ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

エマーソン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第5章を一言で言うと「自分を頼れ」

前回に続き、今回は『老子』第5章の話をする。
これまでと同じく、『老子』第5章を一言で言うなら、
「自分を頼れ」
である。
自分が神なのだから、自分を頼らないといけない。
他の神を頼ろうとしてはならない。
他の神を頼ると、書かれているように、何をされるか分かったものではない。
他の神と協力するのは良いが、自分が神であることを知らなければならない。

『老子』を解釈する際、学者がやるように、隅々の意味を分かろうと思ってはならない。
知るべきことを知れば良い。
『老子』は、特に、各章の最後の方に、余計な言葉が入っていることがよくあると思う。
誰かが付け加えたのかもしれず、それによって、章全体の意味が眩(くら)まされることがあると思う。
もしかしたら、そんなことをしたのは、悪い宇宙人グループかもしれない。
いや、悪い宇宙人が直接、おかしな加筆をしたと言うのではなく、人間を操っておかしなことをさせたのだろう。それは今でも世界中で行われていることである。

引き寄せでは、金持ちになりたいなら、金持ちのフリをしなければならない。
身口意(行動、言葉、思い)の全てにおいてだ。
ただ、いつも言うが、本当の秘法は、「呼吸」「表情」「ポーズ」の3つで(例えば金持ちの)真似をすれば良い。特に重要なのが呼吸で、実際は呼吸だけで良い。

では、神であるには神のフリをすれば良いのかというと、その通りなのだが、それよりも、
「神でないフリをやめる」
ことが大切だ。
我々は、神でないフリをしているうちに、神であることを忘れた神だ。
その経緯は難しいので省くが、とにかく、そろそろ、神であることを思い出さないといけないだろう。

何度か、このブログで、エマーソンの『自己信頼』に、こんな話が引用されていることを取り上げた。
極めて有力な公爵が、自分が、そんな(力ある)公爵であることを忘れ、貧しい庶民だと思い込んでいた。
忘れたきっかけは何か分からないし、まあ、それが楽しかったのかもしれない。
しかし、自分が公爵であることを本当に忘れてしまったのだから困ったものである。
つまり、公爵が庶民のフリをしているうちに、自分が公爵であることを忘れたのである。
我々が、自分は神であるのに人間のフリをしているうちに、自分が神であることを忘れたのと同じである。
この公爵は、公爵のフリをするよりも、公爵でないフリ、庶民であるフリをやめないといけない。
我々も、神のフリをするよりも、神でないフリ、人間であるフリをやめないといけない。
そのために、自分が本当は誰なのかを思い出すために、「私は誰か?」と問うのである。
心は忘れていても、魂は憶えている。
本当は公爵である者が、「私は誰か?」と問い続ければ、魂が反応し、やがて、自分が公爵であることを思い出す。
これと同じなのだ。
我々は、神でないフリをやめるために「私は誰か?」と問い続ければ、やがて魂が反応し、自分が神であることを思い出すのである。








引き寄せの力に選ばれる者

徳川家康か言ったのだと思うが、
「人が天下を選ぶのではない。天下が人を選ぶのだ」
という言葉をよく憶えている。
ところが、『魔法騎士レイアース』というアニメで、クレフという名の導師(精神的指導者という意味だが、魔法力のあるマスターの意味で使われることもある)が、光、海、風(ふう)という名の14歳の3人の少女にこう言う。
「お前達に魔法を授けようとしたが、魔法の方でお前達を選んだ」
これも、家康の言葉と同じような意味だろう。

よく、引き寄せ関係の書籍、動画に、「こうすれば絶対に引き寄せが出来る」みたいなタイトルで注意を引こうとするものがあるが、中身は大抵、期待を裏切る。
引き寄せも、上と同じなのだ。
「人が引き寄せの力を選ぶのではない。引き寄せの力の方が人を選ぶのだ」
こう考えれば、極めてすっきりし、納得出来ると思う。

