ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

スポールディング

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人間の自然な姿

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、作家、詩人として成功してからは、ずっと旅をしていた。
それは、日本でいえば、江戸幕府の11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)や、12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)あたりの時代で、日本では考えられない、一般庶民の鉄道や客船での旅で、そして、これはもう日本では夢にも考えられない他の国への旅だった。
しかし、いかに物質文明では日本とは比較にならないほどだったとはいえ、当時のことだ。列車や船、あるいは、ホテルの予約などはできず(ホテルも少なかったろう)、自分が行ったところ、居るところでの、出たところ勝負で、全く予測も見当もつかないことであっても、自分で何事にも対処していかねばならなかった。
アンデルセンは、作家としての成功により、国家から生涯に渡る年金を与えられていて、働く必要はなかったが、大した額の年金ではなく、また、その他の収入はほぼなかったと思われる。作品は書き続けたが、印税があった訳ではなく、作品での収入は、出版社に作品を渡した時に得られる、これも大したことのない原稿料だけだったはずだ。
また、作家としてそれなりに名が売れていたとはいえ、顔など全く知られておらず、名声が旅の便宜をもたらしたということはなかっただろう。
旅には、今では想像もできないような、見込み違い、トラブル、場合によっては盗難、窃盗の被害もあったかもしれず、それなりの年齢だったアンデルセンは、体調の悪い日もあったに違いない。

ところが、アンデルセンの自伝を読むと、旅をするようになってからのあたりを見ても、そんな旅の苦労は全く書かれておらず、旅の途中で見た風景の美しさ、イタリアの神殿で出会った盲目の貧しい少女の女神のような美しさといったことを夢のように語り、また、特筆すべきこと、例えば、グリム兄弟に会い、最初は、「君の名前は知らない」と言われ、相手にされなかったが、後に歓談できたこと等が書かれている。つまり、読者にとってどうでもいい、個人のすったもんだには触れず、有意義なこと、明るいことばかりが綴られているのだ。
アンデルセンは神の加護を信じていたはずだ。
14歳のか弱い、世間知らずの少年の時、単身、オーデンセの田舎から、大都市コペンハーゲンに出てきて、右も左も分からない中、苦難もあったが、なんとかやってこれたのは、間違いなく、神のおかげと思っていたようである。
そして、文学者として認められるようになった、円熟してきた頃には、アンデルセンの、あらゆることに対する受容性は、とても高くなっていたのだろう。

アンデルセンの自伝を読んでいると、人間というものは親切さを持っているのだと信じられる。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者ベアード.T.スポールディングは、アメリカ中を講演旅行をしていた時、どの町のどの家でもずけずけ入っていき、腰を降ろせば、そこで食事ができなかった家は一軒もなかったという。
『レ・ミゼラブル』で、ジャンバルジャンは刑務所を出たが、どこでも野良犬のように扱われ、1日中歩き続けて、寒さと空腹に疲れ、たまたまたどり着いたミリエル司教の家で、自暴自棄になって、自分が刑務所を出てきたばかりであることや、世間への恨みつらみを吐き出したが、ミリエルは平然として、召使いに、ただ、食事を1人分追加し、客人用の寝室の用意をするよう命じ、召使いも、何事もないように指示に従った。

太古の、人間にまだ徳が満ち、知恵があった時代は、ミリエルがしたようなことがごく自然なことだったに違いないと私は思う。
鍵なんてものは存在せず、家の戸口はいつも開かれ、誰でも、どの家でも自由に入れ、やって来る者は誰でも、いつでも、間違いなく歓迎された。
本当は、内に神が住み、あるいは、仏といつも一緒である人間が、本当は、そうでないはずがない。
もし、アダムスキーの宇宙人の話が本当であれば、進歩した他の惑星ではそうなっているのである。あの話がアダムスキーの想像であったとしても、それは、神がアダムスキーに与えたインスピレーションによるものなのだろう。
私もまた、ミリエルのようにあることが絶対に不可能だとは限らない。
つまり、一切の憎しみや嫌悪を捨て、何も心配や不安を持たないことが、必ずしも不可能とは言えないのである。









