あまりバラしてはならないかもしれないことをバラすと、それほどの大した願いを持っている人などいないということだ。
皆、自分以外の世の中の多くの人が、何か素晴らしい望みを持っていると思い込んでいる。
そりゃ、誰もが、お金が欲しいとか、素敵な彼氏や彼女、あるいは、素晴らしい容姿が欲しいとは思っているだろうが、それだけではなく、人間は、何かこう立派な夢を持っていなければ恥ずかしいと勘違いしているに違いない。
だが、そんな立派な目標を持っている人などいない。
「20世紀最大の詩人」と言われたノーベル賞作家ウィリアム・バトラー・イェイツが亡くなった年(なんと1939年)に書いた『政治(Politics)』という詩の始まりは、
「あの若い(可愛い)娘がそこに立っているのに、政治のことなどどうでもよいわい」
で、最後は、
「なんとかあの娘とやれないものか」
である(もちろん、詩的な表現で言ってはいるが、こういうことだ)。
イェイツ73歳であった。
だが、イェイツほど、聖霊(魂)を求め、精神を極めた人はいなかった。
人間が到達した最高レベルの真理は、イェイツの詩の中に見出される。
何と、イェイツは、今日では「シミュレーション仮設」と呼ばれる、この世界が仕組まれた作り物であることにも気付いていた。
それは、この世界が劇のような・・・特に、日本の能のようなものであると述べている詩や戯曲の中に明確に示されている。
一方で、彼は「不良老人」以外の何物でもなかった。
彼でさえそうであり、人間が心で望むのは、『政治』に書かれていた程度のことである。

AIアート178
「山の中」
Kay
ところが、イェイツは、時たま、自分が神と一体化することに気付いていた。
それは、アメリカ最大の賢者であった詩人・哲学者のラルフ・ウォルドー・エマーソンが表現した状態に違いないのだ。
それは、
「神の魂が私の魂の中に流れ込み、私の魂が神の魂の中に流れ込む」
ことである。
だが、きっと、イェイツもエマーソンも、具体的にどんな時に、そんなことが起こるのか分からず、悩んでいたのだと思う。
もちろん、彼らは優れた考察を示したが、それは人を救うようなものではなかった。
彼らにも分からなかった、聖霊を得ることが出来るのは、どんな時か?
それは、ただ「思考が消えた時」である。「心が消えた時」と言っても良い。
ただし、意識があり、眠ったり失神していないことは必要だ。
そして、その状態になる方法はいろいろあるが、最上の方法は、20世紀初頭にラマナ・マハルシが提示した「私は誰か?」と自分に問うという、実に簡単なことなのである。
その原理は何度も述べたので、ここでは繰り返さないが、イェイツやエマーソンを読むたびに、その通りであると確信するのである。
だが、放埓(勝手きまま)に流れ、心が重いまま(あまり消えないまま)年を取ると、だんだん猿と変わらないものになり、惨めな最後を迎えるのである。
皆、自分以外の世の中の多くの人が、何か素晴らしい望みを持っていると思い込んでいる。
そりゃ、誰もが、お金が欲しいとか、素敵な彼氏や彼女、あるいは、素晴らしい容姿が欲しいとは思っているだろうが、それだけではなく、人間は、何かこう立派な夢を持っていなければ恥ずかしいと勘違いしているに違いない。
だが、そんな立派な目標を持っている人などいない。
「20世紀最大の詩人」と言われたノーベル賞作家ウィリアム・バトラー・イェイツが亡くなった年(なんと1939年)に書いた『政治(Politics)』という詩の始まりは、
「あの若い(可愛い)娘がそこに立っているのに、政治のことなどどうでもよいわい」
で、最後は、
「なんとかあの娘とやれないものか」
である(もちろん、詩的な表現で言ってはいるが、こういうことだ)。
イェイツ73歳であった。
だが、イェイツほど、聖霊(魂)を求め、精神を極めた人はいなかった。
人間が到達した最高レベルの真理は、イェイツの詩の中に見出される。
何と、イェイツは、今日では「シミュレーション仮設」と呼ばれる、この世界が仕組まれた作り物であることにも気付いていた。
それは、この世界が劇のような・・・特に、日本の能のようなものであると述べている詩や戯曲の中に明確に示されている。
一方で、彼は「不良老人」以外の何物でもなかった。
彼でさえそうであり、人間が心で望むのは、『政治』に書かれていた程度のことである。

AIアート178
「山の中」
Kay
ところが、イェイツは、時たま、自分が神と一体化することに気付いていた。
それは、アメリカ最大の賢者であった詩人・哲学者のラルフ・ウォルドー・エマーソンが表現した状態に違いないのだ。
それは、
「神の魂が私の魂の中に流れ込み、私の魂が神の魂の中に流れ込む」
ことである。
だが、きっと、イェイツもエマーソンも、具体的にどんな時に、そんなことが起こるのか分からず、悩んでいたのだと思う。
もちろん、彼らは優れた考察を示したが、それは人を救うようなものではなかった。
彼らにも分からなかった、聖霊を得ることが出来るのは、どんな時か?
それは、ただ「思考が消えた時」である。「心が消えた時」と言っても良い。
ただし、意識があり、眠ったり失神していないことは必要だ。
そして、その状態になる方法はいろいろあるが、最上の方法は、20世紀初頭にラマナ・マハルシが提示した「私は誰か?」と自分に問うという、実に簡単なことなのである。
その原理は何度も述べたので、ここでは繰り返さないが、イェイツやエマーソンを読むたびに、その通りであると確信するのである。
だが、放埓(勝手きまま)に流れ、心が重いまま(あまり消えないまま)年を取ると、だんだん猿と変わらないものになり、惨めな最後を迎えるのである。