ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

シミュレーテッド・リアリティ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

モブキャラを脱出する鍵

太古の昔から、人間は、世界はどんなものであるかを考えてきたが、シミュレーション仮説が人気が出てきたように思う。
シミュレーション仮説とは、この世界がシミュレーテッド・リアリティ・・・つまり、コンピューターが作り出した超リアルな世界であるというものだ。
分かり易く言えば、世界はコンピューターゲームの世界で、我々はそこに登場するキャラクターだ。
映画の『マトリックス』やアニメの『ソードアート・オンライン』などが有名だが、似たようなものが今は無数にあるだろう。
あるいは、世界とか人生は映画のようなものだとか、演劇、小説、漫画のようであるとも言われる。
古代の賢者達が、世界は夢であるとか、幻想であると、ほぼ断言することもあった。

これらの考え方は、世界が実体でなく見せかけのものであるというところで一致している。
簡単に言えば、世界は作り物であるということだ。
ぞして、我々の思考とか心まで作り物であると言われるようになってきたし、証明もされてきている。

このコンピューターゲームのような作り物の世界を競馬場にたとえれば、我々は競走馬のようなもので、自分では「走っている」つもりだが「走らされている」だけで、我々が競馬の主催者になることはない。
世界が映画とすれば、我々は、超端役、超どうでもいい群衆役、通行人役で、今流に言えばモブキャラである。
ところが、なぜか、自分がモブキャラであることが苦痛で心を病む人が多くなってきたように思う。
自分がモブキャラだと、自己肯定感を持てないとか、承認欲求が満たされないということが辛いのである。
しかし、漫画の中の、その他大勢のキャラクターが「俺は立派なキャラでなくては嫌だ」と言っても・・・滑稽でしかない。
「貯金ゼロで年金6万円で家賃3万円で、老後も働かないといけない今の人生が嫌だ」と言われても、そんな設定になってるんだし・・・

それで、宗教や自己啓発セミナーや引き寄せ指導者が、キャラクターチェンジの方法を教えるのが、宣伝がうまくて流行ることもあるが、連中だって、そんな(キャラクターチェンジの)やり方は本当は知らない。
だが、胡散臭い宗教の教祖やセミナー講師も、真面目な哲学者も含め、鍵と考えるようになってきたことが思考を消すことだ。
自動で起こるよう設定されている思考を消すことで、何かが起こることが大体分かっている。
だが、思考が消えることって、一種のコンピューターのエラーであり、意図的に起こすことは出来ないように思う。
ところが、芸術家の直観とは凄いもので、エラーを活用することを考えついた者が、そこそこいる。
エラーとは、想定外の出来事だ。
「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツは、戯曲『カルヴァリー』で、イエスを十字架に架けたローマ兵に、こう言わせている。
「サイコロが我々の神だ。予想しないことでさえあれば何でも起こることが最善だ」

私が思うに、法然とか親鸞という人は、世界のエラーに気付いたのだと思う。
それで、割と独自の念仏の思想を教えたのであり、一休や良寛といった、やはり世界のエラーを感じた人がそれに同調したのだ。
現代で言えば、偉大な数学者であり、念仏を唱えていた岡潔もそうなのだと思う。
法然の『選択本願念仏集』や親鸞の教えを綴った『歎異抄』は、正直、論理の飛躍や破綻もあるが、それは方便と見た方が良い。つまり、わざとやっているのだ。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)イェイツ詩集(対訳) (W.B.イェイツ)
(4)まだらの鳥(W.B.イェイツ)※自伝的小説

パンドーラ
AIアート1686
「パンドーラ」
Kay

神ではないフリをやめるには

昨日書いた、『エイリアン・インタビュー』で語られたことが重要であると思うので取り上げる。
それは、我々が、
「神でないふりをすることで神をやめた」
ということである。
まず、何でそんなこと(神でないフリ)をしたのであるかだが、アメリカの女性作家で事業家であるチン・ニンチュウは、若い時に聖職者に教わったということだったと思うが、答は「楽しいから」であったと思う。
何でもすぐ実現してしまったら面白くないというのは、そんな気がしないでもない。
ところが、イギリス生まれのアメリカの哲学者で作家であるアラン・ワッツは、子供の1人遊びにたとえていた。
つまり、子供が1人で退屈な時、家族ごっこを始め、自分1人で、お父さん役、お母さん役、子供役、赤ん坊役を演じていたが、やがて、これが遊びであることを忘れ、本当にお父さんやお母さんや赤ん坊がいると思い込んでしまったというものだ(あくまでたとえなので、間抜け過ぎるなどとは思わないで欲しい)。
チェコ出身のイスラエルの発明家であったイツァク・ベントフは、もっと他愛ない遊びにたとえていたが、やはり、神様が2役の一人遊びを始めたようなものだと述べていた。

