ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ソクラテスの弁明

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

真の「シークレット」

2006年に、ロンダ・バーンの著書『ザ・シークレット』が出版された後、これが大ブームになり、この本は、世界で2000万部以上が出版されたらしい。
この本は、書内の説明によれば、古代から、ごく一部の人達にのみ知られ、一般の人には公開禁止にされた願望実現の秘密の方法を、ついに一般公開したというものだ。
この願望を実現する秘密の方法を「シークレット」と呼んでいる。
だが、ロンダ・バーンは、「シークレット」を、娘がプレゼントしてくれた本で知ったというし、それは別に特別な本ではなかったはずだ。
そして、「シークレット」自体は、世の中で知られている成功哲学と同じで、特に目新しいものではないと思える。
『ザ・シークレット』は、成功哲学を整理し、分かり易くしている面もあるが、その長い本の中には、互いに矛盾する箇所もある。つまり、整理不足だ。
結局のところ、『ザ・シークレット』の中身は、クラウド・ブリストル、ナポレオン・ヒル、ジョセフ・マーフィーらのものとあまり変わらないと思う。
ただ、『ザ・シークレット』は、同じ内容だが、非常に面白いDVDを作ったり、関連書を次々出版したりで、マーケティングが非常に良く、それらの努力でヒットしたのだと思う。
書いてあることは、ナポレオン・ヒルあたりとそんなに変わらないが、現代事情を取り込んでいる点は有利なように思える。
しかし、それは表面的なことで、実際の中身は、古い教えの集大成といったところで、しかも、過去の賢者の教えを正確に反映しているかどうかは疑問だ。

つまるところ、『ザ・シークレット』も、数多ある成功哲学の書同様、実際に、それで成功した人は、ほとんどいないと思う。
「成功」とは、必ずしも、大金持ちになるとか、それぞれの分野でランキング上位者であると見なされることではなく、早い話が、幸福になることである。
ある有名人(誰かは忘れた)が、「幸福とは自己満足である」と言っていたが、全くその通りで、客観的にはどうであれ、本人が心から満足出来れば、それが成功なのである。
とはいえ、ある程度のお金や健康、人間関係といったものがないと、ほとんどの人は満足しないであろうから、そういったものを得られなければ成功哲学ではない。
しかし、『ザ・シークレット』を含めた成功哲学では、そういったものすら得られない場合が多い。
そして、本人が心から満足出来ることが成功と言ったが、それは、アブラハム・マズローの言う「自己実現」でしか得られないもので、それを得た者は稀と言うか、ほぼいないかもしれない。
さらに言えば、ナポレオン・ヒルなどの成功哲学で成功したと見なされた人達は、実際は、少しも幸福ではなく、むしろ、一般の人より惨めであることも少なくない。

ただ、一方で、世間から注目される訳ではないが、幸福になった人達もいるのである。
彼らは、健康で、必要なものは努力しなくても、自然に得られるが、そんなことより、心が安らいでいるのである。
仏教で言われるのかもしれないが、「大安心」の境地である。
何か欲しいと思った時でも、それを得るために引き寄せのテクニックを使うことはなく、ただ「これが欲しい」と思ったら、それが勝手にやってくる。
ただし、必要もないものを欲しいとは思わず、豪華なもの、贅沢なものに興味がない場合が多い。
たとえ高級車に乗っていたとしても、単にそれが趣味だったり、純粋に楽しいからで、実際は、小さな車で満足している場合が多い。
ある大金持ちの投資家が言っていたらしいが、成功の秘訣を聞かれたら、「欲張らないこと」と即答したようだ。
政木和三さんも、超人のようなものになるには、「欲望をぽーんと放り出せば良い」と言われていた。
いかに、成功哲学に金と時間をかけても、欲張りでは駄目だと思う。
そして、欲張りでなければ、つまり、不要なものを欲しがらなければそれで十分である。
そのためには、ギリシャのデルフォイ島のアポロン神殿の扉に書かれている「身の程を知れ」を忘れなければ良い。
そんなものを知るはずがない徳川家康が言った天下取りの秘訣もまた「身の程を知れ」で、孔子も同じことを重視していた。
「身の程を知る」ことの優れた解説は、プラトーンの『ソクラテスの弁明』に書かれていることであると思う。








