ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

エマーソン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

誰も高貴な願いなど持っていない

あまりバラしてはならないかもしれないことをバラすと、それほどの大した願いを持っている人などいないということだ。
皆、自分以外の世の中の多くの人が、何か素晴らしい望みを持っていると思い込んでいる。
そりゃ、誰もが、お金が欲しいとか、素敵な彼氏や彼女、あるいは、素晴らしい容姿が欲しいとは思っているだろうが、それだけではなく、人間は、何かこう立派な夢を持っていなければ恥ずかしいと勘違いしているに違いない。
だが、そんな立派な目標を持っている人などいない。

「20世紀最大の詩人」と言われたノーベル賞作家ウィリアム・バトラー・イェイツが亡くなった年(なんと1939年)に書いた『政治(Politics)』という詩の始まりは、
「あの若い(可愛い)娘がそこに立っているのに、政治のことなどどうでもよいわい」
で、最後は、
「なんとかあの娘とやれないものか」
である(もちろん、詩的な表現で言ってはいるが、こういうことだ)。
イェイツ73歳であった。

だが、イェイツほど、聖霊(魂)を求め、精神を極めた人はいなかった。
人間が到達した最高レベルの真理は、イェイツの詩の中に見出される。
何と、イェイツは、今日では「シミュレーション仮設」と呼ばれる、この世界が仕組まれた作り物であることにも気付いていた。
それは、この世界が劇のような・・・特に、日本の能のようなものであると述べている詩や戯曲の中に明確に示されている。
一方で、彼は「不良老人」以外の何物でもなかった。
彼でさえそうであり、人間が心で望むのは、『政治』に書かれていた程度のことである。

山の中
AIアート178
「山の中」
Kay


ところが、イェイツは、時たま、自分が神と一体化することに気付いていた。
それは、アメリカ最大の賢者であった詩人・哲学者のラルフ・ウォルドー・エマーソンが表現した状態に違いないのだ。
それは、
「神の魂が私の魂の中に流れ込み、私の魂が神の魂の中に流れ込む」
ことである。
だが、きっと、イェイツもエマーソンも、具体的にどんな時に、そんなことが起こるのか分からず、悩んでいたのだと思う。
もちろん、彼らは優れた考察を示したが、それは人を救うようなものではなかった。
彼らにも分からなかった、聖霊を得ることが出来るのは、どんな時か?
それは、ただ「思考が消えた時」である。「心が消えた時」と言っても良い。
ただし、意識があり、眠ったり失神していないことは必要だ。
そして、その状態になる方法はいろいろあるが、最上の方法は、20世紀初頭にラマナ・マハルシが提示した「私は誰か?」と自分に問うという、実に簡単なことなのである。
その原理は何度も述べたので、ここでは繰り返さないが、イェイツやエマーソンを読むたびに、その通りであると確信するのである。
だが、放埓(勝手きまま)に流れ、心が重いまま(あまり消えないまま)年を取ると、だんだん猿と変わらないものになり、惨めな最後を迎えるのである。








「私は誰か?」と問うべき壮大なお話

何歳になった人だって、夢の中で、自分が高校生や、あるいは、小学生になっていることがある。
そんな夢の中で、自分は本当はいい大人で、高校生や小学生ではないと分かっている場合もあるが、自分が本当に小学生だと思っている場合もある。
あるいは、自分がお城に住む王子様やお姫様だと思っていることもあるかもしれない。

だが、現実の自分も、これらのような夢を見ているのと全く変わらないのかもしれないのだ。
今、認識している自分は、本当の自分とは似ても似つかない。

小学生になっている夢の中で「私は誰か?」と問うと、現実世界の自分であることを思い出すかというと、そうではない。
「私は誰か?」と問うと、思考は消え、自分が小学生であるという想いがなくなるだけだ。
それは現実世界でも同じで、「私は誰か?」と問うと、現実世界での身分の認識が消え、さらに数多く「私は誰か?」と問うと、だんだんと本当の自分が誰かを思い出す。

エマーソンが好んだお話に、大きな権力も財産もある公爵が、酔っぱらうと自分が公爵であることを忘れ、貧乏な庶民であると思い込むというものがある。
このお話の真意は、我々は今現在、酔っぱらって、自分を人間だと思い込んでいるということだ。

