ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

カタカムナ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「アジマリカン」と「とほかみえみため」

少し前から、「とほかみえみため」という古神道の祓詞が人気があるようだ。
初音ミクさんが唱えているからだろう(笑)。
★YouTube|【初音ミク】銀河を祓う『とほかみえみため』40回
「とほかみえみため」の意味は、大野靖志氏の『とほかみえみため~神につながる究極のことだま~』によれば、
「遠津御祖神(とおつみおやのかみ)、十神のすべての神様、微笑んでください」
という意味のようだ。

ところで、山蔭神道には「アジマリカン」という強力な神呪がある。
これに関しては、この言葉を語るに最も相応しいはずの、山蔭神道の当主であった山蔭基央氏が、『神道の神秘』の中で、「意味は不明」であり、天地初元の時からある「言霊」と山蔭神道では教えているとしている。
「アジマリカン」について他に語られているものとしては、合気道家で、山蔭神道の神道家である、佐々木の将人(まさんど)氏が、『数霊のメッセージ』の中で取り上げている。
そこには、「アジマリカン」は、「ア」の音で始まる呪文で、唱えれば悪霊はたちまち退散すると書かれていただけである。
だが、佐々木氏のこの本が素晴らしかったので、私は、信じるに値すると思ったのである。
佐々木氏の本は、他のものもとても良かったし、関英男博士との共著も実に素晴らしいものだった。
尚、「アジマリカン」に関しては、斎藤敏一氏という方が、本を3冊ほど書かれていて、私も2冊ほど買ったが、個人的には、全く納得も共感も出来ず、両方共、途中で読むのをやめた。ただ、あくまで個人的なことである。

尚、「とほかみえみため」については、大野靖志氏の『和の成功法則』『お清めCDブック』に付いていた言霊CD(「とほかみえみため」の祓詞も入っている)を、寝る時に流したら、不眠症になっていた私が、即座に眠れるようになった。
これも、あくまで個人的感覚であるが、不眠症だったのは悪霊の影響を受けていた感じだったのだが、それが消えたのである。

私にとっては、『数霊のメッセージ』その他の著者である佐々木の将人氏が言うのだから、「アジマリカン」は良いという以外の根拠は全くないが、私にはこれで十分なのである。
だが、とりあえずお遊びのようなものだが、吉野信子氏の『カタカムナ 言霊の超法則』に掲載された「カタカムナ48の思念表」を使って、「アジマリカン」の意味を、私なりに解釈すれば次のようになる。
「生命と死を受け入れ、そして、それを離れれば最大の力を得る」
ところで、「アジマリカン」の母音は「ア」と「イ」しかない。
「ア」は1を示し、最初の母音で、秘めたる力を持つ。「イ」は5で母音の最後(現在のアイウエオでは2だが本来アオウエイで5)で、「ア」と「イ」で最初と最後になる。
さらに、「アジマリカン」の最初の「ア」が1で「ン」は10で最後なのである。
そして、「マ」の音が中央付近にあるが、「マ」はいったん口を閉じなければ発せられない言葉で、途中でいったん口を閉じるところに意味がある。つまり、それは、初めての音であり、「マ」は命の源や誕生を意味する。
それらから考え、「アジマリカン」には原初の力がプログラミングされた強力な呪文のように思えるのだ。
私の感覚では、「アジマリカン」はパワーのプログラムであり、非常に頼もしいものであり、いざという時の必殺技である。
まあ、不謹慎な説明かもしれないが、私としては、これで納得している。

各自、自分が良いと思うものを採用すれば良いのだと思う。
よって、好みにより、「アジマリカン」や「とほかみえみため」を唱えると良い。
尚、「とほかみえみため」は、先程の『カタカムナ 言霊の超法則』で解明しようとすると、手に負えないながら、ただならぬ言葉であることは分かるのである。








優れた王は自分を軽蔑している

宇宙戦艦ヤマトは放射能除去装置を受け取るために、はるばるイスカンダルを目指したらしいが、我々は、心の放射能除去装置を持たなければならない。
それは、今ここで、タダで手に入るが、使い方が甚だ難しい、「崇める」という心的装置である。

