ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ケント・ギルバート

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

究極の大人の対応

世界がおかしくなっていると思ったら、自分がおかしくなっているのかもしれない。
おそらく、かなり多くの人が、世界がおかしくなってしまったと感じている。
世界は自分が創り出しているのだから、それは自分がおかしくなっているのだが、「ま、金ならあるし」と思っているとお金に困ることはない。
そんなことに気付くために、ちょっとおかしくなっていると思った方が良いかもしれない。

ケント・ギルバートさん(1952~)というカリフォルニア州弁護士をご存じの方も多いと思う。
特に若い頃はハンサムなアメリカ人で日本語も流暢であり、バラエティー番組にも多く出演して、大衆にも大変な人気者だった。
弁護士であり、法務博士でもあり、頭が大変に良く、親日家で日本を高く評価する日本語の著書も多い。

私は数年前から、ギルバートさんのYouTube番組が気になって見ているが、最近になって、さすがと思うことがあった。
私がギルバートさんのYouTube動画を見るようになったのは、2020年のアメリカ大統領選挙のことをギルバートさんがYouTubeでよく話していたからである。
当時、大統領選挙は、トランプ大統領とバイデン候補の対決となり、開票直後はトランプ大統領が優勢と思われ、トランプは早々と勝利宣言を行ったが、バイデンが急速に逆転する。
トランプが選挙の公正性を疑う発言を始めたのはこの時からである。
その時、ギルバートさんは選挙不正(バイデン側が選挙を不正に操作した)の証拠と思われる動画などの情報を集めてYouTubeで発信し、バイデン側を強く非難し怒りを現すこともあった。
それで、日本のトランプファンも、ギルバートさんを仲間と見なすようになったのだと思う。
ところが、バイデンの勝利が確定した後も選挙不正を訴え、負けを認めないトランプに対し、ギルバートさんは、選挙に不正があったかどうかはともかく、今は早く引き下がり、4年後の大統領選を目指した方が良いと言い、多くのトランプ支持者をがっかりさせた。
そして、これは私も驚いたのだが、その後すぐ、ギルバートさんは、手の平を返すように、選挙に不正は全くなかったと断言した。
私は、アメリカの弁護士である彼の立場では、選挙に不正があったと言うのはまずいのかもしれないとか、アメリカ政府から脅しでもあったのだろうかとか、また、ビジネスの関係からも民主党(バイデン政権)の批判は良くないのだろうかとか考えた。
そして、選挙不正はないと言う彼の表情は、苦しさは感じないながら、わざとらしさや不自然さは感じていた。

そして、最近のテレビ番組のYouTube配信を見たが、ギルバートさんは、2020年アメリカ大統領選挙に不正があったと認めるような発言をしていたように思う。
今はやや緩くなったと思うが、以前はYouTubeでアメリカ大統領選挙の不正を主張した動画は削除対象で、テレビでは今でも、「トランプが選挙に不正があったと根拠なく主張している」という言い方を強制されているのだと私は推測している。
だから、ギルバートさんの話は、特にテレビ番組ではちょっとまずいと思ったものである。

ところが、そのテレビ番組でギルバートさんは実に素晴らしい発言をしている。
これは全ての人が聞いた方が良いと思う。
それは、こんな話だ。
1960年の民主党のJ.F.ケネディと共和党の現職副大統領リチャード・ニクソンとの大統領選挙は歴史的な接戦の末、ケネディが勝利した。
ギルバートさんは、この選挙は不正でケネディが勝ったのだと断言した。まあ、そう確信している識者も多い。
及川幸久さんの以前のYouTube動画で見たが、1961年に行われた、大統領選挙の結果を承認する上下院合同会議で、上院議長でもあるニクソンは(副大統領は上院議長を兼ねる)上院議長権限により、選挙結果の承認を拒否するつもりでいたが、大統領であったアイゼンハワーは「それはアメリカを大混乱させる」と言って、ニクソンにそれをやめさせたらしい。
面白いことに、2021年1月の上下院合同会議では、トランプ大統領は上院議長であるペンス副大統領に、選挙結果の承認を拒否させるつもりでいたらしい。だが、ペンスは選挙結果を粛々と承認し、結果、トランプと決裂したようだ。1961年のアイゼンハワー大統領とニクソン副大統領の時と反対である。
ギルバートさんは、アイゼンハワー大統領の判断を高く評価していた。
ニクソンは選挙不正があったと思っても、結果が出たら引き下がるべきであると言うのである。
そして、トランプもそうすべきであったとギルバートさんは言う。
だが、そうしないままで来たトランプ。
それがどんな結果になるかは、今後明らかになる。

