ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

クラシック音楽

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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芸術は離れて観るもの

芸術の見方が分かれば、それでもう、ヨーガやカバラーの修行と同じことができる。
だが、専門家の言う芸術の見方・・・「味わい方」「鑑賞法」などは、難しい上に不幸になる見方だ。

昨夜、ものの見方には、「観察」「観賞」「観照」があると述べたが、これは人間にとって、実に重要であると思った。
この区別がつき、実践できれば、我々はすでに偉大なヨーギでありウイザード(魔法使い)だ。

イエス・キリストは、「女を邪まな目で見れば姦淫したるも同じ」と言ったが、それは「女を観察するな、観賞すらするな」と言ったのである。
観察・・・考えながら見ることだ。英語ではオブザーブだが、聞きなれたウォッチでも良いだろう。
観賞・・・味わい楽しむことだ。エンジョイである。
観照・・・直観で見ることだ。メディテイションである。
観察と観賞は、それをする自分がいる。つまり、主体として見る。
観照は、自己を超えた行為であり、それをする者はいない。
「観察」「観賞」は近く、この2つに比べ、「観照」は遠く、全く異質である。

いきなりだが、スーーパーマンの弱点がクリプトナイトであることをご存知だろか?
スーパーマンの母星クリプトン星の鉱物で、これから出る放射線が、スーパーマンを弱体化させるらしい。
『スーパーマン』の大昔のテレビドラマ作品で、クリプトナイトを手に入れた悪人が、これにどうやってスーパーマンを近付けさせようかと考え、芸術的絵画の裏にそれを隠し、スーパーマンを招待して、それを見せる。ところが、スーパーマンは絵に近付かない。
正体を隠した悪者が、
「さあ、もっと近くでご覧下さい」
と言うと、スーパーマンは、
「芸術は離れて観るものではないですか?」
と言う。
私は、4つの時に聞いたこの言葉が、なぜか記憶に残った。
ウォッチ(観察)、エンジョイ(観賞)は、なるべく近付いて見たがるのだ。
人気スターのコンサートでは、規制しないとファンはステージに駆け寄るようなものだ。
だが、メディテーション(観照)は、離れて見る。物理的にそうするだけでなく、心的に離れて見るのだ。この感覚が少し難しいが、慣れると、素晴らしい世界が広がる。

日々起こる、楽しいことを、悲しいこと、嬉しいこと、辛いこと・・・これらを、ウォッチ(観察)、エンジョイ(観賞)すると、それに巻き込まれ、悲惨を味わう。
しかし、それらを一歩離れてメディテーション(観照)すれば、それらは、自分とは何の関係もなく、ただ起こったものである。
もちろん、時には、観察や観賞が必要なこともある。
しかし、我々は観察、観賞し過ぎる。必要でなければ、常に観照すべきである。
先ほども述べたが、観察、観賞は自分(自我)が行う。
観照は自分を超えたものが行う。
だから、観照する習慣が身に付けば、自我は弱まっていく。それはつまり、神に近付くということだ。
神に近付けば、神は自我を破壊する。そうなれば、神になるということだ。

クラシック音楽は、電車の中でウォークマンやiPodで聴くのが不都合なところがある。
クラシック音楽というのは、音が小さい部分と大きい部分の差があり、小さい部分が、騒がしい電車の中ではほとんど聴こえない。
だが、それがクラシック音楽らしいところだ。
クラシック音楽は、決して、勇壮な音響やきれいなメロディーにうっとりするだけのものではない。それはまだ、観賞しているのだ。
そうやって揺さぶりをかけながら、やがて、観照の状態にさせるのが、クラシック音楽であり、その目的を達成させるために、演奏家は究極まで腕を磨き、最高の指揮者が調和をもたらすのだ。
クラシック音楽を聴くときに、あまり身体でリズムを取るようなことはしない。
何も考えず、聴いているという意識すら無くなった時、本当に観照しているのである。
その時は、神が聴いているのである。

絵画など、芸術作品を見る時も、何も考えずに、ある意味、ぼーっとして見ると良い。
専門家の言う講釈など、決して思い出してはならない。
ピカソを見ながら、これのどこが良いのか納得しようなどと、決して考えてはならない。分からないから良いのだ。
我々の分別する能力、知性ではピカソは決して分からない。
観照した時に、その意味が忽然と浮かぶ。それは、別に刺激的でも何でもない。「感動した!」なんて言わない。
何が良いのかさっぱり分からず、少々腹が立っても、深い精神は分かっている。それに慣れてくれば、心を超え、深い意識に入っていけるようになる。
それは、天使と会話することであり、神の光を受けるということだ。
あなたは神人となり、この世を超えるのである。ただ、それを目的としないように。
『スターウォーズ』で、天才アナキン・スカイウォーカーは、それを目的としてしまったために暗黒に飲み込まれたのだ。
天才でない方が、楽にヨーダを超えるのである。









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クラシック音楽を聴いて眠くなるのは決して悪いことではない