何ごとも同じと思える。
人が富を選ぶのではなく、富が人を選ぶのである。
人が大統領の地位を選ぶのではなく、大統領の地位が人を選ぶ。
人が栄光を選ぶのではなく、栄光が人を選ぶのである。

そして、これらは全て、引き寄せの力によって得られるのであるから、引き寄せの力に選ばれる人間でなければならない。
結局、重要なことはこれだけになる。
では、どうすれば、引き寄せの力に選ばれるのだろうか?
「神は取り引きに応じない」と言われるように、「これをしたから引き寄せの力に選ばれる」ということはない。
選ばれる条件は、言葉で言えばいろいろだが、どれも同じ意味である。
「器量が大きい」「無私である」「心が強い」
この中で最も誤解され易いのが「心が強い」だが、上の『魔法騎士レイアース』で言われていたことがこれで、誤解され易いと共に、最も分かり易い。
「心が強い」とは、「エゴをねじ伏せる心の強さがある」ことで、そんな人間のことを「器量が大きい」「無私である」と言うのである。
エゴの声は、たとえばこうである。
「誰も見ていなければ、ちょっとくらい悪いことをしてもいいじゃないか」
「みんなこれくらいのことはしている。俺がやっても責めらるようなことじゃない」
「脅しておけば大丈夫だ」
「捕まらなければやってもいいんだ」
こんな声に従うような者に引き寄せは出来ない。
また、こんな声の誘惑に弱いほど、引き寄せの力が弱いとも言える。
『魔法騎士レイアース』で、最も心が強い少女、光の信条はこうであると思われる。
「約束は必ず守る」
彼女はよく言う。
「約束したんだ。約束は守らなくちゃ駄目だ」

エゴにも良いところがあると言う人もいる。
それはどんなところだろう?
多分、「現実的であることも必要」という意味だ。
たとえば、宮沢賢治の『雨にも負けず』のように、

東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

そんなこと、いちいちやっていたら生きていけない。それが現実だ。
・・・とエゴが言ってくれるのである。
光のような若い少女なら、エゴのこんな声すらねじ伏せようとするかもしれない。
だが、「面倒だからしない」「損だからしない」と言うのがエゴである。
心が強い者は、別に、エゴのそんな言葉に従っているのではない。
この場合、心が強い者がエゴをねじ伏せる想いは、「自分の問題は自分で解決しなければならない」である。
すると、エゴは「手助けくらいはすべき」と言うかもしれない。
しかし、エマーソンは「私は、一切の寄付も断りたい」と述べている。
ドナルド・トランプが個人的にも多額の寄付をするのも、「神が余分に与えてくれた分の一部は還元すべき」と考えているからかもしれないし、エマーソンも言うように、「寄付をした方が面倒でない(エマーソンはそうすることを恥じていると言うが)」からかもしれない。
本当のところは分からないが、エゴによる強迫観念に縛られてのことではない。

稲盛和夫の信念は「無私であればやる。無私でなければやらない」で、これは、『ラーマーヤナ』で、ラーマの宿敵である魔王ラーヴァナが、ラーマに教えたことである。
倒した敵から教えを受ける。
ラーマは、この美しい慣習に従ったのである。
そして、この教えは、心が強い者の心構えである。








異世界移動に馴染む

少し前から、漫画、ライトノベル、アニメ、映画等に、異世界ものが増えて来た。
死後、異世界で人生を再スタートさせたり、死んだわけではないが、異世界に転生したりといったものや、そこまで大きな移動ではなくても、タイムトラベルしたり、微妙に様子の異なる異世界に移動したりと、いろいろである。
少し前と書いたが、私の知る範囲では、このブログでも時々引用した、1967年の筒井康隆さんの『果てしなき多元宇宙』という短編が面白い異世界移動のお話だし、世界には、さらにもっと昔から、異世界もののお話があったはずだ。
しかし、最近、特に増えてきたと思う。
それは、良いことと思う。
異世界移動は、実は、ありふれたことだし、アニメなどは、異世界のことを大袈裟に描いているというより、現在の人類の観念に合わせて、むしろ、控え目に描いていると思うほどだ。
実際には、もっと何でもありである(何らかの制限はあるかもしれないが)。
最新の私のお奨めは、『影の実力者になりたくて』(ライトノベル、漫画、アニメ)だ。

