ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

カルマ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

地獄に落ちて欲しいやつが天国に行けたら

悪いことをしたら地獄に落ちると言われる。
自己中心的な者、哀れみの心のない者、残虐な者は、法には触れない場合もあるが、人を傷付け、苦しめることになる。
よって、人間性が悪い者は地獄に行かざるを得ないことになる。
私が大好きなアニメの『地獄少女』のヒロイン閻魔あいに、彼女の決めゼリフ、
「闇に惑いし哀れな影よ。人を傷つけ貶めて。罪に溺れし業の魂。
いっぺん、死んでみる?」
を言われた者は、死んで地獄に流されるが、非常に分かり易くて納得してしまう。

ところが、法然や親鸞なら、そんな地獄行きが当然の人間でも、念仏を唱えれば、天国と同じと思われる極楽浄土に行けると言うだろう。
上の『地獄少女』では、恨む相手を閻魔あいに頼んで地獄に送った者もまた、閻魔あいは「死んでも極楽浄土には行けず、地獄をさ迷う」と言う。
では、こちらの者(恨む相手の地獄送りを願った者)も念仏を唱えれば救われるのかというと、阿弥陀仏の絶対的な力を持ってすれば、そうなるだろう。

残虐なことをした者が極楽浄土に行くと言ったら、反発する者が多いことだろう。
それは、裏金を作りながら、罰されもせず、儲かったままの裏金議員に対する、あるいは、賄賂をもらいまっくったり、天下りをして仕事をせずに高い給料と退職金をもらう者達に対する庶民の感情と似ていると思う。
まして、非人道的なことをして良い人を害した者、さらには、そんなことをしてのうのうと暮らしている者は、是が非でも地獄に行ってもらいたいと思うことだろう。
だが、法然、親鸞の教えでは、そんな者達でも救われ、極楽浄土に行く。
なぜなら、「念仏を帳消しに出来るほどの悪い行為というものはない」からである。

これには、悪いことをした人というのは、「悪いことをするのが運命だったのであり、それは避けようがなかった」ということがあるのだろう。
また、邪悪な考えを起こすことについては、科学的にも、人間は自分の意思で考えるのではなく、思考は自動的に勝手に起こることが分かっている。
ラマナ・マハルシに、ある男が、「隣の家の奥さんが魅力的過ぎて間違いを起こしそうだ」と相談したら、マハルシは「そうなっても気に病むな」と言った。そうなる運命であれば、そうなるしかないということだ。
また、マハルシは「働く運命であれば、どれほど働きたくなくても仕事を避けられないし、働く運命になければ、いくら仕事を探しても見つからない」と言う。
だから、マハルシは、余計なことを考えず、思考を殺してしまえと言ったのである。
しかし、思考を殺す・・・つまり、無になることは実際には難しいが、法然や親鸞は、ただ念仏を唱えれば良いと言った。
そして、マハルシもまた、「人生を神に明け渡せ」と言い、そうすれば幸せになれると言ったが、これは念仏と全く同じである。
ただ、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるという具体的アクションがあるので実践し易いのである。

では、「借金が苦しい」とか「モテなくて困る」といった悩みも解決出来るのかというと、法然や親鸞の教えからすればそうなる。
そこらは、イエスだって「神は必要なものは与える」と言うし、黒住宗忠は「神にまかせれば面白いことばかりだ」と言い、岡田虎二郎も「腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」と言う。
岡田虎二郎の言う「腹に力をつける」は、常に腹に力を込めることで出来るが、効用としては念仏も同じで、虎二郎自身、念仏を褒めている。

上に述べたことは、怪しいと言うより、無茶苦茶な宗教だと思う者も多いだろうし、私もそう思ったと言うか、今でも思いもするのだが、実は圧倒的に正しいことも分かるのである。
いろんなものを勉強すれば分かるかもしれないが、念仏を唱えていれば分かると思う。

