ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

キリスト

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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2日連続で見たイエスが超能力を発揮する映画

今日の午後は、2016年のアメリカ映画『ベン・ハー』を観た。
私は『ベン・ハー』は、1959年のチャールトン・ヘストン主演の作品しか知らなかったが、1959年のものが、『ベン・ハー』の3作目で、2016年のものが6作目ということになるらしい。
2016年の作品は、ジャック・ヒューストン主演で、日本ではなんと未公開だ。

昨日、『キング・オブ・キングス』を観たので、イエス・キリストの磔を2日連続で見た訳である。
今日観た、2016年作品であるが、仕方がないこととは思うが、俳優達があまりに健康そうで(肌や髪の艶が良過ぎるし、肉付きもいい)、リアリティに欠けたが、面白かった。
そして、『キング・オブ・キングス』も、今日の『ベン・ハー』も、保江邦夫さんの言うキリスト活人術のようなものを見せてくれたし、1959年の映画でもそうだった。
2016年の作品で言えば、乱暴に連行される途中に倒れたジュダ・ベン・ハーに、彼の恋人のエスターが水を飲ませようとするがローマ兵に阻まれると、イエス・キリストがジュダに水を与えようとする。すると、やはりローマ兵がイエスを追い払おうとするが、イエスに触れられると、ローマ兵は何も出来なくなり、イエスはジュダに水を飲ませる。
1959年の映画では、灼熱の砂漠を歩いて護送され、渇きに苦しむジュダが水を求めるが、護送隊長がこれを阻み、ジュダが気を失った時、イエスがジュダを介抱し、水を与えようとする。護送隊長がこれを見てイエスを蹴散らそうとするが、イエスが護送隊長に向かって立つと、護送隊長は怯んで何も出来なくなる。
まあ、実際は、これらは、保江さんの説くキリスト活人術とは違うかもしれないが、相手の魂に働きかけ、身体を支配するという原理では同じであると思う。

キリスト教では活人術をマスターするには、厳しい修行が必要であるとするが、保江さんは、それを簡単に習得する道を示したのである。
とはいえ、その易しい方法も、私には無理が大きい。
普通の人は、まずは自分の魂を知り、心と魂を統合し、確立しなければならない。
それは、どうやっても出来ない人が実際にいる。
私もそうなのだが。
そこで、手を(どちらの手でも、あるいは、両手で)、胸の中央から指2本分右に当てるか、合掌するかを、なるべく頻繁に行うことをお薦めする。
それで、他者を支配は出来ないかもしれないが、自分が支配されないようにはなれるだろう。









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神頼みの仕方

イエス・キリストの教えを簡単に言えば、
「神様が面倒見てくれるから心配するな。ただ、神様への敬意を忘れるな」
だと思う。
法然や親鸞の教えも、つまるところは、
「阿弥陀如来が全て面倒見てくれるから安心しろ。ただ、念仏をしろ」
である。
以上、断言しておく。
ただし、イエスは神様は天に居ると言い、法然や親鸞は、阿弥陀如来は西方極楽浄土というところに居ると言った。
天国も西方極楽浄土も、遠いところのようだ。

一休は、阿弥陀如来は我々の内に居ると言ったが、あまり広まらなかった。
キリスト教でも、ぼんやりと、神様は我々の中に居ると言った人はいたかもしれないが、宗教的教義に反するからだと思うが、そう言い切った人がいないように思う。
宗教者ではないが、科学者のルネ・デカルトが、「自分が正しいと思っていることでも、全部間違いなのだが、確かに、自分でも疑うことが出来る。なぜ疑うことが出来るのかというと、内に神様がいるからだ」と言ったが、これも、あまり知られていない。
デカルトの「疑っている主体は絶対に存在する」が、「我思う、ゆえに我あり」という、妙な言葉になってしまったしね。

