ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

オリンピック

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

運命の女神を振り向かせるには

私は、高校野球を好んで見たことは一度もなく、いろんな意味で好きではないが、昔はどうしても目にすることがあった。
その中で、こんな場面を何回か見たように思うが、多くの人も同じではないだろうか。
試合の終盤、大差をつけられて負けているチームの選手が、明らに気落ちした顔をし、監督ですら、そうであったりする。
そして、負けて悔し泣きする選手達。さすがに監督が泣いているのを見た記憶はないが。
あるいは、勝敗につながる重要な場面でエラーをした野手や、あるいは、大チャンスで凡退(さらにはゲッツーを取られたり)した選手が、一瞬ガックリするのは仕方がないが、いつまでも落ち込んだ様子でいる。
教育の一貫としての高校野球と言うなら、これは非常に良くなく、由々しき事であると思う。

たとえ決勝戦であろうが、勝とうが負けようが、それ自体は大したことではないのである。
オリンピックで、金メダルを賭けた決勝も同じだ。
負けて、いつまでもメソメソする選手は、その後の人生は期待出来ない。
一方、特にオリンピック柔道や、プロボクシングで見た覚えがあるが、決勝やタイトルマッチで勝った日本人選手が、負けた相手の目の前で、狂喜し、相手を見下すかのようで全く敬意を持たずに、派手なガッツポーズを繰り返し、それをマスコミも称賛する。そんなことをした選手は、後にロクなことにはなっていない。

大切なことは、勝とうが負けようが、嬉しかろうが悲しかろうが、いつでもシャンとすることだ。
およそ、スポーツの効用というのは、それだけだ。
いつでもシャンと出来るようになれば、もう競技スポーツをやる必要などない。

シャンとすれば、人間に備えられた力を使いこなすことが出来るのである。
スポーツにおいては、勝敗は時の運だ。
実力は劣っても、シャンとした方が、時に奇跡の勝利を得ることがあるが、やはり、勝利が最終目標ではなく、せっかくシャンとして奇跡的勝利を収めても、そこでシャンとするのをやめて、次の勝てそうな試合を落とし、さらには、人間的に弱くなり、その後の人生が楽しいものでなくなるというパターンは、特に日本人には多いのではないだろうか。
戦争でもビジネスでも、劣勢の時にシャンとすれば、致命傷にならず、盛り返すことも可能である。

別に、野球や柔道や戦争をしなくても、誰だって日常で、大差のないことをやっているのである。
つまり、上手くいって気が緩み、負けて落ち込むようなことは、どこにでもある。
一瞬、有頂天になったり、うな垂れるのは仕方がないが、すぐにシャンとするかどうかが、人間の力を決定する。
競技スポーツは、せいぜいが、その練習である。
そのことに失敗するようなスポーツなら、やる意味など何もない。

アニメ映画『アキハバラ電脳組 2011年の夏休み』(1999)で、中学3年生の花小金井ひばりが、中学2年生の大鳥居つばめに、「あれ、つばめちゃん、今、いい顔してたね」と言い、つばめが照れて「そう・・・?」と返す場面がある。
つばめは深い喜びを感じて、「いい顔」になったのだが、我々は、そんな顔を意識的に出来るようにしないといけない。それが運命の女神を振り向かせるコツであると思う。








希望の未来か、速やかな破滅かの選択の時

第二次世界大戦後、日本は奇跡の復興を遂げたと言われる。
そして、松下幸之助さんのどれかの本に書かれていたと思うのだが、その中でも、特に復興が早かったのが、原爆が投下された広島や長崎であったという。
どういうことかと言うと、人間というのは、困難があるほど力を発揮するということなのだ。