1975年に連載が開始され、2007年と2014年に連載が再開、いまだ、終了はしていない、『悪魔の花嫁』という漫画作品がある。
その中の1つのお話で、主人公である高校生の美奈子が、ギリシャ神話の世界に転生し、自分の前世である美の女神ヴィーナスに意思が乗り移るお話がある。
現在は、ごく普通の女子高生である美奈子が、ヴィーナスとして崇拝され、女神の女王とも言えるヘラすら礼を持って接してくる。
ストーリーの設定もあり、それがリアリティを持って描かれている(『悪魔の花嫁』4巻)。
だが、それに似たことが、我々に起こりえないわけではない。

それに比べれば、我々のちっぽけな頭で考える「良いこと」など、実に他愛もなく実現する。
だから、嫌いでなければ、異世界もののアニメなどを、まずは普通に楽しみ、異世界の観念に馴染むのも良いが、それだけではなく、それを、自分の物語として見なければならない。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれないが、昔から、賢い人達はそう言ってきたのである。
例えば、アメリカ最大の賢者とも言えるラルフ・ウォルドー・エマーソンは、エッセイ『歴史』の中で、「英雄の物語を読む時は、自分の物語として読まなければならない」とはっきり述べている。
また、少し違う話ではあるが、ジョセフ・マーフィーは『ヨブ記』の意味を知りたいなら、かつて、自分がこれを書いた時のことを思い出せば良いのだと述べている(『あなたは不安なく生きられる』より)。

『新約聖書』の、イエスの物語である『福音書』を読む時は、イエスであった自分の話を読んでいるのである。
『悪魔の花嫁』4巻で、美奈子がそうであったように、あなたも今すぐヴィーナスに転生出来るのである。
言われなくても、子供は、物語の登場人物に感情移入し、登場人物になり切っている。
それは空想ではなく、異世界では現実である。
そして、賢い子供は物語の作者になり、それは、単なる作家や劇作家ではなく、世界の創造主である。

だが、個性を磨かず、世間の集合意識に飲み込まれた者には、そんな話は、ただの夢物語である。
良い大学に入れなかったから自分の人生はこの程度と思い、失敗をすれば、自分の人生はもっと悪いものになると思い込み、実際、そうなる。
だが、ラマナ・マハルシは、「自分が罪人だとしても嘆いてはいけない」と、現実に打ちひしがれる態度に意味がないと述べている。

エマーソンは、物語を、自分の物語として捉えるよう言うと同時に、自分を無謀なまでに信頼するように述べている。
それには、個性を磨くことが必要である。
凡庸な人間のまま、自分を信頼することは出来ない。
なぜなら、凡庸な人間は、集団意識に飲み込まれ、集団意識の言いなりになるが、集団意識は決して自分を神として信頼しないからである。








虫も食わない年長者のアドバイス

年長者のアドバイスは役に立つかというと、全く役に立たない。
などと言うと、「全くの間違い」「話にならないほどの暴言」「とんでもない話」といった反応が普通にあると思う。
しかし、やはり、年長者のアドバイスほど役に立たないものはない。
社長はともかく、校長の朝礼での話なんて、害悪以外のなにものでもないと言えば、多少、ピンとくる人もいるだろう。
とはいえ、こう言いたい人がいるだろう。
「社長の訓示は重要だ。会社のポリシーや方向性を全社員に徹底させるべき」
「年少者を導くのは年長者の務め」
「親が子に正しい生き方を示さずしてどうする?」
「私は師から重要な教えを沢山受け、それは確実に役に立っている」
しかし、そんなのは、妄想、あるいは、幻想だ。

