には縁遠いもののように感じるが、それはとんでもない話で、それこそが、人間の当たり前の状態なのである。
だから、今すぐ、我々は真我を実現し、潜在意識の無限の力と一体化し、自由にならないといけない。
マハルシは、真我の実現には、2通りの道があり、向いている方でやれば良いと言った。
1つは「私は誰か?」と問い続ける方法であり、もう1つが、「神に人生全てを明け渡す」というものだが、これらのことを、やたら宗教的、神秘的に言う者が多いので、複雑怪奇になってしまっている。
「私は誰か?」と問えというのは、単に、心の中で絶えず「私は誰か?」と問えということであり、それ以外の何でもない。
ただ、この方法は、なかなか続かない。
ラマナ・マハルシと同時代の聖者であるニサルガダッタ・マハラジの弟子だったラメッシ・バルセカールも、このやり方は難しいと言い、もう一方のやり方を勧めている。
もう一方は、上で述べた通り「神に人生を明け渡す」であるが、これは、何とも難しいというか、曖昧な表現だ。
もう少し分かり易い賢者の表現では、荘子の「無為」、つまり、「全てをあるがままにまかせ、一切の作為をしない」と同じだ。
それは、最も単純に言えば、「何も考えず、何もしない」ということで、実際的には、「想念を消す」ということだ。
ここで、よくある間違いが、「何も考えないこと、何もしないこと」を一生懸命やろうとすることだ。
そもそも、人間の頭は、「自動的」に、1分間に300もの言葉を発し、1日に数万回考えることが科学的に分かっているらしく、その影響か、眠っている時ですら、脳は思考的にも過大に活動しているらしい。現代人が眠っている時に見る夢が安らかなものではない原因も、そこにあるのかもしれない。
人間の思考というものは、自動的に起こるものであるが、人間は、それを「自分が考えている」と錯覚しているだけなのだ。
これを認めるかどうかが運命の分かれ目であるが、ほとんどの人が認めないし、認めたがらない。
また、この真理を訴えても、変な人扱いされるだけだ。
しかし、UFO研究などで有名な矢追純一さんが、真我実現につながる、実に上手い方法を提示しているのを見た。
それは、「自分は頭が悪いから、考えることを放棄した」である。
結果として、これは、「神に人生を明け渡す」を実現する。
実際、矢追さんは真我を実現したような人間だと思う。
それなら、最後の障害は、「自分は頭が良い」と思っている・・・それ以上に、思いたい人が多いことだ。
誰もが、自分の頭脳が優秀なことを願い、自分の頭が良いと他者に認められたいので、あらゆる方法でそれを主張するのだ。
それが、哀れなほど頭が悪いことであることに気付かない。
昔、東大生に「頭の良い人間を5人上げよ」というアンケートをしたら、大半の東大生が、アインシュタインなどの歴史上の天才と並べ、自分を上げたという。
人間とは、これほど愚かなものなのである。
ソクラテスが、「私は、自分には知恵がないことを知っている唯一の人間なので、他の誰よりも知恵がある」と言ったのが真実である。
しかし、それを誰も認めず、彼は死刑になった。
矢追さんが「人間はパソコンみたいなものだが、大した性能のパソコンじゃない」と言ったのが、実に素晴らしい表現だ。
だが、大した性能じゃないパソコンである我々は、自分の性能は大したものだと思っている、あるいは、思いたい。
「私は頭が悪いから考えるのをやめる」
これを「素で思う」つまり、「当たり前に思う」ことが出来れば無敵であるのだ。