ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

クリスマス・キャロル

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

悔い改めようなどとしてはいけない理由

新約聖書の福音書によると、洗礼のヨハネと呼ばれるヨハネは、人々に「悔い改めよ」と訴えたらしい。
イエスもそう言ったとされているが、私はどうもピンとこないのだ。
だって、「悔い改めよ」と言われて、
「あ、俺が悪かった。悔い改めるよ」
と思う人間なんていないと思うからだ。
だから、実際は、イエスは、人々に直接「悔い改めよ」と命じたのではなく、悔い改めればこうなるとか、悔い改めなければああなると言っただけなのだ。あるいは、祈りの中の言葉として「悔い改めよ」と言っただけである。

ディケンズの『クリスマス・キャロル』という傑作小説がある。
クリスマスの精霊が現れ、守銭奴のスクルージに、スクルージの未来をリアルに見せるが、その未来があまりに悲惨なので、怖くなったスクルージは心を入れ替える。つまり、スクルージは悔い改め、未来を幸せなものに変えることに成功したように思える。
しかし、スクルージは、単に、我が身可愛さのために慈悲深くなっただけで、これって実に浅ましくはないだろうか?岡本太郎流に言えば「卑しい」のではないか?
本当の悔い改めというのは、自分はどんな目に遭おうとも、それに関係なく、利他的なことをすることではないのか?

たとえば、私が天使に、「10万円を寄付しなければ3年後に重病で苦しんで死ぬぞ」と言われたら、10万円を寄付するだろうが、それは善意でも何でもない。単に自分が辛い目に遭いたくない、死にたくないだけだ。
スクルージもそれと同じだ。
※ただし、1938年の映画『クリスマス・キャロル』では、スクルージが今のような人間になった経緯が物語られ、クリスマスの精霊は、スクルージの心を癒すことで、スクルージが悔い改めるよう導いている。

サンセット
AIアート469
「サンセット」
Kay


人間は、自分の想いで悔い改めることは出来ない。
だが、悔い改めなければ、未来が悲惨なことは、ヨハネ、イエス、クリスマスの精霊が言わずとも確かで、現在の日本などの、ほとんどの人間が人生の終わりに、激しく後悔することになる。

悔い改めなど必要なく、ただ、神のようになればよいのだ。そのためには、深呼吸をし薄目で世界を見れば良いだけである。
自分の想いで悔い改めようなどとすれば、ますます神から遠ざかる。
そうではなく、思考を消さなければならない。
そのためには、深呼吸をすればよく、薄目で世界を見れば、さらにうまくいくだろう。








負けばかりの人生をどうする

ずっと負け続けているなら、道を変えた方が良いかもしれない。
完全な長い連敗から逆転する者はほとんどおらず、そこまで負けるなら、向いてないと判断した方が良く、その判断も早い方が良い。
しかし、何をやっても負けるのなら、おそらく、負け犬根性が染みついているのだろう。
そんな負け犬根性は、母親から植え込つけられることが多く、そうされた者は暗い人生を送る。
だが、そんな母親のことを、親戚や周囲の人々、そして、その母親自身も、子供思いの母親だと思っていることが多い。
そんな母親に育てられた子供が、大人になって、ちょっとした成果を上げた時・・・例えば、社長になったり、大きな賞を取ったりすると、その母親は、それを完全に無視する。「この子にそんなことが出来るはずがない」としか思えないのだ。そして、母親の期待通り、その子供はまた失敗する。

昔から、百連敗中のような駄目な人間は沢山いるが、今の時代では、その負けっぷりがひどくなってきた。
負け方が惨め過ぎるのである。それで、早いうちに人生を諦めてしまうのだ。
あるいは、諦めてはいないのだが、肝心なところでいつも負け、希望を捨てない分、心がおかしくなってしまう者もいる。
そんな者達が逆転出来る秘法があるかというと、ない。
下手に運命に立ち向かって再起不能になる者ならいるが。

ところが、最悪を回避し、大逆転する傑作小説がある。
ご存じかもしれないが、イギリスの作家チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』だ。
だが、多くの人は、この物語を誤解しているというより、ちゃんと読んでいない。
それで、この小説を、「自分の悲惨な運命を見せ付けられたスクルージが恐怖のため心を入れ替えた」お話だという、おかしな捉え方をしているのだ。
それなら、1938年のエドウィン・L・マリン監督の白黒映画『クリスマス・キャロル』を見ると、よく分かるかもしれない。

この映画を見て、逆転出来る可能性も、それほど高くはない。
実は、スクルージのところに精霊が来た理由が重要だ。
この可愛い精霊を是非、呼べるようになっていただきたい。
単なる推測だが、ディケンズは、その真意を『エドウィン・ドルードの謎』で書いたのかもしれない。
この作品の執筆中にディケンズは亡くなっており、アメリカの無学な男が残りを執筆し、ディケンズの名で出版したのだという話がある。