大傑作の作者だって崇拝してはならない

先月(2014年6月)の29日から読み始めた『木枯し紋次郎』も、もうすぐ一月という中で13巻目に入ってしまった。
勿体無いので、できるだけゆっくり読んでいるが、もう残り3巻しかない。
もっとも、『木枯し紋次郎 中山道を往く』シリーズがまだ3冊あるし、それも読み終わったら、また最初から読めば良いと思っている。
空手家の大山倍達さんは、吉川英治さんの『宮本武蔵』を座右の書とし、何度も繰り返して読んでいたらしいが、あれも中々の長編なので、一生読めたことだろう。
そんな本を見つけた人は幸運なのかもしれない。

ところで、『木枯し紋次郎』の著者である笹沢左保さんは2002年に亡くなられており、会うことは叶わない訳であるが、もし、生きておられても、私は特に会おうとは思わなかったかもしれないと思う。
大山倍達さんは、吉川英治さんに会われたことがあるらしいが、その時、吉川さんが何か武蔵を侮辱するようなことを言い、大山さんは耐えてはいたが、怒りに震えていて、吉川さんは「殺されると思った」と述べていたという話を、何かで読んだと思う。

ソクラテスの話を鵜呑みにするのではなく、私も全く同じ結論に達したのであるが、作家、詩人、画家、彫刻家、音楽家、技術者、その他、あらゆる分野において、創り出された創作物というものは、作者とされる人が創ったのでは全くない。
確かに、作者になった者は、それを表現する媒介として神に選ばれたのかもしれず、それならば、その作者には、やはり、何か見るべきところがあるのかもしれない。
しかし、つまるところは媒介に過ぎないのだ。
作者が凄いからそれを創れたのではないのだ。
作者に対しては、人間として当たり前に敬えばそれでよく、いかなる大芸術作品の作者であろうと、個人としての人間を崇拝してはならない。
だが、創作物の権利のどんな一かけらも取られまいと、全部掴んで離さない「作者」のなんと多いことか。
そんな「作者」の醜さを見れば、ますます、ソクラテスが正しいことを言ったのだと分かるのである。
何でも、権利だ報酬だ金だというのは、もう時代遅れである。
芸術などの創造は無償の行為であるべきなのだ。
アインシュタインは、たまたま入ってくるようになった高収入を、誰とでも分かち合い、自分は、好んでいつもヨレヨレの服を着て、靴下も履かず、自動車を買わないどころか、バスにも乗らず、毎日、バス停数区間の長距離を歩いて研究所に通っていたらしい。
彼のような心構えであれば、必要な金は自然に入ってくるようになるだろう。
そうでなくても、食べるためだけなら、サラリーマンやバイトや教師等を真面目にやれば良い。
それが当たり前だと思えば、やがて幸運にも恵まれることだろう。









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英雄になる方法

あなたは緊張しやすい方だろうか?
恐い人達、偉い人達を前にしたら、すくみあがって身体が震え、声を出せば、裏返った変な声を出してしまうのではないだろうか?
それを変えたいなら、まるで動じない者の正確な姿を見てみると良い。

そんな姿が、『木枯し紋次郎』十巻の『桜が隠す嘘二つ』の中にある。
紋次郎は、少々度胸のある男でも、蒼白になって生きた心地がしなくなるような場面にあった。
一人ずつでも威厳に満ちた全国屈指のやくざの大親分達が大勢集まった大広間に、その中でも最も貫禄のある大親分の17になる娘を刺し殺した下手人(容疑者)と決め付けられた状態で引き出され、弁明が少しでもまずければ即刻首を落とされることになるのだった。
だが、紋次郎は全くいつもと変わらず、無表情で、冷たい目をしていた。
そして、
「死ぬ覚悟はできているのか」
と問われても、平気で無言を貫いたが、再度尋ねられると、
「覚悟するまでもなく、いつだって死んだ気でおりやす」
と、何の動揺もない低い声で言う。
その後もずっと同じであった。

『ソクラテスの弁明』のソクラテスが安っぽく感じるほどであった。
これで惚れなければ男ではないし、女でもない。
そして、ソクラテスが言ったように、作家が作品を書いたのではない。
作家は、選ばれただけなのだ。
作家の中に、霊的な何かが送り込まれ、作家は、ただそれを文章に現すだけなのだ。
事実は小説より奇なりと言うが、小説とは事実なのである。