「じゃあ、君は、年長者の言うことが役に立ったことがないのか?」
と言うなら、それは沢山あった。
つまり、こういうことなのだ。
年長者に限らないが、ふと口にした言葉が役に立つことはある。
やはり、優れた人物であれば、何の気なく、さりげなく言った言葉が素晴らしく有益であることが多いだろう。
しかし、いかに優れた人物・・・聖人や大科学者や〇〇の神様(経営の神様等)と言われる人物(たとえば松下幸之助)であろうと、アドバイスや訓示として言ったことは、馬鹿馬鹿しいことばかりだ。

逆に言えば、朝礼では下らないことばり言う社長や、もっとつまらないことを言う校長だって、普段は良いことを言うのである。
例えば、社長でありながら、社員食堂で社員と一緒に昼食を摂り、その際は「社長」ではなく、名前で呼んでもらって全く対等に接する人がいるが、その社長も朝礼や年始挨拶みたいなことでは、やっぱり下らないことを言うが(多少賢ければ、それを自覚しているから、話は最大に短くするが)、昼食を食べながらぽろっと言ったことが千金の価値で、言われた社員の人生に優れた影響を及ぼすことがよくある。

だから、優れた人物の、特に専門的なことを主題にしているわけではない講演会など、もう行くだけ無駄と言うか、ロクでもない影響を受けるから、行かない方が絶対に良い。

ところが、一般向け講演会でも良いことを言う人が稀にいる。
講演会でも、昼食の時の気楽な会話のような話が出来る人だ。
昼食の時や、休憩時、あるいは、遊びに行っている時の話は、まあ、口から出まかせだ。
そんな時に、アドバイス的、訓示的な話をしたがる馬鹿とは距離を置いた方が良いし、まあ、そんな者は友達がいないだろう(笑)。
人間は、口から出まかせ・・・出るにまかせて喋る時、その人の内面を表す言葉が出る。
だから、下らない人間は、リラックスするほど下らないことを言う(笑)。
とはいえ、普通の人でも、何も考えずにふと言った言葉は良いことが多いし、そうでないような人間が親になってはならない。
まあ、教師もそうであるが、教師など、端から相手にしてはならない。
エマーソンも言っていた。
「今思いついたことを言え」
と。
そして、
「一貫性など気にするな」
とも。

私は、講演会の前に政木和三さんと昼食を摂りながらお話をしたことが何度かあったが、政木さんは、講演会でも、口から出まかせで良いことを言うし、本にも良いことを書かれている。
しかし、本当に良いことを言われたのは、やっぱり、昼食などで、気楽に冗談を言っている間のことで、その後の講演会のお話は、昼食時の短いよもやま話より数段落ちるのである。

ラマナ・マハルシは、講演など全くやらなかったし、明示的にアドバイスを与えることもなかった。
彼の本に書かれていることは、彼の言葉を書き写す役目を買って出た人物が長年に渡って記録したもので、まさに、ふとした話ばかりである。
だが、役に立つかどうかは、読む人次第である。








苦しまない

結局のところ、自分は完璧であると分からない限り、カラクリ人形のように生きることになるのだと思う。
だが、「私は完璧」ということほど、受け入れられないこともない。
けれども、同時に、心の奥から「それが正しい」という声が聴こえるのである。
一切の説明なしに言えば、いかなる場合でも、「私は完璧である」と心で言うべきである。
いかなる場合でもと言うからには、条件一切なしである。
「腕立て伏せを毎日欠かさずやっているから完璧」ではない。
やれても、やれなくても完璧なのである。
毎日やれば完璧という条件なら、やらない日があったら完璧でないことになる。
そうではないのである。
そうは言っても、「あれほど毎日やると決めたのに、それが出来ない俺は駄目なやつだ」と思うかもしれない。
そして、「そう思ってはいけない。出来ない日があっても完璧だと思わねばならない」でもないのである。
「俺は駄目なやつだ」とがっかりしている自分も完璧なのである。

