芸術の見方が分かれば、それでもう、ヨーガやカバラーの修行と同じことができる。
だが、専門家の言う芸術の見方・・・「味わい方」「鑑賞法」などは、難しい上に不幸になる見方だ。
昨夜、ものの見方には、「観察」「観賞」「観照」があると述べたが、これは人間にとって、実に重要であると思った。
この区別がつき、実践できれば、我々はすでに偉大なヨーギでありウイザード(魔法使い)だ。
イエス・キリストは、「女を邪まな目で見れば姦淫したるも同じ」と言ったが、それは「女を観察するな、観賞すらするな」と言ったのである。
観察・・・考えながら見ることだ。英語ではオブザーブだが、聞きなれたウォッチでも良いだろう。
観賞・・・味わい楽しむことだ。エンジョイである。
観照・・・直観で見ることだ。メディテイションである。
観察と観賞は、それをする自分がいる。つまり、主体として見る。
観照は、自己を超えた行為であり、それをする者はいない。
「観察」「観賞」は近く、この2つに比べ、「観照」は遠く、全く異質である。
いきなりだが、スーーパーマンの弱点がクリプトナイトであることをご存知だろか?
スーパーマンの母星クリプトン星の鉱物で、これから出る放射線が、スーパーマンを弱体化させるらしい。
『スーパーマン』の大昔のテレビドラマ作品で、クリプトナイトを手に入れた悪人が、これにどうやってスーパーマンを近付けさせようかと考え、芸術的絵画の裏にそれを隠し、スーパーマンを招待して、それを見せる。ところが、スーパーマンは絵に近付かない。
正体を隠した悪者が、
「さあ、もっと近くでご覧下さい」
と言うと、スーパーマンは、
「芸術は離れて観るものではないですか?」
と言う。
私は、4つの時に聞いたこの言葉が、なぜか記憶に残った。
ウォッチ(観察)、エンジョイ(観賞)は、なるべく近付いて見たがるのだ。
人気スターのコンサートでは、規制しないとファンはステージに駆け寄るようなものだ。
だが、メディテーション(観照)は、離れて見る。物理的にそうするだけでなく、心的に離れて見るのだ。この感覚が少し難しいが、慣れると、素晴らしい世界が広がる。
日々起こる、楽しいことを、悲しいこと、嬉しいこと、辛いこと・・・これらを、ウォッチ(観察)、エンジョイ(観賞)すると、それに巻き込まれ、悲惨を味わう。
しかし、それらを一歩離れてメディテーション(観照)すれば、それらは、自分とは何の関係もなく、ただ起こったものである。
もちろん、時には、観察や観賞が必要なこともある。
しかし、我々は観察、観賞し過ぎる。必要でなければ、常に観照すべきである。
先ほども述べたが、観察、観賞は自分(自我)が行う。
観照は自分を超えたものが行う。
だから、観照する習慣が身に付けば、自我は弱まっていく。それはつまり、神に近付くということだ。
神に近付けば、神は自我を破壊する。そうなれば、神になるということだ。
クラシック音楽は、電車の中でウォークマンやiPodで聴くのが不都合なところがある。
クラシック音楽というのは、音が小さい部分と大きい部分の差があり、小さい部分が、騒がしい電車の中ではほとんど聴こえない。
だが、それがクラシック音楽らしいところだ。
クラシック音楽は、決して、勇壮な音響やきれいなメロディーにうっとりするだけのものではない。それはまだ、観賞しているのだ。
そうやって揺さぶりをかけながら、やがて、観照の状態にさせるのが、クラシック音楽であり、その目的を達成させるために、演奏家は究極まで腕を磨き、最高の指揮者が調和をもたらすのだ。
クラシック音楽を聴くときに、あまり身体でリズムを取るようなことはしない。
何も考えず、聴いているという意識すら無くなった時、本当に観照しているのである。
その時は、神が聴いているのである。
絵画など、芸術作品を見る時も、何も考えずに、ある意味、ぼーっとして見ると良い。
専門家の言う講釈など、決して思い出してはならない。
ピカソを見ながら、これのどこが良いのか納得しようなどと、決して考えてはならない。分からないから良いのだ。
我々の分別する能力、知性ではピカソは決して分からない。
観照した時に、その意味が忽然と浮かぶ。それは、別に刺激的でも何でもない。「感動した!」なんて言わない。
何が良いのかさっぱり分からず、少々腹が立っても、深い精神は分かっている。それに慣れてくれば、心を超え、深い意識に入っていけるようになる。
それは、天使と会話することであり、神の光を受けるということだ。
あなたは神人となり、この世を超えるのである。ただ、それを目的としないように。
『スターウォーズ』で、天才アナキン・スカイウォーカーは、それを目的としてしまったために暗黒に飲み込まれたのだ。
天才でない方が、楽にヨーダを超えるのである。
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だが、専門家の言う芸術の見方・・・「味わい方」「鑑賞法」などは、難しい上に不幸になる見方だ。
昨夜、ものの見方には、「観察」「観賞」「観照」があると述べたが、これは人間にとって、実に重要であると思った。
この区別がつき、実践できれば、我々はすでに偉大なヨーギでありウイザード(魔法使い)だ。
イエス・キリストは、「女を邪まな目で見れば姦淫したるも同じ」と言ったが、それは「女を観察するな、観賞すらするな」と言ったのである。
観察・・・考えながら見ることだ。英語ではオブザーブだが、聞きなれたウォッチでも良いだろう。
観賞・・・味わい楽しむことだ。エンジョイである。
観照・・・直観で見ることだ。メディテイションである。
観察と観賞は、それをする自分がいる。つまり、主体として見る。
観照は、自己を超えた行為であり、それをする者はいない。
「観察」「観賞」は近く、この2つに比べ、「観照」は遠く、全く異質である。
いきなりだが、スーーパーマンの弱点がクリプトナイトであることをご存知だろか?
