新約聖書の福音書によると、洗礼のヨハネと呼ばれるヨハネは、人々に「悔い改めよ」と訴えたらしい。
イエスもそう言ったとされているが、私はどうもピンとこないのだ。
だって、「悔い改めよ」と言われて、
「あ、俺が悪かった。悔い改めるよ」
と思う人間なんていないと思うからだ。
だから、実際は、イエスは、人々に直接「悔い改めよ」と命じたのではなく、悔い改めればこうなるとか、悔い改めなければああなると言っただけなのだ。あるいは、祈りの中の言葉として「悔い改めよ」と言っただけである。
ディケンズの『クリスマス・キャロル』という傑作小説がある。
クリスマスの精霊が現れ、守銭奴のスクルージに、スクルージの未来をリアルに見せるが、その未来があまりに悲惨なので、怖くなったスクルージは心を入れ替える。つまり、スクルージは悔い改め、未来を幸せなものに変えることに成功したように思える。
しかし、スクルージは、単に、我が身可愛さのために慈悲深くなっただけで、これって実に浅ましくはないだろうか?岡本太郎流に言えば「卑しい」のではないか?
本当の悔い改めというのは、自分はどんな目に遭おうとも、それに関係なく、利他的なことをすることではないのか?
たとえば、私が天使に、「10万円を寄付しなければ3年後に重病で苦しんで死ぬぞ」と言われたら、10万円を寄付するだろうが、それは善意でも何でもない。単に自分が辛い目に遭いたくない、死にたくないだけだ。
スクルージもそれと同じだ。
※ただし、1938年の映画『クリスマス・キャロル』では、スクルージが今のような人間になった経緯が物語られ、クリスマスの精霊は、スクルージの心を癒すことで、スクルージが悔い改めるよう導いている。

AIアート469
「サンセット」
Kay
人間は、自分の想いで悔い改めることは出来ない。
だが、悔い改めなければ、未来が悲惨なことは、ヨハネ、イエス、クリスマスの精霊が言わずとも確かで、現在の日本などの、ほとんどの人間が人生の終わりに、激しく後悔することになる。
悔い改めなど必要なく、ただ、神のようになればよいのだ。そのためには、深呼吸をし薄目で世界を見れば良いだけである。
自分の想いで悔い改めようなどとすれば、ますます神から遠ざかる。
そうではなく、思考を消さなければならない。
そのためには、深呼吸をすればよく、薄目で世界を見れば、さらにうまくいくだろう。
イエスもそう言ったとされているが、私はどうもピンとこないのだ。
だって、「悔い改めよ」と言われて、
「あ、俺が悪かった。悔い改めるよ」
と思う人間なんていないと思うからだ。
だから、実際は、イエスは、人々に直接「悔い改めよ」と命じたのではなく、悔い改めればこうなるとか、悔い改めなければああなると言っただけなのだ。あるいは、祈りの中の言葉として「悔い改めよ」と言っただけである。
ディケンズの『クリスマス・キャロル』という傑作小説がある。
クリスマスの精霊が現れ、守銭奴のスクルージに、スクルージの未来をリアルに見せるが、その未来があまりに悲惨なので、怖くなったスクルージは心を入れ替える。つまり、スクルージは悔い改め、未来を幸せなものに変えることに成功したように思える。
しかし、スクルージは、単に、我が身可愛さのために慈悲深くなっただけで、これって実に浅ましくはないだろうか?岡本太郎流に言えば「卑しい」のではないか?
本当の悔い改めというのは、自分はどんな目に遭おうとも、それに関係なく、利他的なことをすることではないのか?
たとえば、私が天使に、「10万円を寄付しなければ3年後に重病で苦しんで死ぬぞ」と言われたら、10万円を寄付するだろうが、それは善意でも何でもない。単に自分が辛い目に遭いたくない、死にたくないだけだ。
スクルージもそれと同じだ。
※ただし、1938年の映画『クリスマス・キャロル』では、スクルージが今のような人間になった経緯が物語られ、クリスマスの精霊は、スクルージの心を癒すことで、スクルージが悔い改めるよう導いている。

AIアート469
「サンセット」
Kay
人間は、自分の想いで悔い改めることは出来ない。
だが、悔い改めなければ、未来が悲惨なことは、ヨハネ、イエス、クリスマスの精霊が言わずとも確かで、現在の日本などの、ほとんどの人間が人生の終わりに、激しく後悔することになる。
悔い改めなど必要なく、ただ、神のようになればよいのだ。そのためには、深呼吸をし薄目で世界を見れば良いだけである。
自分の想いで悔い改めようなどとすれば、ますます神から遠ざかる。
そうではなく、思考を消さなければならない。
そのためには、深呼吸をすればよく、薄目で世界を見れば、さらにうまくいくだろう。