今回は『老子』第25章である。
この章を一言で言えば「何もしない」である。
この第25章は、意味において、エメラルド・タブレット(ヘルメス版)と同じことが書かれている。
それが偶然なのか、エメラルド・タブレットと何か関係があるのかは分からない。
エメラルド・タブレットより簡素で分かり易いが、それは、エメラルド・タブレットが分かり難過ぎるというだけのことで、この『老子』第25章だって、言葉の妙に騙されてさっぱり意味が分からないことも多いと思う。
簡単に言えば、聖人は地に倣い、地は天に倣い、天は道に倣ったのである。
では、道とは何かということになるが、老子にしろ、荘子にしろ、誤解されることを恐れてか、道を抽象的な概念のままにしている。
だが、この章では、ごく単純に示していて、それが非常に良い。
つまり、道とは「自ずと在るもの」であるが、何か実体を示すものではなく、本当は「自ずと在る」ことである・・・などと言ったら難しくなるので、一応「自ずと在るもの」で良いが、それでもまだ抽象的で難しく感じるに違いない。
そもそも「在る」ことに、「自ずと在る」か「作為的にある」かなどない。
「在る」か「ない」だけである。
だから、「在る」は、ただ「在る」だけで、言ってみれば、「在ろうとするな、ただ在れ」となるが・・・とにかく説明し出すと迷路に迷い込むだけだ。
それよりも大切なことは、結果として「自ずと在る」状態になれば良いだけである。
そのためには、我々は、「私は誰か?」と自分に問えば良い。
なぜなら、在るのは、本当の自己である魂だけだからだ。
だから、我々は、まず、知識として、分からなくて良いから、自分は全知全能の無限の魂、つまり、神であることを知っておかないといけない。
そして、我々は、そのことを忘れてしまっている記憶消失状態であることを知らねばならない。
そんなわけで、我々はもう知ってしまった。
それなら、後は忘れない、つまり、覚えているだけで良い。
そうである状態で「私は誰か?」と問えば、すみやかに記憶を取り戻し、自分が本当は何であるか分かり、本当の自分が持つ無限の力を発揮出来るようになる。
この章を一言で言えば「何もしない」である。
この第25章は、意味において、エメラルド・タブレット(ヘルメス版)と同じことが書かれている。
それが偶然なのか、エメラルド・タブレットと何か関係があるのかは分からない。
エメラルド・タブレットより簡素で分かり易いが、それは、エメラルド・タブレットが分かり難過ぎるというだけのことで、この『老子』第25章だって、言葉の妙に騙されてさっぱり意味が分からないことも多いと思う。
簡単に言えば、聖人は地に倣い、地は天に倣い、天は道に倣ったのである。
では、道とは何かということになるが、老子にしろ、荘子にしろ、誤解されることを恐れてか、道を抽象的な概念のままにしている。
だが、この章では、ごく単純に示していて、それが非常に良い。
つまり、道とは「自ずと在るもの」であるが、何か実体を示すものではなく、本当は「自ずと在る」ことである・・・などと言ったら難しくなるので、一応「自ずと在るもの」で良いが、それでもまだ抽象的で難しく感じるに違いない。
そもそも「在る」ことに、「自ずと在る」か「作為的にある」かなどない。
「在る」か「ない」だけである。
だから、「在る」は、ただ「在る」だけで、言ってみれば、「在ろうとするな、ただ在れ」となるが・・・とにかく説明し出すと迷路に迷い込むだけだ。
それよりも大切なことは、結果として「自ずと在る」状態になれば良いだけである。
そのためには、我々は、「私は誰か?」と自分に問えば良い。
なぜなら、在るのは、本当の自己である魂だけだからだ。
だから、我々は、まず、知識として、分からなくて良いから、自分は全知全能の無限の魂、つまり、神であることを知っておかないといけない。
そして、我々は、そのことを忘れてしまっている記憶消失状態であることを知らねばならない。
そんなわけで、我々はもう知ってしまった。
それなら、後は忘れない、つまり、覚えているだけで良い。
そうである状態で「私は誰か?」と問えば、すみやかに記憶を取り戻し、自分が本当は何であるか分かり、本当の自分が持つ無限の力を発揮出来るようになる。