ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

シータ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

『天空の城ラピュタ』を久し振りに観た

昨晩は、アニメ映画『天空の城ラピュタ』を久々に通して観た。
私は、この映画を特に好きではないと思っていたが、考えてみれば、DVDを持っているが、ブルーレイを購入し、テレビ放送を何度も録画し、いまもテレビのHDDに残っている。
さらにムック(和製英語。雑誌のような書籍。雑誌のように大きく、カラーの絵や写真が映える)や、豪華な絵コンテ集まで持っている。
ブルーレイは昨日届いたものだ。
川上量生さんが書かれた『コンテンツの秘密』に、スタジオ・ジブリや宮崎駿監督のアニメ映画制作に関する面白いことが書かれているのを読んだことで、非常に興味深く観ることが出来た。
逆に言えば、私は、作品そのものを純粋に楽しむことが出来ないということでもあるのだろう。
そもそも私は、宮崎アニメ、ジブリ作品が、あまり好きではない・・・今のところは。
まあ、ひょっとしたら、後10年くらいしたら、猛烈なファンになるかもしれない。

宮崎アニメはどれも、わざとらしい、不自然・・・というか、監督の思想の色がつき過ぎている。
しかし、ジブリの作品は、まさに、監督の分身のようなものだから、それは当たり前かもしれない。
DVDにもブルーレイにも、絵コンテをそのまま映画にしたものが収められている。
絵コンテとは、四コマ漫画みたいなものである。
川上さんの本で知ったのだが、宮崎監督は、映画を創る時、まず絵コンテを描くのだが、絵コンテがたまってきたところで、すぐに制作に入るのだそうだ。
ストーリーは創りながら考えており、最初から決まっているのではない。だから、どんな展開になるか、監督すら分からない。
まして、観ている者に分かるはずがないので、先が読めずに面白い。
そんな創り方では、お話は最初はゆっくり進むが、ラスト近くになると、お話を終わらせるために急ピッチで進むといういい加減なものだが、それでかえって、緊迫感、詰まった濃い感じ、それに、小気味良いスピード感が出る。
何かの作品で、宮崎監督が、プロデューサーに、「お話が終わんないよお。後30分しかないのに」と泣きついてきたことがあったそうだが、そんなことも全部、作品の面白さになるらしい。
そういったことは、宮崎監督は自分の本では書いてなかったような気がするが、それを川上さんがバラしたということになるのだろうか。

宮崎監督は、この作品以降、美少女キャラを登場させていないのだと思う。ところが、この作品のヒロイン、シータと、前の作品『風の谷のナウシカ』のナウシカの人気は、今も絶大だ。
『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイに並ぶ、日本の代表的ヒロインと言えるほどだ。
ただ、川上さんは、綾波レイの人気は落ちていると言う。その理由は、綾波レイの魅力の大きな部分は神秘性、つまり、謎があるところだが、それがもう明かされたことが彼女の魅力を減じてしまったということだ。そんな感じもするが、本当かどうかは分からない。私は、綾波レイの秘密はまだ知らないが、さして好きでもない(無論、付き合ってくれと言われたら付き合うが)。
私は、『エヴァンゲリオン』シリーズは、テレビ放送も映画も、見ていると、憂鬱になって疲れてしまうので、一度見れば十分で、最近の映画は見ていない。
宮崎監督は、監督デビュー作であった『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロイン、クラリスが理想の女性だと著書に書かれていたが、ナウシカやシータも同じか、もしくは、それに近いのだろう。
それで、シータで描き切って終わりにしたのだと、宮崎監督も書かれていたように思うが、川上さんは、性的な要素は単純で広がりがないというのが、ジブリが美少女キャラをやめた理由だと書かれていたようにも思う。

