太古の昔から、人間は、世界はどんなものであるかを考えてきたが、シミュレーション仮説が人気が出てきたように思う。
シミュレーション仮説とは、この世界がシミュレーテッド・リアリティ・・・つまり、コンピューターが作り出した超リアルな世界であるというものだ。
分かり易く言えば、世界はコンピューターゲームの世界で、我々はそこに登場するキャラクターだ。
映画の『マトリックス』やアニメの『ソードアート・オンライン』などが有名だが、似たようなものが今は無数にあるだろう。
あるいは、世界とか人生は映画のようなものだとか、演劇、小説、漫画のようであるとも言われる。
古代の賢者達が、世界は夢であるとか、幻想であると、ほぼ断言することもあった。
これらの考え方は、世界が実体でなく見せかけのものであるというところで一致している。
簡単に言えば、世界は作り物であるということだ。
ぞして、我々の思考とか心まで作り物であると言われるようになってきたし、証明もされてきている。
このコンピューターゲームのような作り物の世界を競馬場にたとえれば、我々は競走馬のようなもので、自分では「走っている」つもりだが「走らされている」だけで、我々が競馬の主催者になることはない。
世界が映画とすれば、我々は、超端役、超どうでもいい群衆役、通行人役で、今流に言えばモブキャラである。
ところが、なぜか、自分がモブキャラであることが苦痛で心を病む人が多くなってきたように思う。
自分がモブキャラだと、自己肯定感を持てないとか、承認欲求が満たされないということが辛いのである。
しかし、漫画の中の、その他大勢のキャラクターが「俺は立派なキャラでなくては嫌だ」と言っても・・・滑稽でしかない。
「貯金ゼロで年金6万円で家賃3万円で、老後も働かないといけない今の人生が嫌だ」と言われても、そんな設定になってるんだし・・・
それで、宗教や自己啓発セミナーや引き寄せ指導者が、キャラクターチェンジの方法を教えるのが、宣伝がうまくて流行ることもあるが、連中だって、そんな(キャラクターチェンジの)やり方は本当は知らない。
だが、胡散臭い宗教の教祖やセミナー講師も、真面目な哲学者も含め、鍵と考えるようになってきたことが思考を消すことだ。
自動で起こるよう設定されている思考を消すことで、何かが起こることが大体分かっている。
だが、思考が消えることって、一種のコンピューターのエラーであり、意図的に起こすことは出来ないように思う。
ところが、芸術家の直観とは凄いもので、エラーを活用することを考えついた者が、そこそこいる。
エラーとは、想定外の出来事だ。
「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツは、戯曲『カルヴァリー』で、イエスを十字架に架けたローマ兵に、こう言わせている。
「サイコロが我々の神だ。予想しないことでさえあれば何でも起こることが最善だ」
私が思うに、法然とか親鸞という人は、世界のエラーに気付いたのだと思う。
それで、割と独自の念仏の思想を教えたのであり、一休や良寛といった、やはり世界のエラーを感じた人がそれに同調したのだ。
現代で言えば、偉大な数学者であり、念仏を唱えていた岡潔もそうなのだと思う。
法然の『選択本願念仏集』や親鸞の教えを綴った『歎異抄』は、正直、論理の飛躍や破綻もあるが、それは方便と見た方が良い。つまり、わざとやっているのだ。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)イェイツ詩集(対訳) (W.B.イェイツ)
(4)まだらの鳥(W.B.イェイツ)※自伝的小説

AIアート1686
「パンドーラ」
Kay
シミュレーション仮説とは、この世界がシミュレーテッド・リアリティ・・・つまり、コンピューターが作り出した超リアルな世界であるというものだ。
分かり易く言えば、世界はコンピューターゲームの世界で、我々はそこに登場するキャラクターだ。
映画の『マトリックス』やアニメの『ソードアート・オンライン』などが有名だが、似たようなものが今は無数にあるだろう。
あるいは、世界とか人生は映画のようなものだとか、演劇、小説、漫画のようであるとも言われる。
古代の賢者達が、世界は夢であるとか、幻想であると、ほぼ断言することもあった。
これらの考え方は、世界が実体でなく見せかけのものであるというところで一致している。
簡単に言えば、世界は作り物であるということだ。
ぞして、我々の思考とか心まで作り物であると言われるようになってきたし、証明もされてきている。
このコンピューターゲームのような作り物の世界を競馬場にたとえれば、我々は競走馬のようなもので、自分では「走っている」つもりだが「走らされている」だけで、我々が競馬の主催者になることはない。
世界が映画とすれば、我々は、超端役、超どうでもいい群衆役、通行人役で、今流に言えばモブキャラである。
ところが、なぜか、自分がモブキャラであることが苦痛で心を病む人が多くなってきたように思う。
自分がモブキャラだと、自己肯定感を持てないとか、承認欲求が満たされないということが辛いのである。
しかし、漫画の中の、その他大勢のキャラクターが「俺は立派なキャラでなくては嫌だ」と言っても・・・滑稽でしかない。
「貯金ゼロで年金6万円で家賃3万円で、老後も働かないといけない今の人生が嫌だ」と言われても、そんな設定になってるんだし・・・
それで、宗教や自己啓発セミナーや引き寄せ指導者が、キャラクターチェンジの方法を教えるのが、宣伝がうまくて流行ることもあるが、連中だって、そんな(キャラクターチェンジの)やり方は本当は知らない。
だが、胡散臭い宗教の教祖やセミナー講師も、真面目な哲学者も含め、鍵と考えるようになってきたことが思考を消すことだ。
自動で起こるよう設定されている思考を消すことで、何かが起こることが大体分かっている。
だが、思考が消えることって、一種のコンピューターのエラーであり、意図的に起こすことは出来ないように思う。
ところが、芸術家の直観とは凄いもので、エラーを活用することを考えついた者が、そこそこいる。
エラーとは、想定外の出来事だ。
「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツは、戯曲『カルヴァリー』で、イエスを十字架に架けたローマ兵に、こう言わせている。
「サイコロが我々の神だ。予想しないことでさえあれば何でも起こることが最善だ」
私が思うに、法然とか親鸞という人は、世界のエラーに気付いたのだと思う。
それで、割と独自の念仏の思想を教えたのであり、一休や良寛といった、やはり世界のエラーを感じた人がそれに同調したのだ。
現代で言えば、偉大な数学者であり、念仏を唱えていた岡潔もそうなのだと思う。
法然の『選択本願念仏集』や親鸞の教えを綴った『歎異抄』は、正直、論理の飛躍や破綻もあるが、それは方便と見た方が良い。つまり、わざとやっているのだ。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)イェイツ詩集(対訳) (W.B.イェイツ)
(4)まだらの鳥(W.B.イェイツ)※自伝的小説

AIアート1686
「パンドーラ」
Kay