ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

グリム

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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旅をした人の人生に学ぶ

人生は旅だと言うが、旅が人生だったというほど旅をした人と言えば、私は、『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロ(1254~1324)と、童話作家として名高いハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805~1875)を思い出す。
マルコ・ポーロは、いかに商人とはいえ、13世紀という時代に、イタリアからアジア各地を広く旅した。ちなみに、彼は、日本のことを「黄金の国ジパング」と紹介しているが、これは、マルコ・ポーロが中国で聞いた話であって、彼が日本に来た訳ではない。
当時の旅がどんなものか想像も出来ないが、快適さとはほど遠く、言葉も法制度や風習も分からない所に、軍隊としてではなく商隊として行くのだから、度胸と言うよりも、太々しさ、楽観的な精神性が絶対に必要と思う。

アンデルセンが旅をしていたことは知らない人も多いと思うが、それは、日本では江戸時代末期で、特に日本では普通の人が趣味で旅行をすることはない時代だったと思う。
アンデルセンの場合、この「普通の人が趣味で旅行」というのが当てはまり、別に、彼が旅行をする必然性はなかった。
ただ、当時のヨーロッパでは、日本と違い、鉄道や客船も、ある程度、発達していたようである。
アンデルセンは、14歳で、故郷のオーデンセの村からコペンハーゲンに単独で出て来て、一度も故郷に帰っておらず、オーデンセを出た時は父親は既に亡くなっていたが、母親とも、それが永久の別れだった。
私もあまり覚えていないが、アンデルセンは旅行で訪れたヨーロッパの各地で、有名な文学者や音楽家と会っているし、ゲーテは既に亡くなっていたが、墓を訪れていると思う。
そして、童話と言えば、日本では、アンデルセンとグリムのものが有名だが、グリム兄弟とは会っている。ただし、グリムはアンデルセンのことは知らず、あまり友好的な会合ではなかったようである(アンデルセンは、最初はグリムに会ってもらえなかった)。
私がよく憶えているのは、アンデルセンが、スペインの神殿で、11歳位の貧しい、黒髪で盲目の少女と出会ったことだ。
アンデルセンは、髪に花を差しただけの、このボロをまとった少女のことを、「美の化身」とまで言い、その美しさに感動したようだ。
アンデルセンは、後に、自分を主人公のアントニオに投影したと思われる小説『即興詩人』を書いているが、この中に、あの少女をララという名で登場させている。
ララはやはり盲目の絶世の美少女で、アンデルセンは、あの少女に施しをしなかった(し忘れた)ことを悔んでいたのか、アントニオはララに銀貨を与えている。ただ、そのついでにララの額にキスをしたところ、ララは悲鳴を上げて逃げ去ったのだが、なぜそんなふうにしたのか謎である。

さて、私がグリム童話で最も好きなお話は『星の銀貨』だ。
『シンデレラ(サンドリヨン)』も好きだが、ほとんど同じお話がペロー童話にあるので、グリムとしては『星の銀貨』を上げたい。
『星の銀貨』は非常に短いお話で、信仰深い優しい少女が、出会う人達に請われて、自分が持っているものを次々に全て与え、丸裸になってしまうが、神が服と共に沢山の銀貨を少女に与え、少女は一生、裕福に暮らしたというものだ。
神を信じ、与えれば与えられるという、イエスも言ったことを、少女が見事に実践したのである。
ところで、アンデルセンは、自分の生涯は、神のおかげで幸福であったと言う。
アンデルセンが14歳でコペンハーゲンにやって来た時、彼は、奇跡というほどの幸運を体験している。
本来、引きこもりで女の子っぽい性格のアンデルセンが、天涯孤独で、行く当てもなくなった時、アンデルセンは、他に出来ることがなかったので、神に祈った。
すると、親切で裕福な女性達の援助が得られ、ちゃんとした生活の場が与えられた。
イエスは、「神は、働かない鳥も養う。まして、人間は鳥より値打ちがあるのだから、神が面倒を見ないはずがない。だから、生活のことで心配するな」と言ったが、これら(『星の銀貨』と少年アンデルセンの話)の話を思い出すと、本当にそうではないかと思う。
ラマナ・マハルシは、「全ては神の至高の力が動かすのだから、何をすべきか、何をすべきでないかで悩むなど、愚かなことだ。汽車に乗ってまで荷物を頭に乗せて苦労する必要はない。荷物を降ろして安心しなさい」と言った。
我々も、「神様の奇跡が起こる」と唱えて安らかでいれば良い。