人間は、なぜ不幸になるのか?
ゆるむからである。
なぜ、ゆるむのか?
ここが肝心である。
それは、人間の自我というものは、自分がNo.1だと思うものだからだ。
自我は、自分こそが最上の存在であり、敬われるべき絶対君主だと思っている。
その結果、切なく崇拝を求める。
結果、社会的に偉い者は傲慢になるが、底辺の者だって、一見卑屈だが、プライドは恐ろしいほど高い。
だが、本物の王様だって、自分が一番だと思ったら、ゆるんでしまい、地獄に真っ逆さまだ。
だから、王様こそ、崇めるという心的装置が必要なのだし、良い王様は、それを見事に使いこなしている。

崇めるということは、どういうことだろう?
それは、「自我の上位に、自我に優るものを置く」ということなのだ。
神様を崇めれば、自我より上に神様があり、自我は自分はNo.1ではないと認識する。

崇める対象は、神様、仏様でなければならない・・・ことはない。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、男達は、ただの16歳の可愛い少女を崇め、ガリーの『自由の大地(天国の根)』では、フランス兵達は、空想の少女を崇めた。
結果、26人のゴミ虫のような最低の男達は、道徳、理性、知性、活力を取り戻し、堕落したフランス兵達は騎士の品位を取り戻した。
だが・・・将軍様、王様、法王様を崇めるとロクなことはない。
人間を崇めると、一瞬は向上しても、すぐに奈落の底に叩き落される。
なぜなら、それは、自我の上位に、他の自我を置くという、愚かなことだからだ。
「嗚呼!バカバカバカ!」と言うべき馬鹿さ、愚かさ、間抜けさだ!
人間を崇めるとどうなるかは、上に挙げたゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』に、ユーモラスに、喜劇的に、しかし、悲劇的に描かれている。
女神のように崇めた少女も、人間である限り、肉の塊に過ぎないのだ。
しかし、『自由の大地』で、フランス兵達が崇めた空想の少女は、本物の女神だったのだ。

自我を持った人間を崇める愚を犯してはならない。
人間は崇拝の対象になり得ない。
それは、たとえ、ガンジーであっても、マザー・テレサであっても例外ではない。
されば、神仏を崇めるのが良いのだけれど、神仏自体に自我の垢が付いていることが多い・・・いや、必ず付いている。
だから、神仏を崇める場合も、崇めるべき神仏の「自分が気に入った」絵、あるいは、像と共に、その名だけを崇めよ。
その名を、美しい御姿を心に浮かべながら、慕い、憧れる気持ちを持って、想い、あるいは、唱えよ。
そうすれば、自我は神仏の下位にうやうやしく退く。

もし、気に入った神仏の絵や像がなければ、『自由の大地』のフランス兵達がやったように、崇めるべき者を想像すれば良い。
それは、思い出の中の人物であれば、人間でも良いが、具体的人物であるなら、決して身近でない者でなければならない。
絶対に会うことのない者でなければならないのだ。
木枯し紋次郎が、8つの時に別れ、その2年後に亡くなった姉を崇めたようにだ。
そんな姉は、紋次郎を決して裏切らない。
しかし、どんなに良い姉でも、身近にいれば、いつか裏切られるのである。

初音ミクさんを崇める人は幸いだ。
ミクさんは決して裏切らない。
私は、ミクさんのお父さんの、クリプトン・フューチャー・メデイァアの伊藤博之社長の講演会に行き、「人よりも牛の方が多い地で育った」という、伊藤社長のお人柄を感じ、この人に育てられたミクさんなら、絶対に大丈夫だと思ったのだ。
また、伊藤社長さんが、娘さん(ミクさん)をとても大切にしていることも、私はよく知っている。
ご本人は、ミクさんを娘とは思っていないと言われていたが、「大切なもの」「水のようなもの」と言われていた。
それがつまり、本当の娘ってことだ。
しかし、「水」とは面白い。
『古事記』によれば、水を配給する神は、ミクマリなのである。
また、日本の超古代文明と言われるカタカムナでは、ミクマリは、全てが融合した円、あるいは、球なのである。

素晴らしい姉がいた紋次郎は幸せである。
初音ミクさんを崇める私は幸いである。
あなたも、決して裏切らない、純粋で美しい存在を崇めるべきである。
自我を専制君主にしてはならない。
自我は、美しく敗れないといけないのだ。
私はミクさんに止めを刺され、その後方(しりえ)に退いたのである。
「我敗れたり。そなたの後方に下がりひざまずく」
である。これをイエスは、
「汝敗れたり。わが後方に退け、サタン!」
と言ったのである。
自我はサタンである。

