ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

エス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

驚異のエス

CLAMPの漫画・アニメ『カードキャプターさくら』に、こんな場面がある。
高校1年生の天宮撫子(あまみやなでしこ)は、巣から落ちた雛を巣に戻そうと木に登るが、運動神経は無いに等しいとまで言われる撫子は、雛を巣に帰すことには成功したが、直後、足を滑らせて落下する。
しかし、撫子は、たまたま下を通りかかった、彼女が通う高校に赴任してきたばかりの男性教師、木之本藤隆(きのもとふじたか)の上に落下し、藤隆がクッションになったおかげで、ほとんど怪我はなかった。
その時、藤隆は、
「天使が落ちてきたのかと思いましたよ」
と、咄嗟に憎い言葉を発するが、おそらく、彼の性格から考えれば、それはごく自然に出た言葉で、妙な意図はなかった。
それから2人は付き合い始め、すぐに同棲に至り、毎朝、手をつないで登校。お弁当は料理が得意な藤隆が作った。
この藤隆と撫子が、主人公、桜(さくら)の両親である。

20年以上前の話とはいえ、本当なら、藤隆は即、懲戒処分だろうが、それは置いておく(笑)。
藤隆と撫子は、大変な偶然で出会ったように見える。
作者のCLAMP(女性4人のチーム)の重要思想が「この世に偶然はない。全て必然」であるから、この出来事も必然なのであろうが、それを、1つの説から話す。
「心身医学の父」と呼ばれたドイツ人医師、ゲオルク・グロデックは、人間の内部には、「エス」というエンティティ(生命体)が存在すると提唱した。
このエスは、後にフロイトが精神分析学に取り入れることで知られるようになるが、グロデックのエスは、フロイトのエスよりはるかに驚異的だ。
そして、藤隆と撫子の出会いは、こう考えられるのである。
この、藤隆と撫子のドラマティックな出会いは、全てエスが仕組んだものだ。
撫子のエスは、撫子を木に登らせ、藤隆のエスは、藤隆をその下を通るようにさせた。
そして、エスは、絶妙のタイミングで撫子の足を滑らせ、藤隆の上に落下させるが、2人のエスは2人の身体を功名に操作し、目立った怪我はさせない。いや、ドラマ性を高めるため、藤隆には、多少の負傷をさせたかもしれない。
さらに、藤隆のエスは、藤隆に、「天使が落ちてきたのかと思いましたよ」と、シビれるセリフを、動転している撫子のハートを撃ち抜く笑顔で言わせ、1万本の薔薇どころでない無敵のプロポーズになってしまった。
雛が巣から落ちたことすら、エスの仕業かもしれない。

「そんなアホな」と思うかもしれないが、グロデックが論文に引用した実話に、こんなものがある。
戦場で、1人の兵士の男が、同じ部隊の男に、自分の膝を指さしながら、
「ここに弾が当たったら、おれは故郷に帰れるのになあ」
と言う。
すると、その直後、流れ弾が飛んで来て、まさに、膝の指を指したところに命中した。
グロデックは、これもエスが行ったことだと推測している。

私は、小さい頃、何度も交通量の多い車道に目をつぶって飛び込んだが、危ない目に遭ったことはない。
これも、私は、無意識に、エスに危険を避けるよう頼んだからだったのかもしれない。
※決して真似しないように。

エスが、どれほどの力を持っているのかは分からない。
グロデックは、いかなる病気でも、罹(かか)るのも治るのもエスが起こしており、どれほどの難病でも、治る時は何もしなくても治ると言う。
簡単なことでは、エスは、女性の手を、好きな男性に前では冷たくさせ、その男性に暖めてもらうよう促すといったこともするらしい。

グロデックもフロイトも、エスは、肉体とか細胞とかではなく、無意識の中に存在すると考えている。
精神そのものが謎であり、エスの実態など、全くの未知と言って良いだろう。
引き寄せの古典で、いまだ引き寄せの最上のテキストである『イット・ワークス』の著者は、人間の内部にある、いかなる願いも叶える力をインマヌエルと呼んでいるが、エスは、その一面であるのかもしれない。








MATSURI(まつり)

どこの国にも、勇壮で壮大な祭というものがある。
ブラジルのリオのカーニバルや、スペインのサン・フェルミン祭(牛追い祭)などは有名で、ご存じの方が多いと思うが、どこの国にだって、似たようなものがある。
なぜ、どこの国にも、そんなものがあるのだろう?
人類は皆、お祭りが好きなのだろうか?

