ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ソクラテス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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「君なら出来る」と言われたら出来なくなる原理

ソクラテスが、「私は人類の中で一番知恵がある」と言ったのは、単に、それを確認したからで、ソクラテスが人類最高の知恵の持ち主と言ったのは、そう神託を受けた巫女だった。
謙虚な人間であれば、「あなたは賢い」と言われたら、「いえ、そんなことはありません」と否定するし、ましてや、「人類で一番」などと言われたら、「ひぇー!とんでもございませんやダンナ!」とでも言いたくなるだろう。
実は、ソクラテスもそうだったが、信託に逆らうわけにもいかない。
それで、とりあえず、自分より知恵がある人間を1人見つけ、再び神託を仰ごうとした。すぐに見つかるはずだった。
ところが、いくら探しても、自分より知恵がある人間が見つからないので、ソクラテスは神託を受け入れた。
確かに、私が一番知恵がある。
では、ソクラテスは、何を持って、自分と他者のどちらが知恵があると判断したのだろうか?
簡単だ。
「自分には知恵がない」と思っている方が知恵があるのだ。
ソクラテスが訪ねた、有名な科学者、技術者、文学者、芸術家たちは、皆、自分の能力は自分が持っているものだと思っていた。
しかし、ソクラテスは、自分の能力は、誰でもやる日常的なものを除き、自分のものではなく、内なる神の力だと「分かっていた」。

ところで、何でも同じだが、人間が知恵を選ぶのではなく、知恵が人間を選ぶのである。
では、どんな人間を知恵が選ぶのかというと、自分には知恵がないと知っている者である。

引き寄せも同じで、人間が引き寄せの力を選ぶのではなく、引き寄せの力の方で人を選ぶのである。
そして、どんな人が引き寄せの力に選ばれるのかというと、自分には引き寄せの力がないと分かっている人である。

丁度、イエスが、「私には出来ない。だが、神に出来ないことはない」と言ったようにである。
別の言い方をすれば、
「私(顕在意識)には出来ない。だが、潜在意識に出来ないことはない」
「私(個人意識)には出来ない。だが、宇宙意識に出来ないことはない」
「私個人の力には出来ない。だが、宇宙の活力に出来ないことはない」
である。

アメリカ映画などではよく「君には出来る」「お前なら出来る」と言う。
だが、そんなことを言われ、信じたら出来ないのである。
だから、説得力ある人間に、「君なら出来るよ」と言われたら災難である(笑)。
期待されているが、自分に出来るとは思えない。しかし、やるしかないので、とりあえず、何も考えずにやってみる。
そんな時にうまくいくのである。
だから、本当に良い指導者は、「失敗してもいいからやってみろ」と言うのである。

『その望みは宇宙がかなえてくれる』で、著者ベルベル・モーアが、友達から、「宇宙に注文したら叶う」と言われ、馬鹿馬鹿しいと思ったが、とりあえずやってみた。
この状況が、上の「とりあえず、何も考えずにやった」と同じである。
モーアは、「〇〇月××日までに、以下の条件の彼氏頂戴」と宇宙に注文した。かなり無茶な条件だった。
彼女は、注文のことは忘れたが、ちゃんと期日までに、注文通りの品・・・じゃなく、彼氏が届いた(笑)。
彼女は、自分に出来るとは全く思っていなかった。だから叶ったのである。
それに、彼女は別に、宇宙を疑っているわけではない。
ソクラテスも同じで、単に、自分に知恵がないと分かっていただけである。

「私には出来ない。だが、神に出来ないことはない」
イエスのこの言葉を、ただ言葉として憶えていると良い。








あなたも本日ただ今より芸術家になれる

ドイツの文豪ゲーテが存命中の話である。
ゲーテに憧れる青年が、ゲーテの邸宅に、当時のことだから、おそらくはアポなしで訪問した。
そして、青年は、運良く、ゲーテに会えた。
その時・・・青年の顔には、明らかに失望の色が浮かんだ。
若い頃は美男子だったゲーテだが、中年過ぎたその頃には肥満し、見栄えは悪く、その時着ていた普段着もダサかったのかもしれない。
とはいえ、ゲーテは70歳を過ぎても、十代の彼女を次々に作っていたのだから、やっぱり芸術力とは素晴らしい(笑)。