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歴史に名高い仙人は、永遠に若くいることは簡単だと述べた

伝承やお伽噺で聞く仙人のような摩訶不思議な力を得るための難しい修練方法を説く人もいる。まあ、それらも、確かに素晴らしいものなのかもしれない。
だが、『荘子』にもよく登場する彭租(ほうそ)という名の仙人の教えは簡単であったが、私は、この彭租の教えにこそ、生き生きとしたリアリティを感じるのだ。
彭租は、八百歳まで生きたと言われるが、実際はそれどころではなく、おそらく不死である。
特に人目を引くような不思議を起こす訳ではなかったが、ただ生命を大切にし、永遠に若々しい姿を保ち、また、彼の教えをいくらか受けたものは、不死とは言わないまでも、おそらく二百歳くらいまでは若者の姿でいられ、三百歳までは生きられた。
アメリカの科学技術者で探検家であったベアード.T.スポールディングの著した『ヒマラヤ聖者の生活探求』には、やはり百歳をはるかに超えても若い姿(20歳くらいから50歳程度くらいまでの外見など様々であるが)を保ち、普通の人間から見れば超人としか言いようのない力を持つ大師達が登場するが、大師達は、自分達の能力は、人間として当たり前のものであり、特別な修行などは必要としないと言った。
それと同様、中国の仙人のごとき力もまた、どんな人間の内にも秘められた力であると言ってよいかと思う。
彭租は、やはり、道術(仙人の術)を収めるのに、特別なことは必要とせず、ただ、「禁欲して性エネルギーを保存すること」、「心を静かに保つこと」、「適切な食事をすること」の3つを実践すれば良いと述べている。
確かに、現代は、性欲を煽って儲けようとする輩や、過ぎた美味な料理を過剰に食べさせて儲けようとする者がどこにでもいるし、物質主義の世の中では、人々はストレスを溜め込み、心を安らがせることができない。
そのような世俗に生きていれば、いかに長寿国といったところで、たかだか70歳や80歳で老人となり、「近い将来、若者4人で65歳以上の高齢者1人を抱えなければならない」などと平気で言う。なんで「抱えられない」といけないのか?
人間は、70歳くらいから、ようやく円熟し、本当の力を発揮できるようになるのであるが、誤った固定観念のせいで、自分が信じる通りに老化するだけである。
そのような誤った迷妄を打ち壊し、世間の教義や信念にひれ伏すことをやめれば、人間本来の力に目覚めるはずである。
ところで、性的禁欲や食の慎みは、まだ易しいのであるが、難しいのは心を静かにすることである。
だが、それも、誰もができるようになっている。
私は、この数ヶ月、乾癬という皮膚病を煩い、酷い痒みに苦しめられているが、黙って耐えることで精神が鍛えられ、心を静かにする力が格段に向上した。最近、その効果に自分で驚いている。怒ったり、妬んだりということが、全くないとは言わないが、自分で不思議になるほど起こらない・・・また、起こったとしても、簡単に消すことができるのである。
私のような皮膚病はないとしても、あなたにも、必ずや、何かの苦しいことがあるはずである。未熟な人間に、神様がそのような配慮をされないはずがない。
借金に苦しんだり、自分の面子を失うのも辛いのだが、敬愛する人の面子を潰して、もっと深い苦しみを味わっている人もいると思う。
そんな苦しみに、黙って耐えるのだ。そうすれば、心を静かにする大きな力が与えられるのである。
また、自我の性質である、放埓(勝手気まま)に振舞いたいという心を抑え、自己に制約(制限)を課せば、これも、心を支配する力を得るに十分であり、人間本来が持つ、イエスのごとき力、仙人のごとき力は得られるに違いない。
イエスは、自分と同じように、自在に水の上を歩行できなかったペテロを叱り、食べ物を得ることを心配した弟子達を嘆いたのだ(イエスは数個のパンと数匹の魚を増やし、5千人に食べさせて満腹させた)。
彼らは、心の支配力が足りなかった。
しかし、彭租の簡単な教えを熱心に実践すれば、それはさして難しいことではないと思われるのである。









