思考を消せば全知全能であるが、それを達成するのは難しいかもしれない。
それが本当に難しいのではなく、我々は思考するよう教育され、思考することが素晴らしいと洗脳されているから難しいのだ。
そこで、イエスはそこ(思考を消してしまうこと)までいかなくても済む方法を教えている。
それは、新約聖書の福音書に書かれていることで、イエスが言ったことから読み取れる。
イエスは「神殿を壊せ。私は3日で建て直す」と言った。
すると、人々は笑った。
その地の神殿は、建てるのに何十年もかかったからである。
だが、イエスが言った神殿とは身体のことで、実際、イエスは処刑されてから3日後に蘇った。
イエスの身体だけが神殿なのではなく、人間の身体は神殿なのである。
だから、望めば神はいつでも来てくれて、一緒に食事をしてくれる。
ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』だったと思うが、進歩的な人々は、神を遠い天に居る気難しい老人ではなく、年長の大変な知恵と力を持ってはいるが、親しいパートナーであるとみなしている。
その神は、宇宙に遍在するが、我々の身体にも宿るのである。
だから、頭が悪く、力もない我々は、神に一切をまかせて安心すれば良いのである。
同じことを、ラマナ・マハルシは、「列車に乗ってまで、自分の荷物を担いでる必要はない。荷物を下ろして安心しなさい」と言ったのだ。
また、矢追純一さんが「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」と言ったが、それにより、矢追さんは神という言い方はお好きではないようだが、我々の頭がパソコンなら、スーパーコンピューターに匹敵する存在が考えてくれると言っているのであるから、これもイエスらが言ったことと同じと思って良い。

AIアート443
「空に溶ける少女」
Kay
『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、「私は心臓に棲む」と言ったが、心臓の内部に広大な亜空間があると思い、そこに神を迎え、親しくすれば良い。
旧約聖書の『ヨブ記』の22章21節に、
「さあ、あなたは神と和(やわ)らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」
とあるようにである。
このように、どの宗教も本質では同じなのである。
同じような教えは、神道にも仏教にも当然ある。
それが本当に難しいのではなく、我々は思考するよう教育され、思考することが素晴らしいと洗脳されているから難しいのだ。
そこで、イエスはそこ(思考を消してしまうこと)までいかなくても済む方法を教えている。
それは、新約聖書の福音書に書かれていることで、イエスが言ったことから読み取れる。
イエスは「神殿を壊せ。私は3日で建て直す」と言った。
すると、人々は笑った。
その地の神殿は、建てるのに何十年もかかったからである。
だが、イエスが言った神殿とは身体のことで、実際、イエスは処刑されてから3日後に蘇った。
イエスの身体だけが神殿なのではなく、人間の身体は神殿なのである。
だから、望めば神はいつでも来てくれて、一緒に食事をしてくれる。
ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』だったと思うが、進歩的な人々は、神を遠い天に居る気難しい老人ではなく、年長の大変な知恵と力を持ってはいるが、親しいパートナーであるとみなしている。
その神は、宇宙に遍在するが、我々の身体にも宿るのである。
だから、頭が悪く、力もない我々は、神に一切をまかせて安心すれば良いのである。
同じことを、ラマナ・マハルシは、「列車に乗ってまで、自分の荷物を担いでる必要はない。荷物を下ろして安心しなさい」と言ったのだ。
また、矢追純一さんが「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」と言ったが、それにより、矢追さんは神という言い方はお好きではないようだが、我々の頭がパソコンなら、スーパーコンピューターに匹敵する存在が考えてくれると言っているのであるから、これもイエスらが言ったことと同じと思って良い。

AIアート443
「空に溶ける少女」
Kay
『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、「私は心臓に棲む」と言ったが、心臓の内部に広大な亜空間があると思い、そこに神を迎え、親しくすれば良い。
旧約聖書の『ヨブ記』の22章21節に、
「さあ、あなたは神と和(やわ)らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」
とあるようにである。
このように、どの宗教も本質では同じなのである。
同じような教えは、神道にも仏教にも当然ある。