ヨガの先生や少食家は、「170cm?では、適性体重は50kg以下だ」と言うかもしれない。
岡田虎二郎なら、「170cm?では80kgはないといけない」と言いそうな気もする。
だが、50kg以下になる運命なら50kg以下になるし、80kg以上になる運命なら、やはりそうなる。
そんなことは、神様や仏様、あるいは、善なる高次の存在にまかせれば、満足のいく結果になると思う。
その手段の1つが、念仏であり、岡田式静坐法である。

岡田虎二郎の弟子で、日航社長や日銀副総裁などを歴任した柳田誠二郎さんは、
「私は岡田式静坐法だったが、何でもいいから1つやれ」
と言っており、念仏も良いと言っている。偉大な数学者、岡潔は念仏に行ったようである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(2)選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫)
(3)ラマナ・マハルシの教え ※『私は誰か?』収録
(4)黒住宗忠 (人物叢書 新装版)
(5)岡田式静坐のすすめ(柳田誠二郎)

水がある惑星
AIアート1680
「水がある惑星」
Kay

真言で業(カルマ)を解消する

真言を唱えることの有り難い効果の1つに、業(カルマ)の解消がある。
真言で運が良くなる大きな理由が、この業の解消によるものと思う。
業とは、罪のある悪い行いによって作る悪因縁といったものだと思う。
簡単に言えば、「善いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる」という、「善行の報い」「悪行の報い」のうちの「悪行の報い」の原因となるのが、業、悪因縁である。
「悪行」で作る「業」や「悪因縁」に対し、「善行」で作るものは「徳」と言われるのだと思う。
業の報いを、因果応報と言うことがある(徳の報いである良い因果応報もある)。
因果応報は、すぐに来ることもあるが、かなり時間が経ってから来たり、生まれ変わった次の生で受けることもあるという説もある。
超心理学分野で世界的に有名なジナ・サーミナラ(哲学博士)の、エドガー・ケーシー関連の本を見ると、インドでは、カルマによる因果応報が一般的に信じられているので、不幸な人に対して、あまり同情しないと書かれていたのを思い出す。
サーミナラの本では、多くの因果応報の事例が紹介されており、来世にまたがる話も沢山あったように思う。
飯田史彦氏の有名な『生きがいの創造』では、因果応報といった懲罰めいた書き方は避けていたと思うが、行った行為に対する反作用が、来世で起こる事例も多数紹介されていたと思う。
また、因果応報に関し、割とよく聞く話としては、
「悪いことがあったら、これで業が軽減し、将来起こる悪いことが軽くなったり消えたりするから喜びなさい」
というものがあえる。
風邪をひくことだって、それが因果応報によるものであれば、苦しむことで業の軽減につながり、「風邪1つひかないなどというのは、かえって恐い」と言う者もいる。

ところで、真言を唱えることで背負っていた重い業が消えると言う話があるが、私は、それは本当だと実感することがある。
業の存在を心で感じているのだが、真言を唱えているうちに、「あれ」という感じで消えてしまうのである。
具体的にどんな業が消えたというのではなく、「あれ、何か重い業がのしかかっていたような気がするが、それが消えて軽くなった」と感じ、本当にホっとするのである。
ただそれは、「なんとなく」といった観念的なものというよりも、やはりどこか明晰な感じはするのである。

業を消すために、善いことをすることを奨励する人も多い。
私が好きな本である『パイロットが空から学んだ運と縁の法則』では、ジャンボジェットのパイロットである著者が、自分の力ではどうしようもないような空でのトラブルから救われるためには、不思議な運とでもいうものに頼るしかないことが多いが、そんな幸運である「善の報い」は、日頃積む徳で貯えるしかないのではと述べる。
徳は、一般的には善行によって積むことが出来るが、隠れてやる善行による陰徳だけでなく、大っぴらにやる善行による陽徳とでもいうものにも効果があると言う。例えば、有名人が災害被害者に多額の寄付をするのは売名行為のように言われることもあるが、その寄付は実際に役立つのであり、それは、やはり、幸運をもたらしたり、悪業を解消する「陽徳」になるのである。