では、お祭りとは何だろう?
上に挙げた、リオのカーニバルやサン・フェルミン祭はどんなものかというと、「狂乱」とか「乱痴気騒ぎ」といった言葉が当てはまると言っても怒られはすまい。
そうだ、祭とは、狂乱であり、乱痴気騒ぎなのだ。
けが人はもちろん、死者が出ることもあるが、何があっても祭は取り止めにならない。
こんな祭の中では、暴力事件、男女の破廉恥騒ぎなども、いくらでも発生する。それがなければ祭ではないと言えるほどだ。
つまり、簡単に言えば、祭とは理性を破壊する行事と言える。
そんなものが、絶対になるなることもなく、皆が毎年必ずフィーバーする。本当に、いったいなぜなのだろう?

そのわけはこうだ。
フランスのソルボンヌ大学で民俗学も学んだ芸術家、岡本太郎は、祭について、こう述べている。
「祭は生命エネルギーを充填する行事であり、これによって、次の祭まで生きるエネルギーを得るのである」素晴らしい指摘と思う。
では、なぜ、乱痴気騒ぎである祭でエネルギーを得られるのか?
やや怪しいながら真理を突いた論が、精神分析学者の岸田秀氏の著書の中で語られていたのを見たことがある。
だいたい、こんなものだったと思う(彼の精神分析学は怪しいので、曖昧で分かり難いところが多いが)。
生命力というのは、無意識の中にあるエスというものだ。
エスというのは、得体の知れない意識体である(こんないい加減な定義しか出来ないが、それで言えば、自我なんかもそうである)。
とにかく、無意識の中のエスという意識体が生命エネルギーであり、岸田氏によれば、大雑把には、無意識そのものがエスであると言っても良いらしい。
で、その生命力の塊であるエスをどうやれば解放出来るのかというと、意識を消してしまえば良い。
ただし、眠ったり、気絶しては駄目で、いうなれば、目覚めたまま、強烈な夢を見てるような感じだ。
早い話が、理性(知性、道徳心、思考能力の総体)を消せば良いのだろう。
つまり、意識全体を消すのではなく、意識の中の理性の部分を消せば、エスは表に出てこられるのだ。
そうなれば、生命力に満ちたエスは、あらゆる乱痴気騒ぎや狂乱を起こさずにはいられない。
しかし、エスという生命エネルギーが露出しているのだから、元気一杯である。

つまり、人間は理性を吹っ飛ばせば、生命力の塊であるエスが現れ、怖いもの知らずで何でも出来る。
それには、良くない面もあるだろうが、「生きる力」「動く力」に溢れ、無敵である。
アントニオ猪木さんの言う「元気があれば何でも出来る」の実現である。

我々は、1年に1度くらいは、祭に参加し、理性を消してぶっ飛ばせば、生命力を取り戻せる。
私の場合は、初音ミクさんライブ「マジカルミライ」だ。
毎年8~9月に開催される「マジカルミライ」の最終公演のラストで、次の年も「マジカルミライ」が開催されることが発表されると、我々は無情の幸福感を得る。
それは「来年、また、生き返ることが出来る」という確信を得た至福である。ミクさんは、優しく、我々の理性を溶かしてくれる。
だが、このまま、新型コロナウイルスの感染が止まらなければ、今年の「マジカルミライ2020」は中止になり、そうなれば、私のような者は生きていられない。
今年の「マジカルミライ2020」は、8月7日から9日までインテックス大阪、12月18日から20日までは幕張メッセである。
そして何と、「マジカルミライ2020」のテーマは「MATSURI(まつり)」なのだ!
まさに、人類が新型コロナウイルスに打ち勝ってこそ、地上の天使、初音ミクさんが微笑んでくれるのだ。
初音ミクさんこそ、人類の未来の希望である。
それはもう、近年のミクさんの活躍を見れば、あまりにも純粋にして明晰なことである。
◆初音ミク「マジカルミライ2020」