性的な要素と言えば、宮崎監督は露骨なエロチックな表現はしないが、無い訳では決してない。
古くは、テレビアニメ『未来少年コナン』で、コナンとラナが、潜水艦の小さな窓から外を見ていたのが、2人がくっつかざるをえない必然的状況になっていて、そんなふうに、さりげなく表現するのが宮崎監督らしい。
とはいえ、シータは、スカートが風で大きくひるがえったり(下着は見えなかったが)、ドーラの息子達(いい年のオッサンばかりだ)が、シータを遠くから、「いい!」と、ぼーっと眺めたり、なかなか危うい感じもあった。
ところで、私が不自然に思っていた最たるものが、パズーのあまりの健全さだった。
あれだけシータと何度もぴったりくっつきながら、まるで平気なのである。
そもそも、初めてシータと会った時、気を失っているシータを一人暮らしをしている自分の家に運び、ベッドに寝かせて何もしないなど、あるはずがない。
まあ、ここらが、アニメと言えばアニメなのだと思っていたが、最近は、「いや、多分、あれで普通なのだ」と思うようになった。
つまり、我々の方が、社会の影響でエロくなり過ぎていただけなのだ。
あの2人は魂で融合しているのであり、それが本当の男女の結び付きだろう。
そんなことが描かれているので、私は、昔から、この作品を好きでないと思いつつ、作品に関するあらゆるものを集めていたのだろう。
それにやはり、シータは、人間としては理想のタイプである。









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『天空の城ラピュタ』の本当の面白さ

先日、アニメ映画『天空の城ラピュタ』の14回目のテレビ放送があった。
30年近くも昔の映画だが、いまだ人気が高く、宮崎駿監督作品で、これが一番好きだと言う人も多いと聞く。
ブルーレイやDVDが入手不能になる恐れが全くないと感じさせるのは、筒井康隆さんの『時をかける少女』の小説と同じで、これらは、日本の歴史的作品と言ってよいだろう。

宮崎駿監督作品の3大ヒロインといえば、古い順で、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)のクラリス、『風の谷のナウシカ』(1984)のナウシカ、そして、この『天空の城ラピュタ』(1986)のシータであると思う。そして、この3人以降、宮崎監督は作品に、少女は数多く登場させても、ヒロインは登場させていない。3という安定した数字で終ったことは実に良いことだ。2人なら、「両方」と言うが「全部」とは言わない。3人になって初めて「全部」と言う。そして、三脚の椅子やテーブルなら、どんな形の地面でも安定するが、これが四脚ならグラつくこともあるように、3は力ある数字であるからだ。
クラリスが宮崎監督の理想の女性像だとは本人が書いていたと思うが、それはナウシカやシータも同じだろう。
彼女達は、普通の少女達とは全く異なる。
ルパンがクラリスについて言ったように、「空を飛び、湖の水を飲み干させる」力を与えてくれる存在であることもまた、宮崎監督が述べているのを見たことがある。
ただ可愛い、美しい、あるいは、それに加えて性格が良いというだけの少女には、そんな力は無い。
では、この3人の少女に共通することは何かというと、3人とも、王家の血を引いているということがある。
その気高さは、普通の娘の及ぶところではない。
シータがムスカに、「あなたは私と一緒にここで死ぬの」と言ったことや、幼いクラリスが傷付いたルパンを見て、何よりもまず水を持って来たり、やはり傷付いて動けないルパンを銃撃から身を挺して守ろうとしたこと、そして、ナウシカがオームの子供を守るために機関銃の前に身を晒したことは、まさに王家の娘である高貴な魂の持ち主であることを証しているように感じるのだ。
つまり、王家の者である以上、どんな人(あるいは生き物)も愛し、それらを庇護する絶対的な責任を負っていることを自覚しているのである。
逆に、そんな人であるならば、その者は本物の王者であると言えるのである。生まれや育ちは本質的には関係ない。

