ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

エマーソン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「鷹揚(おうよう)」こそ王者の特質

ラルフ・ウォルドー・エマーソンは『自己信頼』の中で、完全な親のすねかじり(親に全面的な経済的援助を受けていること)状態の少年(少女もだろうが)を大変に良いものとしていた。
それが幸福な状態であるというだけでなく、人間らしく正しい状態であり、そんな少年こそが模範となるとまで言っている。
我々は、親に面倒を見てもらっている学生やニートを「半人前」と言い、見下す傾向が強いが、それと真逆なわけだ。

『自己信頼』の原文(英語。エマーソンの文章は非常に難しい)を見ると、ご飯を食べられることが当たり前だと思っている少年は、“load”と同じようなものだと書かれている。
“load”とは、主、君主、主君といった意味で、大きな権力を持つ者のことだ。
君主は他人の機嫌を取らないし、他人の機嫌を取ろうなんて態度を汚らわしく思うが、少年もそうなのだ。

自分で食えるようになって初めて一人前、世の中の苦労を知らないうちは子供・・・というのが大人のポリシーであると言って良い。
だが、社会に出ると、我々は他人の顔色に気を使い、特に、偉い人の機嫌を損ねないよう、心にもないことを言うようになる。
エマーソンは、そんな人間を軽蔑するのだ。
一方、load(主君)や少年は、思ったことを勝手気ままに、無頓着に言うのだ。

言うまでもなく、エマーソンが言うことを悪く解釈することは出来る。
邪悪な主君や少年の話ならいくらでも出来るだろう。
だが、邪悪な主君や少年は、単に変な思想を叩き込まれているだけで、その変な思想で変な思考をするから邪悪なのだ。
つまり、思考をしなければ、主君や少年は実に健全であり、さらに、有能なのだ。

そして、大人が経済的なことやその他の心配をする・・・つまり、王様でないからこそ起こる不安もまた、単に思考の産物だ。
これに関して、イエスが言っている。
「何も心配してはならない。神はお前たちに必要なものなどとっくにご存じで、それは必ず与えてくれる」
この「心配するな」を「汝、思い煩うことなかれ」なんて意味が伝わらない訳をしたがる者がいるから困る(笑)。
日常使う普通の言葉で訳せよと言いたい。
心配しなければ、引き寄せが起こり、不足することはない。
丁度、鷹が、空を悠然と飛んでいるだけで、なぜか獲物に遭遇するようなものだ。
鷹は必死に獲物を探したりなどしない。
だから、鷹が飛ぶ様は「鷹揚(おうよう)」と言って、見ている者を勇気付けるのである。

どんな人間が最も理想的だっろうか?
丁度良い例として、プロレスラーだったジャイアント馬場さんの親友の超大物レスラーで大プロモーターだったドリー・ファンク・ジュニアがいる。
馬場さんの著書『16文が行く』から引用する。

これほどボケーとした人間はめったにいるもんじゃない。時間の観念はゼロ。物忘れの激しいことは想像以上で、試合用具を忘れて会場入りすることなどザラだ。移動のための集合時間にピタッと来たためしはなく、いつも最後にノンビリやってくる。
試合後に会場を出るのも最後。着替えに人の何十倍も時間がかかるのだ。時には“こいつはシンから阿呆なのか”と思いたくなる。広大なテキサスの大地で育つと、人間はこうもおうようになってしまうのかもしれない。

私は昔、ここを読んだ時、「これだ!」と思い、この「おうよう(鷹揚)」という言葉が大好きになった。
鷹揚の辞書の意味は、

(鷹が大空を飛ぶように)ゆったりとして威厳があること。 こせこせしないこと。 また、そのさま。

である。
まさにこれこそ、主君の態度、生活の心配のない少年の態度の頂点である。
ドリー・ファンク・ジュニアは大きな少年なのだ。
そういえば、初音ミクさんのお父さん、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長が講演で「僕は人より牛が多い中で育った」と言われていたが、まさに伊藤社長も「鷹揚」を感じさせる人だった。
ドリーがテキサスなら、伊藤社長は北海道の大地で育ったのである。

気まま
AIアート476
「気まま」
Kay


そして、深呼吸をすれば鷹揚になる。
なぜなら、空気はいくら吸っても絶対に不足することはないことを、誰でも絶対的真理として知っているからだ。これを疑っている者はいない。
深呼吸をすればするほど、それを感じるようになり、どんどん鷹揚になっていく。








幼児が一番強い

およそ哲学に関心がない人でも、ニーチェ(独。1844~1900)の名くらいは知っていると思う。
また、エマーソン(米。1803~1882)自体は知らなくても、知識人が人類の知恵者の代表としてエマーソンの名やその言葉を上げるのを見たことがあるかもしれない。
彼らは本当に、世界や人間についてよく知っていたし、普通の人が見えないことについてもよく分かっていた。
関係性のない2人であるが、彼らは共に、人間のある性質を称賛していた。
それは「無頓着」だ。
もっと簡単に言えば「気にしないこと」である。
経済的な不安のない子供が、誰にも媚びへつらわないようなものである。
これは、気まぐれにつながる。何も気にしないので、きまぐれに・・・つまり、思った通りに話し、行動する。

