個性的であれと言われたら、大抵の人は困惑するのではないかと思う。
なぜなら、皆、自分が個性的だと思っているからだ。
口では、「私は平凡な人間だ」と言っても、内心では、「俺だって、そこらにはいない特別な人間だ」と思っている。
また、昔のヒット曲の影響ではないと思うが、「自分は元々特別なオンリーワン」だと思っていることも意外と多い。
一番困るのが、「私は特別だ」という「御印」みたいなものを持っている場合だ。
たとえば、一流大学・大学院卒とか、博士号を持っているとか、プログラミングが出来るとか、柔道三段とか。
しかし、そんな人間、世の中にゴマンと居る。少しも特別ではない。
つまり、学校やテレビに洗脳された一般人というのは、個性的であるとはどういうことか知らないのである。
ところで、面白い話がある。
世界的ミュージシャンのジョージ・マイケルは「スーパースターは何か特別なものを持っているのではなく、何かが欠けている者だ」みたいなことを言っていた。
この言葉を引用した宗教人類学者の植島啓司氏は、初音ミクも同じ・・・つまり、初音ミクには何かが欠けているからスーパースターなんだと述べていた(週刊文春2012年3月22日号)。
そして、初音ミクに欠けているものは「成熟」だと言う。
それだと、単なるロリキャラということだが、少女として理想的な容姿(特にプロポーションと思う)を持ち、音程を外さずに完璧に歌い、ダンスは抜群でありながら成熟に欠けているから良いのである。
つまり、個性とは、何かを持っているというよりは、何かが欠けていることが、まず重要だ。
これは大発見だ。
だが、それだけでは駄目だ。
有名な童話作家のアンデルセンは、とても個性的な人間だったが、どこが個性的だったか?
彼も、何かが欠けていたのだ。
彼は、幼い頃から、神話やおとぎ話が大好きだった。
しかし、そんな人は、当時でも沢山いただろう。
だが、彼は何かが欠けていたのだ。
彼に欠けていたのは「男っぽさ」である。
彼は、子供の時から、ある程度の野蛮さや強引さといった、他の男の子達が持っている男っぽさに圧倒的に欠けていた。
だから、普通の男の子は、10歳にもなれば工場で働くが、アンデルセンは、野蛮な男の子達に馴染めず、一緒に工場で働けなかったし、当時は、どこかの親方に弟子入りして職人になるしか庶民が生きる道がなかったが、それにはやっぱり、男っぽさがないと駄目で、アンデルセンは、自分がそれをやることを考えると、心底ぞっとした。
アンデルセンは、17歳くらいになっても、趣味は人形の洋服を縫うことであった・・・と言えば、彼が男っぽさに欠けていることを納得いただけると思う。
ただし、彼が、その欠けているものを個性にするには、知識を得、表現力を磨くことが必要であり、そのために大変な苦労をした。
彼の学生生活は苦痛なことだらけだった。
だが、彼は、ラテン語学校や大学をやめることはなく、また、不思議な援助でそれを続けることが出来た。
個性を磨くことをしたから幸運にも恵まれたのだ。
そして、報われた。
彼は、すぐにヨーロッパ中でヒットした作品から富を得ることはなかったが(当時は著作権法などなかった)、実績に対し、国王から年金が支給され(大した額ではなかったが)、一生働く必要がなく、作品から収入は得られなくても、知名度があったことで、優れた人物達との交流が出来た。
ジョージ・マイケルは「スーパースターは特別な何かを持っているのではなく、むしろ、何かが欠けている」と言ったが、欠けているだけでは駄目で、欠けているものを補う何かを磨き、そこを美点に変えないといけないのだ。
彼は、そこまで言ってくれなかったし、植島啓司氏も、気付かなかったのか、書いていなかった。
言うまでもなく、ジョージ・マイケルは音楽の実力を磨いたし、初音ミクは美点だらけだ。
個性が欲しかったら(ないと引き寄せは出来ない)、自分に欠けているものに気付くことだ。
ジョージ・マイケルのようなスーパースターでなくても、誰にでも欠けているものはある。
そして、それを補う何かを磨くのである。
例えば、どうしても仕事が続かないとしたら、それは大いに欠けていることであるから喜んで良い。
しかし、その欠点を生かすために、何かをしなくてはならない。そうすれば、天も味方してくれるだろう。
岡本太郎も、三島由紀夫も、おそろしく欠けていたはずだ。
彼らが、それを補うために何かをしたことは確実である。でなければ、ただの変人で終わっていた。
