ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

エマーソン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第71章を一言で言えば「馬鹿を自覚する」

今回は『老子』第71章である。
この章を一言で言えば「馬鹿を自覚する」である。

自分が馬鹿であることを理解することは、人間の一生のテーマである。
自分が馬鹿であることが理解出来れば、その人は賢者である。

愚か者ほど・・・と言っても良いが、世の中の人間は皆、自分は賢いと思っている。
言い換えれば、自分が賢いとか、頭が良いと思っているのが凡人であり、凡人は愚か者だ。
こう言うと、道徳的な意味に捉えて「その通りである」と言う者は多い。
そんな者もまた馬鹿なのである。

馬鹿とは何であろうか?
それは、記憶喪失であるということだ。
ただし、世間でいう、せいぜいが数十年分の記憶がないことを言うのではない。

接近するUFO
AIアート18
「接近するUFO」
Kay


何度も取り上げるが、エマーソンの公爵と与太者の喩えをもう一度述べる。
酔っぱらって道で寝ている与太者が、公爵の豪壮な屋敷に運ばれ、眠っている間に身体を洗われ、立派な下着と寝巻を着せられ、豪華なベッドに入れられて眠った。
与太者が目を覚ますと、執事がうやうやしく仕えた。
この与太者は、自分が公爵であることを忘れていたのだ。
そして、この与太者とは、我々のことだ。
我々も、自分が本当は誰なのか忘れている。
正確には、忘れさせられたのだ。
自分が誰かを思い出せば、この与太者が、実は公爵であったなどというレベルの話ではない。
真の自分とは、全知全能の無限の魂(=神)なのであるから。

ここまでは、過去の真の聖者が皆言っていたことだ。
しかし、我々がなぜ真実を忘れているのかは、聖者は言わなかったか、言っていても、伝えられてこなかった。
なぜ、我々が真理を知らないのかというと、ある超テクノロジーで作られたマインドコントロール装置のためだ。
しかし、それを気にしても仕方がない。
大切なことは思い出すことだ。
そのために、ラマナ・マハルシが教えたことが「私は誰か?」と自分に問うことである。
それをするためには、自分は自分が誰かを知らないことを知らなければならない。
だから老子は「知らないことを知らないことが病である」と言ったのだ。
この病は、欠点とか迷妄と訳されることが多い。
だが、この病は欠点とか迷妄よりずっと深い。
「知らないことを知っているのが聖人」
「知らないことを知らないのが愚かな凡人」
である。
「私は誰か?」と問う者が聖人である。








『老子』第61章を一言で言えば「大物ほどへりくだる」

今回は『老子』第61章である。
この章を一言で言えば「大物ほどへりくだる」である。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という、作者不明の有名な俳句がある。
道徳的な意味に取られ、おおよそ誰でも肯定する句であるが、実際は、偉くなるほど態度が大きくなるものである。
また、偉い者だけでなく、偉くない者も、実際は、へりくだれば軽んじられて損をするだけだと思っていて、なおさら、へりくだろうとしないものである。
それで、相手を見て態度を変えるという浅ましいことをやることになる。
それが凡人というものだ。

老子は、この章で、大物(大国)と小物(小国)が、共にへりくだり合えば天下は平和であるという、ごく平凡なことを言うが、加えて、大物が先にへりくだるべきと言っている。
とはいえ、その真意は、「実際の大物はへりくだっている方」「へりくだっている方が相手を支配する」である。
エマーソンだって、「へりくだっている者に対しては、私だって、その者の周りを回るしかなくなる」と、その絶大な威力を認めている。
もし、そう思えないとしたら、「へりくだる」のではなく「へつらう」ことしか知らないのである。
つまり、表向きはへりくだっても、心は傲慢なままなのだ。