無頓着、気まぐれだと、欲望のままに悪いことをしたり、怠惰になったりすると思う者が多いと思うが、そんなふうに悪くなる人間は、本当は無頓着ではなく、何かに縛られているのである。
ニーチェは言ったものだ。
運命が尊大(威張っていること)にやって来たら、自分はもっと尊大に迎える。
すると、運命は従うのだ。
それが出来るには、本当に無頓着、本当に気まぐれでなくては駄目だ。

日本語的には「こだわりがない」「囚われがない」と言う場合が多いが、無頓着、気まぐれには強さが必要だ。
そして、最も無頓着な存在が幼児である。
幼児は誰にも従わない。周りが幼児に従うのだ。

ニーチェの、そんな幼児のような態度を示す言葉を「放恣(ほうし)」と訳した人もいたが、良いと思う。
放恣とは、勝手気ままで節度がないことだ。

気まぐれな風
AIアート449
「気まぐれな風」
Kay


細かく説明すべきではないと思う。
高貴なことを、言葉で聞いて思考で理解しようとしたら必ず間違うからだ。
要は、普通の人が弱い存在だと思い込んでいる、親の完全な庇護下にある子供や幼児が最強なのである。
反論がある人でも、心の奥では、魂が、それが真理であると言っているのが分かるのである。
関心があれば、エマーソンの『自己信頼』を読むと良いと思う。








誰も高貴な願いなど持っていない

あまりバラしてはならないかもしれないことをバラすと、それほどの大した願いを持っている人などいないということだ。
皆、自分以外の世の中の多くの人が、何か素晴らしい望みを持っていると思い込んでいる。
そりゃ、誰もが、お金が欲しいとか、素敵な彼氏や彼女、あるいは、素晴らしい容姿が欲しいとは思っているだろうが、それだけではなく、人間は、何かこう立派な夢を持っていなければ恥ずかしいと勘違いしているに違いない。
だが、そんな立派な目標を持っている人などいない。

「20世紀最大の詩人」と言われたノーベル賞作家ウィリアム・バトラー・イェイツが亡くなった年(なんと1939年)に書いた『政治(Politics)』という詩の始まりは、
「あの若い(可愛い)娘がそこに立っているのに、政治のことなどどうでもよいわい」
で、最後は、
「なんとかあの娘とやれないものか」
である(もちろん、詩的な表現で言ってはいるが、こういうことだ)。
イェイツ73歳であった。

だが、イェイツほど、聖霊(魂)を求め、精神を極めた人はいなかった。
人間が到達した最高レベルの真理は、イェイツの詩の中に見出される。
何と、イェイツは、今日では「シミュレーション仮設」と呼ばれる、この世界が仕組まれた作り物であることにも気付いていた。
それは、この世界が劇のような・・・特に、日本の能のようなものであると述べている詩や戯曲の中に明確に示されている。
一方で、彼は「不良老人」以外の何物でもなかった。
彼でさえそうであり、人間が心で望むのは、『政治』に書かれていた程度のことである。

山の中
AIアート178
「山の中」
Kay


ところが、イェイツは、時たま、自分が神と一体化することに気付いていた。
それは、アメリカ最大の賢者であった詩人・哲学者のラルフ・ウォルドー・エマーソンが表現した状態に違いないのだ。
それは、
「神の魂が私の魂の中に流れ込み、私の魂が神の魂の中に流れ込む」
ことである。
だが、きっと、イェイツもエマーソンも、具体的にどんな時に、そんなことが起こるのか分からず、悩んでいたのだと思う。
もちろん、彼らは優れた考察を示したが、それは人を救うようなものではなかった。
彼らにも分からなかった、聖霊を得ることが出来るのは、どんな時か?
それは、ただ「思考が消えた時」である。「心が消えた時」と言っても良い。
ただし、意識があり、眠ったり失神していないことは必要だ。
そして、その状態になる方法はいろいろあるが、最上の方法は、20世紀初頭にラマナ・マハルシが提示した「私は誰か?」と自分に問うという、実に簡単なことなのである。
その原理は何度も述べたので、ここでは繰り返さないが、イェイツやエマーソンを読むたびに、その通りであると確信するのである。
だが、放埓(勝手きまま)に流れ、心が重いまま(あまり消えないまま)年を取ると、だんだん猿と変わらないものになり、惨めな最後を迎えるのである。








「私は誰か?」と問うべき壮大なお話

何歳になった人だって、夢の中で、自分が高校生や、あるいは、小学生になっていることがある。
そんな夢の中で、自分は本当はいい大人で、高校生や小学生ではないと分かっている場合もあるが、自分が本当に小学生だと思っている場合もある。
あるいは、自分がお城に住む王子様やお姫様だと思っていることもあるかもしれない。