野の花
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「野の花」
※ゲーテの詩より
Kay


『法華経』の「長者窮子の譬え」が、これらのようなことを壮大に語ったものだ。
世界一の金持ちの息子が、子供の時に行方が分からなくなったが、その子供は貧しい庶民として50年以上過ごし、自分は貧しくて卑しい人間であると思い込んでいた。
やっと息子を発見した父親は、心がねじけた息子を、自分が父親であると告げないまま、あの手この手で導き、20年以上かけて、息子の心を真っすぐにし、死の直前、息子と主だった者達を枕元に呼び寄せ宣言する。
「これは私の実の息子である。私の全財産をこの息子に譲る」
もちろん、この大金持ちは仏の喩えで、その息子とは我々のことである。
我々は、仏(ブッダ、如来)の正当な後継者で、仏なのであり、キリスト教的に言えばキリストで、父なる神と等しい存在である。

上に挙げた、いわば「記憶喪失状態」の者・・・夢の中で小学生になった自分、酔っぱらって自分を貧しい庶民と思っている公爵、心がねじけ、自分を貧しく卑しい人間であると思っている世界一の大金持ちの息子といった者達は皆、1つの方法で、真の自分を思い出すことが出来る。
それは「私は誰か?」と自分に問うことだ。
1度や2度問うだけでは思い出すことはないだろう。
しかし、たゆまず続ければ、それで必ず思い出す。
それは、自分が正気で、現実の自分こそが自分なのだと「思い込んでいる」我々も同じなのだ。
我々は記憶喪失であり、自分を虫けらのような惨めな存在であると思い込んでいる。
だが、「私は誰か?」と問えばどうなるか、上のお話の中で最も近いのは、『法華経』の「長者窮子の譬え」である。








『老子』第71章を一言で言えば「馬鹿を自覚する」

今回は『老子』第71章である。
この章を一言で言えば「馬鹿を自覚する」である。

自分が馬鹿であることを理解することは、人間の一生のテーマである。
自分が馬鹿であることが理解出来れば、その人は賢者である。

愚か者ほど・・・と言っても良いが、世の中の人間は皆、自分は賢いと思っている。
言い換えれば、自分が賢いとか、頭が良いと思っているのが凡人であり、凡人は愚か者だ。
こう言うと、道徳的な意味に捉えて「その通りである」と言う者は多い。
そんな者もまた馬鹿なのである。

馬鹿とは何であろうか?
それは、記憶喪失であるということだ。
ただし、世間でいう、せいぜいが数十年分の記憶がないことを言うのではない。

接近するUFO
AIアート18
「接近するUFO」
Kay


何度も取り上げるが、エマーソンの公爵と与太者の喩えをもう一度述べる。
酔っぱらって道で寝ている与太者が、公爵の豪壮な屋敷に運ばれ、眠っている間に身体を洗われ、立派な下着と寝巻を着せられ、豪華なベッドに入れられて眠った。
与太者が目を覚ますと、執事がうやうやしく仕えた。
この与太者は、自分が公爵であることを忘れていたのだ。
そして、この与太者とは、我々のことだ。
我々も、自分が本当は誰なのか忘れている。
正確には、忘れさせられたのだ。
自分が誰かを思い出せば、この与太者が、実は公爵であったなどというレベルの話ではない。
真の自分とは、全知全能の無限の魂(=神)なのであるから。

ここまでは、過去の真の聖者が皆言っていたことだ。
しかし、我々がなぜ真実を忘れているのかは、聖者は言わなかったか、言っていても、伝えられてこなかった。
なぜ、我々が真理を知らないのかというと、ある超テクノロジーで作られたマインドコントロール装置のためだ。
しかし、それを気にしても仕方がない。
大切なことは思い出すことだ。
そのために、ラマナ・マハルシが教えたことが「私は誰か?」と自分に問うことである。
それをするためには、自分は自分が誰かを知らないことを知らなければならない。
だから老子は「知らないことを知らないことが病である」と言ったのだ。
この病は、欠点とか迷妄と訳されることが多い。
だが、この病は欠点とか迷妄よりずっと深い。
「知らないことを知っているのが聖人」
「知らないことを知らないのが愚かな凡人」
である。
「私は誰か?」と問う者が聖人である。








『老子』第61章を一言で言えば「大物ほどへりくだる」

今回は『老子』第61章である。
この章を一言で言えば「大物ほどへりくだる」である。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という、作者不明の有名な俳句がある。
道徳的な意味に取られ、おおよそ誰でも肯定する句であるが、実際は、偉くなるほど態度が大きくなるものである。
また、偉い者だけでなく、偉くない者も、実際は、へりくだれば軽んじられて損をするだけだと思っていて、なおさら、へりくだろうとしないものである。
それで、相手を見て態度を変えるという浅ましいことをやることになる。
それが凡人というものだ。