さて、皆さんは、どんな祭をお持ちだろうか?100匹の猫に囲まれるとか、海の中で巨大サメに雄々しく立ち向かうとか、それとも、伝統の裸祭であるとか・・・自分だけで行うもの、集団で行うもの、何でも良いが、人間に祭は必要である。








マジカルな治癒

最近、腰痛に苦しむ人の多くが、骨や筋に異常がなく、ストレスなどの精神的なことが腰痛の原因になるのではないかという話を、よく目にする。
別に、腰痛に限らず、あらゆる痛みや病気も、本当は、原因ははっきりしていないのだと思う。

「心身医学の父」と呼ばれるドイツ人医師、ゲオルグ・グロデックは、全ての病気は心因性(心が原因で起こる)と断言していた。
ジクムント・フロイトの有名なエスの概念は、グロデックがフロイトに伝えたらしいのだが、グロデックのエスは、フロイトのものより、ずっとダイナミックだ。
グロデックによれば、あらゆる病気は、このエスという、人間の内に潜む不可思議な存在が作り出しており、転んで脚を折ることですら、エスの仕業なのであると言う。
「魔法を使って治している」とまで言われた、驚異的な治療能力を持っていたという精神科医のミルトン・エリクソンも、心がいかに肉体に影響を与えるかということを述べていたと思う。

最近、このブログでよく取り上げているダイアネティックスという精神療法を開発した、L.ロン.ハバートは、ダイアネティックスにより、いかなる病気も例外なく治ると保証していたように思う。
ただ、ハバートに関しては、彼の正しさを主張するのは少々難しく、『ダイアネティック』を読んで上で、自己判断するしかない。
私は、ダイアネティックスの原理は8割方は信じているが、ダイアネティクス療法に関しては、全く何の確信も持っていない。

私は、20歳くらいの時に、自分が花粉症であることを認識し、毎年、春には非常に苦しむのであるが、今年は、ほとんど症状が出ない。
これも、精神的変化のためであると思う。
また、私は、幼い頃から、(アトピーか乾癬かは分からないが)ずっと皮膚病を抱えており、数年前は、乾癬で自殺する人の気持ちが分かるように思えたほどだった。
だが、今は、治ったとは言わないが、日常生活や仕事、あるいは、睡眠に、ほぼ何の支障もないほどになった。
これらは、単に少食の成果とも思えない。
1日1食の菜食にしたことで、メニエール病が完全に治ったことは、確かに大したことだと思うが、皮膚病や花粉症などのアレルギーは、あまり変化がなかった。

ところが、初音ミクさんへの愛慕が強くなるに従って、アレルギーが消えていきつつあるように思う。
ミクさんの歌声には神秘的な力があるということは、ほぼ間違いないと思っている。
ミクさんの、情感を込めた歌い方をしても、自我を全く感じさせない不思議な感じが、聴く者の精神に、非常に肯定的な影響を与えるのではないかと思う。
ミクさんの歌声は、本当にマジカル(魔術的)で、エリクソンの精神治療にも通じるものがあると感じるのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

ゆるまないと万事うまくいくことを少し理屈で言ってみた

原子力発電だとか火力発電、水力発電、それに、風力発電などがあり、自動車を動かすにも、ガソリン、ディーゼル、電気があるので、エネルギーには違った多くのものがあると思ってしまうが、エネルギーというものは根本的には1つで、ジュールという単位で表す。
こういったことは地球人類にも分かったが、あくまで、物質的エネルギーについて分かっただけで、精神的エネルギーに関しては、エネルギーと言いつつ、それはあくまで概念だと理解されていて、実質は存在していないと考えられている。
だから、精神分析学や心理学でいうエスという精神エネルギー(無意識の中にあるとされる)は、物質科学では存在しないものなので、精神分析学とか心理学というものは、科学と認められていない。
一般に言う科学的な考え方、あるいは、科学的な考え方をする人から見れば、心理学や精神分析学は、怪しいだけのものなのである。

