超能力や引き寄せを含む潜在能力の発揮を妨げているものは、固定観念だ。
その理由はこうだ。
固定観念が人々に、
「自分よりはるかに力がある存在がいて、その存在に対し、自分は龍に対するカマキリのごとく弱い」
と信じ込ませているが、人間に関するたった1つの真理とは、
「人は自分が信じている通りの人間」
なのだからだ。
だから、我々は権威に対し、悲しいまでに弱い。
固定観念を捨てていけば、優秀に、そして、超優秀に、さらに、超能力や引き寄せが自由自在になり、神のごとき存在になる。
だが、まずは、ほんの少しの固定観念を捨てることだ。それだけで、大きな力を得る。
猫が可愛いというのも固定観念だ。
別に、猫を好ましいと思うのは構わない。
しかし、人々を見ていると、猫に対し、「わー!可愛い!可愛い!」と言って、その固定観念を強化している。そんなことをしていると、確実に能力は落ちる。
さらに、猫派だと言って、猫は大絶賛するのに、犬は嫌ったり、嫌わないまでも、抵抗があったり、猫には劣ると思うのも、深刻な固定観念で、やはり、それで力を大きく失っている。
猫も犬も、ただ、好ましいだけで、必要があれば大切にするだろうが、執着したら、それに余計な価値観を与えて、それが固定観念になる。
固定観念を捨てるには、全てを疑えば良いと言う人がいる。
洗脳とは、固定観念を植え付けることであるが、洗脳を解くには、自分を洗脳しているはずの権威者や、自分の感情も疑わねばならないというのは、一見正しそうに見えるが、実は、それは、余計に固定観念を強くするだけだ。
疑えば、疑ったものと逆の固定観念が生まれるだけなのだ。
例えば、「花が美しい」という一般論を疑うとする。
すると、「花は美しくない」とか「花は美しいとは限らない」といった、およそ意味のない、あるいは、複雑な固定観念を持ち、頭が悪くなる。
花が美しいと人が言うなら、別に疑う必要はない。
花は美しくないと言う人がいても、別に疑う必要はない。
そして、自分は美しいと思うなら、その感覚を疑う必要はないし、美しいと思わないなら、やはり、その感覚を疑う必要はない。
だが、人が、花は美しいと言っても、逆に、美しくないと言っても、それを信じてはならない。
同様に、自分が、花が美しいと思っても、逆に、美しいと思わなくても、自分の感覚を信じてはならない。
それにはどうすれば良いか。
カミュの短編小説『異邦人』で、主人公の青年ムルソーと、若い女性マリーがこんな会話をする。
マリー 「私と結婚してくれる?」
ムルソー「いいよ」
マリー 「私を愛してる?」
ムルソー「分からないけど、多分、愛してない」
ムルソーはとても正しい。
だが、残念なことに、彼は世間に振り回されているのだ。
ムルソーは、自分がマリーを愛していることを疑ってはいないが、信じてもいない。
そして、愛していると言ってもらえなかったが、マリーは、最後までムルソーに尽くしたのだ。
また、ムルソーは、死んだ母親のことをこう言う。
「ママのことは、多分、好きだった」
やはり、母親のことが好きなことを疑ってはいないが、信じてもいないのだ。
だが、ムルソーは、世間が、彼の感覚を認めないことも知っていた。
それで、世間と迎合しようとし、その分、弱かった。
母の葬式のため、休暇を上司に願い出た時、上司が不満気な顔をすると、ムルソーはこう言ったのだ。
「僕のせいじゃないんです」
ムルソーの超人化は、あと一歩だったのだ。
「私を信じろ」と言う傲慢な人間には、状況にもよるが、こう言ってやると良いだろう。
「疑ってはいませんが、信じてもいません」
それで離れていく相手なら、放っておけば良い。
部下が自分を信じていないことを知った、本当に優秀な経営者が、こう言うのを聞いたことがある。
「そう、俺って信用がないんだ」
そんなもの、誰にもない。
疑わないが、信じもしない・・・これが最も正しい態度である。