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真の好奇心とは

世間では、好奇心というものについて、まるで、牛や馬のように無知な子供が知識を求めることだと言うのである。
それで、我々もまた、知識を、単に面白いものや、利益をもたらす軽い「モノ」としてのみ捉え、挙句、より刺激的で面白いことや、儲かるような世間知にばかり関心を向けているうちに、実に、牛や馬よりも愚かになるのである。動物は、言葉としての知識は持たないが、本能においては立派に生きているのであるが、人間は、余計な知識のせいで本能を暴走させていることがよくある。それならば、ムイシュキン公爵(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)がそうであったように、無知だが純粋な人間の方が、世俗的な知識で穢れた者よりはるかに高貴で偉大なのである。
好奇心とは、自分の内にある神性を思い出し、魂の故郷に帰ろうとする衝動、内なる神の誘いである。
世俗的には何の役にも立たない、あるいは、むしろ、世間的な利益や欲望に反するような知識や道理であっても、それに強く惹かれる時に、それを感じるはずである。
しかし、世間では、そんな貴いものをものを求めるべき子供に、くだらないガラクタを押し付け、自分が神性の存在であることを忘れさせ、犬や猫に劣るものであると思わせてしまうのである。そして、食欲と性欲(とそれらをもたらす金と名誉)を過大に重視する卑しい物質主義者になってしまうのである。
無論、世間的で物質的な知識も、ある程度は必要であるが、そこにすら、その裏に隠された神性な輝きを感じなければ、その知識は空虚で危ういものとなる。つまり、よく言われるように、火は、正しく使えば温かさや美味しい料理のために役立つが、誤って使えば、災禍をもたらすものにもなるのである。

我々の内には、元々、全てを知る何かがある。それは言葉で表現のしようのないものであり、老子は、それは本当は、名付ければ「それ」でなくなってしまうが、一応は「妙」とか「玄」とか言うのだと述べた。ある者は、神秘と言い、また、「それ」という言い方で示す者もいる。発明家で賢者であった中山正和さんは、「いのち」とか「宇宙生命」と言ったが、ある時期から、「X」と呼んでいたと思うが、この言い方に倣う者もよくいたと思う。
それを神と言っても差し支えないし、神の英知と言ってもよいだろう。
とにかく、それは誰の内にもあり、我々はそれを大切にし、愛し、掘り起こさねばならない。
イエスが、「求めよ、そうすれば与えられる」と言ったのは、これのことであり、それは聖霊であると言ってよいだろう。

それは英知なのであるから、実際は物質的なことについても知らないことはない。
だから、私などは、コンピューターシステムの開発で、頭では分からなくて行き詰っている時に、ふとそれがアイディアを与えてくれて問題が解決することはよくあると思う。
それどころか、偉大な科学の原理は、全てそれがもたらしたのだ。それを別の人間が悪用したこともあるのだけれど、その偉大な知識自体は、例外なく内なる英知がもたらしたものだ。
ソクラテスは、内なる英知がもたらす閃きをダイモニア(ダイモーン)と言い、科学者、芸術家、医者、技術者など、いかなる職業であろうが、彼らの偉大な仕事が、それによらないものはないと言った。まさにその通りで、彼の助言があればこそ、我々は楽に正しい道を進めるのだ。
アメリカの科学技術者、探検家、講演家で、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングは、4歳の時に大学の準備校に連れていかた。そこで、教師に示されたものを「分からない」と言うと、教師は、「そんな態度は捨てなさい。君はちゃんと分かっているのだ」と教えた(第5巻に記載。この5巻は単独で読んでも良い)。それで、スポールディングは14歳で名門大学を卒業し、真知と冒険の生涯の準備をすることが出来たのだ。
我々も、本日ただいまより、世間の迷妄に満ちた普通の人の態度を捨て、内に英知を秘めた存在のごとく振舞わねばならない。態度は状況より重要であり、真実を言えば、態度が現実である。このことをゆめゆめ忘れてはならない。









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1つに溶け合う不思議

素晴らしい演奏会で、演奏者と観衆が一体化する等と言うが、それは喩えではなく、実際のことを表している。
観客が演奏者であり、ヴァイオリン奏者がフルート奏者であり、指揮者がピアニストになってしまう。
個人としての自分が消え、自己と他人の区別がなくなるのだ。優れた音楽は、心と心を埋めてしまうからだ。
また、本当に愛する人と一緒にいれば、2人で1人の人間になってしまう。本物の霊覚者が見れば、2人の魂が融合して一体化しているのが分かるに違いない。愛とは溶け合うものだからだ。