しかし、今でも分かり始めているのだと思うが、やがては、人類は、物質エネルギーも精神エネルギーも、同じ1つのエネルギーであることが分かるようになる。
そうすれば、私が最近、ずーっと言っている、ゆるまなければ、万事OKだということが、単純な理屈で、あまりに当たり前のことだと分かる。

2013年12月に亡くなった英国の作家コリン・ウィルソンの生涯のテーマとは、ごく単純に言えば、疲れ切った男が、好みのタイプの女性が全裸でやってきたらなぜ元気になるのかだった(あくまで喩えである)。
この現象を、医学的、物質科学的に説明出来ると思っている人がいるかもしれないが、ある程度までしか説明出来ないのだ。
心理学に、リビドーという、フロイトが性的衝動のことをそう言い、後に、ユングが本能的衝動全般のことをそうだとしたものがある。
衝動とは精神エネルギーのことだと言って良いだろう。
しかし、いずれにしても、この実に怪しげなリビドーという言葉で説明しなければならないので、精神エネルギーは、全く科学的とは見なされないのである。
つまり、現代科学的に正直に言えば、クタクタに疲れているのに、好きな女の子がヌードで寄ってきたら元気になるのは、不思議、神秘でしかないということになる。
「そんなアホな」であるが、偉い人達は、普通に考えれば当たり前のことも、既存の体系(理論体系)に押し込めて考えることしか出来ないので、素直な子供から見れば笑い話にしかならないことを一生懸命やっているのだ。それが完全に無意味という訳ではないが、限度をわきまえねば、やっぱり笑い話でしかない。

ゆるまなければ、心が引き締まれば、全てうまくいくことは、心理学を科学だとちょっと認めれば単純に分かることだが、それにはまず、心理学の怪しい概念や用語から改める必要がある・・・だろうなとは思う。
しかし、大切なことは、理屈より実践だ。
つまり、幸福になれるはずの理屈ではなく、単純で効果的な方法が分かれば良いのである。
それが、「一瞬もゆるまない」ことであるが、今や世間では、「ゆるめ、ゆるめ」の大合唱である。
世間の教義や信念では、「ゆるむことが幸福であり、人間はゆるむために生きる」のである。
この完全な大嘘が、世間の教義、信念である。
重ねて言うが、大嘘である。
あなたは、決して、決して、世間の教義や信念に平伏(ひれふ)してはならない。
そんなことをすれば、そして、現実に人々はそんなことをしているから、希望も生き甲斐も喜びも失うのである。

上に挙げたコリン・ウィルソンの一生のテーマも、「ゆるまない」ことで単純に説明出来る。
ゆるまなければ、身体の物質的エネルギーと共に精神エネルギーが高まる。
物質的エネルギーには限度があるが、精神エネルギーは無限である。
精神エネルギーは、脳を媒介して物質エネルギーに変換されるので、精神エネルギーを活性化させれば、元気にもなるし、病気も治る。
生命エネルギーというものは、物質エネルギーと精神エネルギーの両方を言う。そして、この2つは根本的には同じである。
無意識領域には無限の精神エネルギーがあり、これを心理学でエスとかリビドーと言っているが、これを引き出せば、肉体はもちろん、物質世界全てを支配出来る。
脳はその媒介をしているのであり、ゆるまなければ、脳はその役割をよくやってくれるのである。
それが分かれば、幸福になったり、希望や生き甲斐を持つことは簡単なことであることも分かる。

ゆるまないことの理屈は、この程度にしておく。
さっきも言ったが、理屈が大切なのではなく、実践が大切なのである。
しかし、少しは理屈も書いておこうと思ったので、今回だけ書いてみたのである。
心理学、精神分析学、物理学の概論を学べば参考になるとは思うが、これらの学問は、あくまで、それぞれの1つの体系の中に押し込められたものなので、深入りすると余計分からなくなる・・・というか、真理から離れていく。
何でもかでも体験だけが真理とは言わないが、体験で分かることは体験で理解すれば良い。
例えば、砂糖がなぜ甘いかは科学で説明出来るが、単に舐めてみれば、子供でも無学な者でも分かることである。
変な理論科学マニアは、砂糖を舐めることはしないで、理屈で砂糖の甘さを論じているだけなので変なのである。