人間は中身であるが、やはり、有名で尊敬される人物は、出来る範囲で、少なくともさっぱりとした外見を保っておくべきかもしれない。
しかし、外見ではなく、会ってみたら、内面的な印象が悪くてがっかりするというのは、特に、芸術家など、普段、あまり人前に出ない偉人には、意外に多い。
美しい絵画を描く画家や、感動させる文章を書く作家、絶妙な音階を紡ぐ音楽家が、会ってみたら、鼻持ちならないほど高慢だったり、下種な野郎だったりするというのは、そう不思議なことではない。
私も、直接会ったのではないが、有名な作家や音楽家とネットで対話した時、その作家などに対し、なんと高圧的で、了見の狭いやつだと呆れたことがある。誰とは言わないが、まあ、最近のことではないとだけ言っておく。

それで思い出すのが、ソクラテスが、優れた人物を求めて、評判の人がいたら、片っ端から会いに行ったという話だ。
結果、ソクラテスは、それらの高名な誉れ高い人達が、全く優れた人間でないことが分かった。

つまり、こういうことだ。
優れた作品を作った作家や音楽家が、人間として優れているかどうかは全く関係がなく、むしろ、人々に称賛されている分、尊大になっている場合が多い。それは人間だから、ある程度は仕方がない。
ソクラテスは、そんな人達が優れた仕事をするのは、その人達の内部にいるダイモーンという霊的存在が神の英知を運んでくるからであると考えた。
それを今日的に言えば、潜在意識との交流が出来る人間が偉大な仕事をするのである。
そして、偉人も、普段は、普通の人間と全く変わらないのだ。
ただ、彼らは、潜在意識と交流するための、何等かの方法を知っているのである。
中には、明示的に、神への長時間の祈りを捧げた後、素晴らしい想像力を発揮するという者もいる。
あるいは、坐禅を組んだり、何らかの音楽を聴くことで、スイッチが入る・・・これが潜在意識との交流が開始されるということなのだろう。
方法は様々であるが、とにかく、何らの方法で、いわゆる脳波がアルファー波やシータ波になったり、ゾーンやフローに入る術を心得ているのだろう。
そして、これまでは、高い創造性を発揮したことがない平凡な人間も、潜在意識と交流する術を修得すれば、岡本太郎が言うように「本日、ただ今から芸術家になれる」のである。
実際、岡本太郎のところに取材に来ていた40歳過ぎの記者が、次に岡本太郎に会った時には偉大な画家になっていた。
ロシアでは、ただの労働者が、猛然と絵を描き始め、最初は下手だったが、みるみる上達し、やがて、クレムリン宮殿内に作品が展示されるまでになったという話もある。

引き寄せも全く同じ・・・と言うより、引き寄せも芸術なのである。
潜在意識と交流するには、エゴが弱くなっていないといけない。
芸術家の中には、上にも述べたように、普段はエゴまみれのような人物だが、創作に入れば、エゴが静まり、潜在意識と交流出来る人もいる。
だが、ほとんどの場合、あまりにエゴが強いと、それを静めるのは難しい。
有名な芸術家がエゴにまみれている場合、その芸術家は既に、潜在意識と交流することが出来ず、さっぱり作品を作っていない場合がほとんどで、昔の作品の残光だけでやっているのだろう。
実際、芸術家に限らないが、優れたクリエーターの創造寿命は短いものである。
かつては偉大な音楽家や画家であっても、今はさっぱりという場合が多いものだ。

だから、今朝も書いたように、引き寄せが上手くなりたかったり、あるいは、芸術家になりたい場合は、普段からエゴを大人しくさせるよう取り組んでおくと良い。
そのためには、自慢をしないことで(現在すっかり駄目な元大芸術家は自慢が多い)、そうなるためには、「今今メソッド」がお奨めである。
「今今メソッド」という言い方はしていないが、詳しく知りたい場合は、エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』が最も良い教科書であると思う。








現代人最大の誤解をさらっと解き万能になる

小説、映画、アニメなどで、主に主人公等の登場人物が危機的状況に陥り、局面の打開は難しく、いわゆる、二進も三進も(ニッチもサッチも)いかないという時に、その登場人物が、「考えるんだ!」と自分に言って、真剣に考える表情になる・・・そんな場面を見たことがあると思う。
そして、ほとんどの場合、素晴らしいアイデアが閃き、そのアイデアは、難しかったり危険だったりはするが、それを果敢に実行し、ついに勝利する・・・という展開になる。

