この世界は漫画で、我々は、漫画の中のキャラクターだというのは、分かり易い上に、そう考えれば、案外に当を得た考え方、動き方が出来るのである。
むしろ、そう考えないと、少々頭が良くても、無駄な努力をした挙句、惨めになる可能性が高い。
まず、漫画であれば、全体的には、間違いなく一貫性がある。
そして、各キャラクターの設定も、やはり一貫性があるのである。
確かに、キャラクターの設定には、変化があるように見えることが多い。
キャラクターの設定の変化について、面白い例がある。
『エリート』(平井和正原作、桑田次郎漫画)で、主人公の中学3年生の少年、竜太郎のガールフレンドのジュディは、元々は、女らしく優しい性格だったが、精神に影響を与える注射を打たれてから、豪放で男勝りの性格に変わった。
竜太郎は戸惑うが、別にジュディと仲が悪くなったわけではないし、ジュディの父親である科学者も、「ジュディはジュディだ」とあまり気にしていない様子だった。
つまり、ジュディが変わったのは表面的で、根本的なところは変わっていないということだ。
だが、ジュディが死に、敵のダンガーの手で復活させられた時、ジュディの意識は継続しているように見えたが、竜太郎は、今度はジュディを見捨てた。
ジュディは、死んだ時に、本質的に漫画の中からドロップアウトしたのだが、そうではないように見えるという、実はとても珍しいものだと思う。
ジュディが最初の性格変革を起こした時のように、一瞬で明確にキャラクターが変わる例は少ないが、我々にもありうるし、また、我々は時間をかけてキャラクターを変えていくのが普通である。
「私は、10年前の私とは全く違う」といった感じである。それでも、本質的には変わっていないものである。
だから、我々も、時と共に変化すべきところは、キャラクターを変えて良い・・・というより、変えねばならないだろう。
だが、ジュディが死んでからは、キャラクターが変わったというより、キャラクターが消え、その残像が残っただけであるが、そんなキャラクターも、この世に実際に存在し、我々は、自分がそうならないようにしなくてはならない。そして、それは、大抵は、魂を売った時に起こるのである。自分の欲望のために魂を売るようなことをしたら、この世界から消えたも同然・・・つまり、死んだに等しいのである。
我々は、作者の意識の一部であり、主役クラスのキャラクターであるなら、作者と一体であるとも言える。
一方、モブキャラと言われる、雑魚キャラ、群衆キャラ、背景キャラ・・・名前がつかないキャラクターがいる。
モブキャラが、主要キャラクターに出世することはまず、決してない。
そして、よく考えれば、我々がモブキャラであることはない。
なぜなら、モブキャラは、作者と意識を共有しないからで、それなら、そもそも意識がない。
意識がある限り、モブキャラではない。
インドの聖者達が言うように、我々の本質は意識なのである。
自分の外面的状況をどう持って行くかも重要であるが、キャラクターベースで考えた方が、圧倒的に確実である。
外面的な状況が良くなっても・・・例えば金持ちになっても、金持ちに相応しいキャラクターでなければ、お金を生かせず幸福でないし、それに、お金が身に付かない。作者としても、金持ちに相応しくないキャラクターであれば、一時的に金を与えても、すぐに取り上げるだろう。
一方、金持ちのキャラクターが出来てしまえば、自然に金持ちになり、作者も、そんなキャラクターには、お金を持たせ続けるだろう。
だから、自分の内面的なキャラクターをどうするかを、しっかりと考えないといけない。
その際、モラルの高いキャラクターにすることが非常に重要である。
たとえ、どんなに下手な作家が描いた漫画であっても、モラルの低いキャラクターが、長く繁栄することはない。
モラルが高ければ、自然に幸運になり、必要なものは当然のように得られ、願いが実現することが多い。
ただ、特に漫画は、そのキャラクターが、モラルが高いふりをしても、実際にはモラルが低ければ、それを隠せない。むしろ、あからさまにバレる。
