沢山の国や民族の、神話や伝承に、「善いことをしたら天国に、悪いことをしたら地獄に行く」というものがある。
ギリシャ神話や『エジプトの死者の書』では、人は死後、ある場所で、その一生の行いを審議されて、どこに行くかを審判者が決定するようになっている。
まあ、一生をトータルで判定してくれるなら、裁かれる方もまだ納得できるだろう。人間の世界の裁判官や陪審員のように、偏見や個人的信念で歪んだ決定はしないし、賄賂は通用しないと思うからね。
だが、面白いのは、イエスが言う審判だ。
これは、抜き打ちテストなのである。審判者はいつ来るか分からないから、常に準備を怠るなと言うのである。
例えば、今日は上司が出張だからと、部下が羽を伸ばして怠けていると、不意に上司が帰ってきてその様を見て人事評価をするようなものだ。
「いえ、僕は普段は真面目なんです。今日はたまたまです。本当に、こんなことは数年に一度もないのです」
と言っても無駄であり、そのたった一度で判定されると言ったのがイエスである。
これには、多くの人が納得しないかもしれない。
だが、私は、イエス式の審判が良いと思っている。
私だって、たまたま天使が見に来た時に悪いことをしているかもしれず、そのために地獄行きが宣告されるかもしれないが、それならそれで仕方がないと思う。
内海康満さんが昔の著書で、人を採用する際、最初の人が良ければ、その人を採用して、後の人は会わなくて良いといったことを書かれていた。
私は納得したが、多くの、いわゆる論理的な人達は合点がいかないと思うに違いない。そして、ほぼ全ての企業が採用試験だの長々とした下らない評価をして、挙句、最悪の人を採るのだ。
また、何の本だったか忘れたが、ある映画監督が、これから創る作品のある配役の役者を決める際、一応、オーディションをしたのだが、オーディションが終ってしばらくしてから、オーディションに来た人達に電話をかけ、たまたま家にいた人に決定したのだが、その時採用された人が後に大俳優になる。
これらの場合、選ばれる方にすら、準備する方法もないように思える。
しかし、本当に重要な選択というものは、常にこのように行われているのだ。
学校の受験のように、何をするか分かりきったことに対して長い間準備し、自分の意志で結果を得ようなんてものに、本来、大した意味は無いのである。
そして、そんなものの中ですら、「予想した問題が出なかった」「試験会場が不快だった」「天気が悪かった」「電車が遅れた」などと言うのだ。
ある人は、政情不穏な国で汽車に乗っていて、トイレに行ったところが、使用中だったので、別の車両のトイレに行ったところ、その汽車が爆撃され、元いた方の車両が完全に破壊された。もし、あの時、トイレが空いていたら、確実に死んでいたのだ。
人生なんて、本質的にこんなものである。
自分でコントロールできることなんて、本当は何もない。
この命拾いした人も、心からそう思ったらしい。
出来事は全て、起こるべくして起こる。そうであるなら、起こるままに任せるしかない。
誰だって、直感では、それが正しいことであることが分かるのである。
しかし、教育されてきた偏見や個人的欲望は、決してそれを受け入れさせない。
試験勉強や受験にしがみ付かされた子供達は既にそうなっている。彼らがもう、いやらしい大人の目をしていることに気付いているかもしれない。
だが、偏見を離れ、欲望を手放すと、理屈では全く理解できないに関わらず、そういったことが自然で全く正しいことが分かるだろう。
そうすると、あなたは重荷から解放され、安らかになる。それが救われるということである。
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ギリシャ神話や『エジプトの死者の書』では、人は死後、ある場所で、その一生の行いを審議されて、どこに行くかを審判者が決定するようになっている。
まあ、一生をトータルで判定してくれるなら、裁かれる方もまだ納得できるだろう。人間の世界の裁判官や陪審員のように、偏見や個人的信念で歪んだ決定はしないし、賄賂は通用しないと思うからね。
だが、面白いのは、イエスが言う審判だ。
これは、抜き打ちテストなのである。審判者はいつ来るか分からないから、常に準備を怠るなと言うのである。
例えば、今日は上司が出張だからと、部下が羽を伸ばして怠けていると、不意に上司が帰ってきてその様を見て人事評価をするようなものだ。
「いえ、僕は普段は真面目なんです。今日はたまたまです。本当に、こんなことは数年に一度もないのです」
と言っても無駄であり、そのたった一度で判定されると言ったのがイエスである。
これには、多くの人が納得しないかもしれない。
だが、私は、イエス式の審判が良いと思っている。
私だって、たまたま天使が見に来た時に悪いことをしているかもしれず、そのために地獄行きが宣告されるかもしれないが、それならそれで仕方がないと思う。
内海康満さんが昔の著書で、人を採用する際、最初の人が良ければ、その人を採用して、後の人は会わなくて良いといったことを書かれていた。
私は納得したが、多くの、いわゆる論理的な人達は合点がいかないと思うに違いない。そして、ほぼ全ての企業が採用試験だの長々とした下らない評価をして、挙句、最悪の人を採るのだ。
また、何の本だったか忘れたが、ある映画監督が、これから創る作品のある配役の役者を決める際、一応、オーディションをしたのだが、オーディションが終ってしばらくしてから、オーディションに来た人達に電話をかけ、たまたま家にいた人に決定したのだが、その時採用された人が後に大俳優になる。
これらの場合、選ばれる方にすら、準備する方法もないように思える。
しかし、本当に重要な選択というものは、常にこのように行われているのだ。
学校の受験のように、何をするか分かりきったことに対して長い間準備し、自分の意志で結果を得ようなんてものに、本来、大した意味は無いのである。
そして、そんなものの中ですら、「予想した問題が出なかった」「試験会場が不快だった」「天気が悪かった」「電車が遅れた」などと言うのだ。
ある人は、政情不穏な国で汽車に乗っていて、トイレに行ったところが、使用中だったので、別の車両のトイレに行ったところ、その汽車が爆撃され、元いた方の車両が完全に破壊された。もし、あの時、トイレが空いていたら、確実に死んでいたのだ。
人生なんて、本質的にこんなものである。
自分でコントロールできることなんて、本当は何もない。
この命拾いした人も、心からそう思ったらしい。
出来事は全て、起こるべくして起こる。そうであるなら、起こるままに任せるしかない。
誰だって、直感では、それが正しいことであることが分かるのである。
しかし、教育されてきた偏見や個人的欲望は、決してそれを受け入れさせない。
試験勉強や受験にしがみ付かされた子供達は既にそうなっている。彼らがもう、いやらしい大人の目をしていることに気付いているかもしれない。
だが、偏見を離れ、欲望を手放すと、理屈では全く理解できないに関わらず、そういったことが自然で全く正しいことが分かるだろう。
そうすると、あなたは重荷から解放され、安らかになる。それが救われるということである。
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