クリシュナムルティ―の『私は何も信じない』を読むことをお勧めする。
その理由はこうだ。
固定観念が人々に、
「自分よりはるかに力がある存在がいて、その存在に対し、自分は龍に対するカマキリのごとく弱い」
と信じ込ませているが、人間に関するたった1つの真理とは、
「人は自分が信じている通りの人間」
なのだからだ。
だから、我々は権威に対し、悲しいまでに弱い。
固定観念を捨てていけば、優秀に、そして、超優秀に、さらに、超能力や引き寄せが自由自在になり、神のごとき存在になる。
だが、まずは、ほんの少しの固定観念を捨てることだ。それだけで、大きな力を得る。
猫が可愛いというのも固定観念だ。
別に、猫を好ましいと思うのは構わない。
しかし、人々を見ていると、猫に対し、「わー!可愛い!可愛い!」と言って、その固定観念を強化している。そんなことをしていると、確実に能力は落ちる。
さらに、猫派だと言って、猫は大絶賛するのに、犬は嫌ったり、嫌わないまでも、抵抗があったり、猫には劣ると思うのも、深刻な固定観念で、やはり、それで力を大きく失っている。
猫も犬も、ただ、好ましいだけで、必要があれば大切にするだろうが、執着したら、それに余計な価値観を与えて、それが固定観念になる。
固定観念を捨てるには、全てを疑えば良いと言う人がいる。
洗脳とは、固定観念を植え付けることであるが、洗脳を解くには、自分を洗脳しているはずの権威者や、自分の感情も疑わねばならないというのは、一見正しそうに見えるが、実は、それは、余計に固定観念を強くするだけだ。
疑えば、疑ったものと逆の固定観念が生まれるだけなのだ。
例えば、「花が美しい」という一般論を疑うとする。
すると、「花は美しくない」とか「花は美しいとは限らない」といった、およそ意味のない、あるいは、複雑な固定観念を持ち、頭が悪くなる。
花が美しいと人が言うなら、別に疑う必要はない。
花は美しくないと言う人がいても、別に疑う必要はない。
そして、自分は美しいと思うなら、その感覚を疑う必要はないし、美しいと思わないなら、やはり、その感覚を疑う必要はない。
だが、人が、花は美しいと言っても、逆に、美しくないと言っても、それを信じてはならない。
同様に、自分が、花が美しいと思っても、逆に、美しいと思わなくても、自分の感覚を信じてはならない。
それにはどうすれば良いか。
カミュの短編小説『異邦人』で、主人公の青年ムルソーと、若い女性マリーがこんな会話をする。
マリー 「私と結婚してくれる?」
ムルソー「いいよ」
マリー 「私を愛してる?」
ムルソー「分からないけど、多分、愛してない」
ムルソーはとても正しい。
だが、残念なことに、彼は世間に振り回されているのだ。
ムルソーは、自分がマリーを愛していることを疑ってはいないが、信じてもいない。
そして、愛していると言ってもらえなかったが、マリーは、最後までムルソーに尽くしたのだ。
また、ムルソーは、死んだ母親のことをこう言う。
「ママのことは、多分、好きだった」
やはり、母親のことが好きなことを疑ってはいないが、信じてもいないのだ。
だが、ムルソーは、世間が、彼の感覚を認めないことも知っていた。
それで、世間と迎合しようとし、その分、弱かった。
母の葬式のため、休暇を上司に願い出た時、上司が不満気な顔をすると、ムルソーはこう言ったのだ。
「僕のせいじゃないんです」
ムルソーの超人化は、あと一歩だったのだ。
「私を信じろ」と言う傲慢な人間には、状況にもよるが、こう言ってやると良いだろう。
「疑ってはいませんが、信じてもいません」
それで離れていく相手なら、放っておけば良い。
部下が自分を信じていないことを知った、本当に優秀な経営者が、こう言うのを聞いたことがある。
「そう、俺って信用がないんだ」
そんなもの、誰にもない。
疑わないが、信じもしない・・・これが最も正しい態度である。
クリシュナムルティ―の『私は何も信じない』を読むことをお勧めする。