しかし、現代であればシミュレーションゲームにたとえるのが適当と思われる。
つまり、敵や味方や恋人や友人などが登場するゲームをしているうちに、ゲームを現実だと思い込んでしまったのだ。
『ソードアート・オンライン』のようなバーチャルゲームが出来たら、実際にそんなことが起こる可能性が高いだろう。
そして、これが肝心かもしれないが、今既にそうなっており、この世界はバーチャルなシミュレーションゲームである・・・即ち、シミュレーテッド・リアリティであるかもしれないということだ。
イギリスの哲学者ニック・ボストロムやアメリカの事業家イーロン・マスクが、この世界がシミュレーション世界であるとほぼ断言していることが有名であるが、当然、他にもそう思っている科学者や思想家などは大勢いる。

『エイリアン・インタビュー』で言う「自分が神ではないというフリをする」というのは、バーチャルゲーム内において、自分はただのゲームプレーヤーであり、ゲームの最高管理者ではないというフリをしているということだろう。
つまり、面白いゲームを作り、自分はその最高管理権限を持っているのに、そのことを忘れ、ただのプレーヤーとしてゲームをしている状態である。
そして、ゲームが下手なフリをし過ぎて、ロクでもない状態になり、本気で苦しがっているのだから世話がない(笑)。
それで、「ゲームをやめて管理者に戻る方法を教えて」とか言うのだが、そんなこと知るかである(笑)。

自分が管理者、あるいは、神であることを思い出す鍵は自分で残している。
それは、コツってやつである。
「このドアが開かないんだけど」
「ああ、そのドアの開け方にはコツがあるんだ。まずドアノブを左に少し回し・・・」
といったもので、あなたにも1つや2つあるだろう。
神であるあなたは、そんなところに、ゲームを終了させる鍵を設定したのだ。
簡単に言えば、誰も知らない、自分しか知らないことだ。
つまり、神しか知らないのだ。
それを見つけることである。
他にも方法はあるが、今回はこれを書いておく。

誓い
AIアート877
「誓い」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)エイリアン・インタビュー
(2)誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる(チン・ニンチュウ)
(3)高次意識界へのガイドツアー(イツァク・ベントフ)
(4)「ラットレース」から抜け出す方法(アラン・ワッツ)

世界をプログラミングする方法(神回)

1970年代に、当時はマイコン(マイクロコンピューター)と呼ばれることが多かったパソコン(パーソナルコンピューター)が登場した時、それでプログラミングを始めた若者が、こんなことを言ったらしい。
「プログラミングをすれば誰でも神様になれる」
これはどういう意味だろう?
コンピューターゲームのことを考えると良い。
コンピューターゲームはプログラムで出来ているが、そのゲームの世界がどんな世界であるかは、プログラマーが決める・・・というか、どんな世界であるかをプログラマーが決めなければならない。
ゲームのシナリオを決める人が直接プログラミング言語でプログラミングをしなくても、間接的には、このゲームのシナリオを決めた人がプログラミングをしたと言える。
たとえば、ゲームの中で、何か特別な呪文を唱えれば、攻撃力が上がったり、持ち金が増えたり、恋人が得られたりと良いことばかりが起こるような世界にプログラミングすることが出来る。

