偉人のエピソードにはフィクションも多いようだ。
たとえば、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが子供の時、新しい斧の切れ味を試したくて、その斧で桜の木を切ってしまったが、それを父親に告白して、かえって正直さを父親に褒められたという話があったが、これは作り話であるらしい。
私は小学3年生の時に、この話を読んだ本には、この話は事実として書かれていて、これがワシントンの正直で誠実な人柄を示すと解説されていたように思うが、私は嘘っぽいと感じていた。
それで、後に、この話が作り話だと知った時、すっきりしたものだ。
いくら斧の切れ味を試したくても、そして子供でも(桜の木を切るほどには大きいのだ)、父親が大切にしていた桜の木を切るなど、短絡的で馬鹿過ぎるからだ。
それに、さらに後になって、ワシントンは大人になっても、そこそこの年齢になるまで、あまり誠実でない自己中心的な人物であった可能性があることも知った。
いい年になるまで駄目人間だったことでは、アブラハム・リンカーンも同じであったらしい。
リンカーンは40歳くらいまでは普通の男としても、かなり情けなかったというが・・・まあ、本当のことは分からない。
いずれにしろ、証拠もないことを信じてはいけない。
我々を騙そうとする者はいくらでもおり、特に学校やテレビでは、我々を騙そうという意図を持たない者の方が珍しいと思った方が良いかもしれないほどだ(あくまで主観である)。
ルネ・デカルトは、「単に本当らしい話は全部嘘と断定する」という規律を自分に課していた。
それですら、デカルトはいろいろ間違えた。
そこで、ジッドゥ・クリシュナムルティの、「私は何も信じませんよ」という態度が良いのである。

AIアート173
「白とピンクの間」
Kay
ところで、野口英世に関しても、嘘の話が多いらしい。
子供向けの野口英世の伝記では、彼は、真面目に努力する上、恩を忘れない、そして、愛情深い高潔な人物のように描かれているが、それも疑わしいようだ。
だが、たとえ身近にいる人だって、本当はどんな人間かは「全く」分からないと考えるべきである。
極端な話ではあるが、楳図かずおさんの漫画『洗礼』で、こんな話がある。
小学4年生の美少女さくらの母親は、さくらを大切にするあまり、時に常軌を逸したこともするが、それも、さくらへの深い愛情によるものと思われていて、さくらもそう思い、母親を慕っていた。
しかし、さくらの母親は、さくらへの愛情などかけらもなかったことが分かるが、このお話は、私を十分に人間不信にしてくれ、楳図さんには大変に感謝している(半分冗談だが半分本当)。
ところで、野口英世が子供の時、当時は珍しい、高価だったかもしれないゼンマイ時計の構造に好奇心を持って、それを分解してしまうお話があったように思う(別の偉人?)。
今のデジタル時計では、分解しても面白いことはほとんどないと思うが、昔の時計はいろいろ面白かったと思う。
だが、野口は、分解しても、再び組み立てることが出来なかった。
野口も子供の時は知恵が足りない普通の子供だったということだろうが、このお話で野口の好奇心の旺盛さや実行力でも示したかったのだろうか?
