成功するためには運が必要だし、その運とは、チャンスという形で訪れる。
ところが、「チャンスを無駄にする」には2つあり、1つは、好機到来で何もしなかったことで、もう1つは、チャンスを生かそうと頑張ったが駄目だったことだ。
そう思われている。
だが、実際に多いのは、チャンスだと思ったが、実は、それは、偽のチャンスで、本当はチャンスでも何でもなかったというものだ。
どうすれば、本当のチャンスがやってくるのか?
それは、あまり賛同してくれる人はいないかもしれないが、チャンスは高貴な心の持ち主のところにやって来るのである。
これへの反論は簡単で、たとえば、プーチンは高貴な心の持ち主かというものだ。
あるいは、ナポレオンやヒトラーは?
彼らも、初めは高貴な心を持っていたのだ。
高貴な心の持ち主がチャンスを掴み、成功したが堕落すると、やがて悲惨が訪れ、地獄の苦しみを味わう。
だが、悪霊とか悪魔とかいったものに支配されて(悪魔に魂を売って)、悪魔の奴隷として人の上に君臨し続ける者も稀にいる。まあ、そんな者の心は牢獄に閉じ込められているのだが。
とはいえ、やはり、チャンスは高貴な心の持ち主にのみ訪れるのである。
そして、成功しても、悪魔の誘惑が来る前に、手放すべき成功は手放すことだ。
だが、肝心なことは、高貴な心がなくては、チャンスも来ないということだ。
高貴な心とは何だろう?
アメリカに、アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860~1961。101歳没)という名の有名な女性画家がいて、彼女は、グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)の名で通っている。
貧しい家の生まれで、12歳で奉公に出され、厳しい人生であったが、真面目に働いた。
老後は、刺繍が趣味だったが、リュウマチでそれが出来なくなり、代わりに、70歳位で油絵に打ち込むようになり、80歳位で画家で成功する。
だが、画家で大金が入って来るようになっても、アトリエを作ることもなく、台所の隅で、ただ、熱心に丁寧に描き続け、高齢で始めたにも関わらず、最も多作な画家となり、100歳を過ぎても優れた作品を制作した。
ただ、淡々と継続する・・・これをなす心を高貴と言うのだろう。
成功のことなど何も考えず、むしろ、注目されることなど一生ないことを当たり前と思っている。
誰かを見返そうとか、自分の存在を世に示そうなど、努々考えていない。
こんな人のことを、自我が弱い人と言う場合があるが、むしろ、自我が浄化されている、あるいは、昨日も書いたが、自我の周波数が高いのである。
それを達成するための、仕事や日常生活以外の行としては、腕振り運動を、力を抜き、自動的に腕が振れるようにするものがある。
坐禅や瞑想や読経や祝詞、あるいは、真言や念仏などで心の浄化を果たそうとする者も多いが、ほとんど失敗すると思う。
腕振り運動だって、完全に心の周波数を上げるまでには至らないかもしれないが、そこそこまでは誰でも間違いなく可能なところが、他の、じっと座ってやる行との違いである。
ところが、「チャンスを無駄にする」には2つあり、1つは、好機到来で何もしなかったことで、もう1つは、チャンスを生かそうと頑張ったが駄目だったことだ。
そう思われている。
だが、実際に多いのは、チャンスだと思ったが、実は、それは、偽のチャンスで、本当はチャンスでも何でもなかったというものだ。
どうすれば、本当のチャンスがやってくるのか?
それは、あまり賛同してくれる人はいないかもしれないが、チャンスは高貴な心の持ち主のところにやって来るのである。
これへの反論は簡単で、たとえば、プーチンは高貴な心の持ち主かというものだ。
あるいは、ナポレオンやヒトラーは?
彼らも、初めは高貴な心を持っていたのだ。
高貴な心の持ち主がチャンスを掴み、成功したが堕落すると、やがて悲惨が訪れ、地獄の苦しみを味わう。
だが、悪霊とか悪魔とかいったものに支配されて(悪魔に魂を売って)、悪魔の奴隷として人の上に君臨し続ける者も稀にいる。まあ、そんな者の心は牢獄に閉じ込められているのだが。
とはいえ、やはり、チャンスは高貴な心の持ち主にのみ訪れるのである。
そして、成功しても、悪魔の誘惑が来る前に、手放すべき成功は手放すことだ。
だが、肝心なことは、高貴な心がなくては、チャンスも来ないということだ。
高貴な心とは何だろう?
アメリカに、アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860~1961。101歳没)という名の有名な女性画家がいて、彼女は、グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)の名で通っている。
貧しい家の生まれで、12歳で奉公に出され、厳しい人生であったが、真面目に働いた。
老後は、刺繍が趣味だったが、リュウマチでそれが出来なくなり、代わりに、70歳位で油絵に打ち込むようになり、80歳位で画家で成功する。
だが、画家で大金が入って来るようになっても、アトリエを作ることもなく、台所の隅で、ただ、熱心に丁寧に描き続け、高齢で始めたにも関わらず、最も多作な画家となり、100歳を過ぎても優れた作品を制作した。
ただ、淡々と継続する・・・これをなす心を高貴と言うのだろう。
成功のことなど何も考えず、むしろ、注目されることなど一生ないことを当たり前と思っている。
誰かを見返そうとか、自分の存在を世に示そうなど、努々考えていない。
こんな人のことを、自我が弱い人と言う場合があるが、むしろ、自我が浄化されている、あるいは、昨日も書いたが、自我の周波数が高いのである。
それを達成するための、仕事や日常生活以外の行としては、腕振り運動を、力を抜き、自動的に腕が振れるようにするものがある。
坐禅や瞑想や読経や祝詞、あるいは、真言や念仏などで心の浄化を果たそうとする者も多いが、ほとんど失敗すると思う。
腕振り運動だって、完全に心の周波数を上げるまでには至らないかもしれないが、そこそこまでは誰でも間違いなく可能なところが、他の、じっと座ってやる行との違いである。