悪いことをしたら地獄に落ちると言われる。
自己中心的な者、哀れみの心のない者、残虐な者は、法には触れない場合もあるが、人を傷付け、苦しめることになる。
よって、人間性が悪い者は地獄に行かざるを得ないことになる。
私が大好きなアニメの『地獄少女』のヒロイン閻魔あいに、彼女の決めゼリフ、
「闇に惑いし哀れな影よ。人を傷つけ貶めて。罪に溺れし業の魂。
いっぺん、死んでみる?」
を言われた者は、死んで地獄に流されるが、非常に分かり易くて納得してしまう。
ところが、法然や親鸞なら、そんな地獄行きが当然の人間でも、念仏を唱えれば、天国と同じと思われる極楽浄土に行けると言うだろう。
上の『地獄少女』では、恨む相手を閻魔あいに頼んで地獄に送った者もまた、閻魔あいは「死んでも極楽浄土には行けず、地獄をさ迷う」と言う。
では、こちらの者(恨む相手の地獄送りを願った者)も念仏を唱えれば救われるのかというと、阿弥陀仏の絶対的な力を持ってすれば、そうなるだろう。
残虐なことをした者が極楽浄土に行くと言ったら、反発する者が多いことだろう。
それは、裏金を作りながら、罰されもせず、儲かったままの裏金議員に対する、あるいは、賄賂をもらいまっくったり、天下りをして仕事をせずに高い給料と退職金をもらう者達に対する庶民の感情と似ていると思う。
まして、非人道的なことをして良い人を害した者、さらには、そんなことをしてのうのうと暮らしている者は、是が非でも地獄に行ってもらいたいと思うことだろう。
だが、法然、親鸞の教えでは、そんな者達でも救われ、極楽浄土に行く。
なぜなら、「念仏を帳消しに出来るほどの悪い行為というものはない」からである。
これには、悪いことをした人というのは、「悪いことをするのが運命だったのであり、それは避けようがなかった」ということがあるのだろう。
また、邪悪な考えを起こすことについては、科学的にも、人間は自分の意思で考えるのではなく、思考は自動的に勝手に起こることが分かっている。
ラマナ・マハルシに、ある男が、「隣の家の奥さんが魅力的過ぎて間違いを起こしそうだ」と相談したら、マハルシは「そうなっても気に病むな」と言った。そうなる運命であれば、そうなるしかないということだ。
また、マハルシは「働く運命であれば、どれほど働きたくなくても仕事を避けられないし、働く運命になければ、いくら仕事を探しても見つからない」と言う。
だから、マハルシは、余計なことを考えず、思考を殺してしまえと言ったのである。
しかし、思考を殺す・・・つまり、無になることは実際には難しいが、法然や親鸞は、ただ念仏を唱えれば良いと言った。
そして、マハルシもまた、「人生を神に明け渡せ」と言い、そうすれば幸せになれると言ったが、これは念仏と全く同じである。
ただ、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるという具体的アクションがあるので実践し易いのである。
では、「借金が苦しい」とか「モテなくて困る」といった悩みも解決出来るのかというと、法然や親鸞の教えからすればそうなる。
そこらは、イエスだって「神は必要なものは与える」と言うし、黒住宗忠は「神にまかせれば面白いことばかりだ」と言い、岡田虎二郎も「腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」と言う。
岡田虎二郎の言う「腹に力をつける」は、常に腹に力を込めることで出来るが、効用としては念仏も同じで、虎二郎自身、念仏を褒めている。
上に述べたことは、怪しいと言うより、無茶苦茶な宗教だと思う者も多いだろうし、私もそう思ったと言うか、今でも思いもするのだが、実は圧倒的に正しいことも分かるのである。
いろんなものを勉強すれば分かるかもしれないが、念仏を唱えていれば分かると思う。
ヨガの先生や少食家は、「170cm?では、適性体重は50kg以下だ」と言うかもしれない。
岡田虎二郎なら、「170cm?では80kgはないといけない」と言いそうな気もする。
だが、50kg以下になる運命なら50kg以下になるし、80kg以上になる運命なら、やはりそうなる。
そんなことは、神様や仏様、あるいは、善なる高次の存在にまかせれば、満足のいく結果になると思う。
その手段の1つが、念仏であり、岡田式静坐法である。
岡田虎二郎の弟子で、日航社長や日銀副総裁などを歴任した柳田誠二郎さんは、
「私は岡田式静坐法だったが、何でもいいから1つやれ」
と言っており、念仏も良いと言っている。偉大な数学者、岡潔は念仏に行ったようである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)ラマナ・マハルシの教え ※『私は誰か?』収録
(4)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(5)岡田式静坐のすすめ(柳田誠二郎)

AIアート1680