そして、それは、我々の世界でも同じである。
我々の世界も、何らかの意味で、プログラミングされたゲームのような世界であることは間違いないと言って良い。
世界が、よく言われるシュミレーテッド・リアリティというVR(仮想世界)のようなものであると考えなくても、我々の知識では思いつきもしないような構造でのプログラミングされた世界であることは絶対間違いない。
そして、この世界をプログラミングしたのは、やはり自分なのである。
『法華経』や『阿弥陀経』には、世界は無数にあると書かれているが、実際その通りで、自分がいる世界はその1つに過ぎず、この世界は自分が作った(プログラミングした)ものだ。
だが、世界をプログラミングしたのは自我ではなく、真我と呼ばれる真の自分で、仏教では、真我を仏と言ったのである。
それで、自我は、真我にプログラミングを依頼出来、真我は超優秀だから一瞬でどんなことでもプログラミングしてしまう。
そのために、自我は真我と折り合いをつけないといけない。
この折り合いをつける方法が、宗教では、戒律を守ったり、いい人でいることなどである。
荘子は、これ(真我と折り合いをつける方法)を「なりゆきにまかせること」「何もしないこと」と言い、矢追純一さんは「結果は決めて、考えることを放棄する」ことだと言ったわけである。

自我が何かを願えば、真我はたちどころに、そんな世界になるようプログラミングする。
それを、108さんなどが、「願った瞬間に叶う」と言ったのだろう。
そして、後はそのプログラムを実行すれば良いだけだ。
しかし、これがなかなか実行されない。
自我は、「どうすれば、このプログラムを実行出来るんだ?」と言い、プログラムがいつまでも実行されなくて嘆き、文句を言い、挙句、泣き出す。
実行させる必要などない。
実行を許せばいいだけなのに、その実行を許可せず止めているのも自我なのだ。
そして、荘子のように「なりゆきにまかせて何もしない」とか、矢追さんのように「考えることを放棄」すれば、プログラムは勝手に動く。

幸運の訪れ
AIアート677
「幸運の訪れ」
Kay


私が小学5年生のある日のことだ。
私は午後3時に雨が降って欲しかった。しかし、天気は良く、よく晴れている。
私は「午後3時に雨が降ればいいなあ」と思い、「そのようになりますよう」と思ったら、午後3時に雨が降り出した。
これは創作でも何でもない事実であることを保証する。
つまり、午後3時に雨が降るようプログラミングすることを真我に依頼し、「そのように」と実行を許可したというか、実行を止めなかったのだ。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新装版 ヤオイズム(矢追純一)
(2)矢追純一は宇宙人だった!?(矢追純一)
(3)荘子(徳間文庫)
(4)荘子(PHP文庫))
(5)1冊ですべて身につくJavaScript入門講座
(6)入門者のExcel VBA―初めての人にベストな学び方

もう知らないとヤバいこと

闇に飲まれつつあるこの世界では、もう魔法力を使えないとヤバい。
で、どうすれば魔法力を使えるのかというと、理性と感情の問題があり、少々ややこしい。
宗教的に説明して納得してくれる素直な人は良いが、宗教の教えというのは、教える方が不純だと本当には説得出来ないものだ。
そこでだ。
ある程度若いか、若いマインドを持っているなら、この世界が、『マトリックス』や『ソードアート・オンライン』のような仮想世界だと考えるのが良いと思う。
実際、この世界は仮想世界なのだから。
で、仮想世界を動かす魔法の使い方と言えば、コマンドを使うのだが、コマンドは、言葉やポーズや図形、あるいは、特別な感情だ。
何が有効かは、本来は、人に聞かなくても考えれば分かる。
これまでの人生で、思いがけず楽しい想いをした時、それを使ったはずだからだ。それを思い出すと良い。
だが1つ教えると、息を吸って止め、願う状態をイメージし、そうなるようコマンドを送る(心で言う)。そのコマンドは「なった」とか「よい」など、許可を示す言葉なら何でも良い。断定的に言うこと。
イメージし難い願いなら、願いを、願い、夢、希望などといった言葉に封じ込め、息を吸って止め、「願いがかなう」「なった」と心で言えば良い。
細かいところは自分で考えること。自分が、この世界の王であると思うと、自ずと分かるはずだ。

後は、ゲームを一切やったことがない私が言うのも何だが、ゲームで言うヒットポイント(生命力や保有エネルギーみたいなもの)が高くないと魔法力も弱い。
どうすればヒットポイントを高めることが出来るかというと、いろいろあるが、重要なものを挙げれば、意外かもしれないが知識を得ることだ。しかし、この仮想現実が情報で出来ていることを考えれば不思議ではあるまい。
ただ、下品な本みたいなものは情報の質が悪く、そんなものを取り込むと、持っているヒットポイントまで使い物にならなくなる。
細かくは説明しないが、神話や昔話の情報は強力である。日本人なら『古事記』や『遠野物語』を読むと良いと思う。
ヨガや仙道はヒットポイントを高めるが、他人から気を取るなんてことをやろうとすると、情報エネルギーの質が悪くなり、力を失くす。
腕振り運動をやると良い。