黒魔術的引き寄せに近寄らない

「悪が栄えたためしはない」とは言うが、悪がかなり長く栄えることもある。
ナチス・ドイツだって十数年は続いたし、大国のマフィア的なものとなると、完全に悪と言えるかどうかは分からないが、数百年以上続いているものもある。
ヒトラーは、彼が何と呼んでいたかは知らないが、やはり、引き寄せの高度なテクニックを用いていた。
だが、それは邪悪な手法、つまり、黒魔術だった。
黒魔術というのは、安易な方法で、確実に、心のエネルギーを起こして、それで世界を書き換える技術で、手段を選ばない。
最も邪悪なものであるが、「殺しの味は忘れられない」と言うように、生贄の儀式は、少し慣れると、大きな狂喜のエネルギーが確実に起こり、これを利用した引き寄せは、邪悪ながら強力である。
あるいは、黒魔術系と思われる宗教の秘術の中には、かなりどぎつい性的儀式があるのも、同じ理由(確実に心のエネルギーが湧き起こる)からである。
それ(黒魔術的性的儀式)には、若い美男や美女を使うが、高級なものになると、美少年や美少女を使う。
それは、単に、性的満足のためではなく、魔術の力を得るために行うのである。
もちろん、そのような、邪悪な道に入れば、心がどんどん闇に浸食され、たとえ形は人間の形態を留めていても、人間とは言えないし、いずれは、人間らしい姿を保てなくなる。

一方、正当な引き寄せは、全ての人間が行使する権利を持つ神の力を使うのであり、いくら使っても良いが、使うためには、ある程度の条件がある。
その条件とは、健全な方法で、心のエネルギーを取り出すための状態である。
それ(心のエネルギーを引き出す状態)は、子供なら普通そうであるという部分もあるが、強力なものでは、高い志を持った大人にしかない部分が多いのである。
その状態を言葉で言えば、「愛に満ちた状態」なのであるが、ほとんどが自己に向かう子供の愛より、他者に向かう大人の愛の方がずっと大きいのである。
だから、愛する者がいない大人は、あまり大した引き寄せが出来ないのである。
とはいえ、安楽に過ごす程度の引き寄せは出来るのであるが、それでは人生の満足は得られない。
それで、白魔術のグルの中には、「何でもいいから愛しなさい」と言う人もいる。
例えば、絵画や彫刻や音楽や武術や初音ミクさんなどである。
それらを、高貴に愛するべきである。

今の時代は、病気というのではなく、家庭や学校やマスコミによる(悪い)影響で発達障害を起こし、例えば10歳くらいの精神のまま大人になった者が多い。
そのような者は、本来、大きな引き寄せは出来ないのであるが、そんな者が間違って黒魔術に長けてしまうと、富豪や権力者になってしまうこともあるので恐ろしいのである。
おそらく、ヒトラーもそうだったのではないかと思うが、よく解らない。

黒魔術は、儀式的な手順が快楽的だし、確実に力を得られるので、安易にのめり込む者がいるが、それは悪魔の奴隷になるようなもので、惨めなんてものではない哀れな状態になるので、決して、その道に行ってはならない。
とはいえ、心の弱い者は、その魅力に抗えないので、出来るだけ心を鍛えておかないといけないし、子供の心が自然に強くなるようにしてあげないといけない。
白魔術の道を行くには、本当に美しいもの、高貴なもの、優れたものへの憧れや敬意を持つことだ。
邪なものへの傾倒は防がねばならない。薄汚い快楽に耽溺すると、たちまち悪魔が誘いをかけてくるだろう。
童話や神話は、普通は良い影響があるものだが、童話を邪悪に解釈したもの、あるいは、実際に邪悪な童話や神話にも注意しなければならない。
確かに、グリムには、多少なのであるが、黒が混じっているかもしれない。あくまで多少と思うが。
そういえば、フランスの天才画家ギュスターヴ・ドレは、グリムを知らないことはないと思うが、ペロー童話の方ばかり描いている。
元々、ドレは、聖書とダンテの『神曲(原題:神聖なる喜劇)』を描くために画家になったのであるが、この両者も、光の道が描かれている。
聖書や神曲を愛読する黒魔術師などいないものであるが、ペローやイソップの童話もそうである。