困難があるほど大きな力を出すというのは、紛れもない事実で、不利な条件はむしろ恵みなのである。
逆に言えば、恵まれ過ぎていることは、本当は不幸なのである。
これについて、私は、「ザ・ケルン・コンサート」を覚えておくべきと思っている。
1975年に、ドイツ(当時、西ドイツ)のケルンのオペラハウスで行われた、ジャズピアニスト、キース・ジャレットによる即興ソロ・ピアノ演奏会だ。
コンサートが開始された時間は、夜の11時半。
ジャレットは、数日間の不眠、サポーターを巻いた腰の痛み、しかも、スイスのチューリッヒから563キロを5時間かけて車を運転してきたばかりだった。
そして、さらなら困難があった。
手違いで適切なピアノが届かず、そこにあったのは、この広いオペラハウスには小さなピアノで、しかも、そのピアノは壊れていて、高音と低音が駄目でペダルもうまく動かなかった。
当然であるが、ジャレットはいったんは演奏を断った。しかし、コンサートを主催した17歳の女子学生の立場を思いやって演奏を行うことにしたが、ジャレットは、この小さなピアノで、後ろのお客さんにも聴こえるよう、中腰で立って力強く鍵盤を叩かなければならなかった。
だが、すぐに、奇跡が起こっていることが分かった。
収録された演奏は400万枚以上売れる名演奏となり、最も成功したジャズのソロ・アルバムになった。
皆さんも、聴けば、その素晴らしさが分かると思う。
多くの困難があったからこそ、こんな奇跡が起こったのではないかと思われるのだ。

日本では、近年に、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東北地方太平洋沖地震といった大地震が起こったが、はからずもそれが、再び、日本の奇跡の力を世界に見せ付けることとなった。
ただ、東北大震災に関しては、福島原発事故の問題が今も続いている。

ところが、今回の新型コロナウイルスについては、かなり違っているのである。
これが収束した後、再び大復興を遂げれば良いというものでは決してない。
このウイルスにより、人類の有り様そのものが間違っていたことが明らかにされたのだ。
オリンピックを初めとするスポーツの巨大イベント(日本では高校野球甲子園大会が代表的なものになる)により、一部の者達が暴利を貪るために、スポーツが捻じ曲げられ、崇高な面が失われていることを利権者達は隠そうとしているが、もう騙されてはいけない。
今のようなオリンピックであれば、中止ではなく廃止をすぐに決めないと、人類は終わりかねない。
そして、今の形の、生徒を洗脳し、権力者に都合の良い偏見を叩き込むための学校はあってはならないものである。
教育は不要で、必要なものは学習であり、そのために必要なことは既に分かっている人達が沢山いるので、教育で利権を貪る者達が去りさえすれば、正しい学びを始めることが出来る。
残念なことに、これらのことは、新型コロナウイルスが来なければ、いつまでも解決されないまま時間が過ぎ、人類は暗黒時代を迎えるはずだった。
今、我々は、希望の未来か、速やかな破滅かの、いずれかを選ばねばならないのである。













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真の英雄

オリンピックも高校野球も、コロナウイルスに関係なく、無観客、テレビ中継なしで、選手と審判だけで行えないものか?
それが出来ないなら、やめてしまえば良い。
誰もいない場所で、誰にも邪魔されず、精神を研ぎ澄ましてライバルと競う・・・それでこそ、スポーツの本当の意義が実現するのではあるまいか?
判定が微妙な状況では、公平無私な審判に淡々と従い、審判には見えなかったが、どちからの選手には見えていれば、見えていた選手の申告に虚心に従う。
そのように行われるスポーツが、選手の人間性を高め、人類の向上に貢献する人間を作るのだと私は信じる。
もちろん、審判のミスもあるだろうし、選手が嘘を言うこともあるかもしれない。
しかし、それならそれで良いのである。
長い時が経って、かつて戦った相手が、
「実はあの時、君のスマッシュがアウトだと僕が言ったのは嘘だったのだ」
と言ったとしても、言われた方は、
「おや、そうだったのかい?」
で終りである。
勝敗も記録も、さしたるものではない。
このようであってこそ、スポーツは人間にとって貴いものであるのだ。