クリスマス・キャロル効果

アファーメーション(肯定的断言)、自己暗示、優れた呪文などを唱えていると言いながら、どうしても駄目な人間というものがいると何度も述べた。
まあ、実際は、そんな者達は、アファーメーションなどをやっていると言っても、十分な数でない・・・どころか、話にならないほど少ないのだろうと思う。
貴い言葉は、自分の魂を強く豊かにする。
自分の魂(第一生命体)が強く豊かであれば、力のある知的エネルギー(第二生命体、第三生命体)が呼び寄せられて融合し、権威と力を得て、望まなくても幸運に恵まれる。
以前も書いたが、このことを物語の形で示したのが、フレデリック・ヴァン・レンスラー・ダイの著書『マジック・ストーリー(人生を変える魔法の物語)』だ。

だが、世の中・・・特に現代の日本には、どうしようもなく弱い人間、心がひなびた人間、心が腐った人間というものが沢山いる。
それに関し、学校が悪い、マスコミが悪い・・・というのも確かに事実だが、そんなことを言っていても解決にはならない。
まあ、弱いと言っても、あの『スターウォーズ』のルーク・スカイウォーカーだって、最初は弱かったのだから、そこらは気楽に考えて良い面もある。
そこで、2回に渡って、弱い人間のための、魂を強く豊かにする方法を述べていきたい。
最初は、「クリスマス・キャロル効果」である。
チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』という小説はご存じなのではと思う。
利己的で守銭奴の初老の男スクルージは、唯一の友マーレイと、スクルージ&マーレイ商会を経営していたが、マーレイは7年前に死に、スクルージは雇用している事務員と共にこの事務所を続けていた。
クリスマスの日、スクルージは慈善団体の寄付の要請を厳しく断り、家族とのクリスマス・パーティーのために今日は早く帰らせて欲しいと願う事務員には、その分、明日、早く出てくるよう命じた。
その事務員や甥が、スクルージをパーティーに招待したが、スクルージは冷たく断った。
そして、自宅で1人過ごしていたスクルージは、7年前に死んだマーレイの霊の訪問を受ける。
マーレイの霊は、これから、3人の幽霊が、スクルージの未来を見せると言う。
マーレイが言った通り現れた3人の幽霊に導かれ、スクルージは、様々な衝撃的な未来を知るが、止(とど)めは、見捨てられた哀れな死体や、その死体が埋葬された、荒れ果てた墓場に放置された墓に刻まれた自分の名だった。

我々は、本質では、スクルージと比べて少しもマシではない。
社会制度自体が、スクルージの時代と比べて多少向上しているので勘違いしているが、当時の普通の人々は、我々よりもはるかに豊かな心を持っていた。
そんなことが、案外に、駄目な人間ほどよく分るのではないかと思う。
私も、自分がスクルージ以外の何者でもないと分かるのだ。
では、このままでは、我々の未来は、スクルージのそれと何ら変わらない。
見捨てられた死体が我々だし、見向きもされない墓の主が我々である。
それに恐怖を感じれば、我々の魂も、青白い炎を燃え上がらせるはずである。
だが、自分がスクルージとは違うと己惚れたり、根拠のない楽観論に逃避するなら救いはない。
けれども、少しはマシな人間になろうと思えば、その魂の光は、良い第二第三の生命体を呼び寄せることになるだろう。
逆に言えば、少しも悔い改めなければ、さらに悪い第二第三の生命体に掴まってしまい、哀れな地獄の亡霊が我々の未来になるだろう。








フランクル『夜と霧』の薦め

知識もノウハウも持っているのに、さっぱり駄目なやつというのは割といる。
あるいは、修行もかなりしていて、大きなことが出来る力はありそうなのだが、なぜか、前に出ると上手くいかないなんて者もいる。
あなたもそうではないだろうか?
なぜ望ましい成果を得られないのかというと、一言で言えば、「心が狭い」ためである。
逆に言えば、それほどの努力をしなくても、心が広い人間というのは、多少のピンチはあっても、最後は大団円(めでたい結末)に収まるのである。

よく、「鈍感力」とか「反応しない練習」みたいな本がベストセラーになるのは、それで心の安らぎを得られるからと言うよりは、それが、心の広さを得たことによる成果だからだ。
つまり、心が広くならない限り、(好ましい意味で)鈍感にならないし、過敏に反応してしまうのである。
ただ、読むと分かるが、それらの本は頭の良い人が書いたものらしく、あまり解り易くないし、実践となると、ほぼ不可能だ。希望は見えるのだが。

劇的に心が広くなった人物のお話に、ディケンズの『クリスマス・キャロル』がある。
守銭奴、強欲など、いろんな表現が出来るが、とどのつまり、心が圧倒的に狭いスクルージは、そのままで死んだ場合(それはまもなくだった)の悲惨さを見て、一気に心が広がった。
先に死んだ、生きている時はやはり心が狭かったマーレイの友情のおかげだった。
しかし、今の人が『クリスマス・キャロル』を読んでも、それほど共感はしないと思う。
なぜなら、何と、我々は、スクルージよりずっと強欲だからだ。
そりゃそうだ。スクルージの時代は、欲望をかき立てる商品やサービスは、今と比較にならないほど少ない。
案外、スクルージは、あのまま死んでも、今の時代の人間と比べれば、さほど悲惨な死に際や、もしあるとしたら、それほど悪い死後の世界ではなかったかもしれない。