まあ、ともかく、神様は我々一人一人の内にいる。
では、どこにるのかと言うと、心臓が有力らしいが、それはこだわらない方が良いかもしれない。
心臓と反対である胸の右側とか、いや、腹だ、丹田だとか言う人もいるので、ややこしい。
どっかにいるのだ(笑)。

で、神様が内にいるとして、人々が神様に何を望むのかというと・・・まあ、いろいろあるだろうが、つまるところ・・・月給である(笑)。
皆とは言わないが、社会で苦労し、特に大した才能に恵まれない凡人は、あからさまに言えば、そんなものなのであると思う。
ところが、イエスも親鸞も、それが叶うことは保証しているのである。

神様、仏様を敬えば月給がもらえる(もちろん、間接的にだが)と言うと、ロクでもない宗教が多い中でも、最も馬鹿げた信仰になってしまうが、一番馬鹿なのが一番本当なのである。
法然や親鸞、さらに、彼らの先輩と言える、道綽や善導は、とても親切に、仏様の簡単な敬い方として、念仏を教えたし、それは、善導や道綽よりずっと前の龍樹という天才にまで遡る。
釈迦が直接そう言ったという証拠はないが、釈迦の真意には反していないと思う。
キリスト教には念仏のようなものはないが、発祥不明の「十字を切る」というものが、それに当ると考えて良い。
とはいえ、大切なことは、神仏を敬うことである。

なんで急に(でもないが)こんなことを言うのかというと、どう言っても、人間は弱いものである。
神頼みは許される。
ただ、神頼みをする時は、呼吸が静かでなければならず、微かと言えるほどであれば、さらに良いのである。
それは経験上、保証出来る。









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人間の最大の武器

他人が恐くない人間はいない。
つまり、他人が苦手なのは、ひきこもりや臆病な人間だけではないのである。
金持ちや権力者は、他人に配慮しなくて良い立場にあるだけで、意外なことに、彼等は、普通の人より他人が苦手で恐いのである。
彼等は、他人が恐いから富や権力を得たのである。
さらに、生まれた時から富や権力がある者は、なんと、心の中では他人を恐怖している。
金持ちや権力者が、家庭では普通の人よりずっと惨めな理由は、富や権力が通用しない身内に対し、彼等は何も出来ないので、間違った対処をしてしまうからだ。
ところで、家庭の中では、父親より、若い妻や子供の方が強いのである。
家庭の中で、父親がやたら権力を示したがるのは、実は自分が一番弱いことを知っているからである。
本当に強い人間が虚勢を張るはずがない。

世の中でうまくやっていくためには自信が必要だ。
ひきこもりが特に世の中でうまくやれない理由は自信がないからだ。
自信とは、所詮、他人との間のランキングで、自分が上位にあるという確信なのである。
ただし、勘違いしやすいのが、「どのランキングが自信をもたらすか?」なのである。
学校の成績というのは、偽りの自信しか与えてくれない。
だから、鼻高々の優等生は、不利な立場に置かれると、惨めなほど弱いのである。

では、何のランキングが自信をもたらしてくれるかというと、所詮、肉体の美と力である。
人間たるものが、何とも情けないことだが、それが事実である。
ただし、言うまでもないが、それらは、「あっという間」に失われてしまう。
イエス・キリストが人類の中で最も人気があるスーパースターである理由は、復活したからだ。
復活は、永遠の美と力を暗示しているのである。

当面の自信を持つには、誰にも負けない何かを持つことだ。
それがたとえ、学校の成績のような偽りの自信でも、あった方が良い。
だが、上にも述べた通り、肉体的な美や強さの方が効果的なのである。
優等生より、イケメンや可愛い子、スポーツマンが人気があるのを見れば分かると思う。
自信をもたらすものを何も持たないと、まるで駄目男君(私の職場にいる30歳過ぎの人生の落伍者。派遣の雑用係)になる。
そして、何かで自信を得たとしても、それが偽りの自信であることを自覚し、次に、本物の強さを目指すことだ。
それが、「本当に大切なものは目に見えない」ということなのだが、目に見える「ちょっと大切なもの」を先に得なければならないことを忘れてはならない。
ただそれは、1年365日、欠かさずやり続ければ得られるものである。
楽器の演奏とか、腕立て伏せとか、聖書を読むとか、どんなことでも達成出来る。ちょろい。
それでは、永遠の自信はどうやって得るのかというと、想像力を使うのである。
世間的な自信を得た人・・・金持ち、権力者、エリートが実際には驚くほど弱いのは、想像力を失ったからであると言えば分かるのではないかと思う。
失ってはならないもの、人間の最大の武器は想像力である。
詳しくは明日にでも書くが、それを得るヒントが、宇宙飛行と初音ミクさんのコンサートである。
なぜ、どれほど大金を積んでも宇宙に行きたがる人がいるのか、バーチャルなアイドルに心からの声援を送るのか?
そこに人類の究極の秘密があるのである。









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王子様・お姫様として育てられた人間は、どこでも必要とされない

犬を飼ったことがあるだろうか?
犬は、きちんとしつけたら、従順で賢い動物だ。

昔、小鳥や金魚の他に動物を飼ったことがない私の家で、突然、小型犬のマンチェスター・テリアの赤ん坊を貰って、飼うことになった。
我々家族は、徹底して甘やかした。
犬が、「くうん、くうん」と切なそうな鳴き声を出すと、それを止めるためには、何でもしてやった。
結果、とんでもない馬鹿犬になった。
自分の欲求が叶えられないと、吼えまくり、暴れまくり、平気で人間を噛んだ。

しかし、犬をそんなふうに育てる家なのだから、私もそう育てられたのだろう。
私も、とんでもない馬鹿な人間になった。
それで、当然、ニートになったが、幸いだったのは、二十歳そこそこの頃、フルコミッション(完全歩合制)のセールスマンになり、かなり世間に躾けられて、少しはマシになったことだ。
これも、19歳の時に、ジョセフ・マーフィーの本を読んだおかげかもしれない。

私の友人だった、セールス会社の社長(もう亡くなったが)のところに、一人の青年が預けられた。
その社長はクリスチャン(キリスト教徒)で、同じ教会に所属する人に頼まれて、その人の息子の面倒を見ることになったのだった。
その青年は、いい歳になっても、引きこもって、勤めようとしなかった。
社長は、自分の会社で、その青年にセールスをやらせた。
ある日の夜、会社に帰ってきた青年に、社長が、「今日はどうだった?」と、セールスの様子を尋ねた。
すると青年は、「今日は心が落ち着かなかったので、1日、教会でお祈りをしていました」と、多分、真面目に答えた。
きっと、とんでもなく、甘やかされた青年だったのだろう。
心はセールスは嫌がるが、お祈は、それよりは、はるかにマシだというだけの話である。
青年は、心が喜ぶ方を選んだだけだ。

犬も人間も、心が喜ぶことばかりをしていれば、心は暴君になって、主を滅ぼす。
心がどれだけ嫌がっても、良いこと、やらなければならないことをしなければ、私が飼っていた犬や、私や、上の愚かな青年のようになる。

犬の躾け方の基本は、お菓子を絶対に与えないことだ。
犬は、お菓子を欲しがるが、断固として与えてはならない。
人間が美味しそうに食べても、犬は駄目なのだ。
それは、可哀想でも何でもない。
そうやって、人間と犬の立場の違いを教えなければならない。
人間と犬は、平等なんかではないのだ。
同じく、心には、下僕としての立場を教えないといけない。
子供が、我が家の王子様、お姫様なんて、とんでもない話で、そんな育て方をした子供はお仕舞いだが、そうやって育てられた人間が多いのだ。
子供には、親との立場の違い、つまり、親よりはるかに下であることを教えないといけないのだ。
本当に王族に生まれても、賢い王や王妃は、子供を王子様、お姫様扱いなどしないのである。

