ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

クリシュナ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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神に下駄を預ける

イエスは、
「山に向かって、『歩いて海に入れ』と命じ、その通りになると信じて疑わなければ、そうなる」
と言った。
しかし、誰が、本当に、山に歩いて海に入って欲しいと思うだろう?
一方、戦争に行く息子に、生きて帰って来て欲しいとは、本当に願うだろうが、その願いが叶わないこともある。
では、その場合は、必ず生きて帰って来ると完全に信じていなかったからということになるのだろうか?
だが、知性ある人間は、様々な可能性のあること、つまり、本来、確率的なことを完全に信じることは出来ない。
では、どうすれば願いが叶うのだろう?

『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、
「どの神に祈っても、願いは叶えられる」
と言っている。
けれども、それではと、
「わが神、サラスヴァティー(ヒンズー教の女神)よ、あの子が私のプロポーズを受けて下さいますように」
とお祈りをしてから、その子にプロポーズをしても、まあ、駄目なものは駄目だ(笑)。
だが、クリシュナは、こうも言っているのだ。
「正しい祈りは、私に祈ることだ」
つまり、他の神に祈ることは、本来は正しくないのだと言うわけだ。
そこで、心を改め、
「クリシュナよ、あの子が私のプロポーズにOKして下さいますよう」
と祈っても、やっぱり、どうなるかは分からない。
それでは困る。
では、どうすれば?

ところで、イエスだって、磔になる前に、
「父なる神よ、出来るなら、悪いこと(自分が逮捕されて磔になること)が起こりませんように」
と、お祈りしているのである。
ただ、イエスは、その後、こうも祈っているのだ。
「ただし、あなた(神)の想いが実現しますように」
つまり、死ぬのは嫌だが、「後はまかせる」と、神に下駄を預けてしまったのだ。
その結果、イエスの願いは叶わなかったと思うだろうか?
まさか!
確かに、イエスは、その後、逮捕され、磔にされて殺されてしまった。
しかし、その3日後、イエスは完全な神になり、何でも自由自在になったではないか?
だが、一度死ななければ、そうならなかったのだ。
簡単に喩えれば、神様に「あの子が僕の彼女になるますように」と祈ったのに、その子には振られてしまったが、実は、その子は悪い女だと分かり、そして、その子の百倍可愛い彼女が出来た・・・そんな感じだ。
だから、何でも願えば良いが、必ず、神様に「下駄を預ける」ことだ。

さて、イエスは最後に、もっと大事なことを教えてくれている。
「私の名によって願うことは、全て叶えられるだろう」
名前と実体は等しいのである。
イエスという名は、イエスそのものなのだ。
だから、いつもイエスの名を憶念する、つまり、心の中で唱えることだ。
神仏の名を心で唱える行を「ナーマスマラナ」と言う。
この、人類に唯一残された、誰がやっても効果がある、この行をやることだ。
念仏も、ナーマスマラナの1つであり、釈迦も、これでしか救われないと言ったという説がある。
どの神、あるいは、仏でも良い。
その名を唱えることである。
一方、願い事の内容は、いちいち言わなくて良い。
そんなこと、イエスも言ったように、「神はとっくにご存じ」なのだ。
旧約聖書にも書かれている通り、神は、呼ぶ前に答えるお方なのである。
つまりだ。
ナーマスマラナ(念仏もその1つ)をすれば良いだけなのである。
さらに懇切丁寧に言えば、ナーマスマラナをしながら、神仏に下駄を預けることである。








我々はイエスやクリシュナの何にシビれるのか

『新約聖書』の『福音書』や、『バガヴァッド・ギーター』を読むと、素晴らしい爽快感のようなものを感じるのだが、その理由は、主役たるイエスやクリシュナの、並ぶもののない卓越性、無敵性、絶対的強さによる、圧倒的な自信のためだ。
人間は、そういった存在が好きだし、必要でもある。

