ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

サン・テグジュペリ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「みんな優しいなあ」という真言

昨日は、朝から昼過ぎまで、ずっと不運続きの日だった。
どんな時も、動じてはいけない、人生は夢のようなものだと思おうとしても、いざ渦中にいると、放っておいたら抜き差しならなくなるし、人に迷惑もかけるので、必死で動き回ることになる。
そんな時、自分はつくづく馬鹿で無能だと情けなくなる。
しかし、事が片付き・・・明らかに「終わり」という合図のようなことが起こると、自分がミスをしたというよりは、避けられなかったのだと思う。

昔の、イギリスのSFテレビドラマでこんな場面があった。
ある若い女性指揮官が、宇宙人のUFOと交戦中の戦闘機に、コンピューターの指示通りの指令を出したところ、その戦闘機がUFOに激突して、パイロットが死亡した。
彼女は正しく任務を行ったつもりであったが、どこかにミスがあったと判断された。
ところが、彼女はまた、難しい選択を迫られる戦闘状況に直面する。
その時、彼女はなぜか、コンピューターの選択とは別の戦闘車に攻撃命令を出し、その戦闘車は無事、勝利を収める。
彼女は、別に、「コンピューターに逆らった」とか、恣意的(勝手きまま)な指令を出したのではない。
ただ、コンピューターの指示より、自分の判断が直感的に正しいと思ってそうしたのだった。
彼女は、後で、攻撃命令を出した戦闘車のパイロットに、「コンピューターは別の戦闘車に攻撃させるよう指示していたが、私の判断で、あなたに行かせた」」と明かした。
打ち明けられたパイロットは平然として、「そんなこともある」と答えた。
彼(パイロット)は、彼女を信頼していたのだ。

これは、理屈と共に感情を無視してはならないということを表している。
コンピューターの指示は理屈のみから出たものだ。
若い女性指揮官がミスした時、彼女は、気持ち的に納得しないまま指令を出したのだ。
そして、後のものでは、コンピューターの指示が論理的に正しいことを認識しつつ、自分の感情を無視しなかったのだ。
そして、やはり、大切なことは信頼関係だろう。

どんな仕事も、そもそも、気持ちが入っていないと、必ずおかしな間違いをする。
おかしな間違いが起こるなら、気持ちが入っていないのであり、それなら、そんな仕事はやめた方が良い。
だが、私が失敗をしてみて思ったのは、みんな優しいなあということだった。
別に、誰かが、私のミスをかばってくれたというのではない。
私が、「みんな優しいなあ」と思ったことで、不思議なことにミスがなかったことになってしまったのだ。
これを、意識の切り替えというのである。
あなたも、何かうまくいかないことがあったり、困ったことになったら、意識を切り替えると良い。
すると、「あれ、さっきまで何かまずいことが起こっていたような気がするのだが・・・?」という状態になる。
世界が変わってしまうのだ。
まさに人生は夢である。

一人の人間が、
大聖堂のイメージを心に抱いて
じっと岩山を見つめる時、
その岩山は
岩山であることをやめる。

サン・テグジュペリ
~『聖なる知恵の宝石箱(PHP)』より引用~

無理矢理、意識を変換しようなどと思ってはならない。
意識はあなたの自由にはならない。
単に、上のテグジュペリの言葉が真実であることを思い出せば良い。
真実の言葉を真言と言うのである。
よって、この言葉をゆっくりと丁寧に繰り返せば、あなたは真言を唱えたのであり、真言は速やかに効果を示するだろう。
あるいは、昨日の私のように、「みんな優しいなあ」という真言を思うと良い。
みんな優しいのである。
あなたがそう思う限り。









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『絵のない絵本』、『銀河鉄道の夜』、『星の王子様』に秘められたもの

自分の姿を見るためには鏡を使うか、カメラで撮影して見なければならない。
ところが、思い出の記憶には、自分の視点で見ているものと共に、自分を含めた光景というものもある。
辛い記憶には自分視点のものが多いが、楽しい記憶には、自分が思い出の世界に含まれていることが多い。
ただ、あまりに辛い思い出の場合は、そこに自分が見えていたりするものだ。