決して誤魔化しは効かず、本当のモラルを持つしかないのである。
むしろ、そう考えないと、少々頭が良くても、無駄な努力をした挙句、惨めになる可能性が高い。
まず、漫画であれば、全体的には、間違いなく一貫性がある。
そして、各キャラクターの設定も、やはり一貫性があるのである。
確かに、キャラクターの設定には、変化があるように見えることが多い。
キャラクターの設定の変化について、面白い例がある。
『エリート』(平井和正原作、桑田次郎漫画)で、主人公の中学3年生の少年、竜太郎のガールフレンドのジュディは、元々は、女らしく優しい性格だったが、精神に影響を与える注射を打たれてから、豪放で男勝りの性格に変わった。
竜太郎は戸惑うが、別にジュディと仲が悪くなったわけではないし、ジュディの父親である科学者も、「ジュディはジュディだ」とあまり気にしていない様子だった。
つまり、ジュディが変わったのは表面的で、根本的なところは変わっていないということだ。
だが、ジュディが死に、敵のダンガーの手で復活させられた時、ジュディの意識は継続しているように見えたが、竜太郎は、今度はジュディを見捨てた。
ジュディは、死んだ時に、本質的に漫画の中からドロップアウトしたのだが、そうではないように見えるという、実はとても珍しいものだと思う。
ジュディが最初の性格変革を起こした時のように、一瞬で明確にキャラクターが変わる例は少ないが、我々にもありうるし、また、我々は時間をかけてキャラクターを変えていくのが普通である。
「私は、10年前の私とは全く違う」といった感じである。それでも、本質的には変わっていないものである。
だから、我々も、時と共に変化すべきところは、キャラクターを変えて良い・・・というより、変えねばならないだろう。
だが、ジュディが死んでからは、キャラクターが変わったというより、キャラクターが消え、その残像が残っただけであるが、そんなキャラクターも、この世に実際に存在し、我々は、自分がそうならないようにしなくてはならない。そして、それは、大抵は、魂を売った時に起こるのである。自分の欲望のために魂を売るようなことをしたら、この世界から消えたも同然・・・つまり、死んだに等しいのである。
我々は、作者の意識の一部であり、主役クラスのキャラクターであるなら、作者と一体であるとも言える。
一方、モブキャラと言われる、雑魚キャラ、群衆キャラ、背景キャラ・・・名前がつかないキャラクターがいる。
モブキャラが、主要キャラクターに出世することはまず、決してない。
そして、よく考えれば、我々がモブキャラであることはない。
なぜなら、モブキャラは、作者と意識を共有しないからで、それなら、そもそも意識がない。
意識がある限り、モブキャラではない。
インドの聖者達が言うように、我々の本質は意識なのである。
自分の外面的状況をどう持って行くかも重要であるが、キャラクターベースで考えた方が、圧倒的に確実である。
外面的な状況が良くなっても・・・例えば金持ちになっても、金持ちに相応しいキャラクターでなければ、お金を生かせず幸福でないし、それに、お金が身に付かない。作者としても、金持ちに相応しくないキャラクターであれば、一時的に金を与えても、すぐに取り上げるだろう。
一方、金持ちのキャラクターが出来てしまえば、自然に金持ちになり、作者も、そんなキャラクターには、お金を持たせ続けるだろう。
だから、自分の内面的なキャラクターをどうするかを、しっかりと考えないといけない。
その際、モラルの高いキャラクターにすることが非常に重要である。
たとえ、どんなに下手な作家が描いた漫画であっても、モラルの低いキャラクターが、長く繁栄することはない。
モラルが高ければ、自然に幸運になり、必要なものは当然のように得られ、願いが実現することが多い。
ただ、特に漫画は、そのキャラクターが、モラルが高いふりをしても、実際にはモラルが低ければ、それを隠せない。むしろ、あからさまにバレる。
決して誤魔化しは効かず、本当のモラルを持つしかないのである。