スーパーマンの母星クリプトン星の鉱物で、これから出る放射線が、スーパーマンを弱体化させるらしい。
『スーパーマン』の大昔のテレビドラマ作品で、クリプトナイトを手に入れた悪人が、これにどうやってスーパーマンを近付けさせようかと考え、芸術的絵画の裏にそれを隠し、スーパーマンを招待して、それを見せる。ところが、スーパーマンは絵に近付かない。
正体を隠した悪者が、
「さあ、もっと近くでご覧下さい」
と言うと、スーパーマンは、
「芸術は離れて観るものではないですか?」
と言う。
私は、4つの時に聞いたこの言葉が、なぜか記憶に残った。
ウォッチ(観察)、エンジョイ(観賞)は、なるべく近付いて見たがるのだ。
人気スターのコンサートでは、規制しないとファンはステージに駆け寄るようなものだ。
だが、メディテーション(観照)は、離れて見る。物理的にそうするだけでなく、心的に離れて見るのだ。この感覚が少し難しいが、慣れると、素晴らしい世界が広がる。
日々起こる、楽しいことを、悲しいこと、嬉しいこと、辛いこと・・・これらを、ウォッチ(観察)、エンジョイ(観賞)すると、それに巻き込まれ、悲惨を味わう。
しかし、それらを一歩離れてメディテーション(観照)すれば、それらは、自分とは何の関係もなく、ただ起こったものである。
もちろん、時には、観察や観賞が必要なこともある。
しかし、我々は観察、観賞し過ぎる。必要でなければ、常に観照すべきである。
先ほども述べたが、観察、観賞は自分(自我)が行う。
観照は自分を超えたものが行う。
だから、観照する習慣が身に付けば、自我は弱まっていく。それはつまり、神に近付くということだ。
神に近付けば、神は自我を破壊する。そうなれば、神になるということだ。
クラシック音楽は、電車の中でウォークマンやiPodで聴くのが不都合なところがある。
クラシック音楽というのは、音が小さい部分と大きい部分の差があり、小さい部分が、騒がしい電車の中ではほとんど聴こえない。
だが、それがクラシック音楽らしいところだ。
クラシック音楽は、決して、勇壮な音響やきれいなメロディーにうっとりするだけのものではない。それはまだ、観賞しているのだ。
そうやって揺さぶりをかけながら、やがて、観照の状態にさせるのが、クラシック音楽であり、その目的を達成させるために、演奏家は究極まで腕を磨き、最高の指揮者が調和をもたらすのだ。
クラシック音楽を聴くときに、あまり身体でリズムを取るようなことはしない。
何も考えず、聴いているという意識すら無くなった時、本当に観照しているのである。
その時は、神が聴いているのである。
絵画など、芸術作品を見る時も、何も考えずに、ある意味、ぼーっとして見ると良い。
専門家の言う講釈など、決して思い出してはならない。
ピカソを見ながら、これのどこが良いのか納得しようなどと、決して考えてはならない。分からないから良いのだ。
我々の分別する能力、知性ではピカソは決して分からない。
観照した時に、その意味が忽然と浮かぶ。それは、別に刺激的でも何でもない。「感動した!」なんて言わない。
何が良いのかさっぱり分からず、少々腹が立っても、深い精神は分かっている。それに慣れてくれば、心を超え、深い意識に入っていけるようになる。
それは、天使と会話することであり、神の光を受けるということだ。
あなたは神人となり、この世を超えるのである。ただ、それを目的としないように。
『スターウォーズ』で、天才アナキン・スカイウォーカーは、それを目的としてしまったために暗黒に飲み込まれたのだ。
天才でない方が、楽にヨーダを超えるのである。
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