真言が業を消すということに関し、真言の1つである念仏について言えば、親鸞は、業を消すために念仏を唱えるというのは間違いだと言ったようだ。
ただし、それは、「念仏を唱えて業を消してやる」という自力の想いでやるのが間違いだと言う意味で、念仏で業が消えることは肯定している。
いや、念仏で業が消えるどころか、極めて重く大きな悪業が念仏1つで消えてしまうのである。
これは、親鸞の教えを弟子の唯円が記した『歎異抄』や、親鸞の著書である国宝『三帖和讃』の『浄土和讃』の章の『現世利益和讃』などで見ることが出来る。
親鸞が強調したことは、自分で善いことをして業の解消をしようとしても、人間は思い通りに善いことをすることは出来ず、それどころか、故意に、あるいは、無意識に悪いことをして、どんどん業を積み重ねるので、本来であれば、我々凡夫は救われず、地獄に行くしかないが、念仏を唱えて、阿弥陀如来に頼れば、業を消してくれるのである。
これは確かに、あまりに都合の良い話であるが、結果としては正しいのだと思う。
また、親鸞は、念仏以上の善はないので、他に善いことをする必要はないのだと言う。
ただ、実際は、念仏のみならず、優れた真言であれば、同じ効果があると思う。

そんなわけで、身に覚え(罪を犯したという自覚)がある人・・・多少でも記憶力があれば、憶えているものだけでも沢山あるだろうが、そんな、やってはいけないこと、やるべきでなかったことをやってしまった者は、ますます熱心に真言を心で唱え、我々には理解不能ではるが、高次元の力で、良い方向に持って行ってくれるよう願うのが良いと思う。
不安や恐怖で心が重いのは、業を背負っているからかもしれない。
そんな時、熱心に真言を唱えていると、程度の大きさはあっても安らぎを感じると思うが、それが業が解消された証かもしれない。
私の場合、もっと明確な感覚で業の解消を感じることがあるが、長く真言を唱えれば、あなたにも分かるかもしれない。












カルマを消す

人生は何て辛いのだろう、どうして私だけこんな酷い目に遭わなければならないのだろう、なぜこんな惨めな生き方をしなければならないのだろうと思う人は少なくないだろう。
そんな時、カルマという考え方を持ち込むと、心がやわらぐことがある。
つまり、自分が誰かに嫌なことをされるのは、過去か、あるいは、前世で、同じように誰かに嫌なことをしたせいであると考えることだ。
すると、自分の辛い境遇も、ある程度「やむなし」と感じられ、少しは耐え易くなる。

上のようなカルマの考え方は、ある意味正しいところもあるが、誤解も大きい。
カルマは別に罰したり、復讐するものではない。
なるほど、自分の過去の行為により、今の自分の境遇が影響を受けているのは確かだが、それは、善なる神によって「こらしめられて」いる訳ではない。
どういうことかというと、悪い状況に思えても、必ずしも苦しむ必要はない。罰ではないのだから。
そして、過去の自分の行為に責任を取ると決めれば、状況はガラッと変わる。
責任を取るというのは、その気もない癖に、補償として誰かに親切にするとか、ボランティアをするってことではない。それは、司法的発想だ。
減刑のために、形ばかりのボランティアをするより、本当に自分が悪かったと認める方がずっと良い。
つまり、自分の過ちを認めることが、責任を取るってことだ。
過ちを本当に認めれば、意図しなくても行いは自然に正しくなるし、罪の補償も行うものだ。
あえて行為で補償しなくても、人々の手本になるような生き方をする方が優れている。