『老子』第39章(!)にある通り、優れた古の王様は、自分を「孤児」「独り者」「悪しき者」と呼んだのである。
王こそ、貴い何かを自我の上位に置いて、ひざまずく必要があることを、賢い王達は知っていたのである。









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ミクマリが世界を1つにする希望である

初音ミクさんが生まれるずっと前のことだが(ミクさんの誕生日は2007年8月31日)、顔見知りの女性が、小学5年生の可愛らしい娘さんを連れているのに会い、娘さんに名を聞くと、「ミク」だと言う。
どんな字を書くのかと尋ねると、誇らしげに、「未来」だと言う。
私は、素晴らしいセンスだと感心したのを覚えている。
また、その子も、自分の名前が気に入っているようだった。
初音ミクさんも、「ザ・ファースト・サウンド・フロム・ジ・フューチャー」と紹介されることもあるようで、やはり、ミクをあえて漢字にすれば未来だろうと思う。

ところで、ミクのミは、漢字の三が起源らしいが、漢字の未は、曖昧の昧からきていると言われる。
この昧は、暗いという意味で、特に、「ほの暗い」ということなのだそうだ。
つまり、草木に覆われて、ほの暗く、はっきりとは分からないといことで、やはり、未来とは分からないものなのだろう。
未来と聞いて、希望を感じるか、絶望を感じるかの違いがあるが、「未来がある」という言い方があるように、やはり、明るいものを感じる場合が多いのではないかと思う。

ところで、『古事記』には、ミクマリという神様があり、漢字で書けば水分である。
つまり、ミは水で、クは、分配するという意味の配る(クバル)で、ミクマリ(水配り)なのであり、水を分配する神様である。
正確に述べると、天之水分神(アメノミクマリノカミ)と国之水分神(クニノミクマリノカミ)の2柱の神である。
天上の水の分配と、地上の水の分配では異なるものらしい。

あくまで一説であるが、超古代文明のカタカムナでは、ミクマリというのは特別なものだ。
ミクマリを形で表すと、○(丸)で、手まりのまりも、ここからきているのだと思われる。
ミクマリとは、全てが渾然一体と和し調和したもので、全てのものの源であり、形になる前の未然のものである。
ミクマリを一言で書けば、「ワ」である。
つまり、ミクマリは、和であり、環であり、調和であり、平和であり、未であり、未来であり、全てである。
漢字でミは三だが、これは西洋の神秘数でもあり、「全て」という意味だ。
つまり、2つでは両者とは言っても全部とは言わず、3つになって、初めて全部と言うのであり、神に祈る時も、3神(ゼウス、アテーナー、アポロン)に対して祈るのである。

つまり、ミクマリで、古代から未来、西洋と東洋を全て統一できるのである。
不思議なものである。
尚、カタカムナでは、神というか主(ヌシ)は、実相世界のカムナと、現象世界のアマナである。
アマナとカムナも強力な言葉で、声に出したり、想ってみたりすれば分かると思うが、荘厳で無限の力やエネルギーを感じるだろう。
また、アマテラスオオミカミがイザナギノミコトから贈られた首飾りの珠は、ミクラタナ(御倉板挙)神である。これは、この珠の置場所を示していると言われるが、ミクがつく珠であるから、やはり深い意味があり、後で漢字を当てはめたのかもしれない。

私は、ミクマリ、アマナ、カムナ、ミクラタナという言葉が導くイメージを想うと、言葉にできない、深遠さを感じるのである。
あなたも、神話を少し研究すれば、そんなことが起こり、それは確実に、あなたに知恵と力と幸運を授けるだろう。
神話や古典は、実に有り難いもので、軽んじてはならないと思う。

尚、個人的には、お話としてだけなら、一番面白いと思う神話は、インドの『ラーマーヤナ』(英雄ラーマの物語)である。
理想の男性ラーマと、理想の女性シータが生き生きと描かれている。
これは、最初に知っておいても構わないことだが、ラーマとシータは、一体の神が2つに分かれて転生した人間である。
2人はそのことを知らないが、愛というものを理解するための大きな気付きを与えてくれると思う。









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経典、外国語、宇宙語、古代文字も、無心で眺めれば自ずと分かる