なぜなら、皆、自分が個性的だと思っているからだ。
口では、「私は平凡な人間だ」と言っても、内心では、「俺だって、そこらにはいない特別な人間だ」と思っている。
また、昔のヒット曲の影響ではないと思うが、「自分は元々特別なオンリーワン」だと思っていることも意外と多い。
一番困るのが、「私は特別だ」という「御印」みたいなものを持っている場合だ。
たとえば、一流大学・大学院卒とか、博士号を持っているとか、プログラミングが出来るとか、柔道三段とか。
しかし、そんな人間、世の中にゴマンと居る。少しも特別ではない。
つまり、学校やテレビに洗脳された一般人というのは、個性的であるとはどういうことか知らないのである。
ところで、面白い話がある。
世界的ミュージシャンのジョージ・マイケルは「スーパースターは何か特別なものを持っているのではなく、何かが欠けている者だ」みたいなことを言っていた。
この言葉を引用した宗教人類学者の植島啓司氏は、初音ミクも同じ・・・つまり、初音ミクには何かが欠けているからスーパースターなんだと述べていた(週刊文春2012年3月22日号)。
そして、初音ミクに欠けているものは「成熟」だと言う。
それだと、単なるロリキャラということだが、少女として理想的な容姿(特にプロポーションと思う)を持ち、音程を外さずに完璧に歌い、ダンスは抜群でありながら成熟に欠けているから良いのである。
つまり、個性とは、何かを持っているというよりは、何かが欠けていることが、まず重要だ。
これは大発見だ。
だが、それだけでは駄目だ。
有名な童話作家のアンデルセンは、とても個性的な人間だったが、どこが個性的だったか?
彼も、何かが欠けていたのだ。
彼は、幼い頃から、神話やおとぎ話が大好きだった。
しかし、そんな人は、当時でも沢山いただろう。
だが、彼は何かが欠けていたのだ。
彼に欠けていたのは「男っぽさ」である。
彼は、子供の時から、ある程度の野蛮さや強引さといった、他の男の子達が持っている男っぽさに圧倒的に欠けていた。
だから、普通の男の子は、10歳にもなれば工場で働くが、アンデルセンは、野蛮な男の子達に馴染めず、一緒に工場で働けなかったし、当時は、どこかの親方に弟子入りして職人になるしか庶民が生きる道がなかったが、それにはやっぱり、男っぽさがないと駄目で、アンデルセンは、自分がそれをやることを考えると、心底ぞっとした。
アンデルセンは、17歳くらいになっても、趣味は人形の洋服を縫うことであった・・・と言えば、彼が男っぽさに欠けていることを納得いただけると思う。
ただし、彼が、その欠けているものを個性にするには、知識を得、表現力を磨くことが必要であり、そのために大変な苦労をした。
彼の学生生活は苦痛なことだらけだった。
だが、彼は、ラテン語学校や大学をやめることはなく、また、不思議な援助でそれを続けることが出来た。
個性を磨くことをしたから幸運にも恵まれたのだ。
そして、報われた。
彼は、すぐにヨーロッパ中でヒットした作品から富を得ることはなかったが(当時は著作権法などなかった)、実績に対し、国王から年金が支給され(大した額ではなかったが)、一生働く必要がなく、作品から収入は得られなくても、知名度があったことで、優れた人物達との交流が出来た。
ジョージ・マイケルは「スーパースターは特別な何かを持っているのではなく、むしろ、何かが欠けている」と言ったが、欠けているだけでは駄目で、欠けているものを補う何かを磨き、そこを美点に変えないといけないのだ。
彼は、そこまで言ってくれなかったし、植島啓司氏も、気付かなかったのか、書いていなかった。
言うまでもなく、ジョージ・マイケルは音楽の実力を磨いたし、初音ミクは美点だらけだ。
個性が欲しかったら(ないと引き寄せは出来ない)、自分に欠けているものに気付くことだ。
ジョージ・マイケルのようなスーパースターでなくても、誰にでも欠けているものはある。
そして、それを補う何かを磨くのである。
例えば、どうしても仕事が続かないとしたら、それは大いに欠けていることであるから喜んで良い。
しかし、その欠点を生かすために、何かをしなくてはならない。そうすれば、天も味方してくれるだろう。
岡本太郎も、三島由紀夫も、おそろしく欠けていたはずだ。
彼らが、それを補うために何かをしたことは確実である。でなければ、ただの変人で終わっていた。