この世の仕組みがかなり分かってきた

既に、絵が描けなくてもイラストや漫画が描けるソフトウェアが存在し、そう遠くなく、こと絵に関しては、誰でも、プロ並み、あるいは、それ以上に描けるソフトが登場するだろう。
やがては、誰もが、リアルなCGの静止画や動画を自在に作れるようにもなる。
そうなると、新しいタイプのイラストレーターや画家、漫画家、そして、CGクリエイターが出て来るだろう。
それは、現在の一般的なイラストレーターとかCGクリエイターが必要なくなるということでもある。すぐではないかもしれないが、そんなに先のことでもないと思う。

さらに、その先で起こるのは、自分や他人が作った3Dムービーや3Dゲームの中のキャラクターに自分がなり、現実的な感覚を持って、その仮想世界で活躍することである。
その際、複数の人が、そのムービーやゲームに一緒に参加することも出来るし、自分以外の登場人物はAIということも考えられる。
そして、そんなムービーやゲームに感覚や精神がフルダイブ(完全没入)し、その仮想世界は現実世界と区別がつかないほどのクオリティになっていくだろう。
つまり、『マトリックス』や『ソードアート・オンライン』の世界が実現するのである。
それには、コンピューターと脳神経の接続が必要になるが、研究に大規模なリソースを割くことが出来れば、完成にそれほど時間はかからないと思う。
アメリカでは、倫理的な規制が研究の障害になるが、そのようなもののない大国が本気でやれば、短期間に驚くべき進歩をするかもしれず、アメリカの優秀な研究者も、そんな国に高額で雇われることがあり得、そうなれば、アメリカでも研究の規制を緩めるしかなくなる。

そういった仮想世界が実現すれば、可能性の上では、誰もが神になれるのである。
いや、この世界がすでに仮想世界であるという可能性を否定することは難しく、イーロン・マスクや哲学者のニック・ボストロムらが、この世界は、ほぼ100%の確率で、既に人工的な仮想世界(シミュレーテッド・リアリティという)であると断言していることがよく知られている。

このことを、もっと簡単に言えば、私が日頃言うように、この世界は漫画であり、我々は漫画の登場人物である。
漫画の登場人物の心は、作者の心の一部である。
哲学者や芸術家の中には、かなり昔から、それと基本的に同じようなことを感じていた人、あるいは、はっきり分かっていた人は少なくなかった。
近年では、詩人のW.B.イェイツがそうであったし、ニーチェも間違いなく分っていたと思う。
実を言えば、この私でさえ、小学4年生の時に、それに近いことにぱっと気が付いたのである。

我々の運命は、我々の意識の大本である作者次第であり、作者は神様のようなものである。
そして、ややこしいが、結局のところ、我々自身が作者なのである。
これは、昔から、一部の宗教家や神秘家が述べてきたことでもある。

その中で興味深いのは、江戸末期の神道家、黒住宗忠が、神様の開運を祈ったことだ。
普通の人には、人間が神様の開運を祈る意味が、さっぱり分からないだろう。
しかし、この世界が漫画で、自分が漫画の登場人物であり、自分の意識が、作者である神様の意識の一部だと知っていれば、それほど不思議なことではない。
作者は、自分のお気に入りの登場人物に集中し、様々な意味で、自分の調整を行おうとしたのである。
聖書や仏典に書かれた謎めいた記述も、「漫画ー作者ー登場人物」の関係で考えれば、ある程度分かると思う。

自分の意識の元を肯定することだ。
それには、自分を肯定しなくてはならない。
それには、モラルや良心が必要で、泣き言を言ってはならない。
そして、自分がそのようになろうと決意することは、既に作者が決めているのである。
自分の意識の元と言える魂の声を聞くようにすれば、神と一体なのであり、そうであれば、ただなりゆきにまかせることで、新しい世界を作り出せるだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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