ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ジョディ・フォスター

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

最後までふてぶてしく

良い本を沢山読んでいるのに駄目なやつっていうのは多い。
どういうやつかというと、すぐに不安になるやつだ。
言い換えれば、後ろ向きなやつ、マイナス思考のやつだ。
そういうのを一言でまとめると「心が弱い」になると思う。
そんなやつは、ちょっとうまくいかないと、あるいは、ちょっと悪い状況になると、たちまち不安になり、攻撃的になったり、周囲に親切そうな人がいると哀れっぽく頼ろうとする。
最近まで日本では、そんな状況には滅多なことではならなかったが、数ヵ月、お金が入ってこず、3日も食べられない状態になると、もうすっかりうろたえてしまう者が多い。
そして、今後は、日本でも、そんな者が多くなるかもしれない。
実際、今は、日本でも餓死する人が、年間で数百人もいるらしい。
だが、特殊な場合は別として、そんな人達は、餓死するより先に、不安に殺されているのだ。

イエスは、「鳥は働かないが、神はこれを養う。まして、お前たちは鳥よりもずっと値打ちがあるのだから、神が面倒を見てくれないはずがない」と言った。
私は餓死しかけたことはないが、どうにも困った状況になっても、いつも不思議に何とかなり、イエスの言うことは本当だなあと思ったが、当然、誰でも同じと思う。

楽天家を装ったり、引き寄せの法則を肯定しているようでいても、苦しくなると、すぐに挫けてしまうようであってはならない。
何とかなるのだ。

名女優のジョディ・フォスターが13歳の時に主演した『白い家の少女』という映画がある。
この映画のラストでは、ジョディが演じるリンという名の少女の美しい顔がずっと映される。
この若さで、表情だけで演技するジョディを見て、私は、つくづく、彼女は天才だなあと思ったものだ。
ちょっと、この映画のその状況を説明する。
リンという名の美少女は、ロリコンの変態のオッサンに、決定的な弱みを握られる。
それで、リンは、これまでは、そのオッサンを徹底的に避け、はっきりと強い敵意も見せていたが、逆らうことも、無礼な態度を取ることも、警察に頼ることすら出来なくなった。
ロリコンのオッサンにすれば、まさに、天国という状況だった。
オッサンは、ここまでくれば焦ることはないので、少女が一人っきりの家で、どっかりとソファーに座り、ご主人様気取りで、リンにお茶を入れさせる。
すると、ロリコンとはいえ、頭が良いオッサンは、リンが持って来た2つのお茶(紅茶)を、リンの前で入れ替える。毒が入っているかもしれないが、所詮、子供だ。
悠然とお茶を飲むオッサン。お茶を飲み終わったら、あんなことやあんなことを・・・と考えているのだろう。
その時のリンの顔が、ずっと映されるのだ。
リンの顔はさぞや怯えているかというと、リンの顔には何の不安もなく、微笑んですらいる。
まるで、今のトランプ大統領のふてぶてしさ、心の強さだ。
リンは、最初から微笑みを持っていたのだ。
『マスターの教え』で、マスターが言ったように、「正しい態度でいれば状況を支配出来る」のである。
私は、このリンの素晴らしい微笑みを忘れないようにしている。








やって良いことと悪いことの区別がついていない私達

今日、10月31日は、ケルト民族の大晦日であるらしく、明日がケルト民族の新年ということと思う(よく知らないが)。
レアード・コーニクの小説で、13歳の時のジョディ・フォスターの主演で映画にもなった『白い家の少女』は、主人公の少女リンの14歳の誕生日である10月31日から物語が始まる。
イギリスから越してきたリンはハロウィンのことを知らなかったが、それは、イギリス人だから知らないのではなく、リンが知らなかっただけだろう。
リンは、自分の誕生日を自分1人で祝うためにケーキを作ったのだが、子供の代わりにお菓子を取りに来た中年の男にケーキを分けてやることになってしまう。早くその男を帰らせたかったからだ。
(その男は変質者で、その時から最後までリンを苦しめる)

日本でも、ハロウィンパーティーが盛んになっているらしく、今夜は渋谷あたりが混雑し、マナーを知らない者達が迷惑をかけるらしい。
ハロウィンパーティーでは、お化けの仮装をするのが本筋と思うが、多少、魔的なものが入っていれば何でも良い雰囲気になっているかもしれない。
日本のハロウィンは、誰かが儲けるために利用した薄っぺらいものではないかと思う。私は全く興味がない。

