やっぱり人間性が大事だなあと思う(笑)。
いくら能力があっても、人間性が低ければ、一時的には成功しても、いや、一時的に成功した方が転落が凄い。
少し前に、アントニオ猪木さんが亡くなられたが(2022年10月1日)、猪木さんが現役時代、猪木さんと共に日本のプロレスの2大スターだったのがジャイアント馬場さんだった。
2人は選手としてだけでなく、馬場さんが全日本、猪木さんが新日本というプロレス団体の社長で、激しく興行戦争をしていた。
新日本が躍進している時期があったのかもしれないが、全体では全日本が圧倒していたと思う。
そんな中、2人は凄く仲が悪いように言われていたが、馬場さんはプロレス入門では同期ながら年下の猪木さんの面倒を見ていたし、猪木さんも馬場さんを慕っていたと思う。
馬場さんの人間性が抜群だったのだろう。

AIアート120
「夜風」
Kay
馬場さんが初めてプロレスの本場アメリカに渡ったのは昭和30年代で、今の有名野球選手などの海外移籍とはまるで違い、飛行機の切符を1枚渡されて「行け」と言われただけだが、日本人の海外旅行など考えられなかった時代だし、アメリカの国の仕組みも、プロレス組織も日本と全然違い、馬場さんは途方にくれていたが、親切に世話を焼いてくれたアメリカ人レスラー達がいた。
元々、天才的な運動神経の持ち主で、プロ野球で鍛えられた馬場さんはたちまち大スターになり、普段は高飛車な全米中のプロモーター達が皆、馬場さんの機嫌を取って自分のテリトリーに呼んだ。
ところが、馬場さんは、控室ではいつも隅っこで小さくなり、世話になった先輩レスラー達を立てることを忘れなかった。
時が流れ、日本に帰り、日本プロレスのトップだった馬場さんが、外人選手の控室に行くと、若い巨漢の黒人レスラーが、1人でぽつんと寂しそうにしていた。無名選手だし、他に黒人選手がいなかったのだ。
馬場さんは、その黒人選手に「ビフテキを食いに行こう」と誘い、美味いビフテキを奢った。
ところが、日本プロレスが放漫経営で倒産し、意図もせず馬場さんが全日本プロレスを起ち上げることになってしまった。
選手としては大スターでも、経営などやったことのない馬場さんが、全日本プロレスの社長になってしまったのだ。
1人でアメリカにいけば、即座に稼げたのにである。
当然、困難につぐ困難という状況になった。
アメリカの有名レスラーを呼ばないと客は来ないが、ツテはないし金もない。
だが、アメリカで大スターであった馬場さんに立ててもらったりで馬場さんの人柄を知っていたアメリカの大物レスラー達が、馬場のピンチと聞き、皆、日本に来た。
そして、馬場さんは「ニューヨークの帝王」と呼ばれ、アメリカで最も人気のある大レスラー、ブルーノ・サンマルチノに会いにニューヨークに行く。
馬場さんの来日要請にサンマルチノは二つ返事でOKする。
サンマルチノがニューヨークを離れるなどあり得ないが(しかも長期遠征)、馬場さんとは新人時代からのライバルで、共に大スターになる中で、馬場さんの人間性に惚れ込んでいたサンマルチノは馬場さんの親友だったのだ。
すると、サンマルチノは傍らにいたレスラーに「君も行くだろ?」と声をかけると、その巨漢の黒人レスラーは、
「もちろんだ。俺にビフテキを奢ってくれたのは馬場だけだ」
と答えた。彼こそ、全米で屈指の人気レスラーになっていたアブドーラ・ザ・ブッチャーだった。
やっぱり、人とは損得抜きで付き合い、大切にし、恩を忘れてはいけないという日本の美しい伝統は良いものであると思う。
馬場さんの名前は正平で、字はと違うが、大谷翔平さんと同じ「しょうへい」だ。
「しょうへい」は人柄が良くなる名前かもしれない(笑)。
尚、上記の話は、私が本や雑誌や動画やWebサイトで見た話を覚えていたもので、事実でない話もあるかもしれない。
