あなたが、うまくいかなかったのは、狂気がなかったからかもしれない。
成功して金持ちになれなかったのも、モテなかったのも、優勝出来なかったのも、絵が上手くならなかったのも、結婚出来なかったのも、プログラミングが出来るようになれなかったのも、漫画家になれなかったのも、注文を取れなかったのも、彼を落とせなかったのも・・・狂気がなかったからに違いないのだ。
室町時代の小歌の歌謡集として有名な『閑吟集(かんぎんしゅう)』の中にある1つの歌の、このフレーズを一度は聞いたことがあると思う。
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
(何になろうか、まじめくさって、人間の一生なんて夢でしかない。ひたすら狂え。)
昔のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で、伊達政宗の父、伊達輝宗は、19歳の政宗に言う。
「わしには天下は取れなかったが、お前ならと思う。お前には、恐ろしさ、狂おしさがある」
つまり、現代的に言えば、政宗には、狂気の極みがある・・・つまり、徹底的に狂っている、ぶっ飛んでいるといった感じだ。
まじめくさった…保身に気を使う人間に大きなことは出来ない。
まあ、上に書いたようなことは、分からないわけではないと思うのではないだろうか?
だが、「では、どうやれば狂えるか」に関し、「狂い方が書かれた教科書はどこですか?」と言う、どうしようもない者が多いのだ。
教科書を否定してこそ狂いなのに(笑)。
『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流著)で、高校1年生になった美少女、涼宮ハルヒが、入学式の後の、クラスでの自己紹介で言った言葉がよく知られている。
「ただの人間には興味がありません。この中に、宇宙人、未来人、超能力者、異世界人がいたら、私のところに来なさい」
なぜ、覚えられているかというと、ハルヒがぶっ飛んでいる…つまり、狂気を持っているからだ。
狂気を持った者は魅力的で、本当は皆、こんなふうに狂いたいのだ。だが、まじめくさって、面白くない人生を送ってしまうのである。
言うまでもなく、狂気にはリスクがある。
下手な狂気の果ては刑務所か精神病院と相場が決まっている。まあ、昔のように、いきなり消されることは少ないが(笑)。
小さく狂っただけで、つまはじき者、仲間外れ、弾圧の標的だ。
それを恐れて、皆、まじめくさるのだ。
確かに、狂気に飲まれてはならない。
溢れる狂気を持つなら、自分を捨て、命を捨てないといけない。でなければ、大物か小物かの違いはあるが、本質的にはヒトラーやスターリンだ。彼らは大きな狂気を持っていたが、その狂気に飲まれてしまった。
自分を握ったまま、命を握ったまま、大きな狂気を持ったので、狂気に負け、狂気に食われてしまったのだ。
自分を握っている、命を握っているとは、欲望に憑りつかれているということだ。
政木和三さんは私に、「人を超えたければ、欲望をぽーんと捨てなさい」と言った。
より丁寧に言うなら、「欲望をぽーんと捨てて狂いなさい」だ。
欲望を捨てても、狂いがなければ幽霊だ。
狂いがあっても、欲望を握っていたら独裁者にしかなれない。
パスカルの『パンセ』の中の有名な言葉、
「カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」
の「力」は「狂気」と言い換えた方が現実的である。すなわち、
「狂気なき正義は無能であり、正義なき狂気は圧制である」
とした方が、真理が明瞭になる。
力とは狂気である。
スティーヴンソンの傑作『ジキル博士とハイド氏』は、世間で言われるような二重人格の悲劇ではない。
ハイド氏が正義なき狂気、ジキル博士は狂気なき正義だ。両方、良くない・・・そんな理解がないと、何のためにスティーヴンソンがこれを書いたのか分からない。
そして、正義とは、自分を捨てること、命を捨てることであることを、口だけ達者な文化人には分からない。
芸術は爆発?