月の光
AIアート727
「月の光」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)まだGHQの洗脳に縛られている日本人(ケント・ギルバート)
(2)日本が消失する(ケント・ギルバート)
(3)いま世の中で起きている「本当のこと」(及川幸久)
(4)いま世界を動かしている「黒いシナリオ」(及川幸久)
(5)アメリカの陰謀: ケネディ暗殺と『ウォーレン報告書』
(6)トランプの真実: トランプ・ファミリーとホワイトハウスの素顔

賢い人は疑う

私は中学1年生の時、いろんなところで「探偵は何でも疑う」と聞き、真実を探す者は何でも疑うのだという考え方を覚えた。
その考え方も疑ってはいるが(笑)。
昨日、久々に、その言葉を聞いた。
カリフォルニア州弁護士、ケント・ギルバートさんが、YoiuTubeの中で、
「私は弁護士で、疑うのが商売です」
と言われていたのである。
現在、アメリカ大統領選挙はまだ終わっておらず、一応は、バイデンが次期大統領だという流れになっている。
ギルバートさんは、投票日直後あたりは、「選挙で大きな不正があった」ことを、事実のように話し、非常に憤慨している様子も見せたが、ある時から態度をぱっと変え、「不正の証拠は全くない」「トランプ弁護団の戦況は悪い」と淡々と述べるようになった。
そして、まるで言い訳のように「私は弁護士ですから、弁護士の立場ではこう言うしかない」と言うのだった。
ただ、ギルバートさんは、自分もトランプが好きで、トランプの再選を心から願っているとは言っておられた。
ギルバートさんの急変に対し、あるジャーナリスト(らしい)が、「ケントさんは圧力をかけられている」と言っていた。まあ、それは疑っているが(笑)。

私もトランプ支持で、バイデンが大統領になったら、日本も世界も危ない(本音では「終わり」)と思っているが、それでも、YiuTubeに沢山ある「トランプさんは必ず勝ちます。安心して下さい」と言い、その理由を自信たっぷりに語るのを、実を言うと私は、「疑ってはいないが、信じてもいない」のである。
シドニー・パウエルが、「選挙不正の確固たる証拠が沢山ある」と言うのも、私は今のところ、話半分以下に思っている。
もちろん、新聞やテレビしか見ない人は、1月にバイデンが大統領になると、全く疑うことなく信じているだろうが、私は日本のマスコミは全く信じていないので、そんなこと(バイデンの大統領就任が確定)を信じることも全くない。
しかし、ルドルフ・ジュリアーニ(トランプの個人弁護士)を見る度に、「昔はニューヨークの英雄的な市長だったが、もう老いぼれているのではないか」と感じる。
敵さんのやり口はずさんだが、力技は凄い。
だから、真実は明らかであるが、法的な裁判で勝てるかどうかは全く別問題であり、トランプ陣営の戦況が厳しいことは、法律に強くない私でも解る。

賢い人は疑うものである。
そして、賢い人の真似をして、なるべく疑うようにすれば、馬鹿な失敗を免れることが出来る可能性が高まる。
全く賢くない私は、それで何度も救われた。
プログラマーやシステムエンジニアにだって必須の考え方と思う。
でないと、ロボットは原子炉の壁を破って出てきてしまい、核ミサイルは誤爆し、人工衛星は落ちてしまう。
フランスの哲学者・数学者・物理学者のルネ・デカルトの『方法序説』は大変に素晴らしい知恵の書であるが、この本での疑いっぷりは半端ない。
「疑いようがないほど明白でない限りは、全て虚偽と決めつける」
と言う。
早い話が、これでは全て虚偽になってしまう。
だが、デカルトはやはり天才だった。
何と、「なぜ、何でも疑えるのか?」を疑ったのだ。
そして、それは、自分の中に、疑いようのないもの、絶対的な何かがあるからだとするしかなかった。
それが神である。
これがデカルトの天啓で、これによって、デカルトは、
「疑っている我は、確かに存在する」
と言い、これが、
「我思う、ゆえに我あり」
という有名な命題として知られている。
だから、「我思う」は、本当は、「我疑う」なのだと思う。

デカルトの天啓は、鴨長明の『方丈記』の最後の部分・・・世間を離れ、自然の中で清貧な生活を送り、すっかり聖人にでもなったような気でいたが、ある朝、相変わらず自分は、全くの穢れた凡夫であると思い知って愕然とし、その時、自然に「南無阿弥陀仏」という念仏が出てきた・・・と、非常に似ていると私は思う。
説明は難しいが、念仏はやはり真実なのである。
これは、証明しようがなく、根拠もないので(多少ならなくもないが)、疑おうと思えば疑える。
と言うより、嘘と言えば嘘である。
だが、「嘘を信じている」と楽しそうに言える嘘である。








マスコミに洗脳されて我々は力を失っている

アメリカのドナルド・トランプ大統領に対し、ネガティブなイメージを持っている人が、日本でもアメリカでも多いと思う。
自分や友人がトランプに何か迷惑をかけられた訳でもなく、何か根拠ある理由がある訳でもない普通の人が平気で、
「もっとまともな人に大統領になって欲しい」
「あれ(トランプ大統領)はひどいやつだね」
などと平気で言う。
良くても、
「人間性は最悪だけど、実行力がありそうだね」
と言ったりすると思う。

これは、マスメディア(主にテレビ)によって押し付けられたイメージなのである。
洗脳、マインド・コントロールと言って良いだろう。
実際、アメリカのテレビ番組でも、トランプに関する報道では、それとなく、時には、露骨に、トランプの人格を貶める言葉を平気で使っている。
日本のテレビのワイドショー番組では、偉い先生方や、普段は公平な態度を取るコメンテーターらが、トランプの人間性をあげつらうような言葉を平気で使う。
そんなものを見れば、我々普通の人が、トランプはならず者の悪い奴というイメージを持ってしまうのも仕方がないかもしれない。

さらに、アメリカでは、英雄的な芸能人(歌手、映画スター、映画監督)らが、バイデンの応援という名目でトランプの人格否定を平気でするが、その影響の大きさは大変なものと思う。

ところが、私も、そんなトランプに対するネガティブな情報を受けているに関わらず、トランプに対するマイナスイメージは一切ない。
無論、トランプが人格者であるかどうかは、彼がならず者であるかどうかと同じで、私が知るはずがない。
しかし、私には、トランプが非人格者であるとか、品性がないという認識も全くないのだ。
むしろ、トランプの人格を否定するスターや先生方やワイドショーの人気者達にマイナスの印象を持つのである。
特に、トランプを虫けらのように言うヒラリー・クリントンを見て、あまりの醜さに(外見は美人だが)ぞっとしたし、悪くないイメージを持っていたはずのバラク・オバマも嘘つきに見えてしまって仕方がないのだ。

バイデンが演説で、自分には品性があって、トランプには品性がないといったことを堂々と言っているのを見て、私には、バイデンは何て品性がない男だろうと思ったのだ。
自分に品性があると言う品性のある人間なんているのかい?
そんな品性のない人間に品性がないと言われる人間(この場合、トランプ)には品性があるのだなあと、私なら思うのだ。

ケント・ギルバート氏のように、アメリカや日本のマスコミのトランプに対するネガティブ報道に断固抗議する数少ない人もいる。
そのように、彼はマスコミに加担しないので、テレビにはあまり呼ばれないのかもしれないが、今はYouTubeもあり、彼は真面目な話しかしないので、爆発的に人気があるとは言わないが、チャンネル登録者は10万人以上はいる。
もちろん、著書は多く、新聞・雑誌にもコラム等をよく書いていると思う。

こういったことから考えられるが、有名人は、いったん、マスコミで悪いイメージを広められたら、もう終わりである。
だから、いかなる有名人もマスコミに逆らえないのだと思う。
よって、ワイドショーのコメンテーター達も、マスコミの方針に沿ったことしか言えないのかもしれない。特に司会者クラスはそうだろう。
昔、アナウンサーの徳光和夫氏が、テレビで、クビ覚悟で長嶋茂雄監督に関することで読売巨人軍を批判したが、読売にたてついたのだから人生終わっても当然だったが、国民的英雄の長嶋茂雄が味方になってくれたことで命拾いしたのだと思う。

そして、マスコミがネガティブな報道で誰かを悪者に仕立て上げるのは、学校のイジメと全く同じ構造なのだと思う。
私の見解では、アメリカのスター達は、そんなことに加担しているのであると思う。

マスコミによるマインド・コントロールは、多少は認識されているのだと思うが、結局のところ、その力は今も強大であるということと思う。
今はSNSがあると言っても、マスコミも(国とタッグを組んで)SNSの支配戦略を進めているので、SNSが必ずしも完全に公平であるとは言えないかもしれない。

もういい加減、マスコミのマインド・コントロールを脱しよう。
テレビを見ると馬鹿になるというのは、私は本当だと思う。
たまにテレビを見たら、番組といい、CMといい、「よくこんな馬鹿げたものを放送するものだ」と、心底呆れるし、恐ろしいと思う。
そして、人間は、他者に精神支配されるほど力を失うのである。これは確かと思う。
そして、これこそが、日本、アメリカを問わず、エリート達の目的であるかもしれない。
少なくとも、「肩書が立派な先生が言ってるから」、「人気者が言ってるから」、「スーパースターが言ってるから」という理由で、是非の判断をすることは、死んでもしないようにしようと、私は思っている。








やって良いことと悪いことの区別がついていない私達

今日、10月31日は、ケルト民族の大晦日であるらしく、明日がケルト民族の新年ということと思う(よく知らないが)。
レアード・コーニクの小説で、13歳の時のジョディ・フォスターの主演で映画にもなった『白い家の少女』は、主人公の少女リンの14歳の誕生日である10月31日から物語が始まる。
イギリスから越してきたリンはハロウィンのことを知らなかったが、それは、イギリス人だから知らないのではなく、リンが知らなかっただけだろう。
リンは、自分の誕生日を自分1人で祝うためにケーキを作ったのだが、子供の代わりにお菓子を取りに来た中年の男にケーキを分けてやることになってしまう。早くその男を帰らせたかったからだ。
(その男は変質者で、その時から最後までリンを苦しめる)

日本でも、ハロウィンパーティーが盛んになっているらしく、今夜は渋谷あたりが混雑し、マナーを知らない者達が迷惑をかけるらしい。
ハロウィンパーティーでは、お化けの仮装をするのが本筋と思うが、多少、魔的なものが入っていれば何でも良い雰囲気になっているかもしれない。
日本のハロウィンは、誰かが儲けるために利用した薄っぺらいものではないかと思う。私は全く興味がない。

ところで、ケント・ギルバートという、日本語が上手いアメリカ人の弁護士がいて、若い頃はハンサムだったこともあり、お茶の間でも非常に人気があったし、今も日本で活躍している。
そのケントが昔、テレビで、次のように言っていたことをよく覚えている。
「日本では、子供は天使だという考え方だと思うが、アメリカでは子供は悪魔で、悪魔でなくなるように躾なければならないという考え方です」
私は、「子供は天使」主義者だったから、反発を感じたが、ケントの言葉を印象的に感じたので、よく覚えていたのだ。
今は、ケントの意見に全く賛成だ。
私は、人生でかなり苦労したが、その理由が、私が、日本で言うところの天使で、つまり、躾けられなかった悪魔だったからだと分かるのである。
これは、一般には「常識がない」と言うが、「常識」の意味合いは複雑で、私は「悪い常識は必死で捨てる」ことに情熱を燃やした。
しかし、私は「良い常識」を持っていないので、いろいろ痛い目に遭った訳だ(笑)。
「良い常識」とは、「やって良いことと悪いことの区別がつく」ことであり、私は、この区別が付かなったし、今も、かなり怪しいのだろうと思う。
そして、世の中には、子供から大人まで、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」者が非常に多いのだろう。

