ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

エジプトの死者の書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

我々はたまたま選ばれ、たまたま捨てられる

沢山の国や民族の、神話や伝承に、「善いことをしたら天国に、悪いことをしたら地獄に行く」というものがある。
ギリシャ神話や『エジプトの死者の書』では、人は死後、ある場所で、その一生の行いを審議されて、どこに行くかを審判者が決定するようになっている。
まあ、一生をトータルで判定してくれるなら、裁かれる方もまだ納得できるだろう。人間の世界の裁判官や陪審員のように、偏見や個人的信念で歪んだ決定はしないし、賄賂は通用しないと思うからね。
だが、面白いのは、イエスが言う審判だ。
これは、抜き打ちテストなのである。審判者はいつ来るか分からないから、常に準備を怠るなと言うのである。
例えば、今日は上司が出張だからと、部下が羽を伸ばして怠けていると、不意に上司が帰ってきてその様を見て人事評価をするようなものだ。
「いえ、僕は普段は真面目なんです。今日はたまたまです。本当に、こんなことは数年に一度もないのです」
と言っても無駄であり、そのたった一度で判定されると言ったのがイエスである。
これには、多くの人が納得しないかもしれない。
だが、私は、イエス式の審判が良いと思っている。
私だって、たまたま天使が見に来た時に悪いことをしているかもしれず、そのために地獄行きが宣告されるかもしれないが、それならそれで仕方がないと思う。

内海康満さんが昔の著書で、人を採用する際、最初の人が良ければ、その人を採用して、後の人は会わなくて良いといったことを書かれていた。
私は納得したが、多くの、いわゆる論理的な人達は合点がいかないと思うに違いない。そして、ほぼ全ての企業が採用試験だの長々とした下らない評価をして、挙句、最悪の人を採るのだ。
また、何の本だったか忘れたが、ある映画監督が、これから創る作品のある配役の役者を決める際、一応、オーディションをしたのだが、オーディションが終ってしばらくしてから、オーディションに来た人達に電話をかけ、たまたま家にいた人に決定したのだが、その時採用された人が後に大俳優になる。
これらの場合、選ばれる方にすら、準備する方法もないように思える。
しかし、本当に重要な選択というものは、常にこのように行われているのだ。
学校の受験のように、何をするか分かりきったことに対して長い間準備し、自分の意志で結果を得ようなんてものに、本来、大した意味は無いのである。
そして、そんなものの中ですら、「予想した問題が出なかった」「試験会場が不快だった」「天気が悪かった」「電車が遅れた」などと言うのだ。

ある人は、政情不穏な国で汽車に乗っていて、トイレに行ったところが、使用中だったので、別の車両のトイレに行ったところ、その汽車が爆撃され、元いた方の車両が完全に破壊された。もし、あの時、トイレが空いていたら、確実に死んでいたのだ。
人生なんて、本質的にこんなものである。
自分でコントロールできることなんて、本当は何もない。
この命拾いした人も、心からそう思ったらしい。
出来事は全て、起こるべくして起こる。そうであるなら、起こるままに任せるしかない。
誰だって、直感では、それが正しいことであることが分かるのである。
しかし、教育されてきた偏見や個人的欲望は、決してそれを受け入れさせない。
試験勉強や受験にしがみ付かされた子供達は既にそうなっている。彼らがもう、いやらしい大人の目をしていることに気付いているかもしれない。
だが、偏見を離れ、欲望を手放すと、理屈では全く理解できないに関わらず、そういったことが自然で全く正しいことが分かるだろう。
そうすると、あなたは重荷から解放され、安らかになる。それが救われるということである。









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閻魔様の前で何を言うか?

人は死ぬと、どんな生き方をしてきたかを審議され、裁かれるという話は、多くの国の宗教や民話、神話にある。
キリスト教の最後の審判や、チベットの死者の書、エジプトの死者の書、ギリシャ神話などにそのようなものがあることがよく知られている。
我々には、閻魔大王の裁きが馴染み深いと思う。ギリシャ神話にも、冥界の王ハーデースという、大いなる権限を持つ恐い審判者がいる。
ところで、キリスト教の最後の審判や閻魔の裁きでは、一応は裁判のような形式であるのだが、人間界の裁判と違い、真実は審判者側に筒抜けであり、どうせ嘘は通用しない。それなら、見苦しい言い訳はせずに、やってしまったことはやってしまったと言い、弁解などはしないのが良いだろう。
しかし、閻魔様は聞くのだ。
「生きている時に、どんな良いことをしたのか?」・・・と。
人間達は、いろいろなことを言うが、ほとんどのことについて、閻魔様は全く誉めない。それどころか、人間が、「私はこんな良いことをしました」と言っても、それは悪い行いだと言われることも少なくない。世間の常識など通用しないのである。
さて、私は閻魔様の前に出たら、何を言うだろうか?
考えてみれば、閻魔様に言えるような善行は何もしていない。
「ある時から、1日1食の菜食主義者になり、大好きなケーキやチョコレートも全く食べておらず、性的禁欲を保ちました」
と言っても、閻魔様は、「それが何だ。下らないことを自慢すると張り倒すぞ!」と言うだろう。
誰かが、「百億円寄付した」と言えば、「なぜ千億寄付しなかった?この強欲が!」と怒鳴られるに違いないのだ。

ある人は、「私は閻魔様の前に出たら、便所の下駄だけはきちんと揃えましたと言うつもりです」と述べていた。
私は、これなら、閻魔様は、「感心なやつだ。ちっとは良いとこに行かせてやる」と言うのではないかと思う。
しかし、キリスト教徒が最後の審判で、「毎週教会に行きました」と言ったら、閻魔様のような恐い神様に、「この見栄っ張りが!」と怒鳴られるかもしれない。
聖典を毎日読みましただの、お経や祝詞を毎日上げましたといったことも、全く評価されないのだ。
「どんな基準で評価していただけるのでしょうか?」などと言ったら、それこそ、閻魔様やハーデースの眉が吊り上がることだろう。

その場で困るのも嫌なので、何かきっちり言えるようなことをしたいものだ。
霊幻道士という映画だったと思うが、キョンシーという、中国版のゾンビのようなものに警官が襲われるのを見た男が逃げようとする場面があった。キョンシーに噛み付かれると、自分もキョンシーになってしまう。男は、その警官に酷い目に遭わされてもいた。しかし、男の胸の内に、「一生に一度くらいは、人様の役に立つんだ」という想いが浮かび、キョンシーに立ち向かうが、噛まれて、自分がキョンシーになってしまう。
その男は、ろくでもない生き方をしてきたことを自覚していたのだろう。だが、身寄りのない子供達を引き取って、大道芸をやらせてはいたが、一応は面倒を見ていたのだ。
トータルで言えば、こんな人間を、閻魔様は誉めような気がするのだ。
さて、では、私は何をすればいいかと言うと、何も浮かばない。
一生に一度くらいは、人様の役に立つようなことが出来れば良いのだろうが、そんな予定はないし、正直、その気もなさそうだ。
今死んだら、仕方がないので、「初音ミクをひたすら愛しました」と言おうと思う。閻魔様やハーデースがどれほど怒り、審判者様達がいかに蔑もうが、他に何もないのだから仕方がない。一方、悪い方に関しては、何を言われても、「しかり」とだけ言おう。多分、全部本当だし、自分では不当だと思っても、閻魔様の方が正しいに違いない。
しかし、身体も心も持たないものを確かに愛したことにはいささか自信があるので、いかなる評価も受けても平気である。
そんなところである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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