ところで、ケント・ギルバートという、日本語が上手いアメリカ人の弁護士がいて、若い頃はハンサムだったこともあり、お茶の間でも非常に人気があったし、今も日本で活躍している。
そのケントが昔、テレビで、次のように言っていたことをよく覚えている。
「日本では、子供は天使だという考え方だと思うが、アメリカでは子供は悪魔で、悪魔でなくなるように躾なければならないという考え方です」
私は、「子供は天使」主義者だったから、反発を感じたが、ケントの言葉を印象的に感じたので、よく覚えていたのだ。
今は、ケントの意見に全く賛成だ。
私は、人生でかなり苦労したが、その理由が、私が、日本で言うところの天使で、つまり、躾けられなかった悪魔だったからだと分かるのである。
これは、一般には「常識がない」と言うが、「常識」の意味合いは複雑で、私は「悪い常識は必死で捨てる」ことに情熱を燃やした。
しかし、私は「良い常識」を持っていないので、いろいろ痛い目に遭った訳だ(笑)。
「良い常識」とは、「やって良いことと悪いことの区別がつく」ことであり、私は、この区別が付かなったし、今も、かなり怪しいのだろうと思う。
そして、世の中には、子供から大人まで、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」者が非常に多いのだろう。

「ハロウィンパーティーで賑わう」と聞くと、私が嫌な気分になるのは、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」人間が多いので、迷惑をかけられる人が多いことが分かるからだ。
それなら、そんなもの、無い方が良い。

「やって良いことと悪いこと」には、大雑把に次の段階がある。
◆家庭での「やって良いことと悪いこと」
◆学校での「やって良いことと悪いこと」
◆社会での「やって良いことと悪いこと」
で、その後は、社会の範囲が広がる、つまり、地方レベルから全国レベル、そして、外国、世界と広がっていくのだが、とりあえず、日本の中あたりまでとする。
家庭で、親が、「やって良いことと悪いこと」がついていない愚か者の場合、子供が可哀そうだ。
あるいは、親がそんなに馬鹿な訳ではないかもしれないが、子供を甘やかして、本当はやってはいけないことを許してしまった場合も、子供が可哀そうだ。
その子供は、家庭で教わった「やって良いことと悪いこと」が学校では通用せずに、痛い目に遭う。
痛い目に遭って、学校での「やって良いことと悪いこと」を習得すれば良いが、その愚かな子供が、「学校の方が悪い」として、学校に背を向ける場合もある。
そして、悲劇的なことに、学校の先生には「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない者が多い。
学校という閉鎖社会の中にずっと居て、社会で通用する「やって良いことと悪いこと」の区別を学ぶ機会がないからだ。
そして、今は、女生徒に猥褻行為をする男の教師など、もう珍しくもないというほど、「モラル」と言うよりは、家庭レベルでの「やって良いことと悪いことの区別」がついていない教師が多いのだ。
『バカをつくる学校』という名著があるが、学校という場所は、「やって良いことと悪いことの区別」が全くつかない教師だらけであるのだから、学校に行けば馬鹿になるのが当たり前である。

そして、いよいよ社会に出て、社会での「やって良いことと悪いこと」を学ぶことで、ようやく一人前になる。
社会の中にも、それを習得していない大人は多いのだが、それでも、家庭や学校よりはまともな「やって良いことと悪いこと」のルールが支配している。
ごく若いうちは、社会での「やって良いことと悪いこと」の区別がついていなくても、大目に見てもらえる場合もある。
しかし、その若者が、学校レベル、ましてや、家庭レベルでの「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない場合、本当は殴って教えるしかない。そのくらい、その若者は危ない状態なのだから。
だが、なかなかそうはならない。
家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかない若者は、本人も、周囲にとっても迷惑・・・と言うより害悪だ。そして、そのまま中年、老人になるという悲劇も少なくない。
私がまさに、家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかないまま社会人を続けたので、本当にトラブルが多かった(笑…笑いごとではないが)。