今朝も書いたが、意識と無意識に境界がある訳ではなく、人と天にも本質的な区別はない。
そして、人と神も本当は1つのものなのである。
だが、個人的な欲望のために、人が神から離れているに過ぎない。
人が幸福になるには、神の魂と再び溶け合えば良い。
そのためにはどうすれば良いのだろう?
仲の良い飼い主とペットは似て来るというが、その通りだ。それは、必ずしも外見的な意味ではなく、雰囲気として感じられるもので、両者が発する波動の周波数が似て来るのである。それすれば、ペットは、主人が帰宅の途上にある時、まだ、その感覚器官に感じられるはずもない遠くの場所にいるに関わらず、玄関に出てきてじっと待つようにもなる(帰宅の時間が変わってもそうであるらしい)。ラジオが放送局が流す電波と同じ周波数の弱い電波を出して同調する仕組みであるように、飼い主とペットが同調しているのだ。
ここに、神と同調し、一体化するヒントがある。
飼い主とペットは、お互いが好きだから同調したのだ。
人間の男女では、本当に愛し合っていれば精密に同調するので、ほとんど1人の人間と言って良いくらい融合するのである。
福音書に書かれているが、誰かがイエスに、「最大の律法は?」と尋ねると、イエスが「神を愛すること」と答えた。
神はもとより、我々を愛している。ならば、我々が神を愛すれば、やはり1つになるのである。

では、どうすれば神を愛することができるのだろう?
荘子は、神とは言わず天と言ったが、運命は天の定めたものであるから、いかなる運命も無心に受け入れれば、天と一体化すると述べた。
どんな出来事も、起こるがままに任せて受容し、それを楽しめば、本来は自分と区別のない天と1つになるのである。
それが難しいなら、次のようなものはどうだろう?
法然は、1日6万回、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えたという。どんな時も、会話をしている時ですら、小さな声で念仏を唱えていたらしい。これもまた、仏を愛することであり、法然はまさに仏(阿弥陀如来)と一体化していた。法然は、苦難もあったが、危機的な状況ではいつも不思議なことが起こり、案外に豊かで、当時としては異例の78歳まで健康で恵まれた生涯を送った。弟子の親鸞にいたっては89歳まで生きている。
法然は、「念仏の行者は必ず仏が守る。阿弥陀如来は、多数の仏を派遣し、念仏の行者の周りを何重にも囲んで保護する。弥勒菩薩や文殊菩薩もやってきて親しい友となってくれる」と述べているが、彼は、それが嘘でないことを証したのだろう。
ラマナ・マハルシの弟子であったプンジャジは、1日4万回、クリシュナ(ヒンズー教の神)の名を唱えた。彼は熱烈にクリシュナを愛していたので、やはり、彼自身がクリシュナになったのだ。

アメリカの科学者で講演家、著作家であった、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者ベアード.T.スポールディングは、生身のイエスに会い、直接聞いた、イエスが「他は忘れて良い」とまで言った秘法を、自分も講演などで教えていた。
それは、法然の阿弥陀仏や、プンジャジのクリシュナ神への愛も、究極では同じなのだろうが、「神」という言葉自体を頻繁に使うことだ。
20世紀前半のことではあるが、現代の科学をも上回る装置で、その効果を科学的に検証したことも明かしてる。
無論、信じるか信じないかはそれぞれの自由であるのだが、やはり、一般の科学では認められることはないであろう、我が国の天才的な科学技術者であった楢崎皐月(ならさきさつき)の相似象学などを見ると、そのようなものがあっても不思議ではないと思うのである。
また、簡単な心理学から言ってさえ、スポールディングやプンジャジの方法は道理に適うように思う。
身体の痛いところや病気から意識を離せば治ってしまうことがよくあるし、経済的な困難や仕事のトラブル、人間関係の問題も、それを否定的に考えることをやめれば、時によっては魔法のように解決することもあると思う。
私などは、確かに大きな問題を抱えていたはずなのだが、それが何だったか分からないということすらよくあった。それほど、問題そのものがきれいさっぱり消えてしまっているのだ。しかし、誰だって、忘れているだけで、そんなことは、特に子供の頃はよく起こっているものなのである。
あなたも、特に好きな神や仏があるなら、その名を常に呼び、心が余計なことを考えるのをやめさせることだ。人間は、自由に考える時間が多いと、ろくなことは考えず、事態はますます悪くなるのだ。
問題から逃げるという意味ではない。問題は、実際はさほど大きなものではないことを知るのだ。なぜなら、神に難しいことは何もないのだからだ。
上に述べたイエスの秘法に関しては、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第3巻でイエス自身が話している様子が詳しく書かれているが、スポールディングの易しい説明が第5巻にある。この第5巻は、単独で読んでもよく、秘法の書として、あなたの良き友となるだろう。
相似象学に関しては、下にご紹介した、楢崎皐月自身の著書である『静電三法』があり、必要な電気理論に関しても、一般向けに初歩から説明している。
また、『選択本願念仏集』は、法然の代表作であり、私も愛読している。