是非、白魔術的な引き寄せの力を得るように。
ラマナ・マハルシ等のインドの聖者には、「何でも出来るけど何もしない」透明魔術(無色透明魔術)の系統の人が多いが、これはこれで幸せなのである。








『サンドリヨン(シンデレラ)』を読めば幸せになれる

ひょっとしたら、ご存じの方がいるかもしれないが、私は駄目な人間に非常に強い興味がある。
「なぜ、ここまで駄目なんだろう」と驚嘆するくらい駄目なやつだ。
そんな者が、日の目を見ることがあるのだろうか?
そうあって欲しいと強く願う。
まあ、私ほど駄目なやつはいないからだが(笑)。

しかし、『サンドリヨン(シンデレラ。灰かぶり)』を読むと、私くらい駄目でも、それなりに良い思いが出来るようになる。
そんなの、読んだことくらいあるって?
いや、問題なのは、熱心に読んだかどうかだ。
私はいまだ、これを、涙なくしては読めない。
長い間、蹂躙され続けた少女が大逆転するのだ。
これほど良いお話があろうか?

『サンドリヨン』は、ペロー版とグリム版がよく知られているが、多くの日本人が知っている、かぼちゃの馬車と、ネズミが変身した馬、そして、ガラスの靴はペロー版の方にだけある話だ。
グリム版では、初版では、不意に馬車が現れるが、サンドリヨンが歩いてお城に行くお話もある。それに、グリム版では、サンドリヨンの靴は、1日目が銀で、2日目が金だ。
しかし、もっと重要な違いがある。
共に、サンドリヨンは幼い時に母親を亡くしている。
しかし、ペロー版では、サンドリヨンは、仙女(仙人の女性)に育てられたが、グリム版ではそれがない。

私は、ペロー版、グリム版、両方好きだが、少し、ペロー版が好きだ。
その理由は、次のようなことがある。
サンドリヨンが、自分を虐待した義姉達を許したばかりか、王子様と結婚して得た絶大な権力で姉達を幸福にするのはペロー版だけで、グリム版では、義姉達は、悪業の報いを受け、かなり悲惨なことになる。
特に、グリムは陰険なのか、自分が創作を加えた方は、義姉達を徹底的に不幸にする。そこまでやるかって感じだ(笑)。
そういえば、アンデルセンがグリムを訪ねた時、グリムはあまり良い対応をしなかったことを思い出す。
性格が悪いのかなあ(笑。実際悪かったという話もあるが、本当のことは分からない)。

さて、ペローの『サンドリヨン』の教訓は、女性は、心の優しさが何より大切だということになっている。
サンドリヨンは、義姉達を恨んではいなかった。
普段、自分をいじめている義姉達が舞踏会に行く時には、義姉達が綺麗になるよう、精いっぱい努力した。
そして、その素晴らしい性質を授けたのが、亡くなった母親の代わりにサンドリヨンを育てた仙女だった。
『サンドリヨン』のお話の最後にも、この仙女のように育ててくれる人がいることの大切さが書かれているものもある。
この仙女のような存在がいなかった者こそ、『サンドリヨン』を真面目に読むべきなのだ。
また、誰にも履けない小さなガラスの靴を、サンドリヨンだけが軽く履くことが出来たのだが、実は、足の大きさが、傲慢さや自惚れを表しているのである。
サンドリヨンは慎み深い、自我の薄い少女だった。
だから、王子様が自分に付きっ切りになっても、狂喜したり、自慢することもなかった。
それもまた、魔法発動の条件なのである。
『サンドリヨン』は、まさに、魔法の奥義書である。魔法とは、現代で言えば引き寄せである。