岡本太郎の、なんというセンスのなさ。
芸術とは狂気だ。
命を捨てて狂うことが芸術だ。
岡本太郎を立てるなら、命を捨てて狂うことが爆発だが・・・やっぱり、ものごとはちゃんと分かるように言わないといけない。
まあ、コロンブスの卵と同じで、後から言うのは易しいが(笑)。
『臨済録』の、「仏に逢うては仏を斬る」がぶっ飛んでいて、とても良い。こんな感じだ。
禅も、その根本の仏教も、本当は、よく狂っていて、ぶっ飛んでいるのである。
でなければ、人を殺させないし、ましてや、生かすことは出来ない・・・一休の真似だが(笑)。
狂いの師匠に弟子入りしようなんてやつは駄目だ。
自分が狂いの開祖たらねばならない。
成功して金持ちになれなかったのも、モテなかったのも、優勝出来なかったのも、絵が上手くならなかったのも、結婚出来なかったのも、プログラミングが出来るようになれなかったのも、漫画家になれなかったのも、注文を取れなかったのも、彼を落とせなかったのも・・・狂気がなかったからに違いないのだ。
室町時代の小歌の歌謡集として有名な『閑吟集(かんぎんしゅう)』の中にある1つの歌の、このフレーズを一度は聞いたことがあると思う。
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」
(何になろうか、まじめくさって、人間の一生なんて夢でしかない。ひたすら狂え。)
昔のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で、伊達政宗の父、伊達輝宗は、19歳の政宗に言う。
「わしには天下は取れなかったが、お前ならと思う。お前には、恐ろしさ、狂おしさがある」
つまり、現代的に言えば、政宗には、狂気の極みがある・・・つまり、徹底的に狂っている、ぶっ飛んでいるといった感じだ。
まじめくさった…保身に気を使う人間に大きなことは出来ない。
まあ、上に書いたようなことは、分からないわけではないと思うのではないだろうか?
だが、「では、どうやれば狂えるか」に関し、「狂い方が書かれた教科書はどこですか?」と言う、どうしようもない者が多いのだ。
教科書を否定してこそ狂いなのに(笑)。
『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流著)で、高校1年生になった美少女、涼宮ハルヒが、入学式の後の、クラスでの自己紹介で言った言葉がよく知られている。
「ただの人間には興味がありません。この中に、宇宙人、未来人、超能力者、異世界人がいたら、私のところに来なさい」
なぜ、覚えられているかというと、ハルヒがぶっ飛んでいる…つまり、狂気を持っているからだ。
狂気を持った者は魅力的で、本当は皆、こんなふうに狂いたいのだ。だが、まじめくさって、面白くない人生を送ってしまうのである。
言うまでもなく、狂気にはリスクがある。
下手な狂気の果ては刑務所か精神病院と相場が決まっている。まあ、昔のように、いきなり消されることは少ないが(笑)。
小さく狂っただけで、つまはじき者、仲間外れ、弾圧の標的だ。
それを恐れて、皆、まじめくさるのだ。
確かに、狂気に飲まれてはならない。
溢れる狂気を持つなら、自分を捨て、命を捨てないといけない。でなければ、大物か小物かの違いはあるが、本質的にはヒトラーやスターリンだ。彼らは大きな狂気を持っていたが、その狂気に飲まれてしまった。
自分を握ったまま、命を握ったまま、大きな狂気を持ったので、狂気に負け、狂気に食われてしまったのだ。
自分を握っている、命を握っているとは、欲望に憑りつかれているということだ。
政木和三さんは私に、「人を超えたければ、欲望をぽーんと捨てなさい」と言った。
より丁寧に言うなら、「欲望をぽーんと捨てて狂いなさい」だ。
欲望を捨てても、狂いがなければ幽霊だ。
狂いがあっても、欲望を握っていたら独裁者にしかなれない。
パスカルの『パンセ』の中の有名な言葉、
「カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」
の「力」は「狂気」と言い換えた方が現実的である。すなわち、
「狂気なき正義は無能であり、正義なき狂気は圧制である」
とした方が、真理が明瞭になる。
力とは狂気である。
スティーヴンソンの傑作『ジキル博士とハイド氏』は、世間で言われるような二重人格の悲劇ではない。
ハイド氏が正義なき狂気、ジキル博士は狂気なき正義だ。両方、良くない・・・そんな理解がないと、何のためにスティーヴンソンがこれを書いたのか分からない。
そして、正義とは、自分を捨てること、命を捨てることであることを、口だけ達者な文化人には分からない。
芸術は爆発?
岡本太郎の、なんというセンスのなさ。
芸術とは狂気だ。
命を捨てて狂うことが芸術だ。
岡本太郎を立てるなら、命を捨てて狂うことが爆発だが・・・やっぱり、ものごとはちゃんと分かるように言わないといけない。
まあ、コロンブスの卵と同じで、後から言うのは易しいが(笑)。
『臨済録』の、「仏に逢うては仏を斬る」がぶっ飛んでいて、とても良い。こんな感じだ。
禅も、その根本の仏教も、本当は、よく狂っていて、ぶっ飛んでいるのである。
でなければ、人を殺させないし、ましてや、生かすことは出来ない・・・一休の真似だが(笑)。
狂いの師匠に弟子入りしようなんてやつは駄目だ。
自分が狂いの開祖たらねばならない。