クラシック音楽を聴くと眠くなると言ったら、お堅いクラシックファンに蔑まれるかもしれない。
ところで、私は、昨日、ドヴォルザークの『新世界より』を通して聴いた。
CDをWAVEデータ化(音質の劣化は無い)し、iPod touchに転送したものをヘッドフォンで聴いたのである。
演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮はカラヤン。20世紀の遺産とも言われる名演奏らしい。
そして、何を聴いていたか、ほとんど覚えていない。
途中から眠ってしまっていて、ずっと自我意識が無かったのだ。
だが、素晴らしい演奏だった。
クラシックの聴き方として、これで良いと思う。

元々が、クラシック音楽は、自我を楽しませることを目的としていない。よって、聴いていてワクワクしたり、シビれたり、興奮することはない。
ただし、自我にとって不快でもない。自我を適当に静めた上で、深奥の意識と共鳴するのであり、対象は、日常の意識(自我意識)よりずっと深いところにある意識だ。
よって、眠くなる方が自然なのである。

ロックやポップニュージックは自我を楽しませる目的で創られている。ただ、これらの分野でも、名曲と言われるものは、同時に、やや深い意識に入り込む性質がある。しかし、クラシック音楽とは比較にならない。

ヒーリング・ミュージックというものは、心地よい旋律で自我の注意を集めて静かにさせてしまうのである。音楽を聴いている間は心が静まっている。
自我の注意を引き付けることに関してはクラシックより強い効果がある。クラシックは、自我がどう感じるかについては、本質的にどうでもいいいからだ。
そして、やはり優れたヒーリング・ミュージックもまた、深い意識に働きかける。だが、普通は、その効果はあまり高くない。ストレスの元になる自我を一時的に静めることが第一の目的だからである。

クラシックも、『新世界より』もそうだが、非常に旋律が心地良く感じられる部分もあり、その部分のメロディーに詩を付けて唱歌にすることもある。
唱歌として、『新世界より』では第2楽章を使った『家路』、ウェーバーの『魔弾の射手』の序曲を使った『秋の夜半(よわ)』がよく知られているし、ホルストの組曲『惑星』の木星の部分は、やはり自我意識的にも心地良く、平原綾香さんがデビュー曲に使ってヒットした。
しかし、これらはもはやクラシックではない。ヒーリング・ミュージックとしては非常に優れたものになるが、クラシックの本来の良さは無くなっている。

そもそも、クラシック音楽の作者は、自我で知的に考えて創っているのではない。
ほとんど無意識状態で創ったのである。自我をはるかに超えた深い意識から曲が出てくるからだ。
クラシック音楽の巨匠は、全て即興(即座に音楽を創ること)の大家でもある。即興で名曲が出来るのは、自我がほとんど消えて、深い意識と交流している時だ。実のところを言えば、クラシックというのは、本質的に全て即興である。制作に時間がかかった場合は、ただ、自我を消すのに難儀していたのに違いなく、自我が消えてしまえば、曲は即時に出来る。

フランス国家ラ・マルセイエーズを創ったクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールは、音楽家ではなく、技術軍人で、音楽は趣味だった。その彼が、天啓を受け、不意に自我が消えたのだろう。一夜で、この名曲を作詞作曲したのである。ただし、夜が明ければ自我が戻ったようで、他に名曲を創ることは無かった。

よって、聴く方も、自我で考えながら聴いても、ほとんど意味はない。
さっさと自我が眠り、超越した意識により聴くべきものなのである。

ただ、自我が眠っていても、意識が目覚めていることが好ましい。
道元が、『正法眼蔵』の中で、「仏道とは自己を忘れること」と書いているが、自己を忘れることとは、自我を消すことなのであるが、それは眠ってしまうことではない。
自我は消えても、意識は目覚めている状態なのである。
道元は、それを座禅で成し遂げさせようとし、只管打坐(しかんたざ。ただ座れ)と言った。岡田式静坐法を普及させた岡田虎二郎の静坐法の真意もそこにある。
ところが、クラシック音楽というのは、それを自然に成し遂げさせるものである。
座禅や静坐では、眠ってしまえばそれまでだ。
しかし、クラシック音楽は、眠ってしまっても、音楽が超越意識に働きかける。
自我のみ消え、意識が目覚めていることが望ましいが、眠っていても駄目な訳ではない。そして、そう遠くない時に、意識が目覚めたまま、自我が消えることを体験できるだろう。
クラシック音楽の良さをよく分かっている人に、クラシック音楽の良さを聴いても、曖昧なことを言う場合が多い。言葉による説明とは観念であるが、クラシック音楽は観念ではないからだ。
クラシック音楽は、道元の「ただ座れ」と同様、「ただ聴け」ば良いのである。
ただ、クラシックに慣れていないなら、やはり旋律の美しいものを選ぶのが良いかもしれない。
『新世界より』『惑星』は一般にも人気のある曲で、聴き易い。
スメタナの『わが祖国』は、誰でもその旋律の美しさは感じられ、多くの人がどこかで聴いて覚えていると思う。
『月の光』(ドビュッシー作。ベルガマスク組曲の第3曲)も、親しみやすい美しい曲だ。
決して何も考えずに、ただ聴くことをお奨めする。
幸い、スメタナの『わが祖国』の第2曲『モルダウ』(単独で演奏されることが多い)は、私が昨日聴いた『新世界より』のCDに同時収録されている。下にご紹介しておく。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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