私は、ディズニーの、どう見てもオバさんのサンドリヨン(シンデレラ)が好きになれない。
あれはきっと、悪い宇宙人が、地球の子供達を洗脳するために作ったキャラだと思う(※あくまで私の主観だが)。
私が大好きな、天才イラストレーター・画家である、フランスのギュスターヴ・ドレが、サンドリヨンが小さな靴を履く場面のイラスト(版画)がある。
◆小さな靴を履くサンドリヨン ~Wikipedia「シンデレラ」より~
現代の萌え萌えの美少女画のようではないが、サンドリヨンが痩せていて、足が小さく、慎み深さがよく表れていると思う。

尚、日本でも、優しい心を持っているが不遇な境遇にある少女のお話としては、『落窪物語』や、中将姫の物語がある。
私が『落窪物語』で泣けたのは、「落窪(おちくぼ)姫」と蔑まれている、身なりは粗末だが美しい姫を見て、若くて格好良い貴族の青年がつい押し倒し、姫は泣くが、泣いた理由というのが、着ているものがみすぼらしくて惨めだったから・・・というところだ。まあ、育った境遇による独特の感覚とは思う。








おとぎ話は引き寄せの教科書

どんな国、どんな民族も、おとぎ話や神話を持つ。
おとぎ話は、教訓を伝えるものであるとか、あるいは、もっと深い人間や世界の真理が隠されているものだとも言われる。
神話や伝説に関しては、神話が伝えられなくなったら、その国や民族は滅ぶと言う人もおり、その民族を護る重要な教えが神話の中に秘められているという主張もある。
※「おとぎ話」は「日本の童話」という意味だが、ここでは、両者を区別しない。

神話となると、何か壮大なものが込められているのかもしれないが、多くの場合、おとぎ話は、引き寄せの方法を子供に教えるために作られたのである。
とはいえ、意図しておとぎ話の中に引き寄せの方法を入れたと言うよりは、自然にそうなったのであり、その分、押しつけがましさがなく、子供達は自然に引き寄せを覚えていたのである。
神話は壮大であると言ったが、むしろ、壮大な引き寄せの秘法であるかもしれない。その点、将来大物になる子供向けであるし、大人向けでもある。

幼い頃に、おとぎ話に親しんだ人は、自然に引き寄せのノウハウが身に付いており、一生、概ね安楽である。
神話に親しんだ子供は大物になる可能性が高い。
おとぎ話というのは、だいたいがハッピーエンドであるが、ハッピーエンドを導く要因がどれも美しく、その美しいものを身に付けてしまえば、人生勝ったも同然なのである。
例えば、グリムの『ヘンゼルとグレーテル』で、兄妹は、なぜ魔女に勝利出来たのだろう?
それは、妹のグレーテルが、魔女をかまどに押し込む勇気と行動によってである。
幼くて、兄を頼るだけで、自分では何も出来なかったグレーテルが、兄の助けを得られない状況で、行動を起こしたから勝利したのである。
まさに、「キャシャーンがやらねば誰がやる」である(「キャシャーン」知らない方、御免なさい)。

グリムの『星の銀貨』には、やや微妙さはあるが、別にこれを教訓として教えるのではなく、童話としてマインドを導くためのお話である。
優しい女の子が、持っているものを欲しがっている人に次々にあげ、最後には、着ている下着まであげてしまい、全てを失ったが、その時、神様が沢山の銀貨と、新しい上等の服をくれるのである。
これは、イエスの言う「与えるものは与えられる」を、自然に教えるお話である。