いくら能力があっても、人間性が低ければ、一時的には成功しても、いや、一時的に成功した方が転落が凄い。
少し前に、アントニオ猪木さんが亡くなられたが(2022年10月1日)、猪木さんが現役時代、猪木さんと共に日本のプロレスの2大スターだったのがジャイアント馬場さんだった。
2人は選手としてだけでなく、馬場さんが全日本、猪木さんが新日本というプロレス団体の社長で、激しく興行戦争をしていた。
新日本が躍進している時期があったのかもしれないが、全体では全日本が圧倒していたと思う。
そんな中、2人は凄く仲が悪いように言われていたが、馬場さんはプロレス入門では同期ながら年下の猪木さんの面倒を見ていたし、猪木さんも馬場さんを慕っていたと思う。
馬場さんの人間性が抜群だったのだろう。

AIアート120
「夜風」
Kay
馬場さんが初めてプロレスの本場アメリカに渡ったのは昭和30年代で、今の有名野球選手などの海外移籍とはまるで違い、飛行機の切符を1枚渡されて「行け」と言われただけだが、日本人の海外旅行など考えられなかった時代だし、アメリカの国の仕組みも、プロレス組織も日本と全然違い、馬場さんは途方にくれていたが、親切に世話を焼いてくれたアメリカ人レスラー達がいた。
元々、天才的な運動神経の持ち主で、プロ野球で鍛えられた馬場さんはたちまち大スターになり、普段は高飛車な全米中のプロモーター達が皆、馬場さんの機嫌を取って自分のテリトリーに呼んだ。
ところが、馬場さんは、控室ではいつも隅っこで小さくなり、世話になった先輩レスラー達を立てることを忘れなかった。
時が流れ、日本に帰り、日本プロレスのトップだった馬場さんが、外人選手の控室に行くと、若い巨漢の黒人レスラーが、1人でぽつんと寂しそうにしていた。無名選手だし、他に黒人選手がいなかったのだ。
馬場さんは、その黒人選手に「ビフテキを食いに行こう」と誘い、美味いビフテキを奢った。
ところが、日本プロレスが放漫経営で倒産し、意図もせず馬場さんが全日本プロレスを起ち上げることになってしまった。
選手としては大スターでも、経営などやったことのない馬場さんが、全日本プロレスの社長になってしまったのだ。
1人でアメリカにいけば、即座に稼げたのにである。
当然、困難につぐ困難という状況になった。
アメリカの有名レスラーを呼ばないと客は来ないが、ツテはないし金もない。
だが、アメリカで大スターであった馬場さんに立ててもらったりで馬場さんの人柄を知っていたアメリカの大物レスラー達が、馬場のピンチと聞き、皆、日本に来た。
そして、馬場さんは「ニューヨークの帝王」と呼ばれ、アメリカで最も人気のある大レスラー、ブルーノ・サンマルチノに会いにニューヨークに行く。
馬場さんの来日要請にサンマルチノは二つ返事でOKする。
サンマルチノがニューヨークを離れるなどあり得ないが(しかも長期遠征)、馬場さんとは新人時代からのライバルで、共に大スターになる中で、馬場さんの人間性に惚れ込んでいたサンマルチノは馬場さんの親友だったのだ。
すると、サンマルチノは傍らにいたレスラーに「君も行くだろ?」と声をかけると、その巨漢の黒人レスラーは、
「もちろんだ。俺にビフテキを奢ってくれたのは馬場だけだ」
と答えた。彼こそ、全米で屈指の人気レスラーになっていたアブドーラ・ザ・ブッチャーだった。
やっぱり、人とは損得抜きで付き合い、大切にし、恩を忘れてはいけないという日本の美しい伝統は良いものであると思う。
馬場さんの名前は正平で、字はと違うが、大谷翔平さんと同じ「しょうへい」だ。
「しょうへい」は人柄が良くなる名前かもしれない(笑)。
尚、上記の話は、私が本や雑誌や動画やWebサイトで見た話を覚えていたもので、事実でない話もあるかもしれない。