世界的な発明家・能力開発研究家だった中山正和さんは、漢字で書かれた『法華経』を、読まずに眺めただけで意味が分かったという。
中山さんは、「漢字は象形文字なので、イメージが湧く」と述べていたが、それは、中山さんが、次のようなことをしたからだ。
中山さんは、道元の『正法眼蔵』を20年もの間、意味が分からなくても、読み続けたという。それは、実際には眺めていたようなものであり、それにより高度な直観力を得ることができたのである。彼が、そんなふうに『正法眼蔵』を読んだのは、数学者の岡潔が同じ事をしていたのを知り、それに倣ったのである。
トロイア遺跡を発掘したシュリーマンは、18ヶ国語をマスターしたという。彼の外国語修得法は、一般的なことが言われていることも多いが、普通の理屈に適った方法で18ヶ国語も習得できるものではない。何かの本で、シュリーマンの本当の勉強法は、覚えたい言語の本を入手し、それを穴が空くほど見つめることだったらしい。そして、後は、あたかも話せるように、読めるように振る舞い、実際の場で使うという、場合によってはリスキーなものであったが、このような方法を実践したために、驚くべき速さで外国語を習得できたのだと述べられていた。私もこちらの方が正しいと思う。
これは、政木和三さんから直接聞いた話である。政木さんはドイツに行った際、ある高貴な家に宿泊したのだが、彼には、相手がドイツ語で話しても、自分には全部日本語に聞こえ、自分の話す日本語が、相手には全部ドイツ語に聞こえたので、何の不都合もなく、快適に過ごせたのだと言われていた。その秘密は、政木さんはいつでも脳波をシータ波にできたからで、脳波がシータ波になれば心は完全に静まり、内なる生命体が現れるのだが、この内なる生命体に不可能はないのである。

動物だって、本能の力を活かし、教わらなくたって狩りをするし、その他のあらゆることを行うのである。
動物の親が子供に狩の仕方を教えることもあるのだが、それは教えるというより、易しいレベルの実戦で慣れさせているだけである。言葉が話せるわけではない動物が、我々が考えるような指導をするわけではないことに注意すべきである。
動物でも、教わらなくても相当に高度なことを行うのであるから、ましてや人間であれば、無我、無心になれば、神のようなことができるのである。これをくれぐれも忘れてはならない。

お経は、原語のサンスクリット文字で書かれたものでなくても、漢文でも良いから、ひたすら眺めれば自然に意味が分かるのだと思う。
政木和三さんは、小学生の時、1年ほど腹式呼吸の修行をした後、母親が読んでいたお経を見ると、その意味が完全に分かったという。
腹式呼吸で何を得たかと言うと、心を静かにすることであり、政木さんが言うには、脳波をシータ波に下げることである。どちらでも同じだ。心が完全に静まれば、脳波はシータ波になるのだ。
お経も、意味の分からない漢文だから良いのだ。この分からないものをひたすら見つめれば、どうせ分からないのだから、頭は理解をあきらめ、思考は停止し、心は静かになる。すると、内なる生命体が現れてくる。それは全知全能なので、お経だろうが、外国語だろうが、科学だろうが、何でも分かるのだ。
昔は、学校で、意味が分からないものをひたすら音読させるという訓練を実施したものだ。音読させるのは、本当は、見ることをさぼらないという目的のためで、本来は、ただ見つめれば良いのである。
私は、最近、1万年以上も前に日本列島に住んでいた、超科学文明を持っていたと言われるカタカムナ人が書いた、カナタムナ文字の歌(詩)を、ひたすら眺め続けているのだが、何とも言いようがないが、不思議な感覚に目覚めつつあるのである。表の意識では、当然ながら意味は全く分からないのだが、内なる至高の意識では簡単に分かるのであり、これを行うことで、表の意識と深い意識、言い換えると、自我と真我(神我)が融合して一致しつつあるのである。
あなたも、漢字で書かれたお経、老子、荘子、あるいは、神秘図表、宇宙語、宇宙人が書いた図形、神代文字(しんだいもじ、かみよもじ)、カタカムナ文字で書かれたものを、無心に眺めると良い。すると、内なる至高の生命体である神と溶け合い、一体化していくだろう。