あなたも、紋次郎のこの話を読み、紋次郎に熱を上げると、なにものにも動じなくなる。
なぜなら、アメリカ最大の賢者エマーソンが言ったのだ。
英雄の物語を読む時は、自分の物語を読んでいるのだと思えと。
実際、その通りなのだからだ。









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人間に分かる唯一のことは人間には何も分からないということだけだ

スポーツ、演芸、芸術、武道等には「名コーチ」というものがいて、子供の才能を見抜くなどと信じられている。
しかし、はっきり言っておくが、そんなことのできる者はいない。
たまたま才能のある生徒を指導したら、その生徒が超一流になった等ということが2~3度あると、名コーチにされてしまうのである。
そして、コーチ自身も変な自信を持って、生徒を集めても、才能ある生徒のほぼ全てを潰してしまうのである。
それでも、生徒の数が多いので、たまたま才能がある生徒がいて、しかも、そのコーチと相性が良く、上手く育って活躍すれば、「名コーチ」の評判は維持できる。
そして、名コーチは言うのだ。
「本当に才能ある子は千人に一人、万人に一人だ」
ってね。
実際は、才能なんてもっとありふれている。
たかが人間に分かることなんて知れているのだ。
神を恐れよと言いたい。

あることについて、専門家に見解を聞けば、専門家達は、みんな違うことを言うのである。それぞれが真逆(逆を強調する俗語)であることすら珍しくない。
しかし、まぐれ当たりした者だけがクローズアップされ、「やっぱり専門家は正しい」となってしまうのである。
早い話が、誰も、何も分からないのだ。
ある名医が、自分の誤診率は14%だったと言ったらしいが、その時、医者と医者以外の両方が歓声を上げた。
医者以外の者達は、その誤診率の高さに。
そして、医者達は、その誤診率の低さにである。
だが、普通の医者は、もっとはるかに誤診をするのだ。
私は、その名医の誤診率が14%だなんて、全く信じない。
単純な症例は別として、実際は、ほとんど正しく診断できなかったはずなのだ。
いくらかまぐれ当たりがあるだけである。

だが、ビッグデータが正しく使われるようになりデータが十分に多くなれば、いつも正しい答が得られる。
ただ、その答がなぜ正しいのかは決して分からないのだ。
誤解してはならないのは、ビッグデータとは、コンピューターが推論や計算で正しい答えを出すことではなく、コンピューターが正しい答を見つける方法に過ぎないのである。
確かに真理は存在するが、なぜそれが真理であるのかは誰にも分からないのである。
だが、それによって、人間の知性など、卑小過ぎて何の力もないことを認識し、謙虚になれればそれで良いのである。

そして、人間が完全に謙虚になって、自分の知性を蔑み、ソクラテスのように、
「私は、自分が何も知らないということだけを知っている」
と本当に理解すれば、やはり、ソクラテスのような賢者になる。
それは、人間の知性ではなく、神の叡智と一体化したということである。

『ソクラテスの弁明』は、下記にご紹介した藤田大雪さんのKindle版が安価ながら素晴らしいと思ったし、評判も良いので推薦する。
ビッグデータに関しては、やはり下記にご紹介した、クター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエの著書の翻訳をお薦めする。









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若き天才作家達の創造力の秘密

手塚治虫さんの『ジャングル大帝』や『リボンの騎士』、石ノ森章太郎さんの『サイボーグ009』や『仮面ライダー』など、歴史的な漫画作品のほとんどが、彼らの20代か、せいぜいが30代前半までの作品であるということは興味深い。
他の著名な漫画家の作品についてもほぼ同じようなことが言えると思う。
ちばてつやさんの『あしたのジョー』(原作は梶原一騎さん)もそうだし、武内直子さんは世界的ヒット作『美少女戦士セーラームーン』を23歳くらいで描き始めたと思う。
それでも、これらの作品は年配の人をも惹き付ける精神的な深さも充分にあるが、そんな作品を、そのような若さで描くことができたというのはやはり、彼らは天才なのであろうか?