そんな状況の時、「考えるんだ」と言いつつ、人間は何も考えない。
特に、良いアイデアが出る時というのは、ただ心を静めているのであって、考えるのではなく、逆に、思考を止めているのである。

我々だってそうである。
何か不都合な問題が起こり、それを解決したいと思って、自分では「必死で考えている」つもりになるが、本当に考えている時は、ロクな答は出ない。
そうではなく、思考を止め、冷静になることで、アイデアが浮かぶのであり、そのアイデアは思考の結果、得られるものではない。

昔、『一休さん』というアニメがあり、10歳位の小坊主である一休は、すでに知恵者として知られているが、難しい問題に直面し、いよいよ解決することが必要になると、一休は座って、坐禅の形に脚を組むと、目を閉じ、「沈思黙考」といった状態になる。
「沈思黙考」とは、「黙ってじっくりと深く物事を考え込むこと」という意味だが、もし、本当に一休が知恵者であるなら、この時、一休は、考えることを止め、いわゆる「無」になろうとし、普通の人ではなかなか出来ないレベルで「無」になった時・・・つまり、心が静まり、頭の中で一切の思考がない状態になった時、優れた知恵が出るのである。

上に述べたことは、一見、常識に反するが、改めて考えれば・・・いや、心を静めて「考えるな、感じろ」とでもいう状態になってみれば、ごく当たり前であることが分かるはずだ。
実際は「感じろ」も全く不要で、考えなければ、必要なら勝手に感じるのである。これもまた、一般的観念に反するかもしれないが、これが事実だ。

ソクラテスは、「私は人類の中で一番知恵がある」と言った。
これは傲慢では全くない。
この意味は、「私は、自分に知恵がないことを知っている唯一の人間だ。だから、私は誰よりも知恵がある」である。
特に成功者や人々から高い評価を受けている者は、自分の思考能力が優れているからそうなっていると思っている。
少なくとも、世間で認められている自分の実績は、自分の能力で成したと思っている。
だが、ソクラテスは、そうでないことを、なぜか知っていたのだ。
人間の優れた能力がどこから出て来るのかは、ソクラテスだって分からない。
しかし、それは自分が持っているような能力ではなく、いわば、神秘的としか言いようがない何かだ。
だから、ソクラテスは、一応、「内なる霊から出て来る」と言い、それは、現在では潜在意識のことを指すと考えて良いだろう。

矢追純一さんは賢い人だった。
彼は「僕は頭が悪いから考えることを諦めた」と言う。
それにより、難しい問題を解決し、テレビディレクターや作家として大成功した。
そして、実は彼も言っているが、人間は皆、頭が悪いのであり、そんなもの(自分の頭、思考能力)に頼っていては何にも大したことは出来ない。
自分は頭が悪いことを知っている者が本当に賢いのである。

成功したり、幸福になったり、重要な問題を解決したいと思うなら、我々のやるべきことは、思考を止めること、想念を消すこと、無になることである。
それには、薄々気付いている人もいる。
しかし、思考を消すことが難しい。
頭はいつも、無駄な独り言を言い、心の中のお喋りは止まらない。
しかし、それが消えた時、人間は天才になり、神のようなものになり、奇跡が起こり、超能力と思えるような力も発揮する。
その浅い方法は、アファーメーションや、あるいは、マントラ(真言)を唱えることで、頭に思考する暇を与えないことだ。
思考とは、脳の暇つぶしに過ぎない。
ただ、必死にアファーメーションを行うと、雑念が出易く、かえって、無駄なことを考えてしまう。
落ち着いて、淡々と、丁寧に、アファーメーションを行うと良い。
最初は焦って、力んでアファーメーションを行っていても、数多く繰り返すうち、落ち着いて、静かにアファーメーションを行うようになった時、思考が少なくなり、潜在意識が問題を引き受け、良い答が閃いたり、状況が変わったりするのである。
アファーメーションより優れた方法が、「今に集中する」ことだ。
今に集中すれば、過去も未来も消え、過去の後悔も未来への不安もなくなり、今この瞬間だけになり、思考が消え、無になる。
その時、人間に不可能はなくなり、全てが可能になる。