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共に平和に暮らすために

東北大震災があった2011年の夏、私は被災地の人達に悪いと思って、家では夏中、冷房を使わなかったが、それが別に、被災地の人達のために、何の役に立った訳でもない。
新渡戸稲造の『武士道』によれば、戦も無くなった平和な時代の武士達は、働かなくても食べていられる特権階級に自分がいる後ろめたさを解消するため、せめて立派な人間になろうと精進したのが武士道であるらしいが、それなら、武士とは実に下らないものだ。
働かなくても良い生活が出来ることに良心が咎めるのは自然な感覚だ。しかし、その特権を捨てなかったのなら、良心を捨てたということだ。
良心とは、道徳やしきたりではなく、神の声だと言われる。
武士は、自分の安楽さや気分良さのためなら、良心を捨てる、低レベルな人間達である。
仏教学者のひろさちやさんが、「武士ってのは、命じられれば人も殺すテロリストに過ぎないのですよ」と著書に書かれていたが、その通りかもしれない。すると、スポーツの世界で「サムライ・ジャパン」だの、「サムライ・ブルー」だのと言っているのは、日本の恥を世界に晒しているのだろう。

私は先月末あたりから、ひどい皮膚病(乾癬)になったのだが、それは、汚染された東北の地の叫びが、この身に現れたかのようだ。
私は、東北を日高見の地と考えている。つまり、太古の昔に、ここに神が降り、天上の高天原(タカアマハラ)を、その地に移したのであると思っている。だから、私にこのようなことが起こるのは不思議なことではない。
だから私は、今月に入ってから食事をせずに過ごしていたが、やはり何の役にも立っていないのであり、所詮、武士のようなものである。
ただ、昔の武士だって、新渡戸が言うように立派な人間になろうとし、多少の精進はしても、「所詮、自己満足。私は身勝手で愚かである」と悟り、自己否定した者もいたのだと思う。
そして、私や、全ての人が自己否定をすれば、役に立つ行いが出来るようになる。
自己否定できれば、住居の半分を差し出すことは何でもないし、アインシュタインのように、収入の大半を誰とでも大らかに分かち合うことも出来るだろう。アインシュタインですら、自分を少しも重要人物と考えていなかったのである。それならば、我々も、自分を何の値打ちもない者だという事実を認めることもできるはずである。そうなれば、被災地の人達は、全国のどの家にもずけずけ入っていき、そこに座るだけで快適に食事が出来るという、当たり前の社会になるだろう。それが、宮沢賢治の言うイーハトーヴなのではないかと私は思う。
アメリカの、ベアード.T.スポールディングという人は、半世紀以上も前に、そんなことがいつもできたと、彼の友人達が証言している。広いアメリカで、彼が勝手に入ってい行って腰を降ろし、食事の出来ない家は一件もなかったという。
ならば、我々と共に、被災地の方々も自己否定に励み、お互いにそのようでありたいと思う。
経済も大切かもしれないが、もっと大切なことは自己否定で、それが良い社会を創るだろう。
たとえニートだって、「私はニートだ。だから何の価値もないし、何の権利も求めない」と本当に認めれば、不可能なことはなくなるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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