そして、我々自身、可能な限り、イエスやクリシュナの強さを持たなければならない。
これは、不遜なことではなく、彼らも明言した通り、彼らが我々の内に、あるいは、共にいるというのは、とても科学的な意味であり、それは実は、我々が彼らと一体に、そして、同じになれるということであると思う。
実際、人間は、そのようでなければならないと思う。

子供が、アニメで、卓越して優れた、格好良いヒーローやヒロインを見た時、自分が、そのヒーローやヒロインになりきってしまうのは、とても健康的で正常な心構えである。
エマーソンもエッセイ『歴史』の中で、英雄の物語を読む時は、自分の物語を読んでいるのだと認識しなければならないと述べている。
今は、アニメのヒーローやヒロインが、強くて優秀というよりは、親しみのある、あまり強くないばかりか、ヘタレ(臆病で情けない)で駄目なキャラクターであることが多くなったが、それは、今のアニメ(および、その原作のライトノベルや漫画)の多くが、子供向けでなく、残念な大人を対象にしているからだろう。
しかし、例えば、『魔法科高校の劣等生』の司波達也のような惚れ惚れする強い優秀なヒーローを見ると、やはり心躍るものがあると思う。

そして、何度も言うが、優秀になる・・・ある意味、プロになるのは難しいことではなく、単に時間をかければ良いのである。
具体的には、1万時間の時間を費やせば、そのことで卓越した強者になれる。
これも何度か取り上げたが、チームラボの猪子寿之社長が、夏野剛氏(現ドワンゴ社長)との対談で、「人間に差はない。天才はいない。アウトプットは、単にかけた時間だけで決まる」と言ったのは、特殊な例外を除いて、ほぼ真実であると思う。
英語でも、自動車整備でも、1万時間をかければ、誰にも負けない能力が身に付き、自信を得ることが出来る。
きっと、司波達也も、魔法技術に1万時間以上かけたのだろう。
しかし、これは、「超優秀な司波達也は、魔法技術に1万時間以上かけただけ」とも言えるのである。

私は、リレーショナル・データベースというものに1万時間以上をかけたので、いかなるものごともデータの関連性として捉えることが出来る。
あらゆる情報を適切に結び付けて、新しく有意義な情報に変えることが出来る。
それが出来れば、システム開発など楽々である。
今なら、高度なリレーショナルデータベースおよび、それを扱うツールでは、マイクロソフトAccessが僅か2万円以下で変えるし、Accessと組み合わせることで、そこそこの規模のことが出来るマイクロソフトSQL Server Expressは実に無料だ。無論、上位のSQL Serverを使えば、ビッグデータすら扱えるが、規模の差だけで、両者はほとんど同じものだ。
ちょっと専門的になったが、無償のSQL Serverがある限り、私は、Accessより他のリレーショナル・データベースにあまり興味がない。
それに、Accessなら、自分1人で達人になれる。

英語だって、1万時間かければ武器になる。
超有名な評論家だった竹村健一氏は「僕は英語を武器にして世に出たが、僕の英語なんて素人に毛が生えた程度ですよ」と言われていた。
しかし、やはり、1万時間かけた英語だったが、別に彼は、外大や英語学校に通ったわけではない。何も特別なスキルはなかったが、それでも、積極的に外国人と交流しただけである。

日本を代表する思想家の吉本隆明氏は、「物書きになりたいなら、毎日10年書け。書けなくても書こうとしろ。10年やれば必ずものになる」と著書に書かれていたが、1日3時間弱書けば10年で1万時間だから、やはり、1万時間かけろということだ。
逆に言えば、プロの物書きになるには、それくらいは書く(あるいは、書こうとする)ことが必要なのだろう。
ギターやドラムやピアノはどうかというと、必ずしもバンドで食べられるようになるわけではないが、1万時間やれば、力と自信を得、なんらかの道が開けると思う。