私が子供の時に読んだ、桑田次郎さんの『ミュータント伝』という漫画作品に、こんな話があった。
ある小惑星を宇宙飛行士が探索したさい、美しい石があったので、若い宇宙飛行士は、身体が不自由な妹のために、規則を破って、その石をこっそり持ち帰る。
だが、その石には、恐ろしいウイルスが居て、感染した人間は凶暴な怪物と化し、その際に、ウイルスが拡散される。
地球帰還後、そのことを突き止めた宇宙船の船長は、抜群の能力を持つ(小惑星探査チームの)隊長に、隊員全員と、隊員と接触した可能性のある人間全てを焼き殺すことを命じる。
隊長は、探査チームの者達を呼び集めると、説明している時間がなかったので、やむなく、隊員達を薬で眠らせ、建物ごと爆破し、全焼させる。
さらに、悪魔の石を持ち帰った若い隊員の、不遇なまだ小さい少女である妹を撃ち殺して溶岩の中に落とし、さらに、隊員達と接触した者達を次々に殺し、死体を燃やす。
そして、ついに、隊長は、凶悪犯罪者として警察に追い詰められ、銃撃戦の末、重症を負いながらも、自分の身体にガソリンをかけて自身の身体を焼く。
その隊長は、悪魔のごとき狂人として人類の歴史に残るが、本当は人類を滅亡から救った英雄なのである。
隊長にそれを命じた宇宙船の船長は、心で隊長の功績を讃えると、自分の部屋に仕掛けた爆弾のスイッチを押した。

イエスは、「人々の称賛を得たなら、もう褒賞を得たのだから、神からの褒賞はもらえない。だが、人々に知られずに善行を行えば、隠れたことを見ている神からの褒賞を得られる」と言った。
この隊長は、神の褒賞を得たと信じたいし、そう願う自分であれば信じられるような気がするのである。







今のオリンピックはバベルの塔

一休さんは、自分の遺言書の包みを弟子に渡し、「本当に困った時に開けよ」と言った。
現在の、新型コロナウイルスの流行は、人によってはどうにもならないほど困っているだろうから、一休さんの遺言書を見たいかもしれない。
そして、後に弟子が本当に深刻な状況に陥った時、それを開くと、そこには、「心配するな、なんとかなる」と書かれていたという。
まあ、風説かもしれないが、一休さんらしいとも思える。

ビートルズの『レット・イット・ビー』も、だいたいそんな歌だと思う。
「僕が困難に陥った時、聖母マリアが現れ、尊い言葉を告げられた。レット・イット・ビー(あるがままに)と」
また、荘子の言う「無為自然」も、「自然のなりゆきにまかせ、何もするな」であり、全く同じことと思う。
賢者が「あるがままに」と教えた例なら、他にも沢山ある。

しかし、サイフの中に金がない人に対して「あるがままに」などと言うのは、親切でも適切でもない。
日本政府は、国民に現金支給を検討していると言うが、それも、5万円とかせいぜい10万円といったケチな話・・・それどころか、支給ではなく貸すだけとかで、「ないよりはマシ」とすら思えない人も多いに違いない。
イギリスでは、ジョンソン首相が、これを機にベーシック・インカム・・・つまり、国民に無条件で一定額を恒常的に支給する制度の導入に肯定的であると言う。
凄い肩書をいっぱい持つ、超優秀なある学者が、何かの本で、日本は既にベーシック・インカム状態と書かれていたと記憶している。しかし、ちっともそんな感じがしないのは、その学者先生も指摘されていたと思うが、あらゆる手続きが難しいからだろう。いや、難しいというより、意図的に解らないようにしているとしか思えないほどいい加減であると私は感じる。

それはともかく、一休さんら賢者達を信用し、心配せず、なりゆきにまかせてみようか・・・
私はいつもそうやって得ばかりしてきたが、誰でもうまくいくのだろうか?
それで、思い出すことがある。
スウェーデン映画『処女の泉』(1960)だ。
非常に信心深いキリスト教徒である、裕福な地主テーレは、一人娘のカリンを溺愛していた。
カリンが何歳の設定なのか分からないが、当時二十歳くらいだったカリン役のビルギッタ・ペテルソンを幼い雰囲気にして15歳くらいに見せようとしていたのかなあと感じる。
そのカリンが、浮浪者の3人兄弟にレイプされた上、丸太で殴り殺される。
カリンの父親テーレは腕力も逞しく、その3兄弟を叩き殺して(一人は子供だった)復讐を果たし、殺害現場に残されたカリンの遺体に逢う。
その時、父親が言ったことが印象的だった。
「あなた(神)は見ていたはずだ」
つまり、自分はこんなに信心深く、日頃からキリスト教徒として恥ずかしくない生き方をしているのに、なぜ、娘を助けてくれなかったのかという恨みであろう。
この世に神はいないのだろうか?