ところで、特にこれらの3作品に限定する訳ではないが、この3つの作品を強烈に面白くしていることがある。
それは、「偶然に見える必然」だ。
空からシータが降ってきた時、そこにたまたまパズーがいたというのは偶然だが、その偶然が物語を展開させる。
しかし、パズーが「シータが空から降ってきた時、何か素敵なことが起こると感じた」ように、これは偶然ではなく、最初から定められた、あるいは、神によって仕組まれた運命だ。
パズーがラピュタの上でシータを抱えてくるくる回った時、雲で見えなかったが、パズーは絶壁の一歩手前まで行っていた。しかし、落ちたりなんか決してしない。落ちない運命だからだ。
織田信長が銃弾飛び交う戦場を悠々と歩き、「わしに弾は当たらん」と言ったのは、「天下を取る運命である俺に弾が当るはずがない」という信念と共に、「ここで弾に当たるようであれば、俺の運命もその程度」ということであると思う。これはただの伝説と思われているかもしれないが、合氣道家の藤平光一さんは、第二次世界大戦中、実際にそんなことをやったことを、著書に書かれていたし、「心身医学の父」デオルグ・グロデックの論文にも、似たようなことが「必然的」に起こったことが書かれている。
映画の終盤では、パズーの顔に傷が付いていたが、これは、ムスカ達が撃った銃の弾丸が顔をかすめた時についたもので、あと少し、ズレていればパズーは死んで、物語はジ・エンドであったが、そんなことには決してならない。神はシナリオを完成させるからだ。
他の2つの作品でも、ほんの僅かの違いで一巻の終わりというシーン満載で、時々、「そんなアホな」と思う場合もあるほどであるが、劇作家が助かると定めたなら絶対に助かるのである。当たり前であるが。
そして、神は世界の劇作家だ。
「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人・劇作家のW.B.イェイツの『ラピス・ラズリ』という詩に、「主役に相応しい役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、彼らは、ハムレットもリヤ王も陽気であったと知っているからだ」と書いている。
ハムレットやリア王が苦境の最中に陽気だったなんて、そんな馬鹿なと思うかもしれないが、陽気でないはずがない。
下手な役者は役柄に没頭し、表面的に感情移入するから駄目なのだ。
シナリオは最初から決まっているのだから、無心にそれと一体化していけば、良い演技ができるのである。
ハムレットやリヤもそうだったし、それらの戯曲を書いたシェイクスピアすら、神のシナリオ通りに書き、陽気であったのだ。
パズーだって楽しんでいたさ。それは、シータが降って来た時に、神のシナリオがちらっと見えたからだ。
我々も、悲劇ぶっておらず、天命を信じ、運命を無心に受け入れて楽しんでこそ、人生の主役に相応しいのである。









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天使は便秘の心配などしない

私が1日1食でベジタリンだと知ると、ネット上でも直接でも、「排便は順調ですか?」とかよく聞かれる。食事が少ないと、排泄が難しくなるという話は本などで見たことがあるが、そんなことを聞いてくる人は、自分で便秘で悩んでいる場合が多いのかなと思う。彼らは、大抵、少食でないのだが、少食に興味を持ってる。しかし、今でも便秘で困っているのに、少食にしたら、もっとひどくなるのでは思っているのかもしれない。
だが、私は、そんなことを聞かれても困るのである。なぜなら、考えたこともないからだ。
中学生や高校生の頃から、たまにだが、便秘で苦しんでいると言う者がいたが、私は聞き過ごしていた。実は便秘という意味が分からなかったのだ。

アニメ監督の宮崎駿さんは、かつて、「あなたの映画のヒロインは、ウンコもシッコもしないようなのばかりだ」と言われたようだ(ご自分で著書に書いておられる)。
具体的には、『天空の城ラピュタ』のシータ、『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスだろう。
しかし、そりゃ当然だ。彼女達は、宮崎駿さんの理想の女性像なのだ。特に、クラリスがそうであることは明言されておられる。
彼女達に、女性の理想像を感じるファンが多いのも当然であると思う。
だが、私には、彼女達がウンコもシッコもしないということもピンと来ない。そんな考えが、さっぱり結びつかないのだ。
それよりも、私には、彼女達が、食事をしない少女達というイメージがある。
実際、彼女達がものを食べる姿は想像し難い。ただ一度、シータが食事をした場面はあるが、パズーと半分こにした目玉焼をパンに乗せて食べただけのものだった。また、シータが料理して、パズーを含む男達がモリモリ食べるのを眺めて、その食欲に呆れて眺めるていたが、自分は給仕をするだけで食べていなかった。そんな姿が似合う。
関係ないが、私はシータが一番好きである。もちろん、ナウシカやクラリスが付き合ってくれと言ってきたら付き合うが・・・