イエスやクリシュナも、とんでもなく長い時間を費やしたので、人類を超えたのだと思う。
その力と自信に、我々はシビれるのである。
とりあえず私は、司波達也にシビれているが・・・












自分が最高の存在であることをこう言う

今朝述べた、エマーソンのように、「私は世界の所有者」と宣言することは、世間の教義や信条といった幻想に過ぎないものを打ち破り、真の自己に目覚めることになる。
私は世界の所有者・・・初めはそう思えなくても、この言葉を何百、何千と繰り返すうちに、その言葉の通りに潜在意識が形作られ、潜在意識を映したものに過ぎない世界に反映する・・・即ち、世界は、あなたに従い、意のままとなる。

では、このエマーソンすら貴んだ、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナは自分をどう表現したか見てみよう。
その中で、特に神話の知識を要しない、我々でも比較的解り易いものを抜き出す。
まず、『バガヴァッド・ギーター』(日本ヴェーダーンタ協会)、「第一〇章 超越者認識の道」より引用する。
・光るものの中では太陽
・星々の中では月
・貯水池の中では大洋
・動かぬものの中ではヒマラヤ
・樹木の中では菩提樹
・人々の中では王
・武器の中では雷電
・獣類の中では獅子
・魚類の中では鮫
・河川の中ではガンジス河
・詐欺の中の賭博
・秘行における沈黙
・智者における智慧

次に、同じ部分を、文語調で訳された『至高者の歌』(三浦関造訳。竜王文庫)「第一〇場 至上神力の統一」で見る。
・爛たる群星中の燃え輝く日輪
・星宿の間に住む月輪
・湖水を凌ぐ大海
・厳たる諸山中のヒマラヤ
・一切樹木中の菩提樹
・人中の大王
・武器中の雷電
・野獣中の獣王
・鳥類中の鷲
・風の中の烈風
・諸川中の恒河(ガンジス河)
・詐欺中の大博奕 ※博奕(ばくえき)は賭博と同じ
・王者等の中の帝笏(ていしゃく) ※帝笏とは君主が持つ装飾的な杖
・秘密中の沈黙
・智者中の大智

クリシュナは至高神であるのだから当然であるが、自己こそ最高の存在であることを権威を持って断じる姿を想うと感動的である。
そして、エマーソンは、自分だけでなく、全ての者がそうでなければならないと確信し、『自己信頼』を書いたのである。
あなたも、上記の中から気に入った言葉を自分のキャッチフレーズとして常に使えば、そのようになるであろう。








愛するとはどういうことか

イエス・キリストの教えは「神を愛せよ」だったのだと私は断言する。
旧約聖書では「神を崇めよ」だったのが、イエスは「愛せよ」に変えたのだ。
「崇める」ってのは、現代人には疲れるのだ。
人類最大の聖典『バガヴァッド・ギーター』の教えとは、至高神クリシュナの言葉「私を愛せよ」だ。
つまり、イエスの教えもクリシュなの教えも同じで、人間の最高の行為は、神を愛することである。

ただ、クリシュナとイエスは、そのやり方を示さなかったという、我々からすれば、大ボケをかましているように感じる。
「愛する」とはどういうことなのか?
それが分からないから、人間は苦労するのである。

「愛する」とはどういうことだろう?
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、そもそも、人間には愛することは出来ないと言った。
ただ、出来るのは、「憎しみを消す」ことだけなのだと。
イェイツは、オスカー・ワイルドやニーチェ同様、アンチ・キリストだったと思うが、彼らは、「愛し方」を教えなかったイエスに反感でも持ったのだろうか?

