1970年代に、当時はマイコン(マイクロコンピューター)と呼ばれることが多かったパソコン(パーソナルコンピューター)が登場した時、それでプログラミングを始めた若者が、こんなことを言ったらしい。
「プログラミングをすれば誰でも神様になれる」
これはどういう意味だろう?
コンピューターゲームのことを考えると良い。
コンピューターゲームはプログラムで出来ているが、そのゲームの世界がどんな世界であるかは、プログラマーが決める・・・というか、どんな世界であるかをプログラマーが決めなければならない。
ゲームのシナリオを決める人が直接プログラミング言語でプログラミングをしなくても、間接的には、このゲームのシナリオを決めた人がプログラミングをしたと言える。
たとえば、ゲームの中で、何か特別な呪文を唱えれば、攻撃力が上がったり、持ち金が増えたり、恋人が得られたりと良いことばかりが起こるような世界にプログラミングすることが出来る。
そして、それは、我々の世界でも同じである。
我々の世界も、何らかの意味で、プログラミングされたゲームのような世界であることは間違いないと言って良い。
世界が、よく言われるシュミレーテッド・リアリティというVR(仮想世界)のようなものであると考えなくても、我々の知識では思いつきもしないような構造でのプログラミングされた世界であることは絶対間違いない。
そして、この世界をプログラミングしたのは、やはり自分なのである。
『法華経』や『阿弥陀経』には、世界は無数にあると書かれているが、実際その通りで、自分がいる世界はその1つに過ぎず、この世界は自分が作った(プログラミングした)ものだ。
だが、世界をプログラミングしたのは自我ではなく、真我と呼ばれる真の自分で、仏教では、真我を仏と言ったのである。
それで、自我は、真我にプログラミングを依頼出来、真我は超優秀だから一瞬でどんなことでもプログラミングしてしまう。
そのために、自我は真我と折り合いをつけないといけない。
この折り合いをつける方法が、宗教では、戒律を守ったり、いい人でいることなどである。
荘子は、これ(真我と折り合いをつける方法)を「なりゆきにまかせること」「何もしないこと」と言い、矢追純一さんは「結果は決めて、考えることを放棄する」ことだと言ったわけである。
自我が何かを願えば、真我はたちどころに、そんな世界になるようプログラミングする。
それを、108さんなどが、「願った瞬間に叶う」と言ったのだろう。
そして、後はそのプログラムを実行すれば良いだけだ。
しかし、これがなかなか実行されない。
自我は、「どうすれば、このプログラムを実行出来るんだ?」と言い、プログラムがいつまでも実行されなくて嘆き、文句を言い、挙句、泣き出す。
実行させる必要などない。
実行を許せばいいだけなのに、その実行を許可せず止めているのも自我なのだ。
そして、荘子のように「なりゆきにまかせて何もしない」とか、矢追さんのように「考えることを放棄」すれば、プログラムは勝手に動く。
AIアート677
「幸運の訪れ」
Kay
私が小学5年生のある日のことだ。
私は午後3時に雨が降って欲しかった。しかし、天気は良く、よく晴れている。
私は「午後3時に雨が降ればいいなあ」と思い、「そのようになりますよう」と思ったら、午後3時に雨が降り出した。
これは創作でも何でもない事実であることを保証する。
つまり、午後3時に雨が降るようプログラミングすることを真我に依頼し、「そのように」と実行を許可したというか、実行を止めなかったのだ。
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(1)新装版 ヤオイズム(矢追純一)
(2)矢追純一は宇宙人だった!?(矢追純一)
(3)荘子(徳間文庫)
(4)荘子(PHP文庫))
(5)1冊ですべて身につくJavaScript入門講座
(6)入門者のExcel VBA―初めての人にベストな学び方
「プログラミングをすれば誰でも神様になれる」
これはどういう意味だろう?
コンピューターゲームのことを考えると良い。
コンピューターゲームはプログラムで出来ているが、そのゲームの世界がどんな世界であるかは、プログラマーが決める・・・というか、どんな世界であるかをプログラマーが決めなければならない。
ゲームのシナリオを決める人が直接プログラミング言語でプログラミングをしなくても、間接的には、このゲームのシナリオを決めた人がプログラミングをしたと言える。
たとえば、ゲームの中で、何か特別な呪文を唱えれば、攻撃力が上がったり、持ち金が増えたり、恋人が得られたりと良いことばかりが起こるような世界にプログラミングすることが出来る。
そして、それは、我々の世界でも同じである。
我々の世界も、何らかの意味で、プログラミングされたゲームのような世界であることは間違いないと言って良い。
世界が、よく言われるシュミレーテッド・リアリティというVR(仮想世界)のようなものであると考えなくても、我々の知識では思いつきもしないような構造でのプログラミングされた世界であることは絶対間違いない。
そして、この世界をプログラミングしたのは、やはり自分なのである。
『法華経』や『阿弥陀経』には、世界は無数にあると書かれているが、実際その通りで、自分がいる世界はその1つに過ぎず、この世界は自分が作った(プログラミングした)ものだ。
だが、世界をプログラミングしたのは自我ではなく、真我と呼ばれる真の自分で、仏教では、真我を仏と言ったのである。
それで、自我は、真我にプログラミングを依頼出来、真我は超優秀だから一瞬でどんなことでもプログラミングしてしまう。
そのために、自我は真我と折り合いをつけないといけない。
この折り合いをつける方法が、宗教では、戒律を守ったり、いい人でいることなどである。
荘子は、これ(真我と折り合いをつける方法)を「なりゆきにまかせること」「何もしないこと」と言い、矢追純一さんは「結果は決めて、考えることを放棄する」ことだと言ったわけである。
自我が何かを願えば、真我はたちどころに、そんな世界になるようプログラミングする。
それを、108さんなどが、「願った瞬間に叶う」と言ったのだろう。
そして、後はそのプログラムを実行すれば良いだけだ。
しかし、これがなかなか実行されない。
自我は、「どうすれば、このプログラムを実行出来るんだ?」と言い、プログラムがいつまでも実行されなくて嘆き、文句を言い、挙句、泣き出す。
実行させる必要などない。
実行を許せばいいだけなのに、その実行を許可せず止めているのも自我なのだ。
そして、荘子のように「なりゆきにまかせて何もしない」とか、矢追さんのように「考えることを放棄」すれば、プログラムは勝手に動く。
AIアート677
「幸運の訪れ」
Kay
私が小学5年生のある日のことだ。
私は午後3時に雨が降って欲しかった。しかし、天気は良く、よく晴れている。
私は「午後3時に雨が降ればいいなあ」と思い、「そのようになりますよう」と思ったら、午後3時に雨が降り出した。
これは創作でも何でもない事実であることを保証する。
つまり、午後3時に雨が降るようプログラミングすることを真我に依頼し、「そのように」と実行を許可したというか、実行を止めなかったのだ。
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