一休の「心配するな、なんとかなる」というのは、「あなたは神仏に守られている」という意味と思って良いと思う。
一休は禅宗の臨済宗の僧であるが、尊敬する法然や親鸞に倣い、念仏を上げていたと思う。
その念仏の教えを説く仏典の1つである『観無量寿経』には、念仏を唱える者を、観自在菩薩、勢至菩薩が常に守ると書かれてあり、これは信仰の賜物である。

カリンの父も、信仰の対象が違うだけで、同じことを信じていたのだろう。
では、カリンななぜ守られなかったのかというと、荘子流には、テーレもカリンも、作為が過ぎたのだと思う。
テーレは自分の信仰振りを、自慢するとまでは言わなくても自己満足するあまり狭量であったし、カリンも身の程を知らなかった。
テーレのカリンに対する偏愛は、所詮、個人のエゴであり、本当の愛ではない。
だが、テーレが、カリンの遺体があった場所に、自分の手で教会を建てることを神に誓うと、カリンの遺体があった場所から泉が湧き出た。
カリンの本当の世話をしているのは神だとテーレが気付き、自分のすべきことだけをして余計なことをしなければ、カリンは守られていたのだ。
テーレがカリンの所有権を神から奪った分、カリンの身は危うくなっただけなのだ。
今のオリンピックはバベルの塔だ。
その身の程知らずが、人間の手に負えないウイルスを生んだのだと思う。

「心配するな、なんとかなる」と本質的に同じ意味の言葉がアラブに伝わっている。
それは、「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」だ。
人間がすべきことは、ラクダをつないでおく位のことだ。
スポーツがそんなに良いものなら、まず、全ての人が公平にスポーツが出来るよう工夫をすれば良い。ビジネスを始めたら、無駄を省きつつ、顧客に優れたサービスを提供出来るよう工夫すれば良い。こういったことは誰でも出来ることだ。

偉大な人間とパートナーになった時、謙虚な賢い人は身の程をわきまえ、自分の仕事は何かを正しく認識するだろう。
それを、神とのパートナーシップにまで発展させて考えれば良いのだ。
役割を間違えなければ、神の加護を受け、全てうまくいく。
だが、浅はかに神の領域を侵すと、最初は小さく、そして、いつまでも改めなければ大きな調整が行われる。
例えば、賢い神が作った小さな生命によって。








新型コロナウイルスへの超対応策

新型コロナウイルスの流行が偶然ではなく、人智を超えた力によって起こされた必然であるなら、我々は、どう考え、行動すれば良いのだろう?
大きな国の政府は、ほぼ共通の方針を採っている。その方針とは極めて単純なもので、
「群れるな」
「引きこもれ」
である。
日本は他の国の真似をしたのだが、他の大きな国では、かなり迅速に、この共通の方針を決め実行した。
そして、この方針は正しい。
それなら、新型コロナウイルスを流行らせた大きな存在の意思がそれであったと考えられる。
即ち、「人類よ、群れるな」「人類よ、引きこもれ」と言っているのだ。
これまで、我々は、「群れ過ぎていた」し「外に出て行き過ぎた」のである。

言うまでもなく、集まって何かをしたり、外に出て働くことは必要だし、良いことだ。
しかし、やり過ぎなのだ。
今回、やっと、インターネットを利用して自宅で仕事をする人が増えたが、もっと早くに行うべきだった。
働く人の全員が、それが出来る訳ではないにしろ、かなりの人がそれを行うことで、通勤電車は混雑せず、今ほど大きなオフィスも必要なくなる。
つまり、ウイルスによらずとも、先に、多くの人が通勤をやめるようにすれば良かったのである。