これまでも、ゆるまない方法を、様々な方面、分野から述べたが、そのいずれかが読者の琴線に触れればと願ってのことであり、今後もまた、色々・・・同じことを別の面から見たり、別の分野を探ったりしていこうと思う。
しかし、大切なのはあくまで実践であり、ゆるまないことは難しいことではない。ただ、意思の力を必要とするだけである。
いずれにしても、希望と生き甲斐を持ち、生命力を活性化させ楽しく生きたければ、一瞬もゆるんではならない。
それを先にやった者から幸福になるのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

その気さえあれば、心のコントロールは簡単な時代になった

怒りや悲しみに打ち負かされなくなれば、心身を自由自在に扱うことが出来るようになる。
ジェット戦闘機を自由自在に扱えるようになれば、強大な力を得るが、人間の心身に秘められた力は、それどころではない。
だから、感情を意思の制御下に置けるようになれば、少なくとも、物質的な面での不可能はなくなる。

では、怒りや悲しみ、その他の感情を支配するにはどうすれば良いだろう?
それには、怒りや悲しみのカラクリを見抜かなければならない。
大きな怒りや悲しみの後、疲労困憊(ひろうこんぱい)することから分かるように、感情は、身体のエネルギーを奪うのである。
いや、正確に言えば、感情は、精神の中のエネルギーが身体に流れるのをせき止め、心に流してしまうのである。
さらに、そのメカニズムを見れば、感情は、吸気によって、無意識表層部にストックされた生命エネルギーを吸いこみ、心に流すのだ。
よって、息を吸わなければ、無意識表層部のエネルギー(グロデックやフロイトはエスと呼んだ)は心に流れず、感情が激しくならない。

だが、無理に息を止めたりなんかしたら、心のエネルギーが消費し尽され、気を失ってしまう。
怒りや悲しみのあまり失神するのは、身体のエネルギーが足りない時に、吸気がエネルギーのほとんどを心に流し、身体はエネルギー不足で衰弱し、呼吸器官も弱って呼吸困難に陥る。すると、心にもエネルギーが運ばれなくなってしまい、心がエネルギーを使い切ってしまうからだ。

だから、吸気が心にエネルギーを流すのを抑えるだけでなく、心が、怒りや悲しみでエネルギーを大量消費するのを止めなければならない。
そのためには、一言で言えば、「息を止める」のではなく、「息が止まる」ことが必要なのだ。
息が止まると、心はエネルギーを使うことが出来ないのだ。

息を止めるのではなく、息が止まるようにするには、どうすれば良いだろう。
心の中で、微かな、微かな声で、「愛」とか「神」と言えば、呼吸は止まるのである。
実際は、どんな言葉でも呼吸は止まるが、「愛」、「神」、「私」といった言葉が、最も止まり易い。

普段から、心の中で、微かな声で、「愛」、「神」、「私」と言った言葉を唱えるようにすれば、いつでも呼吸が止まる状態になることが出来るようになる。
呼吸が止まっていれば、心は希薄になり、心が希薄になれば、無意識の中の英知や力が顕現し、不可能はなくなる。

このことは、古の昔から、聖者達は直感的には分かっていたが、このような理屈が分からなかったので、教えるには、手取り足取りで長い時間がかかったのである。
しかし、今やIT時代であり、しかも、かつての国王が所有できた情報量の数億倍以上を個人で所有できる時代なので、こんなことが、誰にでも簡単に分かるのである。

『老子』や『荘子』は、こういったことの理解に役立つ。
今回は、『老子』、『荘子』の、Kindle版(電子書籍)の良書をご紹介しよう。
また、同じくご紹介した『エスの本』、『ヒマラヤ聖者の生活探求 第5巻』も非常に有益で、大変に面白いと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード