ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

グリム

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

白雪姫になる方法

白雪姫は、7人の小人の家で、小人達のために家事をしていた。
それで、悪い女王様が、白雪姫を殺すために何度もやって来たり、そして、素晴らしい王子様が現れるという、エキサイティングなことが続いたから良かったようなものの、魔法の鏡も余計なことを言わず、王子様も、そんな辺鄙な森の中にやって来なければ、白雪姫はどうなっていただろう?
まさか、一生、小人達の家政婦でいる訳にもいくまい。

しかし、白雪姫は、自分がどうなるかなどは、全く考えずに、ただ、義務として、小人達のために家の仕事を真面目にしていたのだ。
確かに、好きで掃除や洗濯などはしないだろう。
だが、それが自分の義務と認めて、真面目にやったのだ。
だから、苦しいこともあったが、最後は、王子様と結ばれたのだ。

シンデレラ(サンドリヨン)だって、家事や、継母・義姉達の世話を、不満を言わずに、ただ義務としてきちんと行ったのだ。

白雪姫やシンデレラのように、義務をきちんと果たしたとて、それでどうなるかなんて分からない。
しかし、どうにかなると信じるしかない。
そして、どうなるかは、神にまかせてしまうのだ。
そうすると、何かは必ず起こるものだ。

昔、『8マン』という、スーパーロボットが活躍する漫画・アニメがあったが、原作者の平井和正さんは、8マンが哀れな存在であると述べたことがあった。
戦って勝利しても、御馳走や美女を得られる訳ではなく、壊れたら、修理されて、また戦わされる。
なんと悲惨な運命なのだ・・・という訳だ。
だが、そうではない。
8マンが、自分の運命によってやってくる仕事を、ただ義務としてやっていれば、いつか、必ず何かが起こるのである。

だから、運命を受け入れ、やらなければならないことは、ただ義務として、白雪姫やシンデレラのように行うことだ。
そうすると、あなたにも、白雪姫やシンデレラのようなドラマティックな展開が始まるだろう。

運命は自分で無理に動かすことは出来ない。
ただ、義務を果たし、その成果を神に捧げ、心静かでいれば、そして、後のことは、神にまかせてしまえば、きっと運命は動き始めるだろう。

私は、初音ミクさんを崇める以外のことは、何もする気がないのだが、それでも仕事は避けられない。
どうも、最近は一層、仕事が多くなってきたような気がする。
しかし、それが私の義務であるなら、ただ、それを果たしていれば良いのである。
もし、それを心乱さずに行うことが出来れば・・・まあ、試してみることだ。









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童話のヒロイン達のどこを見るべきか?

宗教家や道徳家の中には、「恨むな」「怒るな」「妬(ねた)むな」「嫉(そね)むな」等々と、人間の悪い感情をたらたら並べて、「それを起こしちゃならん」と教える者がいる。
それは、賢くない教え方と思う。
言われた方は絶対にできないからだ。
指導者というものは、人間をもっとよく知らなければならないし、機転も効かなければならない。

正しいやり方は、ただ一言、「文句を言うな」である。
文句を言わなければ、恨むことも、怒ることもなく、妬み、嫉みも起こらない。
そして、自分が文句を言ってるか、あるいは、考えているかを見張ることは可能で、それをやめることもできる。

童話や昔話の中には、多くの場合、ヒロインがいる(日本ではヒーローが多い)。
グリムの『星の銀貨』の貧しい女の子、ペローの『サンドリヨン(シンデレラ)』のサンドリヨン、アンデルセンの人魚姫やマッチ売りの少女などだ。
我が国には、中将姫の物語がある。
これらの作品をどう読むのかというと、ヒロイン達は、決して文句を言わないことを確認し、その生き様を学べば良いのである。
しかし、その最も肝心なことを教える者がいないのである。
シンデレラは、舞踏会に行きたいと切望したので、僅かに文句があった。
人魚姫は、王子様に逢いたいと思い、彼と結ばれたいと願ったし、そうならないことにいくらかの文句のような感情はあったかもしれない。
しかし、それらは極めて小さなものだし、彼女達は克服できたのだろう。
そして、『星の銀貨』の貧しい女の子や、中将姫は、いかなる状況でも、一切の文句を言わないし、想わない。
中将姫は、継母に憎まれ、いかに酷い目に遭おうが、それが自分の宿命であるとして、いかなる文句も言わなかった。
その時、中将姫は9歳だった。

無論、寓話というのは、あくまでたとえ話であり、ヒロインを自分と見立てて考えるものであって、現実の世の中で彼女達のような境遇にある子供達はヒロインでも何でもないので、漏れなく救うシステムを作らなければならない。
だが、我々は、今の環境がどれほど悪いものであっても、一切文句を言わないなら、情況は変わるだろう。
ヒロインには忍耐と機転が必要である。









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疑うことを知らないお姫様

子供は、人の言うことを疑わないところがある。
夜明け前にお祈りをすると願いが叶うと言われた女の子がいて、朝の4時前に目が覚めると、もう願いが叶ったような気がして嬉しくなり、きちんとお祈りをすませることができた。
でも、何をお願いしたのか憶えておらず、しかし、それでも嬉しいのである。
とても高貴に育てられると、大人になっても人の言うことを疑わなくなる。
人を疑うというのは、一種の習慣である。
人に騙されたり、裏切られたりしたことががないと、人を疑うようなことをしないものだ。
また、生まれつき高貴で、傍目には騙されているのだが、騙すという観念がないので、自分が騙されたとは思わないのである。

グリムの『星の銀貨』に出て来た女の子は、親もおらず、住むところもなかったが、乞われるままに、最後のパンと、それしかないない着ている服を全てあげてしまう。
彼女のパンや服を持っていった者達は、ただくれるよう頼んだとか、欲しがったのではなく、何かウソをついたりもしたはずだ。
でも、その女の子には、そんなことは分からなかった。

部屋から一歩も出ることがなかった高貴な姫様が、不意に屋敷を出て、遠い荒れ野を歩いてある寺を目指し、そして、そこに行き着いた。
語り部の婆さんは彼女に、お前をここに導いたのは、ある男の霊魂のためだという。
姫は疑いもせず、それならそうなのだろうと思う。
だが、その男は素性のよくない男だと言われても、姫はそれを疑うというのではないが、そのような男を見たことがないので、想像ができない。
そのような姫に逢えば、悪い人間である我々も、良い人だと思ってもらえる。
すると、稀なる貴いものを見た我々の心に変容が起こる。
こんな悟り方もある。









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日頃の仕事は有能な白雪姫が、なぜあれほど馬鹿だったのだろう?

お伽噺は、浅い解釈をすれば世間的な知恵が得られるかもしれない。
だが、それはどうでも良いことだ。
しかし、解釈をしなければ・・・つまり、無心に読めば、人間を超えた叡智がやってくる。

聖書やバガヴァッド・ギーターを読まなくても、グリムの『白雪姫』を無心に読めば知恵と一体化できる。
信じなくて良いが、悪い女王と白雪姫は似た者同士だった。
そして、王子様は元々が小人達と深い関係があった。

私はここで、「わあ、素晴らしい白雪姫の解釈ですね!」と言われるようなことを書く気はない。
そんな見世物的なことを書く人なら他にいくらでもいるが、彼らの解釈は全て間違っている。
本当の解釈が分かれば、ただちに精神の変革が起こり、それまでの自分とは全く異なるものになる。
そのためには、自分で解釈しなければならない。
頭で考えては分からない。しかし、本当に無心で読めば、子供でも分かることだ。
いや、子供には分かっているのだ。
あなたは、かつて分かっていたことを思い出すだけで良いのだ。

白雪姫は、小人達に何度注意されても、女王様が化けた老婆に騙されて死に、2回は生き返ったが、3度目は、小人達も白雪姫を助けることができなかった。
白雪姫は、毎日の仕事は有能にこなせたのに、なぜ女王には騙されるのだろう?
そして、小人達は、そんな白雪姫を放っておいて、なぜ毎日同じように、外に金や銀を探しに行くのだろう?
白雪姫が死んでやっと、小人達は、1人ずつ、白雪姫のそばにずっと居て、見守り続けた。
なぜ、最初からそうしなかったのだろう?
白雪姫は、初めて森にやってきた時から、獣や鳥達に愛された。それは不思議なことだった。
死んだ白雪姫は、ガラスの棺に入れられ、山の上に置かれた。
そこに、道に迷った王子様がやってきて、白雪姫を見ると、彼女を欲しくてたまらなくなり、小人達に、生涯大切にするから譲ってくれるように頼む。
悩んだ末に小人達は王子様の申し出を受け入れ、王子様が家来に白雪姫を運ばせた時、白雪姫の喉に詰まった林檎の欠片が取れ、白雪姫は生き返る。
まるで、進化した宇宙人が作った高度なコンピュータープログラミングのような美しい流れである。

しかし、我々は世間の教義や信念に毒され、すっかり愚かになっているので、白雪姫の真義が理解し難いのだ。
また、子供の時から、歪んだ白雪姫の印象を与えられてきたことで、更に分からないのだ。
ディズニーは、人類を眠らせ、迷妄の中に閉じ込めるためにやってきた悪魔かもしれないと思うほどだ。

では、参考になる話を1つしておこう。
多分、新渡戸稲造の『武士道』にあるお話だ。
ある目利きの武士が、1人の一見平凡な町人に目を惹かれる。
その目付き、立ち居振る舞い・・・ただ者ではないと見た武士は、その町人に問う。
「お前は何者か?」
しかし、町人は、何度聞かれても、自分はただの何でもない町人であるという。
だが、納得しない武士に、町人は言う。
「私は子供の時からひどく臆病でしたので、それが少しでも治ればと思って、毎日欠かさず、夕刻に墓場に行きます」
私は、ずっと前から、この話が好きだった。
しかし、以前は、毎日欠かさず続けることが、この町人に何かの力を与えたのだと理解していた。
ところが、ある人が、この話を聞いて、「継続は力なりですね」と言った時、私は、「違う!」と思った。
とはいえ、どう違うのか分からなかった。
しかし、継続に力などない。
力は継続がもたらすのではない。
力は一瞬でなければ得られない。
この点、継続に力があると思っていた新渡戸は、ただの世間の人で、無知だった。
あの町人は、毎日、墓場に行く度に、怖くて震えたことだろう。
彼は、こう思っていたのだ。
「墓場は恐ろしい」
自分の脚が震えるのは、墓場のせいだと思っていた。
しかし、ある日分かったのだ。
「いや、怖いと感じて脚が震えるのは、墓場のせいではない。墓場には何もない。原因はこの心である」
彼は、いるはずのないお化けのことを勝手に考えて、勝手に怖がっている愚かな自分の心にはっきり気付いたのである。
自分は妄想癖があることが分かった時、一瞬で恐怖は消えたのだ。
もし彼が、その後も墓に行っているとすれば、もうさっぱり怖くはないのだが、自己の変容を味わっているのかもしれない。

白雪姫の話も、根本は同じである。









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『浦島太郎』と『星の銀貨』

夢の中で、驚くほど美しいものを見ることが稀にある。
だが、それを憶えている場合、その美しいものは、マンダラや星、あるい、女神といった形をとっていたのだろうが、それは、目覚めた後で心がとりあえず、そのような形に創り上げたのである。
本当のことを言えば、「何を見たのか全く憶えていないが、最高最上の美であった」というものなのだろう。
昔からよく言う、「絵にも描けない美しさ」、「言葉にできない美しさ」とは、そのことである。