それよりも、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読むと良い。
今の日本では、「安倍内閣は米国の言いなりだ」とか「安倍内閣は無能者の集団だ」といった意味合いのことを、ブログやTwitterにいくら書いても良く、過激な表現ほど「いいね」がもらえる傾向すらあるが、ナチスが支配する時代のドイツでは、そんなことを僅かに言っただけで、家族ごと「消えた」。
さらには、本当に言っただけでなく、「言ったとされた」だけで、さらには、ユダヤ人であるだけで、強制収容所に送られた。
ヴィクトール・フランクルはユダヤ人であるオーストリアの精神科医・心理学者で、1942年に強制収容所に送られ、1945年にアメリカ軍により解放され、奇跡的な生還を果した。
おそらく、少しの想像力があれば、読めば、心底ゾっとするだろうし、サイコパスでもなければ、フランクルに少しでも共感することは難しくはあるまい。
そのゾっとした度合い、フランクルへの共感の強さに応じて、心は広がるだろう。
何より、今の自分の状況は天国に等しいと感じ、不満がなくなる。健全な意味で現在に満足すれば、心が鷹揚になり、それが、心が広がったということだからだ。
ただ、確かに、今の日本では、ロボットを作るような教育や思考力を破壊する受験制度のために、想像力を失くしている者が多いので、必ず大きな成果が得られるかは疑問だが、それでも、少しの効果はあると思う。
これは別に、成功のための訓練ではないのだが、いずれにしても、広い心を持てば、人生はマシなものになるだろう。
尚、私は、個人的には、旧訳である、霜山徳爾版が好きである。あくまで個人的好みであり、人によって違うだろう。出来れば、両方読むことを薦めする。












当ブログオーナー、KayのAI書。もうすぐ(5月30日)発売。
新型コロナウイルス感染症の治療薬の開発でも、AIを使うと使わないでは、開発の速さや、完成した薬品の安全性で格段の差がつくと思われます。
なぜかと言いますと、多くの場合、AIの推測を基にプランを作って実行するのと、人間の論理や勘でそれをするのとでは、数倍~数千倍の効率の差があると考えられるからです。
人間の勘が優る場合もなくはないですが、それが形になるには、エジソンのように99%の努力が必要になります。
しかし、AIを味方にすれば、「1%の閃きと10%の努力」で成功するかもしれません。
そんなAIを使うコツを掴んでいただければと思います。

人を呪わば穴二つ

『クリスマス・キャロル』のスクルージは、なぜ、あそこまで愚か・・・冷酷無慈悲、守銭奴、エゴイストだったのだろう?
それは、おそらく、他人を呪う心・・・恨み、憎しみ、嫌悪が大きくなり過ぎたのだろう。
ジャイアント馬場さんは、あらゆるモメゴトは嫉妬から起こると言っていたが、あらゆる不幸は人を呪うことから起こる。
「人を呪わば穴二つ」というのは、紛れもない真実だ。
では、スクルージがなぜ生まれ変わったのかというと、自分の愚かさを客観視したからだ。
小説だからスクルージはそんなことが出来たが、普通は、たとえ気付いても手遅れだ。

ところが、私は、人を呪う愚かさに気付き、誰も呪わなくなった。
間に合ったのだ。
『地獄少女 二籠』を見ていると、本当に人を呪うことの愚かさが解る。
これを私は、「スクルージ効果」とでも言おう。
私は「スクルージ効果」で救われたのだ。
人を呪わないと言うことは、人を恨まない、憎まない、嫌わないということだし、自分も人に恨まれることはしないでおこうと本当に思うことだ。
人を呪わないことはお得だという、コスパの高さを理解したのではなく、人を呪う愚かさを思い知ったのである。

『地獄少女』は、第1期は、それほどの作品ではなかったように思う。
人気声優の能登麻美子を主役にしたのだから、それなりに力は入れていたとは思うが、人気が出てくるごとに高品質になっていき、『地獄少女 二籠』はもう名作だ。その後の続編もある。ただ、今年秋公開予定の実写版は・・・本音を言うとやめて欲しいが、人気ゆえに作られるのだから、そんなに嫌がらないでおこう。
ところが、私は『地獄少女 二籠』の18話あたりを観てから、1年以上、続きを観ずに放置していた。
『BEATLESS』を観始めたせいかもしれない。
別に、作品の優劣の問題ではなく、その時の自分のフィーリングに合ったのが『BEATLESS』だったということだ。
それで、長い間『地獄少女』に興味を失っていたのだ。
閻魔あいちゃん、あんなに可愛いのにね(畏れ多くて嫁には出来ないが)。

このようなことが起こったのは、今月(2019年3月)2日の記事腕振り運動以上の生命エネルギー活性化法に書いた、その生命エネルギー活性化法のおかげで、生命力強化というよりは、胸のつかえが取れ始めたせいと思う。
人を呪うことは、本当に損であるし、何より、醜い。私は醜いものが大嫌いである。
その方法をやることをお薦めする。胸に詰まった余計なものが溶けると、大抵のことはうまくいく。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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