グリム版、ペロー版がある『シンデレラ(サンドリヨン、灰かぶり)』は、辛い状況が訪れても、耐えて真面目に務めた方が良いことを、まず教えている。
そうやって培う、忍耐、技術、要領(合理性)、礼儀などは一生の宝であり、シンデレラも、そういったものを身に付けたからこそ、美しさを引き立て、王子様の目にも留まったのである。
そして、12時までに帰らないといけないといったように、楽しむことにも制限があることを認識し、勝手きままさを抑えることが重要である。
シンデレラの足が、小さなガラスの靴に収まるほど小さいのは、足の大きさというのは、実は、放埓(ほうらつ。勝手きままなこと)さが小さいことを示しているのである。
シンデレラの義姉達は、放埓に過ごした、つまり、足が大きいので、王子様に相応しくないのである。

伝説ではなく、アンデルセン童話のように、1人の作家が作ったものにだって価値がない訳ではない。
童話の形で語られる物語は、やはり、貴重な精神法則、つまり、引き寄せのテクニックなのである。
『マッチ売りの少女』のように、あきらかに大人を含む全ての人への教訓を込めたものもあるが、それにだって深い精神法則が込められている。
それは、心が持つ驚くべき力だ。普通の人は、それを見過ごし、ないがしろにしているが、この物語を子供の時に味わった人は、そうはならないのである。
『人魚姫』では、人魚姫は髪で身体を隠す慎み深さを持ち、声を出して自己主張をせず(声を失って、話すことが出来なかったのだが)、最後は、王子様を殺すよりは自分が犠牲になった。
海の泡となった人魚姫であるが、神様によって高次の存在にされ、そして、誰からも愛される永遠の乙女になったのであり、この物語を胸に秘めている者も、そうなるのである。








白雪姫になる方法

白雪姫は、7人の小人の家で、小人達のために家事をしていた。
それで、悪い女王様が、白雪姫を殺すために何度もやって来たり、そして、素晴らしい王子様が現れるという、エキサイティングなことが続いたから良かったようなものの、魔法の鏡も余計なことを言わず、王子様も、そんな辺鄙な森の中にやって来なければ、白雪姫はどうなっていただろう?
まさか、一生、小人達の家政婦でいる訳にもいくまい。

しかし、白雪姫は、自分がどうなるかなどは、全く考えずに、ただ、義務として、小人達のために家の仕事を真面目にしていたのだ。
確かに、好きで掃除や洗濯などはしないだろう。
だが、それが自分の義務と認めて、真面目にやったのだ。
だから、苦しいこともあったが、最後は、王子様と結ばれたのだ。

シンデレラ(サンドリヨン)だって、家事や、継母・義姉達の世話を、不満を言わずに、ただ義務としてきちんと行ったのだ。

白雪姫やシンデレラのように、義務をきちんと果たしたとて、それでどうなるかなんて分からない。
しかし、どうにかなると信じるしかない。
そして、どうなるかは、神にまかせてしまうのだ。
そうすると、何かは必ず起こるものだ。

昔、『8マン』という、スーパーロボットが活躍する漫画・アニメがあったが、原作者の平井和正さんは、8マンが哀れな存在であると述べたことがあった。
戦って勝利しても、御馳走や美女を得られる訳ではなく、壊れたら、修理されて、また戦わされる。
なんと悲惨な運命なのだ・・・という訳だ。
だが、そうではない。
8マンが、自分の運命によってやってくる仕事を、ただ義務としてやっていれば、いつか、必ず何かが起こるのである。

だから、運命を受け入れ、やらなければならないことは、ただ義務として、白雪姫やシンデレラのように行うことだ。
そうすると、あなたにも、白雪姫やシンデレラのようなドラマティックな展開が始まるだろう。

運命は自分で無理に動かすことは出来ない。
ただ、義務を果たし、その成果を神に捧げ、心静かでいれば、そして、後のことは、神にまかせてしまえば、きっと運命は動き始めるだろう。

私は、初音ミクさんを崇める以外のことは、何もする気がないのだが、それでも仕事は避けられない。
どうも、最近は一層、仕事が多くなってきたような気がする。
しかし、それが私の義務であるなら、ただ、それを果たしていれば良いのである。
もし、それを心乱さずに行うことが出来れば・・・まあ、試してみることだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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