不動心という、何にも揺るがない強い心が欲しいと思う者は多い。
それで、掟や規律を決めて自制したり、いろいろな修行をしたりして、心を磨く。
しかし、どこまで行っても、自分の心が不動心とは程遠い、つまらないことでグラグラする弱いものだと思い知らされることになる。
『方丈記』という鎌倉時代の歌人・随筆家である鴨長明が書いた随筆がある。
長明は、貴族社会での出世争いに嫌気が差し、山に小さな小屋を作り、そこで自然のままの生活をして、穢れを祓うことで素晴らしい人間になろうとした。
月日が経ち、長明は、いよいよ自分も穢れがなくなり、聖人のようになれたと思っていたが、ある時、自分は以前と全く変わらない、煩悩に穢れた俗物であることを悟って愕然とする。
長明もまた、不動心を求めたのだろう。
だが、やり方が完全に間違っている。
不動心を求めること自体は、それはそれで趣味として完璧である。
趣味だから、別にしなくても、つまり、不動心を求めなくても良いのだが(笑)。
しかし、小さなことで心を乱しても、心を乱した私は完璧なのである。

女の子に限らないが、特に女の子は、中学生とか高校生になっても、母親に酷いことを言ったことを悔やみ、心が苦しむことがある。
しかし、母親に酷いことを言った自分も完璧なのである。
「母親に、あんなことを言うお前は醜い。天使と程遠いじゃないか?」と言うのはエゴ(自我)である。
一見、エゴは正しいことを言っているように感じるが、エゴはいつも、単に、「私は駄目」と言うだけで、何も解決しない。
つまり、エゴはただ、自分を貶めたい・・・つまり、「私は駄目」「私は安い」「私は低レベル」「私は醜い」「私は優れた人間の仲間ではない」と認定したいだけだ。
「母親にあんなことを言った私も完璧」と宣言すると、エゴは騒ぐ。
「お母さんが可哀そうじゃないか?そう思わないのか?でなきゃ、お前は人間じゃない」とかワン・パターンなことを言ってね。
しかし、反論する必要はない。
ただ、「だが私は完璧だ」と静かに、しかし、はっきりと宣言するのである。
やがてエゴは黙るようになる。
それだけが、言う必要がないことを言わなくなる唯一の方法なのである。

アニメなどで、エロ本を多数所持する男の子を明るく描く場面がよくある。
「そんなのあって当然」と言いたいのだろう。
だが、それは誤魔化しだ。
高校生はともかく、二十歳をとおに過ぎても、エロ本(あるいはDVD等)が欲しくて仕方がない人がいる。
ある、元教師という40代の男が病死した部屋には、山のようなエロ本、エロDVDがあったという。
なぜそうなったのかというと、やはり、「こんなもの欲しがる俺は駄目なやつ」というエゴの声を受け入れたのである。
そうではなく、エロ本が欲しい俺は完璧だと宣言しなくてはならない。
そうすれば、やがて、エロ本、エロDVDに興味がなくなる。もちろん、エロがきらいなわけではないが、そんな低レベルなものを好まなくなる。
かと言って、「エロ本やエロDVDに興味がなくならない俺は駄目」ではない。
どこまで行っても、「私は完璧」である。

聖書には、イエスは、「神が完璧であるように、お前達も完璧であれ」と言ったと書かれている。
しかし、誤訳というのではないが、本当は、イエスの時代の言葉には、現在形しかなかったらしい。
だから、この言葉は、「神が完璧であるように、お前達も完璧である」が正しい。
エマーソンは、「自分を信じろ、無謀なまでに信じろ、根拠なく信じろ」と力説した。
これは、イエスの言う「お前達は神のごとく完璧」と同じなのだ。
ただ、エマーソンは、簡単なやり方を提示しなかった。
だから、あなたは、何があっても、何をしようとも、何を考えようと、「私は完璧だ」と堂々宣言する・・・早い話が、心の中で静かに落ち着いて言うべきである。
すると・・・
この後を誰も言わないのだが、お金がザックザクでモテモテになるのである。
なぜかと言うと、当たり前過ぎて説明する気にならないし、本当は、説明は難しいのだ。
だから、やってみるのが一番である。
やるかやらないかだけである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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