「水がある惑星」
Kay
自己中心的な者、哀れみの心のない者、残虐な者は、法には触れない場合もあるが、人を傷付け、苦しめることになる。
よって、人間性が悪い者は地獄に行かざるを得ないことになる。
私が大好きなアニメの『地獄少女』のヒロイン閻魔あいに、彼女の決めゼリフ、
「闇に惑いし哀れな影よ。人を傷つけ貶めて。罪に溺れし業の魂。
いっぺん、死んでみる?」
を言われた者は、死んで地獄に流されるが、非常に分かり易くて納得してしまう。
ところが、法然や親鸞なら、そんな地獄行きが当然の人間でも、念仏を唱えれば、天国と同じと思われる極楽浄土に行けると言うだろう。
上の『地獄少女』では、恨む相手を閻魔あいに頼んで地獄に送った者もまた、閻魔あいは「死んでも極楽浄土には行けず、地獄をさ迷う」と言う。
では、こちらの者(恨む相手の地獄送りを願った者)も念仏を唱えれば救われるのかというと、阿弥陀仏の絶対的な力を持ってすれば、そうなるだろう。
残虐なことをした者が極楽浄土に行くと言ったら、反発する者が多いことだろう。
それは、裏金を作りながら、罰されもせず、儲かったままの裏金議員に対する、あるいは、賄賂をもらいまっくったり、天下りをして仕事をせずに高い給料と退職金をもらう者達に対する庶民の感情と似ていると思う。
まして、非人道的なことをして良い人を害した者、さらには、そんなことをしてのうのうと暮らしている者は、是が非でも地獄に行ってもらいたいと思うことだろう。
だが、法然、親鸞の教えでは、そんな者達でも救われ、極楽浄土に行く。
なぜなら、「念仏を帳消しに出来るほどの悪い行為というものはない」からである。
これには、悪いことをした人というのは、「悪いことをするのが運命だったのであり、それは避けようがなかった」ということがあるのだろう。
また、邪悪な考えを起こすことについては、科学的にも、人間は自分の意思で考えるのではなく、思考は自動的に勝手に起こることが分かっている。
ラマナ・マハルシに、ある男が、「隣の家の奥さんが魅力的過ぎて間違いを起こしそうだ」と相談したら、マハルシは「そうなっても気に病むな」と言った。そうなる運命であれば、そうなるしかないということだ。
また、マハルシは「働く運命であれば、どれほど働きたくなくても仕事を避けられないし、働く運命になければ、いくら仕事を探しても見つからない」と言う。
だから、マハルシは、余計なことを考えず、思考を殺してしまえと言ったのである。
しかし、思考を殺す・・・つまり、無になることは実際には難しいが、法然や親鸞は、ただ念仏を唱えれば良いと言った。
そして、マハルシもまた、「人生を神に明け渡せ」と言い、そうすれば幸せになれると言ったが、これは念仏と全く同じである。
ただ、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるという具体的アクションがあるので実践し易いのである。
では、「借金が苦しい」とか「モテなくて困る」といった悩みも解決出来るのかというと、法然や親鸞の教えからすればそうなる。
そこらは、イエスだって「神は必要なものは与える」と言うし、黒住宗忠は「神にまかせれば面白いことばかりだ」と言い、岡田虎二郎も「腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」と言う。
岡田虎二郎の言う「腹に力をつける」は、常に腹に力を込めることで出来るが、効用としては念仏も同じで、虎二郎自身、念仏を褒めている。
上に述べたことは、怪しいと言うより、無茶苦茶な宗教だと思う者も多いだろうし、私もそう思ったと言うか、今でも思いもするのだが、実は圧倒的に正しいことも分かるのである。
いろんなものを勉強すれば分かるかもしれないが、念仏を唱えていれば分かると思う。
ヨガの先生や少食家は、「170cm?では、適性体重は50kg以下だ」と言うかもしれない。
岡田虎二郎なら、「170cm?では80kgはないといけない」と言いそうな気もする。
だが、50kg以下になる運命なら50kg以下になるし、80kg以上になる運命なら、やはりそうなる。
そんなことは、神様や仏様、あるいは、善なる高次の存在にまかせれば、満足のいく結果になると思う。
その手段の1つが、念仏であり、岡田式静坐法である。
岡田虎二郎の弟子で、日航社長や日銀副総裁などを歴任した柳田誠二郎さんは、
「私は岡田式静坐法だったが、何でもいいから1つやれ」
と言っており、念仏も良いと言っている。偉大な数学者、岡潔は念仏に行ったようである。
◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)ラマナ・マハルシの教え ※『私は誰か?』収録
(4)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(5)岡田式静坐のすすめ(柳田誠二郎)

AIアート1680
「水がある惑星」
Kay