だが、私には、普通の範囲のことだと思われる。
ところで、この時の野口少年のように、分解してしまった時計を組み上げるという難しいことが出来ないといった状況は、人生の中ではよく起こる。
そこで、私は、野口少年には、見事、時計を組み上げるお話にして欲しかったと思うのだ。
それは可能だからだ。
私は、ある時、欠陥のあるコンピュータープログラムを修正しなければならなかったが、その時の野口英世のような困難さを感じていた。
成し遂げることは全く不可能に思えた。
あまりに難しかったし、そもそも、そのプログラムには根本的に重大な欠陥があると思われた。
それで諦めて考えるのをやめたら、すぐに、奇想天外な異次元の解決策が分かった。
野口英世のその話が本当かどうかは分からないが、その程度のことであれば、野口はうまくやれたはずなのだ。
ここでいつも言う通り、思考を消せば。
思考を消すことの力を理解している者は、この世界では滅多にいない。
世で賢人、知恵者、あるいは、聖者と呼ばれる者ですらだ。
いつも言う通り「私は誰か?」と自分に問うことで思考を消せば、そんな身近でシンプルな真理を知り、真理はあなたを自由にするのである。
たとえば、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが子供の時、新しい斧の切れ味を試したくて、その斧で桜の木を切ってしまったが、それを父親に告白して、かえって正直さを父親に褒められたという話があったが、これは作り話であるらしい。
私は小学3年生の時に、この話を読んだ本には、この話は事実として書かれていて、これがワシントンの正直で誠実な人柄を示すと解説されていたように思うが、私は嘘っぽいと感じていた。
それで、後に、この話が作り話だと知った時、すっきりしたものだ。
いくら斧の切れ味を試したくても、そして子供でも(桜の木を切るほどには大きいのだ)、父親が大切にしていた桜の木を切るなど、短絡的で馬鹿過ぎるからだ。
それに、さらに後になって、ワシントンは大人になっても、そこそこの年齢になるまで、あまり誠実でない自己中心的な人物であった可能性があることも知った。
いい年になるまで駄目人間だったことでは、アブラハム・リンカーンも同じであったらしい。
リンカーンは40歳くらいまでは普通の男としても、かなり情けなかったというが・・・まあ、本当のことは分からない。
いずれにしろ、証拠もないことを信じてはいけない。
我々を騙そうとする者はいくらでもおり、特に学校やテレビでは、我々を騙そうという意図を持たない者の方が珍しいと思った方が良いかもしれないほどだ(あくまで主観である)。
ルネ・デカルトは、「単に本当らしい話は全部嘘と断定する」という規律を自分に課していた。
それですら、デカルトはいろいろ間違えた。
そこで、ジッドゥ・クリシュナムルティの、「私は何も信じませんよ」という態度が良いのである。

AIアート173
「白とピンクの間」
Kay
ところで、野口英世に関しても、嘘の話が多いらしい。
子供向けの野口英世の伝記では、彼は、真面目に努力する上、恩を忘れない、そして、愛情深い高潔な人物のように描かれているが、それも疑わしいようだ。
だが、たとえ身近にいる人だって、本当はどんな人間かは「全く」分からないと考えるべきである。
極端な話ではあるが、楳図かずおさんの漫画『洗礼』で、こんな話がある。
小学4年生の美少女さくらの母親は、さくらを大切にするあまり、時に常軌を逸したこともするが、それも、さくらへの深い愛情によるものと思われていて、さくらもそう思い、母親を慕っていた。
しかし、さくらの母親は、さくらへの愛情などかけらもなかったことが分かるが、このお話は、私を十分に人間不信にしてくれ、楳図さんには大変に感謝している(半分冗談だが半分本当)。
ところで、野口英世が子供の時、当時は珍しい、高価だったかもしれないゼンマイ時計の構造に好奇心を持って、それを分解してしまうお話があったように思う(別の偉人?)。
今のデジタル時計では、分解しても面白いことはほとんどないと思うが、昔の時計はいろいろ面白かったと思う。
だが、野口は、分解しても、再び組み立てることが出来なかった。
野口も子供の時は知恵が足りない普通の子供だったということだろうが、このお話で野口の好奇心の旺盛さや実行力でも示したかったのだろうか?
だが、私には、普通の範囲のことだと思われる。
ところで、この時の野口少年のように、分解してしまった時計を組み上げるという難しいことが出来ないといった状況は、人生の中ではよく起こる。
そこで、私は、野口少年には、見事、時計を組み上げるお話にして欲しかったと思うのだ。
それは可能だからだ。
私は、ある時、欠陥のあるコンピュータープログラムを修正しなければならなかったが、その時の野口英世のような困難さを感じていた。
成し遂げることは全く不可能に思えた。
あまりに難しかったし、そもそも、そのプログラムには根本的に重大な欠陥があると思われた。
それで諦めて考えるのをやめたら、すぐに、奇想天外な異次元の解決策が分かった。
野口英世のその話が本当かどうかは分からないが、その程度のことであれば、野口はうまくやれたはずなのだ。
ここでいつも言う通り、思考を消せば。
思考を消すことの力を理解している者は、この世界では滅多にいない。
世で賢人、知恵者、あるいは、聖者と呼ばれる者ですらだ。
いつも言う通り「私は誰か?」と自分に問うことで思考を消せば、そんな身近でシンプルな真理を知り、真理はあなたを自由にするのである。