漫画家になるような人は、例外なく、幼い頃から絵を描くことが好きで、しかも、その絵の上手さは普通の子とは比較にならず、「この子は大画家になるんじゃないだろうか?」と言われたような人ばかりであったと思う。
手塚治虫さんは、あまり絵が上手いとは認識されていないかもしれないし、私も割と最近までそう思っていた。
しかし、数年前に宝塚にある手塚治虫記念館で手塚さんが中学生の時に描いた写実画を見たが、「やっぱり絵だけでも天才だ」と思うほど素晴らしいものだった。
人気漫画家というのは非常に忙しく、1つ1つの絵にかける時間が厳しく制限されるのだということは、理屈では分かっていたが、改めてそれを思い知った気がしたものだ。
男性漫画家としてかなり繊細な描写をしていた楳図かずおさんも、やはり売れていた頃は殺人的な忙しさであったらしいが、それであれだけ描けるのであるから、その気になれば、画家やイラストレーターとしても相当なものであったと思う。
だから、漫画家で成功するには、絵を描く才能というのは絶対的条件と思う。
その上で、素晴らしいストーリーを創り、あるいは、たとえ原作が別にあったとしても、それを輝かせる創作力が必要であるのだろう。
だが、特に売れっ子作家の場合、ストーリーなどを考える時間、エネルギーも限られているはずなのだ。

そう考えると、思うのであるが、逆に、漫画家が20代で代表作を描くのは、その多忙さゆえではないかという気もするのだ。
もし、その時の彼らに十分な時間があって、お金の心配もなく、余裕を持って描いていたら、おそらく、今残っているような傑作を描くことはなかっただろう。
普通に考えるなら、若い作家の作品の致命的な欠点は、技術的なことよりも、自己主張の稚拙(幼稚で未熟であること)さであると思う。
だから、本当は、特に若い作家は、作品に自己主張を持ち込むべきでない。
ところが、上にも述べた大作家達の若い時の代表作には、むしろ、大いなる自己主張が見られるに違いない。
しかし、それは、彼らの個人的な自己主張ではないのだ。
ここが重要なところだ。
忙し過ぎて、私的な自己主張等などは考えている余裕はなかったはずなのだ。
作品の中にある精神的なものは、一見、彼らの個人としての思想、信念、情感のように見えて、実はそうではない。
多忙のために、普通に言う思考のようなものは飛んでしまっていて、彼らの心の奥深くにあるものが現れているのであり、それは、もはや、個人的な精神とは言えないのだと思う。

小説家の場合であるが、筒井康隆さんには素晴らしい作品が沢山あるのに、『時をかける少女』を代表作のように書かれることがよくあるのは、おそらく本人にとっては不本意であろうと思う。
この作品は、筒井さんにとっては、多分、さほどの思い入れはないのではないかと思うし、おそらく、それほど情熱を込めて書いたものでもないと思う。
しかし、だからこそ傑作になったのだということも、上に述べた漫画家の場合と似ているように思う。
実際、『時をかける少女』は、表面的に見れば、表現的には10代の若者向けに(元々、中学3年生の学習雑誌用に書いたものらしい)簡明に書かれ、ストーリーも比較的単純で、過去にも似たようなものがあると言えるかもしれないが、それでも、恐ろしいほどの傑作であると思う。

プラトンの『ソクラテスの弁明』に書かれているソクラテスの話の通り、いかなる職業であれ、優れた創造的活動は、作者とされる者が行っているのではない。
ソクラテスは、教師として自分が話すこと全てが、自分が考えて言っているのではないことに気付いていた。
自分の教えが自分の個人的なものではないことを知っていたという理由で、彼は自分を知恵者だと言った。
決して、自分の個人としての考え方が優れているから自分は賢いと言ったのではない。
むしろ彼は、自分自身は何も知らないのだと言ったし、それをはっきりと自覚していたのだ。

プラトンがソクラテスの言葉を書き写した、『ソクラテスの弁明』には、創造の偉大な秘密が明かされているのである。
ところで、個人的に制作したものだと思うが、Kindle電子書籍の藤田大雪さんの『ソクラテスの弁明』が非常に良いと思う。わずか150円なので、Kindkeが利用できる方は読んでみられてはと思う。
また、よろしければ、初音ミクがサファイア王女に扮して歌った、『イーハトーヴ交響曲』のアンコール曲『リボンの騎士』をご覧になられたい。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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