「やって良いことと悪いこと」
この区別がついていない大人も沢山いる。
しかし、まず、この区別がついていないと、幸福にはなれない。
どれほど頭が良くても、知識や技術があっても、容姿が美しく、また、スポーツや武道が出来るという美点があってもである。
人間として「やって良いことと悪いことの区別」がついていないと、若いうちは、周囲に迷惑をかけながらでも、見た目はうまくいくこともあるが、所詮、ロクな目に遭わない。
そして、「やって良いことと悪いことの区別」がつかないと、「引き寄せ」をいくらやっても無駄である。
いやまあ、それが「やって良いことと悪いことの区別」がつかない者の実感である(笑)。
不幸にして、親に「やって良いことと悪いことの区別」を教えてもらえなかった(私のような)出来損ないは(笑)、まず、何としてでも「やって良いことと悪いことの区別」を付けなければならない。








授業時間と教師の給料を半分にすれば日本の教育は良くなる

かなり多くの大学生が、基礎的な算数を理解していないとか、大人になっても基本的な日本語が使えないという深刻な事態であるらしい。
しかし、もっと深刻なことは、これを解消するために、授業時間を増やして学力向上を計るという、漫才のネタにするにも馬鹿過ぎることを本当にやる、国の教育屋の愚かさだ。
「二兎追う者は一兎も得ず」という言葉があるが、今の学校は「百兎追う者は一兎も得ず」の状態だということは言うまでも無い。
教師の雇用を守るために、狂気とも言える膨大なカリキュラムを子供に課し、生徒は何も身に付かないというのが真の問題だということは、当たり前過ぎて、いちいち言うほどのことでもない。
日本人の学力を向上させたければ、まず、授業時間は半分、教師の給料も半分にすることだ。これは冗談でも何でもない。単に自然的、合理的なことだ。
また、教師に免許などいらない。やりたい者にやらせればいい。勉強そのものは、上級生が下級生に教えればいい。それで、双方が本当の勉強が出来るだろう。

私は、上に述べたことを、出来る範囲でだが自分で実際にやった。
中学2年生で授業に参加することをやめた。聞いてもさっぱり分からないし、心の奥深くの感覚として、聞くべきでないと感じたのだ。
岡本太郎は、授業中、耳を堅く両手で塞ぎ、神聖な頭脳に教師の汚れた声が入ってくることを赦さなかったというが、気持ちが分かるのである。
とはいえ、勉強が不要とは思っていなかったので、学校のカリキュラムを一応は利用したが、勉強する科目は自分で選んだ。選択したのは、数学、理科、英語だった。全て、参考書で独学した。試験で点数を取ることは問題ではなく、基礎を本当に理解することを目指した。
勉強することにした科目は、そこそこの成績だったが、その他の科目は教科書も一切開かず、ノートの提出も、夏休みの宿題も一切やらなかった。すると、学校からの陰湿な嫌がらせから始まり、果ては、中学生の身には耐え難い恐ろしい目に遭わされたが耐えた。ただ、精神に破綻をきたす可能性があるので(私も実際は破綻したのだろう)、他の方にはお薦めしない。学校と言うのは、子供の心や頭脳を破壊することなど、何とも思っていない。
アインシュタインは、暗記科目が苦手だったので大学の入試に失敗したように言われるが、それは違う。彼の記憶力は悪くない。ただ、彼は、頭に詰め込むべきでないことを無理に憶えることを拒否しただけだ。彼もまた、学校には相当嫌な目に遭わされたらしく、自伝ノートに、学校は子供の知的好奇心を窒息させようとしていると書いている。

しかし、甲斐あって、私は、基礎的な学力は十分に得たと思う。
大した勉強はしなかったが、本当の基礎をマスターしたこと、そして、独学の習慣を得たことは最大の成果だった。
例えば、数学の能力が必要になれば、数学者の遠山啓さんが翻訳執筆した『科学を志す人のための基礎数学 』で少し勉強すれば、すぐに必要を満たせた。

現在は大女優になったジョディ・フォスターが13歳の時に主演した『白い家の少女』という映画がある。物語は、リンという少女の14歳に誕生日から始まる。私の誕生日と同じ、10月の31日だった。彼女は、学校に通ってなかった。自分の意志で学校を拒否したのだ。そのことで、大人達は彼女を責めたり不快な思いをさせるが、彼女には戦う覚悟があった。
その彼女に、マリオという16歳のボーイフレンドができる。マリオは、自分の母親とは比較にならないくらい料理が上手なリンに驚くが、リンは笑って言う。「私、文字が読めるのよ」。
リンには素晴らしい知性と教養があった。学ぶべきことは自分で選んで決め、熱心に勉強していた。著名な詩人であった父親は彼女にかつて言った。「大人は個性的なお前を認めないだろう。だが、言いなりになってはならない。戦うのだ」と。
私は、この『白い家の少女』の原作小説も読んだ。高校生の時だった。ところが、割と最近気付いたのだが、翻訳者は英文学者で詩人、そして、画家でもある加島祥造さんだ。そして、加島祥造さんはタオイスト(老荘思想家)で、老子や荘子の本も沢山書いている。私は、それが加島祥造さんだとは知らず、彼が書いた『白い家の少女』のあとがきが素晴らしかったことを覚えている。世間の教義や信念に屈せず、純粋な自己の内面を尊重する精神を持ったイギリスの15歳の普通の少女の詩を紹介していたように思う。