好きな人がいて、その人を愛するというのは、その人のことを想うことだ。

「あたしはシャオランのことをずっと考えているよ。シャオランはあたしのこと、考えることある?」
「考えてるよ。僕もずっとサクラ姫のこと」

CLAMP原作のアニメ『ツバサ・クロニクル』の第1話で、こんな感じの会話があったと思うが、これが愛するということなのだ。
でも、同じ人間を愛するのなら、これで良いが、愛する相手が神ともなると、どう想えば良いのか分からない。
『観無量寿経』という浄土仏教の経典には、阿弥陀如来や観世音菩薩、そして、勢至菩薩をイメージする方法が説かれている。
つまり、イメージすること、想うことが、愛することであるのは、サクラ姫やシャオランと同じだ。
だが、釈迦は最後の最後で言うのだ。
「想うとは、その名を覚えていることだ」
名は体を表すとか言うが、その名を覚えて、ずっと想うことで愛することが出来る。
そして、それそのことが念仏なのである。
アポローン神を愛するなら、ずっとアポローン神の名を想えば良い。
阿弥陀如来を愛するなら、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えれば良い。
そうすれば、自我は自分より高い存在があることを知り、自然に頭を垂れる。
すると、神仏の魂が我々の魂の中に流入し、我々の魂は神仏の魂の中に広がる。
一休が言った、念仏を称えれば、心そのものが仏になるというのは、こういう意味であると思う。









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誰でも確実にできる金持ちになる方法

随分昔に読んだ、あるお坊さんの書いた本の中に、お金持ちになる方法が書かれてあったのを覚えている。
どの本だったかは覚えていないが、その方法とは、確か、小銭を溜めろといったことと思う。
あるいは、小銭を大切にしろだったかもしれない。まあ、同じことと思う。
理屈で考えれば、小銭をためて金持ちになれるはずがない。
しかし、その時、私には、正しいことを見たり聴いたりした時に感じる超感覚が閃いたのをはっきりと覚えている。
私は、それを守っていた間は、ロクに収入がなかった時も、いつもサイフの中はお金がいっぱいで余裕しゃくしゃくだった。
周りの者達に、いつも豪華な夕食を驕るので、「お前、なんでそんなにリッチなんだ?」とよく言われたものだが、それについては、考えもしなかった。
あるものは仕方がないのだ。
しかし、小銭を大切にしなくなると、収入が多くなったのに、全然お金が増えなかった。
これは本当である。

ほとんどの人の欠点は、結果を求め過ぎる・・・つまり、結果に執着するということだ。
こう言うと、
「ビジネスは結果が全てだ。甘いことを言うな」
とか、
「武道では負けは死を意味するのだ」
などと言って、得意になるやつが沢山いる。
まあ、好きにやってもらえばよろしいが。
結果は神が決めることだ。
イエスもクリシュナも荘子も黒住宗忠もソクラテスも、およそ知恵のある者はみんなそう言ったのだ。
だから、結果を心配しても仕方がないのだ。

初めてステージに立った時、初めての試合の時、脚がガタガタ震えたり、頭の中が真っ白になったなんてことを言う人がよくいる。
それは良いことではなく、子供の時に親や教師に植え付けられた間違った観念による、馬鹿なことなのだ。
「勉強しなさい」
と言うのは、まあ良いとしよう。
しかし、
「最低80点取りなさい」
なんてのは、馬鹿も馬鹿、大馬鹿者の言うことだ。
だいたい、そんなことを言う親は、勉強の仕方も教えずに、即物的に結果を求めている大馬鹿なのだ。
結果なんてどうでも良いのだ。
それは、なるようにしかならない。
結果は自分が決めるのではなく、神が決めることなのだ。
それよりも、少しでいいから勉強することが大切だ。
少しで良いのだ。
小銭をためるのと同じだ。
理屈に合わなくても、それで勉強ができるようになるのだ。
教師は無駄な宿題など出してはならない。
無能な君の出す宿題は、生徒にとって邪魔以外の何物でもないのだ。

小銭をためて金持ちになんかなれないと思うのは、結果に執着しているのだ。
そんな者が金持ちになることはない。
金持ちにはなりたいが、小銭を大切にするなら、結果に執着していないということで、そんな者を神は助けるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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