人間の中で最も知恵がある者

ソクラテス、プラトン、アリストテレスの関係が分かるだろうか?
昔、私は、ある社長さんに、「今の女子大生は、信長、秀吉、家康の順番を知らない」と言われ、「まさか!」と思い、立派な短大を出て入社してきた女の子に尋ねてみたら、本当に知らなくて絶句したことがある(笑)。
まして、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの順番も知るまいと思った。
プラトンはソクラテスの弟子で、アリストテレスはプラトンの弟子だ。
まあ、別に、知ってても偉くはないが・・・

で、ソクラテスである。
彼は、アテナイ(今のアテネ)の人達に、「最も知恵がある人間は自分だ」と言ったと言われていた。
本当だった(笑)。
それで、当然ながら、傲慢だと非難された。
もちろん、馬鹿がそう言っても、単に馬鹿にされるだけだが、ソクラテスほどの者がそう言うと、それなりに当たっているだけに非難されるのである。
ところが、ソクラテスは、「私には知恵はない」とも言っているのだ。

こういうことだった。
ある高貴な巫女がソクラテスに、「あなたは人間の中で最も知恵がある」と言った。
私なら、「おお!やはり!」と思うかもしれないが(笑)、ソクラテスは、「そんなはずはない」と困惑した。
当時の巫女の超能力は凄いものだったから、ソクラテスは「そんな馬鹿な」と驚いてしまったのだ。ソクラテスは、そのくらい謙虚だった。
だが、高貴な巫女の神託に逆らうことは出来ない時代だったので、ソクラテスは、とりあえず、自分より知恵のある人を1人でも見つけ、巫女に、その神託の真意を問おうとしたのだ。
そこで、誉れ高い知恵者達・・・詭弁家、作家、芸術家、技術者などを、片っ端から訪ねた。
すると、おかしなことになった。
自分より知恵のある人間が、どうしても見つからないのだ。
ソクラテスが、それらの人達に知恵があるかどうかを判定した方法は、彼らが、自分の能力をどう思っているかだった。
皆、その高い能力を、自分が身に付けた自分のものだと思っていた。
だが、ソクラテスには、そうではないことが分かっていた。
彼らの能力は、彼らの霊から来ている。今でいう潜在意識だ。
彼ら自体には、何の能力もなかった。
そして、ソクラテスは、自分についても、そのことを理解していた。
だが、ソクラテスのように理解している者は1人もいなかったのだ。
それを分かっているというだけで・・・つまり、自分には何の能力もないと分かっているだけで、ソクラテスは、自分は誰よりも知恵があると確信した。それだけのことだった。

確かに、世間で評判の知恵者達も、その能力が霊(潜在意識)から来ていることを自分では気付かなくても、確かに有能だった。
しかし、ソクラテスのように、2500年経っても崇拝されるほどではない。

ソクラテスの態度は、UFO研究家の矢追純一さんが、「僕は頭が悪いから考えることを諦めた」と言ったのと同じだと思う。
そうやって、潜在意識にまかせれば(矢追さんは「大きな流れに乗れば」と表現したが)、引き寄せがうまくいくのだと思う。
まあ、ソクラテスは、「貧乏だった」「悪妻に苦しんだ」と言われ、最後はご存じのように死刑になったのだが、働きもせずに元気で長命だったし、優秀な弟子達だけでなく、ファンは大勢いて、町を歩けば、ファンの行列が出来るほどだった。
ただ、彼は論争好きで余計な頭を使い、人を憎むこともあり、争いもしたなど、当時の時代の影響もあったのだろうが、引き寄せに必要な気楽さがなかったかもしれない。
自分に知恵がないことを知りつつ、論争を止められなかったのだ。
その点、師の欠点に学んだプラトンも、その弟子のアリストテレスも豊かだった。
それに、ソクラテス自体も、先程も述べたが、当時としては、悪い人生ではなかったはずである。
我々も、自分の頭が大したことはないことを悟り、潜在意識にまかせてしまうことで豊かで楽しい人生を送れるのであると思う。








無敵の考え方

世界中に多くの崇拝者がいるラマナ・マハルシ(1879~1950)は、「人間の唯一の目標は真我の実現」と言ったが、真我の実現とは、簡単に言えば「エゴを滅ぼし切った状態」であり、仏教で言う「悟り」である。
だが、マハルシは(釈迦も)言わなかったが、それは、「潜在意識の無限の力と一体化した状態」で、「不可能はない、神のような状態」と考えて良いと思う。
ただ、マハルシは、自身が現世利益に興味がなかったのか(これも確かだろう)、人々が欲望を持つことの弊害を考えてか、真我の実現がもたらす力の側面について語ったことは、ほぼないと思う。