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個性的なアウトサイダーはどう生きるか

いじめの本質とは、「出る釘を叩く」である。
特に、学校というものは、「前に倣え」つまり、皆が同じであることで秩序が保たれている。
学校とは、「目立つやつ」、すなわち、「変わったやつ」は、決して許されない所なのだ。
いじめにあった子供が自殺した時でも、学校は、「気付かなかった」「いじめと認識していなかった」と言うが、あながち嘘ではない。
学校にとって、いじめは、秩序維持のための好ましい現象であり、出来る限りそれを黙認しようとするものなのである。

岡本太郎は激しくいじめられた。超個性的であったからだ。生徒はもちろん、教師にも徹底していじめられた。個性は、学校の秩序を乱すのである。

森山風歩さんは、筋ジストロフィーという、筋肉が無くなっていく病気のために、歩き方がおかしいということのために、クラス総動員のいじめに遭った。もちろん、教師に相談しても無駄だった。普通でない子の存在を許さない学校では、どんないじめも黙認される。教師の信頼厚い優等生もいじめに参加したが、不思議なことではない。それが学校である。

『火星人地球大襲撃』という映画で、地球人類をはるかに超える文明を築いていた火星人が滅びた理由が明かされる。それは、火星人の中にもあった、異分子を許さない性向だった。

ジャイアント馬場さんは、学生の頃から並外れて大きかったが、目立たないように、いつも小さくなっているおとなしい少年だったのは、目立つと危ないことを感じていたからかもしれないと思う。そんな馬場さんをなめてか、1人の男子生徒が、身体のことで馬場さんをからかったことがあった。馬場さんは、号泣しながら、その男子生徒をやっつけたという。腕力・体力では当時から桁違いだったが、それでも馬場さんは身体のことで強い劣等感を持っていたのだった。

他人と同じようでなくて辛い目に遭っている人はいるだろう。
では、そんな人はどうすれば良いかというと、方法はただ1つだ。
それは、自分が異分子を受け入れることだ。

ジョディ・フォスターが14歳の時に主演した『白い家の少女』という映画がある。
ジョディが演じたリンという少女は、自分の考え方をしっかりと持ち、自分の個性を大切にする、利発で大人びた美少女で、まさに、ジョディに相応しい役だった。
詩人であるリンの父親は、リンに、「大人は個性的なお前を決して認めない」と言ったが、それに対応するための、父親の遺言となったアドバイスは、「賢くなって戦え」だった。
だが、それを守ったリンは、2人の大人を殺すことになる。
原作小説でも映画でもそうは言わなかったが、父は愚かだった。

私なら、こうアドバイスしただろう。
世界の所有者として振る舞いなさいと。
それは、次のようにすることだと。
どんな人の行いも、それをすることを許しなさい。
どんな出来事も、それが起こることを許しなさい。
どんな人の個性も認めなさい。
お前が見下したり、攻撃したりしない限り、誰もお前を害したりできない。

許せない人間が存在する限り、あなたは自分が世界の所有者であることを思い出せない。
認めることができない人間がいる限り、あなたは魔法の力を手にしないのである。

小説・アニメの『僕は友達が少ない』で、美少女で成績抜群だが友達がいない三日月夜空(高2女子)は、ギャルゲー(ギャルゲーム。魅力的な女性が売り物のゲーム)に陶酔する星奈(高2女子)や、ボーイズラブ(若い男同士の同性愛)等に熱狂する理科(高1女子)に顔をしかめたり、見下すようなことをしなくなれば、いやでも、男にも女にもモテモテになるだろう。
主人公の小鷹(高2男子)は、夜空や星奈に比べれば数段進歩しているが、「不味いたこ焼きを平気な顔で売っているやつは赦せない」と言わなくなれば、不器用でも友達が作れるに違いない。
彼らより、もっと不利な条件で、同姓、異性の友達が多い者など、いくらでもいるのである。