だが、現実の自分も、これらのような夢を見ているのと全く変わらないのかもしれないのだ。
今、認識している自分は、本当の自分とは似ても似つかない。

小学生になっている夢の中で「私は誰か?」と問うと、現実世界の自分であることを思い出すかというと、そうではない。
「私は誰か?」と問うと、思考は消え、自分が小学生であるという想いがなくなるだけだ。
それは現実世界でも同じで、「私は誰か?」と問うと、現実世界での身分の認識が消え、さらに数多く「私は誰か?」と問うと、だんだんと本当の自分が誰かを思い出す。

エマーソンが好んだお話に、大きな権力も財産もある公爵が、酔っぱらうと自分が公爵であることを忘れ、貧乏な庶民であると思い込むというものがある。
このお話の真意は、我々は今現在、酔っぱらって、自分を人間だと思い込んでいるということだ。

野の花
AIアート44
「野の花」
※ゲーテの詩より
Kay


『法華経』の「長者窮子の譬え」が、これらのようなことを壮大に語ったものだ。
世界一の金持ちの息子が、子供の時に行方が分からなくなったが、その子供は貧しい庶民として50年以上過ごし、自分は貧しくて卑しい人間であると思い込んでいた。
やっと息子を発見した父親は、心がねじけた息子を、自分が父親であると告げないまま、あの手この手で導き、20年以上かけて、息子の心を真っすぐにし、死の直前、息子と主だった者達を枕元に呼び寄せ宣言する。
「これは私の実の息子である。私の全財産をこの息子に譲る」
もちろん、この大金持ちは仏の喩えで、その息子とは我々のことである。
我々は、仏(ブッダ、如来)の正当な後継者で、仏なのであり、キリスト教的に言えばキリストで、父なる神と等しい存在である。

上に挙げた、いわば「記憶喪失状態」の者・・・夢の中で小学生になった自分、酔っぱらって自分を貧しい庶民と思っている公爵、心がねじけ、自分を貧しく卑しい人間であると思っている世界一の大金持ちの息子といった者達は皆、1つの方法で、真の自分を思い出すことが出来る。
それは「私は誰か?」と自分に問うことだ。
1度や2度問うだけでは思い出すことはないだろう。
しかし、たゆまず続ければ、それで必ず思い出す。
それは、自分が正気で、現実の自分こそが自分なのだと「思い込んでいる」我々も同じなのだ。
我々は記憶喪失であり、自分を虫けらのような惨めな存在であると思い込んでいる。
だが、「私は誰か?」と問えばどうなるか、上のお話の中で最も近いのは、『法華経』の「長者窮子の譬え」である。








『老子』第71章を一言で言えば「馬鹿を自覚する」

今回は『老子』第71章である。
この章を一言で言えば「馬鹿を自覚する」である。

自分が馬鹿であることを理解することは、人間の一生のテーマである。
自分が馬鹿であることが理解出来れば、その人は賢者である。

愚か者ほど・・・と言っても良いが、世の中の人間は皆、自分は賢いと思っている。
言い換えれば、自分が賢いとか、頭が良いと思っているのが凡人であり、凡人は愚か者だ。
こう言うと、道徳的な意味に捉えて「その通りである」と言う者は多い。
そんな者もまた馬鹿なのである。

馬鹿とは何であろうか?
それは、記憶喪失であるということだ。
ただし、世間でいう、せいぜいが数十年分の記憶がないことを言うのではない。

接近するUFO
AIアート18
「接近するUFO」
Kay


何度も取り上げるが、エマーソンの公爵と与太者の喩えをもう一度述べる。
酔っぱらって道で寝ている与太者が、公爵の豪壮な屋敷に運ばれ、眠っている間に身体を洗われ、立派な下着と寝巻を着せられ、豪華なベッドに入れられて眠った。
与太者が目を覚ますと、執事がうやうやしく仕えた。
この与太者は、自分が公爵であることを忘れていたのだ。
そして、この与太者とは、我々のことだ。
我々も、自分が本当は誰なのか忘れている。
正確には、忘れさせられたのだ。
自分が誰かを思い出せば、この与太者が、実は公爵であったなどというレベルの話ではない。
真の自分とは、全知全能の無限の魂(=神)なのであるから。

ここまでは、過去の真の聖者が皆言っていたことだ。
しかし、我々がなぜ真実を忘れているのかは、聖者は言わなかったか、言っていても、伝えられてこなかった。
なぜ、我々が真理を知らないのかというと、ある超テクノロジーで作られたマインドコントロール装置のためだ。
しかし、それを気にしても仕方がない。
大切なことは思い出すことだ。
そのために、ラマナ・マハルシが教えたことが「私は誰か?」と自分に問うことである。
それをするためには、自分は自分が誰かを知らないことを知らなければならない。
だから老子は「知らないことを知らないことが病である」と言ったのだ。
この病は、欠点とか迷妄と訳されることが多い。
だが、この病は欠点とか迷妄よりずっと深い。
「知らないことを知っているのが聖人」
「知らないことを知らないのが愚かな凡人」
である。
「私は誰か?」と問う者が聖人である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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