学校はどうだろう?
やはり、今の学校には、初めから行く必要がなかったのだ。
子供達は学校で、年齢別に分けられ(時には概ね従順さの度合いを示す学力別に分けられ)、長時間拘束されて服従を強いられ、徹底的に偏見を叩き込まれる。
そんな所に行く必要があるはずがない。
もちろん、集団行動は必要であるし、今の学校にだって良いところが無いとは言えない。
しかし、もっとまともなものを作らないといけないし、その案を出している人はくらでもいるのに、自分達の利益や権威を手放さない者のために、良い案は決して採用されない。
子供達は、多様な年齢、人種、能力を持つ人達のコミュニティに参加しなければならないし、何を学ぶかは自分で決めるようにしなければならず、教育や教師は全く必要ない。
そして、正しい学びの場では、集まることは必要でも、今のように過剰に、しかも、「ただ群れる」ことは全く不要である。

スポーツは良いものである。
野球も、サッカーも、柔道も、とても良いものだ。
しかし、少なくとも、今の甲子園大会やオリンピックは、あってはならないものだと私は思う。
「うなる金」への欲望で、すっかり歪められ、醜くなったものを、いつまでもエスカレートさせ、歯止めが効かないから強制的な力が働いたように私には思えるのである。
利権を握る者が反省するとは思えないが、人知の及ばぬ力で浄化された後で、「過剰に群れず」に、健全なスポーツ大会として行うなら良いかもしれない。

病院に行けば、患者が群をなし、緊急に視てもらいたくても、何時間も待たされる。
しかも、待たされた挙句、余程の状態でない限り、行われるのは検査だけだ。
もちろん、過剰な処置をしてはならないが、適切な処置をすれば、これほど「群れる」必要はないのではないか?
しかし、合理的なことをやって患者が減っては、医療が成り立たないように思う。
なぜそこまで利益が必要かというと、「取り過ぎている」者のためだ。

私は、10年ほど前までは、健康診断の度に「要検査」の項目が沢山あり、通院を勧められた。
しかし、それに従っていれば、検査漬けになり、無残な状況に陥っていただろう。
だが、わずか1年で、自力で完全な健康を手に入れた。
何をやったかとうと、単に、少食・粗食にして、体重を30kg減らしただけである。
かかったお金はゼロ・・・どころか、買う必要がないものを買わなくなったので、それまでかかっていたお金が必要なくなった。
そして、スポーツ競技流の間違った運動をやめ、正しい運動をするようになり、身体の故障も全部消えた。
これにも、当然、1円もかかっていないし、必要なものは、畳1枚分のスペースだけだ。

このように、群れる必要はなく、多くの時間、自宅に引きこもっていれば良いのであり、そうすれば、本当に必要な時に、必要なことをするために、喜んで外に出て行けるようになる。
私のようにやれば、農業や水産業、林業などに興味を持つ人も多くなるだろう。
無理に群れる、あるいは、群れさせられることに参加する必要はないし、参加してはならない。

では、初音ミクさんのライブはどうだろう?
私は、2016年から、初音ミクさんのライブの中では最も規模の大きい「マジカルミライ」に毎年行っているが、大きいと言っても、1回のライブの観客は6000人くらいなのである。それが2~3日行われるだけだ。
オリンピックや甲子園野球はもちろん、何万人(あるいは10万人超)も集める大コンサートとは違う。
トイレだって、インテックス大阪の時は、空いていて、いつでも使えた。
決してクレイジーなライブではない。
だが、年を追うごとに、観客のマナーが悪くなってきたことも、ウイルスを呼んだ一因かもしれない。
私が初めてマジカルミライに行った2016年の「マジカルミライ2016」では、観客のマナーの良さに感動した。
1人のスペースは決して広いわけではないが、皆が譲り合い、気を使い合っていることを感じた。
だが、年々、そうでなくなっているように感じる。
ならば、ミクさんのコンサートも、会場参加とVR観劇に分けるようなことも必要かもしれない。元々、ミクさんのライブは高度なテクノロジーと協調しているのだから、やがて、VR、あるいは、MRの活用も行われると思う。そして、そんなコンサートだけが、今後、残るのかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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