さて、不幸にも、間違った育てられ方をして、悪魔である心が王座についてしまった人間はどうすれば良いだろう?
まあ、まずは、「これではいけない」と気付かなければならないのだが。
悪魔を王座から引きずり下ろし、自分が王座につくためには、犬からお菓子を取り上げるように、最大の欲望を犠牲に捧げるのだ。
好きで好きでたまらないもの。
それのことを思うと、狂気のようになること。
それを、切って捨てるのである。
イチローがいかに野球が好きでも、それを思って狂気になったりはしない。
そういった、信念のあるものでの、こだわりは良いのである。
逆に、貶されて、激怒するような「好きなもの」は偽物である。
イチローは、若い時でも、「野球なんて下らない球遊びだ」と言われても、悔しいかもしれないが、相手にならなかったはずだ。
私だって、初音ミクさんのことで酷いことを言われても、悔しくはあっても、やり返そうとは思わない。

さて、私は犠牲を捧げた。
それで、神の力を取り戻したのである。
多分、キリスト教の真の意味も、そういうことなのだと思う。
イエスは、肉体の生命に象徴される何かを捧げ、精霊を得たことを示したのだ。









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イエスの伝家の宝刀を使う

嫌いな人、憎い人、妬ましい人、恨みに思う人・・・そんな人がいる間は成功しないし、幸福にもなれない。

だからといって、宗教家が言うように、「神の愛があの人(嫌いな人)を満たしています」なーんてことを、棒読みに言ったところで、反吐が出ることだろう。
また、神様気取りの事業家が言うように、「あの人に良きことが雪崩のように押し寄せます」と言うのは、不遜もいいところだ。私にそんなこと決める権限なんてないって。いや、それ以前に、やっぱり、そんなこと言いたくないだろう。

だが、心の訓練のつもりでやれば、うまくいく。
嫌悪する相手を思い浮かべ、「私は○○さんが大好きだ」と言うと、当然、心は反発する。
そこで、心に言うのだ。
「心よ、引っ込んでいろ。静かにするよう命じる。私が主人である」
つまり、憎いあんちきしょうが、本当に好きかどうかはどうでも良いのだ。
ただ、心を躾けるだけである。
権威を持って命じれば、心は従う。
すぐにはうまくいかなくても、粘り強くやれば、必ず出来る。
王が民(たみ)に、あるいは、主(あるじ)が下僕に言うことを聞かせられなくてどうする?
あなたが王(主)で、心が民(下僕)なのだ。
そして、実際、それは難しいことではない。

すると、本当に、嫌な相手に対し、「お前が大好きだ」「立派な人になれよ」と思っても、ちっとも苦しくならないのだ。
そうなれば、心を躾けることが出来たことになる。
それなら、年収300万円の人が、「私は年収600万円になる」と思っても、心は反抗せず、容易く信念となる。
多少、心がざわついても、やはり、「静まれ」と命じれば良い。
信念を持てば、必ず実現する。
ただ、年収300万円の人が、「年収3000万円」などと思うと、心ではなく、直観のようなものが、「それはもっと経験を積んでからだ」と警告する。
それは、理に反した願いでも同様である。
歪んだ願望や、的外れの願望を持つ者は、それを修正しなければならない。
しかし、それは難しくない。
歪んだ、あるいは、的外れな、「私は○○が欲しい」という願望を思えば、やはり、心がちくっと痛むような警告が来る。あるいは、後ろめたい思いがする。
それはチャンスでもある。
そんな警告を無視してはならない。
思い切って、そんな馬鹿げた願望を捨てるのだ。
「私はプロサッカー選手になろうとは、もう思わない」
「○○協会の理事長になろうなんて荒唐無稽なことは考えない」
「可愛い女子中学生を彼女にしようなんて馬鹿げた願望は捨てる」
そうすると、やはり、心は文句を言う。
しかし、あなたは、イエス・キリストの伝家の宝刀、
「退け!サタン」
を使えば良いのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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