また、こんなことがある。
興味のある人物と対話していると、相手の意識の中にある自分の姿が浮かんでくることがよくある。
相手にとって、自分がどう見えているか、それに対して相手がどう感じているかが分かる気がするのである。
これは、一般には想像であるということになるが、相手の視点に立つと、自分では分からない自分のことが分かることすらあるのである。
普通の考えからすれば、それは不思議な、あるいは、奇妙なことだ。
しかし、私は思うのだ。
「相手の視点に立って」などとよく言うが、これは、「自意識に囚われるな」と言った方が良いのかもしれないと。

さらに、こんな感覚も理解できるかもしれない。
小説や映画を熱中して読んだり見たりしていると、自分が登場人物になりきってしまうことがある。
その時、登場人物の意識と自分の意識に区別はなくなり、自分はその登場人物の視点で見、感じ、考えているのだ。

これらは、人間の想像力というものの作用と考えることができるのだろうが、想像力とは、我々が普通に考えるより、神秘的で超越的なものかもしれない。
大切な想像力を、妄想や迷妄にしてはならない。
真の想像とは、うんうん唸りながら考えるようなことではない。
真の想像とは、自然に起こるものだ。

ところで私は、子供の時、何より面白い遊びと思っていたのは、他人の意識に乗り移ることだった。
しかし、他人の意識を想像し、その人として見、感じ、考えることは、実は、あまりに奇妙で、なぜか心が騒ぐので、長くは続けられないのだった。
そして、思ったのだ。
「他の人には意識はない。あるように見えるだけだ。意識は僕しか持っていない」
おそらく、それは正しいのだろう。
世界の中、この宇宙で、意識を持っているのは自分だけだ。
他の人も意識を有しているように見えるのは、映画や小説の中の人物に意識があると思うことと同じだ。
しかし、最近になって分かったのは、他の人も、私の意識を共有しているということだ。
そして、本当は、自分の意識といった、個人の意識なんてものはなく、自分もまた、1つの意識を共有しているに違いない。
そうであれば、最初のところに書いた、思い出の中に自分がいたり、対話している相手の意識の中にある自分が見えるというのは不思議なことではなく、自然なことだ。

その大きな1つの意識のことを、とりあえず、普遍意識と言おう。
アンデルセンの『絵のない絵本』で、月が語ることは、アンデルセンが普遍意識の視点で思ったことなのだろう。
飛行機乗りだったサン・テグジュペリは、空から地上の人間のことを考える時には、自然に普遍意識に戻り、そこで思ったことを『星の王子様』の小さな王子様に投影させたのだろう。
また、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、悲しみと共に、土と草の上で眠ってしまったジョバンニは、カムパネルラの心と共鳴して普遍意識になり、本当に宇宙に旅立ったもので、それは賢治自身の体験でもあるのだと思う。
彼らを生年(あるいは没年)の順に言うと、こうなる。
・ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805年4月2日 - 1875年8月4日)
・宮沢賢治(1896年8月27日 - 1933年9月21日)
・アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900年6月29日 - 1944年7月31日)
彼らの書いた、『絵のない絵本』、『銀河鉄道の夜』、『星の王子様』を、何百回でも読みたいと思うのは不思議なことではない。
読者は、これらの作品の、特に1人ではないのだが、容易に作中の人物の心と同調することができ、個人としての自分を超越し、普遍意識に触れるのである。

以下の最後にご紹介したのは、『イーハトーヴ交響曲』の第5楽章『銀河鉄道の夜』のMP3ミュージックである。PCやスマートフォンにダウンロードしたり、Amazonクラウドにファイルを置いたままで聴ける。オーケストラと合唱、そして、初音ミクの歌声が美しい。本当に、『銀河鉄道の夜』が現出したのだと感じる。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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