岡本太郎は、小学校の同窓会で、「君にはよく殴られたなあ」と言いながら、かつて自分をいじめた相手と酒を飲むまでになったが、閉鎖的な日本の画壇も認めればよかったと思う。そうであれば、病魔に侵されることもなかったかもしれない。









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世の中から隠れ住む少女の悲劇

アメリカの大女優ジョディ・フォスターが日本で有名になったのは、彼女が14歳の時(撮影時は13歳と思う)の主演映画『白い家の少女』(原題:The Little Girl Who Lives Down the Lane)によってだと思う。
ジョディは、その頃には、既に多くの映画で主役級で出演し、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞の候補になり、天才子役と言われた美少女女優だった。
当時、『ダウンタウン物語』や『タクシードライバー』といった英国映画に出演していたし、『白い家の少女』でも、イギリス出身の少女リンを演じたことから、私は、なんとなく、ジョディがイギリス人だと思っていたが、アメリカ人であり、女優業の側ら、アメリカの名門イェール大学を優秀な成績で卒業している。

『白い家の少女』の映画の脚本は、原作小説の著者レアード・コーニグ自身が行っている。
実は、コーニグにとって、この小説は2つ目のもので、単独著書で出版したのは初めてだった(1冊目は共著)。
コーニグはアメリカ人だが、当時から、1年を半年ずつ、サンフランシスコとロンドンで過ごしていたというから、かなりのイギリス好きで、イギリス人の少女リンの描写も実にサマになっていたのではないかと思う。

ところで、私は、1977年出版の『白い家の少女』の小説を持っているが、翻訳が加島祥造さんであるとは、昨日まで気が付かなかった。
加島祥造さんは、翻訳家であると共に、詩人、エッセイスト、画家で、また、タオイスト(老荘思想家)として知られ、老子や荘子の著書も多い。ただ、『白い家の少女』の翻訳を書いた頃は、専ら翻訳家であった。加島さんが、自分自身の著書を出すのは60代以降だ。『白い家の少女』の時は、まだ加島さんは54歳くらいだった。
そして、加島さんは、この小説の翻訳に実に相応しかった。主人公の少女リンは、偉大な詩人である父を持ち、エミリー・ディキンスンの詩を全て暗誦し、自分がディキンソンと似ていると感じていた。いわば、芸術的な才能を持った少女で、彼女が暗誦したり、朗読するディキンソンの詩も書くのであるから、英文学者で詩人である加島さんの翻訳は、やはり素晴らしいものだったと思う。

極めて利発であるだけでなく、この世の神聖な真理を求める高貴な精神性を持つリンを演じることが出来る少女女優も、ジョディをおいて他にいなかっただろう。
日本のように、アイドル女優を起用したら、なんとも間抜けな作品になってしまっただろうが、ジョディの演技は素晴らしく、特に、ラストの数分、アップになった表情だけを延々と見せるジョディの演技は圧巻であったと思う。

リンは学校には通っていない。リンの父親は、リンに「大人は個性的なお前を認めない」と言ったが、全くその通りだろう。
リンも、世間を毛嫌いしているようだ。もし、学校に行ったとしたら、リンはさぞ憂鬱な時間を過ごすことになったことだろう。
岡本太郎が、小学校での授業中、両手で耳を堅く塞ぎ、神聖な自分の頭脳に、汚らわしい教師の教えが入り込むことを拒否したという話を思い出す。
だが、吉本隆明さんが『ひきこもれ』で書いていたことも思い出す。それでも、学校に行った方が良い。学校や教師は、たしかにろくでもないものだろう。だが、世の中は、ほとんどが、やはり不条理に満ちたものであり、学校は、そんな馬鹿げた場所で生きる最適な訓練だと考えるべきなのだ。
現実的なことを言うなら、吉本隆明さんの言うとおりである。世間に本当に勝つためには、これから逃げず、これを打ち負かす力を持つべきなのだ。
リンの父親は、リンを愛していたが、リンの内にある、真の英知を信じるべきだった。我々もまた、自己の内に潜む、至高の存在を信じるべきなのだ。
この小説の原題、The Little Girl Who Lives Down the Laneはちょっと面白いものだ。「通りから離れて住んでいる少女」の「通り」は世俗のことのように思う。離れるのは良い。しかし、嫌悪したり、隠遁してはならないのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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