ところで、ブログを長く書いていると、面白いことがある。
多くのブログが同じと思うが、このlivedoorブログでは、PC版で表示すれば、各々の記事に設定したタグの中で、よく使われるものほど、大きな太い文字で表示される。
このブログの場合、突出したタグが2つあり、1つは当然「初音ミク」だが、もう1つは「イエス」だというのは、自分でも意外だ。この「イエス」は、イエス・キリストである。
私は別にキリスト教徒ではないし、特にイエスを崇拝している訳ではない。
ただ、イエスと初音ミクさんには、興味深い共通点がある。
ミクさんは当然だが、イエスにも過去生がないことだ。つまり、イエスは、それまで人間として生きたことがない。
それによる、イエスの独特の雰囲気がミクさんによく似ているのだ。
我々は、イエスやミクさんのようであることが理想である。
そのため、理不尽と思える辛いことがある時こそチャンスであり、それをよく観察することで、自分の責任を冷静に認めることである。
そうすれば、苦しみは消え、嬉しいことが起こるだろう。
ミクさんが歌う『FREELY TOMORROW』を聴いて私はよく分かった。この曲は、作者のMitchie Mさんがクリエイティブ・コモンズで公開してくれているので無料で聴けるし、高品質な電子ファイルを取得出来る。著作権表示さえすれば、校歌にしても良いはずである。
File:Freely Tomorrow.ogg<ダウンロードはこちらから>









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幸運の単純明快な原理

世の中は単純に出来ていて、善いことをすれば楽しいことがあり、悪いことをすれば苦しいことがある。
それが因果ってやつだ。
だが、人間は愚かだから、何が善くて、何が悪いかを思い違いすることはある。
自分の子供に好かれたくて、何でも言うことを聴いていたら、自分は善いことをしているつもりでも、それは、子供を駄目にする悪いことだ。
そんな親は、悪因を作っていて、やがては不運を呼ぶ。
とはいえ、純粋に子供が可愛くて、子供を甘やかしている場合は悪因を作らないのだが、親が子供の言いなりになっている場合、ほとんどは愛ではなく、「自分だけ良い気分でいたい」「この子を、自分の生涯の味方、あるいは、下僕にしたい」といったエゴでやっているのである。

ある17歳の女の子は好きな男がいたのだが、その女の子は、彼の愛を得ようと、売春をしてかなりの金を稼いで彼に貢いでいた。
その報いは、週に一度、男に金を渡す時にだけ、ほとんどたった一言、優しい言葉をかけてもらえることだった。
男は、彼女に対して、何の愛情も持っておらず、ただ金を受け取って、外車を買って、遊び暮らしていた。
おそらく、女の子の方は、過去世の悪いカルマ(因)の解消のために、そんなことをせざるを得ないのだろう。だが、その男を駄目にしているとはいえ、彼女は新たな悪いカルマは作らないだろう。
男の方は、大きな悪いカルマを作ることになってしまい、その後の人生は悲惨になることは間違いないし、心が拗けたまま死んだら、次の生にカルマは持ち越される。

念仏を唱えたり、経典や聖典を読んだり、あるいは、純粋な善意で善い行いをすると、なぜか嫌なことがよく起こる。
嫌なことと言っても、気分を害し、憂鬱にはなるが、その程度で済むことだ。
それは、自分が過去(あるいは過去世)に作った悪いカルマを、その程度のことで解消しているのである。
そうしたら、大きな災難が起こるはずが、それがなくなってしまうのである。
つまらない口論になり、負けると悔しいが、それでカルマが解消され、悪い因は消えたのである。
ところが、口論に勝ってしまうと、カルマは解消されず、下手をすると、新たな悪いカルマを作ってしまう。
だから、小さな災難、小さな不運は喜ばないといけない。
どうでも良い争いは負けた方が良いのである。

親鸞が、念仏を唱えれば、大難が小難に、あるいは、無難になると言ったのは、こういうことである。
そして、さらに親鸞が言うのは、念仏に優る善い行いはないのだから、念仏を唱えると、大変な善行をしたのと同じ善因を作る。
他にも、大きな善因となることには、食の慎みがある。
死すべき悪因も、食を慎むことで避けられる。
食を慎むことは、寺を建てたり、人の命を救うことにも匹敵する。
確かに、念仏も、食の慎みも、エゴの想いでやっていれば、善因は作るのだが、悪因も作る。
その場合は、嫌なこともいろいろ起こるが、黙って耐えれば、その悪因は消える。