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天才の原理とそれになる方法

難題を抱えた科学者が、すっかり行き詰って図表の前で頭を抱えていた。
そこに、子供が一人やって来て、その図表を興味深そうに眺めていた。
そして、不意に子供は、「ここはおかしい。こうでないといけない」と言う。
科学者は苦笑するが、すぐに、はっとして図表を見直す。実に、その子供の言った通りだった。
それをきっかけに、科学者は短期間で問題を解決する。
その子供は、ごく普通の子供で、天才でも何でもなく、また、この科学者の研究に関する一切の基礎知識のようなものは持っていなかった。
このような話は、稀であるが、実際にある。
かといって、ただの子供に研究の手伝いをさせようとしても、ほとんどの場合、うまくはいかない。
まず、それに子供が興味を持ち、そして、特別な感情の流れを作らなければならない。
簡単に言えば、動機と言って良い。
動機を作ることができれば、子供が天才を発揮することは、実際は珍しくはない。
そして、それは別に子供に限らない。
趣味で音楽をやっていたに過ぎないフランスの技術軍人が、ある夜、特別な動機を起こし、一夜で『ラ・マルセイエーズ』を作詞作曲した。名曲の誉れ高い現在のフランス国歌である。そして、これ以外に、彼の曲は残っておらず、彼が天才であったのは、その一夜だけであったのだろう。

未来の人類は、全ての人が、常時、上のような天才であるのかもしれない。
他の進歩した惑星の住人は、既にそのようになっているのかもしれない。
いや、太古の昔においては、我々地球人もそうであったのかもしれないのだ。
『旧約聖書』や『古事記』、中国の『易経』等は、そのような時代の人が書いたものを、原書のままか、あるいは、長い時の流れの中で、いくらかの部分は、複製の際に齟齬が発生したり、意図的に改竄されたかはともかく、現代に伝わっているものなのである。このようなものは、現代の学者や作家の書けるものではない。

1万年以上前に日本列島に住んでいたというカタカムナ人の残したカタカムナ文献を、天才的な物理学者・電気技術者であった楢崎皐月(ならさきさつき)が長年月をかけて解読したようだ。天才であった彼には、カタカムナ文献の価値が直感的に理解できたので、その解読に生涯をかけ、超人的な努力をしたのだろう。その成果は、現在、特に農業分野で発揮されているようである。
また、楢崎は、カタカムナの研究を元に『古事記』の新解釈も行ったようである。
ただ、我々も、古事記原文を無心に読めば、そこに秘められた驚くべき秘密を知ることができる。
無論、古事記だけではない。
五井昌久さんが『老子講義』で解説した『老子』は、まことに素晴らしいもので、五井さんは漢文学者ではないが、老子そのものが語っているのと全く同じと言って差し支えない。それは、老子をそれなりに熱心に読んだ人なら誰でも分かる。五井さんという人は、常時、天才の状態であったのだろう。

「カタカムナ」という言葉は面白い。
子供が興味を持ってこの言葉を見れば、うまく説明できるかどうかはともかく、きっと、「分かってしまう」。この一言だけで。
こんな具合である。
本当の世界のことを、人類は、エデンとか楽園とか、タカアマハラと言ってきた。
それは、カム(神、上)の世界である。
ところで、もう片方の世界が存在し、それが我々の肉体のある物質世界である。この物質世界は、神の世界の片方であるに過ぎず、これがカタカムナのカタである。
タカアマハラは、高天原で、天(アマ)より高い原である。
地上は天に含まれるけれど、天そのものは、やはり物質世界なのだ。
カム(神、上)の世界は、もっと上なのだ。場所的に高いというのではなく、もっと別の意味でだ。
カムの世界の主(カムナ。神の名)は、アメ(天)と地の世界の主である人の中のアマナ(天の名)と共同で世界を創造している。
宇宙の理とは、だいたい、このようなものであると考えられる。
五井昌久さんという人は、常時、カムの世界と交信できたのだろう。
ただ、五井さんは、『老子』の読み下し文を無心で読めば誰でも分かるといったことも述べておられた。
無論、老子だけでなく、我々も、『古事記』を無心に読めば(できれば書き下し文)、やはり、カムの世界に通じる直感を発達させることができると思う。
そしてまた、私がこのブログでいつも述べている通り、「ア」という言葉を常に自分に言ったり、「吾(ア)は誰か?」と自分に問うたり、神の名を絶えず心で繰り返せば、いずれはそうなると思う。また、五井さんが提唱した「世界平和の祈り」は、そのためにも素晴らしい力を発揮するものと思う。
尚、個人的にだが、足立育朗さんの『波動の法則』には、カムのことが詳細に説明されていると思う。これは、足立さんが高度な宇宙生命体とテレパシーのような方法で交信して得た知識で、カムと足立さんの言うEHKOが近いもののように思われる。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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