老子は、この章で、大物(大国)と小物(小国)が、共にへりくだり合えば天下は平和であるという、ごく平凡なことを言うが、加えて、大物が先にへりくだるべきと言っている。
とはいえ、その真意は、「実際の大物はへりくだっている方」「へりくだっている方が相手を支配する」である。
エマーソンだって、「へりくだっている者に対しては、私だって、その者の周りを回るしかなくなる」と、その絶大な威力を認めている。
もし、そう思えないとしたら、「へりくだる」のではなく「へつらう」ことしか知らないのである。
つまり、表向きはへりくだっても、心は傲慢なままなのだ。

惑星都市
AIアート8
「惑星都市」
Kay


だが、事実を言えば、人間の自我がへりくだることは決してない。
つまり、そもそもが、人間はへりくだらないように出来ている。
なら、無理にへりくだることはない。精神分裂になるからね。
だが、へりくだらないと強くなれない。
ではどうすれば良いかというと、自我の土台である心を消す・・・つまり、思考を消せば良い。
そのためには、いつも言う通り「私は誰か?」と自分に問えば良い。
すると、思考は消え、魂が現れるが、魂の性質は水のように低いところに流れるものなので、自然にへりくだり、あらゆるものを従わせるのである。
なぜそうなるかは、もう何度も述べた通り、「私は誰か?」と問うことで、真の自分が、全知全能の無限の魂(=神)であることを思い出すからである。最初は徐々に思い出すが、ある時期、急に、それを当たり前に感じる。つまり、解脱するのである。
それも、単に「私は誰か?」と自分に問うだけでである。








『老子』第24章を一言で言えば「何も要らない」

今回は『老子』第24章だ。
この章を一言で言えば「何も要らない」だ。

昔、『フルーツバスケット』という漫画で、こんな話をする可愛い高校1年生男子がいた。
ある優しい人がいて、欲しいと言われたら、相手が誰であっても、自分のものであれば、何でも即座にあげた。
それで、最後は、自分の手足や目玉も全部上げて、頭だけになったという話だ。
この話し手の男子高校生は、その優しい人を褒めたが、その優しい人は、ただの馬鹿である。
『老子』第24章を一言で言えば「何も要らない」だと述べたが、それは「不要なものは何も要らない」という意味で、必要なものは持っていなければならない。
なぜなら、必要なものは、魂(=神)が与えたものだからだ。
そして、イエスも言ったのだ。
「父(神)は、お前達が必要なものなど、とっくにご存じで、それは必ず与えられる」
とね。

グリム童話の中に『星の銀貨』という、元のお話は数行という短いものがあったが、グリム兄弟は、かなり加筆した。
それで、こんな感じの話になった。
ある、貧しいが信仰深い女の子がいて、やはり、乞われると、何でもすぐに与えた。
それで、夜になる頃には下着だけになってしまったが、それも欲しいと言われる。
女の子は、「夜だから見られることはない」と、下着も与え、丸裸になる。
やはり、この女の子もやり過ぎだが、このやり過ぎの部分はグリム兄弟が書き加えた馬鹿話だ。
それを真に受けてはいけない。ものには限度がある。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード.T.スポールディングは、援助を乞われたら、必ず全財産を与えたと言う。
彼の場合はどうかというと、彼がそれをするのは、相手が本当に困っていた場合だけであったし、彼は、すぐにまた得られることをよく知っていたので問題はないのである。

まず、嫌々与える必要はない。
それで言えば、『星の銀貨』の女の子も、馬鹿ではあったが、自分が楽しいのであれば、何をどれだけ与えても別に構わない。
だから、下着をあげた後、神様が大量の銀貨と、新しい服をくれたのである。
『フルーツバスケット』の方の、あの優しい人も、頭だけになった後、すぐに復活したかもしれないが、やはり、ものには限度がある。
ましてや、したくない寄付はしなくて良い。
もちろん、本当にしたければすれば良いが。
とはいえ、あのエマーソンだって、「いつか断ろう」と思いつつ、寄付をしていた。
だが、本来は寄付は不要だとエマーソンは言う。
『フルーツバスケット』のあの優しい人も、『星の銀貨』の女の子も、本来は与える必要はなかった。
なぜなら、人は誰でも、神のようなものである全知全能の魂なのであり、下手にものを与えたら、ますます、それを思い出せなくなるからだ。
とはいえ、不幸にも、本当の自分を思い出すにはあまりにも無知蒙昧な場合は、とりあえず助けるのも良いが、好ましくない場合も多いのである。
まあ、こう言うと、世界に沢山いる、明日の命も知れない貧困国の困窮した人々の話をしたがる人がいるが、まずは自分を救えば、それらの人々を救うことも出来るかもしれない。
しかし、今の我々が何をしても同じだ。

だから、まずは、自分が本当の自分に戻らなければならない。
そのためには、失われた記憶を取り戻さなければならない。
そのために、出来るだけ多く「私は誰か?」と自分に問うのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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