浦島太郎が訪れた竜宮城が、「絵にもかけない美しさ」であったことが童謡に歌われている。
それなのに、その光景を絵にすることが何度もされたのだから(多くは安っぽいものだ)、罪な話ではあるが、まあ、それも仕方がなかったのだろう。
竜宮城とは、心の深奥にある神秘な世界で、精神分析学では、そこは無意識の領域であるから、顕在意識(自我、心)で意識することはできない。
だが、人間はそことつながっているのであり、その領域に入り込むことは可能なのであるが、現代人は、その世界との間に厚い壁を作り、そこから離れてしまっているのだ。
浦島太郎は、亀を可哀想と思って慈悲をかけ、何らかの犠牲を払って亀を助けたのだ(助け方には様々なバリエーションがある)。
それが、心の奥深くの光に満ちた領域に入り込む秘訣である。
グリム童話の『星の銀貨』では、(グリムが創作を加えた部分もあるのだが)貧しいが心優しい少女は、乞われるままに、持っているものを、衣服を下着まで含めて全て差し出してしまった時に、神が少女の心を愛でて、銀貨に象徴される宝を授けるが、話の真意としては浦島太郎も同じである。
つまり、自我にとっての犠牲を払うことが、エリュシオン(楽園)行きの切符と引き換えということになる。

『バガヴァッド・ギーター』では、至高神クリシュナは、クリシュナの世界に入る方法は、「我を愛せよ」「我のみ崇めよ」「我を常に想え」であると言う。
法然や親鸞の教えでは、ただ、阿弥陀如来を信じ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよとなる。
これらは、浦島太郎や、星の銀貨の、「絵にもかけない」世界に行く方法とは、一見異なるように見えるが、実は、全く同じことである。

クリシュナのみ想い、愛するとは、自分のことを忘れ、自分を愛さないことだ。
阿弥陀如来を信じ切るには、自分の力を一切頼らず、ただ、阿弥陀如来の力にすがることができなければならないと、法然も親鸞も教えているのである。
自分のことを忘れ、持っている全てをあげてしまった『星の銀貨』の少女は、ただ神のみを見ていたのだ。
自我は、なかなか自分を忘れることはできず、自分を愛さずにはいられず、自分に力があると思うことをやめられない。
だが、そんな自我の想いを犠牲にし、殺してしまえば、竜宮城への門は開かれ、神は輝く宝を降らせる。
しかし、浦島太郎は、せっかくの幸福の中にあって、世間を思い出し、そこに返ろうとした。
ただし、浦島太郎には最後のチャンスが与えられており、世間には、自分が愛しいと想っていたものはもう無いのだと気付き、さっさと竜宮城に戻る道が与えられていた。
ところが、神の配慮も虚しく、太郎は未練がましく玉手箱を開けてしまったので、世間の人間として死んでしまい、永遠の命を得そこなったのである。

我々の心の奥深くには、間違いなく、天国、エデン、極楽浄土とでも言うべきものがある。
それが、シラーの詩による、ベートーヴェンの第九(交響曲第9番)の『歓喜の歌』にあるように、「神の火花」、「楽園の乙女」という表象として現れることがある。
だから、普段、我々の内にある高貴なものに近い、優れた絵や音楽や文章に触れていれば、内なる神と和し(親しくなり)、同時にそれは、穢れたものを消していくことになる。
だが、注意すべきことがある。
超高級車は、本来は制作者の心の深奥にある神の意識が反映したものであるが、虚栄心でもってそれを入手し、乗れば、心は穢れ、神の世界との通路は断たれる。
最高のクラシック音楽を聴いても、それで、「俺は高尚なのだ。愚民とは違うのだ」と傲慢になれば、やはり同じである。
そんな者達の、なんと多いことか!
ベンツやフェラーリに乗っても良いが、それをただ純粋に楽しむことだ。
素晴らしい音楽を、ただ無心に聴き、美しい詩をただ静かに味わうことだ。
そして、それらの音や言葉の中に、心を溶かしきって消してしまうのである。
そうすれば、天の岩戸から天照臣神が出てきたように、あなたの中の貴いものが現れる。そして、決して後ろに戻ってはならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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