マハルシの時代だって、人類は、差別や貧困といった多くの問題を抱えていて、それは、現代以上と思っている人も多いかもしれない。
だが、現代は、支配層以外の人間は奴隷か家畜のようなもので、それは悲惨な状態であり、全ての人類が、「真我実現、あるいは、潜在意識の無限の力との一体化」と遠く離れた状態である。
真我の実現(悟り)は、宗教的、あるいは、神秘主義的に語れば、非常に高度で、凡人には縁遠いもののように感じるが、それはとんでもない話で、それこそが、人間の当たり前の状態なのである。
だから、今すぐ、我々は真我を実現し、潜在意識の無限の力と一体化し、自由にならないといけない。

マハルシは、真我の実現には、2通りの道があり、向いている方でやれば良いと言った。
1つは「私は誰か?」と問い続ける方法であり、もう1つが、「神に人生全てを明け渡す」というものだが、これらのことを、やたら宗教的、神秘的に言う者が多いので、複雑怪奇になってしまっている。
「私は誰か?」と問えというのは、単に、心の中で絶えず「私は誰か?」と問えということであり、それ以外の何でもない。
ただ、この方法は、なかなか続かない。
ラマナ・マハルシと同時代の聖者であるニサルガダッタ・マハラジの弟子だったラメッシ・バルセカールも、このやり方は難しいと言い、もう一方のやり方を勧めている。
もう一方は、上で述べた通り「神に人生を明け渡す」であるが、これは、何とも難しいというか、曖昧な表現だ。
もう少し分かり易い賢者の表現では、荘子の「無為」、つまり、「全てをあるがままにまかせ、一切の作為をしない」と同じだ。
それは、最も単純に言えば、「何も考えず、何もしない」ということで、実際的には、「想念を消す」ということだ。
ここで、よくある間違いが、「何も考えないこと、何もしないこと」を一生懸命やろうとすることだ。
そもそも、人間の頭は、「自動的」に、1分間に300もの言葉を発し、1日に数万回考えることが科学的に分かっているらしく、その影響か、眠っている時ですら、脳は思考的にも過大に活動しているらしい。現代人が眠っている時に見る夢が安らかなものではない原因も、そこにあるのかもしれない。

人間の思考というものは、自動的に起こるものであるが、人間は、それを「自分が考えている」と錯覚しているだけなのだ。
これを認めるかどうかが運命の分かれ目であるが、ほとんどの人が認めないし、認めたがらない。
また、この真理を訴えても、変な人扱いされるだけだ。
しかし、UFO研究などで有名な矢追純一さんが、真我実現につながる、実に上手い方法を提示しているのを見た。
それは、「自分は頭が悪いから、考えることを放棄した」である。
結果として、これは、「神に人生を明け渡す」を実現する。
実際、矢追さんは真我を実現したような人間だと思う。
それなら、最後の障害は、「自分は頭が良い」と思っている・・・それ以上に、思いたい人が多いことだ。
誰もが、自分の頭脳が優秀なことを願い、自分の頭が良いと他者に認められたいので、あらゆる方法でそれを主張するのだ。
それが、哀れなほど頭が悪いことであることに気付かない。
昔、東大生に「頭の良い人間を5人上げよ」というアンケートをしたら、大半の東大生が、アインシュタインなどの歴史上の天才と並べ、自分を上げたという。
人間とは、これほど愚かなものなのである。
ソクラテスが、「私は、自分には知恵がないことを知っている唯一の人間なので、他の誰よりも知恵がある」と言ったのが真実である。
しかし、それを誰も認めず、彼は死刑になった。
矢追さんが「人間はパソコンみたいなものだが、大した性能のパソコンじゃない」と言ったのが、実に素晴らしい表現だ。
だが、大した性能じゃないパソコンである我々は、自分の性能は大したものだと思っている、あるいは、思いたい。

「私は頭が悪いから考えるのをやめる」
これを「素で思う」つまり、「当たり前に思う」ことが出来れば無敵であるのだ。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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