「ハロウィンパーティーで賑わう」と聞くと、私が嫌な気分になるのは、「やって良いことと悪いことの区別がつかない」人間が多いので、迷惑をかけられる人が多いことが分かるからだ。
それなら、そんなもの、無い方が良い。

「やって良いことと悪いこと」には、大雑把に次の段階がある。
◆家庭での「やって良いことと悪いこと」
◆学校での「やって良いことと悪いこと」
◆社会での「やって良いことと悪いこと」
で、その後は、社会の範囲が広がる、つまり、地方レベルから全国レベル、そして、外国、世界と広がっていくのだが、とりあえず、日本の中あたりまでとする。
家庭で、親が、「やって良いことと悪いこと」がついていない愚か者の場合、子供が可哀そうだ。
あるいは、親がそんなに馬鹿な訳ではないかもしれないが、子供を甘やかして、本当はやってはいけないことを許してしまった場合も、子供が可哀そうだ。
その子供は、家庭で教わった「やって良いことと悪いこと」が学校では通用せずに、痛い目に遭う。
痛い目に遭って、学校での「やって良いことと悪いこと」を習得すれば良いが、その愚かな子供が、「学校の方が悪い」として、学校に背を向ける場合もある。
そして、悲劇的なことに、学校の先生には「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない者が多い。
学校という閉鎖社会の中にずっと居て、社会で通用する「やって良いことと悪いこと」の区別を学ぶ機会がないからだ。
そして、今は、女生徒に猥褻行為をする男の教師など、もう珍しくもないというほど、「モラル」と言うよりは、家庭レベルでの「やって良いことと悪いことの区別」がついていない教師が多いのだ。
『バカをつくる学校』という名著があるが、学校という場所は、「やって良いことと悪いことの区別」が全くつかない教師だらけであるのだから、学校に行けば馬鹿になるのが当たり前である。

そして、いよいよ社会に出て、社会での「やって良いことと悪いこと」を学ぶことで、ようやく一人前になる。
社会の中にも、それを習得していない大人は多いのだが、それでも、家庭や学校よりはまともな「やって良いことと悪いこと」のルールが支配している。
ごく若いうちは、社会での「やって良いことと悪いこと」の区別がついていなくても、大目に見てもらえる場合もある。
しかし、その若者が、学校レベル、ましてや、家庭レベルでの「やって良いことと悪いこと」の区別がついていない場合、本当は殴って教えるしかない。そのくらい、その若者は危ない状態なのだから。
だが、なかなかそうはならない。
家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかない若者は、本人も、周囲にとっても迷惑・・・と言うより害悪だ。そして、そのまま中年、老人になるという悲劇も少なくない。
私がまさに、家庭レベルの「やって良いことと悪いことの区別」がつかないまま社会人を続けたので、本当にトラブルが多かった(笑…笑いごとではないが)。

「やって良いことと悪いこと」
この区別がついていない大人も沢山いる。
しかし、まず、この区別がついていないと、幸福にはなれない。
どれほど頭が良くても、知識や技術があっても、容姿が美しく、また、スポーツや武道が出来るという美点があってもである。
人間として「やって良いことと悪いことの区別」がついていないと、若いうちは、周囲に迷惑をかけながらでも、見た目はうまくいくこともあるが、所詮、ロクな目に遭わない。
そして、「やって良いことと悪いことの区別」がつかないと、「引き寄せ」をいくらやっても無駄である。
いやまあ、それが「やって良いことと悪いことの区別」がつかない者の実感である(笑)。
不幸にして、親に「やって良いことと悪いことの区別」を教えてもらえなかった(私のような)出来損ないは(笑)、まず、何としてでも「やって良いことと悪いことの区別」を付けなければならない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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