惑星都市
AIアート8
「惑星都市」
Kay


だが、事実を言えば、人間の自我がへりくだることは決してない。
つまり、そもそもが、人間はへりくだらないように出来ている。
なら、無理にへりくだることはない。精神分裂になるからね。
だが、へりくだらないと強くなれない。
ではどうすれば良いかというと、自我の土台である心を消す・・・つまり、思考を消せば良い。
そのためには、いつも言う通り「私は誰か?」と自分に問えば良い。
すると、思考は消え、魂が現れるが、魂の性質は水のように低いところに流れるものなので、自然にへりくだり、あらゆるものを従わせるのである。
なぜそうなるかは、もう何度も述べた通り、「私は誰か?」と問うことで、真の自分が、全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出すからである。最初は徐々に思い出すが、ある時期、急に、それを当たり前に感じる。つまり、解脱するのである。
それも、単に「私は誰か?」と自分に問うだけでである。








『老子』第24章を一言で言えば「何も要らない」

今回は『老子』第24章だ。
この章を一言で言えば「何も要らない」だ。

昔、『フルーツバスケット』という漫画で、こんな話をする可愛い高校1年生男子がいた。
ある優しい人がいて、欲しいと言われたら、相手が誰であっても、自分のものであれば、何でも即座にあげた。
それで、最後は、自分の手足や目玉も全部上げて、頭だけになったという話だ。
この話し手の男子高校生は、その優しい人を褒めたが、その優しい人は、ただの馬鹿である。
『老子』第24章を一言で言えば「何も要らない」だと述べたが、それは「不要なものは何も要らない」という意味で、必要なものは持っていなければならない。
なぜなら、必要なものは、魂(=神)が与えたものだからだ。
そして、イエスも言ったのだ。
「父(神)は、お前達が必要なものなど、とっくにご存じで、それは必ず与えられる」
とね。

グリム童話の中に『星の銀貨』という、元のお話は数行という短いものがあったが、グリム兄弟は、かなり加筆した。
それで、こんな感じの話になった。
ある、貧しいが信仰深い女の子がいて、やはり、乞われると、何でもすぐに与えた。
それで、夜になる頃には下着だけになってしまったが、それも欲しいと言われる。
女の子は、「夜だから見られることはない」と、下着も与え、丸裸になる。
やはり、この女の子もやり過ぎだが、このやり過ぎの部分はグリム兄弟が書き加えた馬鹿話だ。
それを真に受けてはいけない。ものには限度がある。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングは、援助を乞われたら、必ず全財産を与えたと言う。
彼の場合はどうかというと、彼がそれをするのは、相手が本当に困っていた場合だけであったし、彼は、すぐにまた得られることをよく知っていたので問題はないのである。

まず、嫌々与える必要はない。
それで言えば、『星の銀貨』の女の子も、馬鹿ではあったが、自分が楽しいのであれば、何をどれだけ与えても別に構わない。
だから、下着をあげた後、神様が大量の銀貨と、新しい服をくれたのである。
『フルーツバスケット』の方の、あの優しい人も、頭だけになった後、すぐに復活したかもしれないが、やはり、ものには限度がある。
ましてや、したくない寄付はしなくて良い。
もちろん、本当にしたければすれば良いが。
とはいえ、あのエマーソンだって、「いつか断ろう」と思いつつ、寄付をしていた。
だが、本来は寄付は不要だとエマーソンは言う。
『フルーツバスケット』のあの優しい人も、『星の銀貨』の女の子も、本来は与える必要はなかった。
なぜなら、人は誰でも、神のようなものである全知全能の魂なのであり、下手にものを与えたら、ますます、それを思い出せなくなるからだ。
とはいえ、不幸にも、本当の自分を思い出すにはあまりにも無知蒙昧な場合は、とりあえず助けるのも良いが、好ましくない場合も多いのである。
まあ、こう言うと、世界に沢山いる、明日の命も知れない貧困国の困窮した人々の話をしたがる人がいるが、まずは自分を救えば、それらの人々を救うことも出来るかもしれない。
しかし、今の我々が何をしても同じだ。

だから、まずは、自分が本当の自分に戻らなければならない。
そのためには、失われた記憶を取り戻さなければならない。
そのために、出来るだけ多く「私は誰か?」と自分に問うのである。








『老子』第22章を一言で言えば、「下がれば上がる」

今回は、『老子』第22章である。
この章を一言で言えば、「下がれば上がる」である。
「下がれば上がる」は、『老子』自体では「曲則全」であるが、日本でそんな言葉は使わない。