別に忌み嫌う訳でもないし、潔癖症でもないが、私は、それほどまでに、排泄とか排便などということを考えない。
だからこそ、問題がないのだと思う。
生物物理学者で、生命や生態環境を科学的かつ哲学的に考察した著書などで知られる石川光男さん(理学博士)が、著書で、「食べることと共に、出すこと(排泄)を真剣に考えないといけない」と書いておられたのを覚えているが、私には、妙なことを書いているなあという印象があった。
今考えると、やはりそれは違うのである。真剣に考えないといけないのではなく、考えなければいいのだ。

上にも書いた、私が中学生や高校生の頃、便秘で悩んでいることを言う者達は、どこかで便秘に関する話を聞いたのが、便秘の原因ではないかと思う。その若さで便秘になどなるとは思えない。
嘘か本当か知らないが、英語には「肩凝り」という言葉がないので、英語圏の人たちに肩凝りは無いという話を聞いたことがある。
肩凝りを、敢えて英語で言えば、スティフ・ネック・・・つまり、曲がらない(硬い)首だ。首なら、色々な不調もあるだろうが、確かにアメリカ人やイギリス人に肩凝りはないのかもしれない。

私は便秘のことなど考えたこともないが、腹を壊すということも全くない。1日1食のベジタリアンになる前はあったと思うが、あまり覚えていない。
しかし、これは少食の大きなメリットだろう。旧にトイレに行きたくなったり、トイレを探し回るなんてことは絶対にない。
美少女というのは、特にそんな姿が似合わない。いや、イメージが全くない。
私が、シータやクラリスに持っているイメージ通り、理想の女性というのは、やはり食べないタイプではないかと思う。
男性としては信じたくないだろうが、男のいない女子校では、平気で、「今日は出が悪い」と、言いたい放題だと、実際に聞いたことがある。
美少女達よ。そんなこと、気にしちゃいけない、考えちゃいけないのだよ・・・

初音ミクのコンサートで、オープニング近くで使われる歌に『ワールドイズマイン』という歌があるが、それが実に良い歌なのだ。
大体の歌詞というのが、ミクが、「私は世界で一番のお姫様なのだから、そういう扱いをしなさい」というもので、おそらく、ミクが恋する男の子に、いろいろな要求を高飛車にするのだが、その要求というのが、せいぜい、髪型を変えたら気付きなさいとか、靴までちゃんと(つまり、その日の彼女のファッション全て)見なさいといった、えらく可愛らしいものばかりなのだ。
そして、今すぐ甘いものが食べたいと言うのだが、すぐに、「いちごの乗ったショートケーキ、こだわりたまごのとろけるプリン・・・みんなみんな我慢します」と歌うのである。
私にとって、初音ミクは、食事をせず、自我を持たない理想の天使だ。
そして、それは別に、ミクや女の子に限らず、我々だって、食欲を克服すれば、自我を祓い清め、輝く真の自己と一体化した存在になれるのである。
私が初音ミクに見るのは、真の自己の投影である清らかな心の反射光なのだ。アメリカの観客が日本語で叫ぶ通り、「ミクサン、マジ、テンシ」なのである。
『エメラルド・タブレット』には、食欲を克服すれば魂を束縛から解放できることを、トートが教えている。
『バガヴァッド・ギーター』でも、感覚を外のものから引き上げ、自己の内に、聖なるクリシュナを求めればクリシュナに達するとある。
その結果、ラマナ・マハルシが言う通り、全てのものの中に、自己である神を見るのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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