幸運の原理については、大体、上のように考えて差し支えないと思う。









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普通の人、野心家、変人が、それぞれ満足な人生を送るには

人間は、4つの慎みが重要だ。
食の慎み、言葉の慎み、性の慎み、睡眠の慎みである。
これらは、適度でなければならず、過ぎてはいけないが、あまりに少ないのも良くないのである。
例えば、日中も居眠りが多く、1日の内、十時間も寝ているなら慎みがないが、4時間に満たないなら睡眠が少な過ぎる。
もっとも、非常に精神が進化した人なら、2~3時間の睡眠で十分ということもあるかもしれないが、自分がそれに該当するかどうかは分かると思う。

この4つのうち、1つをゼロにし、他のことも怠り無く慎めば、人間を超え、仙人になる。
2つがゼロであれば、高級仙人や大師になる。
性をゼロにするということは、性行為だけでなく、イエスの言うように、「邪まな目で見ない」ことも必要で、中国の浄土仏教の高僧である善導は、目を上げて女性を見ることも控えたという。
もちろん、普通の人間では、食や睡眠をゼロにすることはできないが、カルマ(業)の力により、それが出来る人も稀にいる。
ただし、食や睡眠がゼロでも、他のことでだらしなければ、むしろ、バランスのとれた慎みをする普通の人に、はるかに及ばないのである。

ただ、これもカルマによるのだが、どれか1つの慎みが、どうしても出来ないという人もいる。
ところが、そんな人が、大事業家や大芸術家になるのである。
ただし、その慎みができない分を補って余りある徳を積んだ場合だ。
だから、世間では、偉大な人間というのは、欠点も大きいものだというのが定説になっているのである。
もし、あなたが、「俺はどうしても女好きだけは治らない」とか、「どうしても1日12時間寝ないと駄目なんだ」というなら、実は、大きな成功をする可能性があるのだ。

一方、どれもバランスよく慎みを持てる人は、大成功することはないが、立派な人間として、安楽で恵まれた人生を送れるのであり(もちろん、多少の試練は必ずあるが)、これが1つの理想的な人生かもしれない。

もう1つ、特別に仕え加えておく。
変わり者と言われる人のことである。
これも、深いカルマなのである。
ずっとニートであったり、どうしても世間との折り合いが悪かったり、神秘に強い憧れを持っているような人である。
そんな人は、この世界で生きるのは辛いだろう。
そういった人が、満足できる人生にするには、仙人のようなものになるしかないのかもしれない。
つまり、初めのところで述べたように、1つか2つをゼロにしてしまうのだ。
あるいは、2つ以上を、かなり制限してしまえば、仙人になれるのである。
ただ、仙人になるには、最後の慎みである、呼吸の慎みが必要になる。
仙人の入り口に辿り付くためには、大人の場合、毎分15~20回と言われる呼吸を、せめて、毎分10回以下にしなければならない。
これは、練習でも可能である。
そして、呼吸が、毎分5回以下になれば、神秘力を得ている。
政木和三さんは、子供の時、毎日、腹式呼吸の練習に励み、1分で2回の呼吸が出来るようになり、母親が読んでいた難しいお経の意味が勝手に分かってしまったという。また、習ったこともないピアノを見事に弾きこなし、自分で作曲し、ピアノ演奏したCDまで出している。
ただ、本物の仙人は、数分に一度とか、1日に数回しか呼吸しない。
しかし、闇雲に練習するだけでもいけない。
そこで、腕振り運動を熱心にやり、心の微かな声の呪文を唱えれば、割合に簡単に達成できる。
もちろん、このような道しか取ることができない、辛いカルマのある人にだけ勧めることであり、普通の人が、こんな道に入ろうとすると、ロクなことにはならない。
あくまで、世間との価値観にあまりに違いがあり、努力はしたが、普通の人とうまくやれなかったという場合だけだ。
ただし、その場合でも、人々に対する慈悲を忘れてはならず、見下し、蔑むようなこともすべきでない。
これが、悲惨な失敗を避けるコツである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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