「下がれば上がる」が宇宙の万能法則である。
イエスが「偉くなりたいなら、使用人のようであれ」と言ったようにだが、ほとんどの人は、この意味を間違える。
これは「自我である私が引っ込めば、神である魂が出て来る」という意味だ。

では、私が引っ込むにはどうすればいいかというと、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
そうすることにより、意識は心の奥深くに下がっていき、そうすれば、神である輝く魂が上がって来る。
これ自体は、ラマナ・マハルシも言っていたが、ちょっとした知識が必要なのである。
その知識とは、
「自分は記憶喪失であり、自分が誰か忘れていること」
「本当の自分は神であり、全知全能の無限者であること」
である。
これらを憶えている者が「私は誰か?」と自分に問うことで、最も早く自分が神であることを思い出すのである。
エマーソンが引用したように、記憶喪失で自分が貧しいロクデナシだと思い込んでいる者が、本当の自分が強大な力を持つ高貴な公爵であることを思い出すだけで、ただちに、そのような公爵になるのと同じである。








『老子』第5章を一言で言うと「自分を頼れ」

前回に続き、今回は『老子』第5章の話をする。
これまでと同じく、『老子』第5章を一言で言うなら、
「自分を頼れ」
である。
自分が神なのだから、自分を頼らないといけない。
他の神を頼ろうとしてはならない。
他の神を頼ると、書かれているように、何をされるか分かったものではない。
他の神と協力するのは良いが、自分が神であることを知らなければならない。

『老子』を解釈する際、学者がやるように、隅々の意味を分かろうと思ってはならない。
知るべきことを知れば良い。
『老子』は、特に、各章の最後の方に、余計な言葉が入っていることがよくあると思う。
誰かが付け加えたのかもしれず、それによって、章全体の意味が眩(くら)まされることがあると思う。
もしかしたら、そんなことをしたのは、悪い宇宙人グループかもしれない。
いや、悪い宇宙人が直接、おかしな加筆をしたと言うのではなく、人間を操っておかしなことをさせたのだろう。それは今でも世界中で行われていることである。

引き寄せでは、金持ちになりたいなら、金持ちのフリをしなければならない。
身口意(行動、言葉、思い)の全てにおいてだ。
ただ、いつも言うが、本当の秘法は、「呼吸」「表情」「ポーズ」の3つで(例えば金持ちの)真似をすれば良い。特に重要なのが呼吸で、実際は呼吸だけで良い。

では、神であるには神のフリをすれば良いのかというと、その通りなのだが、それよりも、
「神でないフリをやめる」
ことが大切だ。
我々は、神でないフリをしているうちに、神であることを忘れた神だ。
その経緯は難しいので省くが、とにかく、そろそろ、神であることを思い出さないといけないだろう。

何度か、このブログで、エマーソンの『自己信頼』に、こんな話が引用されていることを取り上げた。
極めて有力な公爵が、自分が、そんな(力ある)公爵であることを忘れ、貧しい庶民だと思い込んでいた。
忘れたきっかけは何か分からないし、まあ、それが楽しかったのかもしれない。
しかし、自分が公爵であることを本当に忘れてしまったのだから困ったものである。
つまり、公爵が庶民のフリをしているうちに、自分が公爵であることを忘れたのである。
我々が、自分は神であるのに人間のフリをしているうちに、自分が神であることを忘れたのと同じである。
この公爵は、公爵のフリをするよりも、公爵でないフリ、庶民であるフリをやめないといけない。
我々も、神のフリをするよりも、神でないフリ、人間であるフリをやめないといけない。
そのために、自分が本当は誰なのかを思い出すために、「私は誰か?」と問うのである。
心は忘れていても、魂は憶えている。
本当は公爵である者が、「私は誰か?」と問い続ければ、魂が反応し、やがて、自分が公爵であることを思い出す。
これと同じなのだ。
我々は、神でないフリをやめるために「私は誰か?」と問い続ければ、やがて魂が反応し、自分が神であることを思い出すのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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