ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ウェルズ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

悪者は役に立つことも言う

死を意識すると、人間は変わってしまうものらしい。
イギリスの世界的作家コリン・ウィルソンの場合はこうだった。
ウィルソンは、家が貧しくて高校に行けず、仕方なく工場労働者になるが、なんとか、高校の科学の授業だけは受けられるようになって、科学者になるという夢をつないだ。
しかし、その科学の教師のパワハラに遭って絶望し、こんな世界で生きるのが嫌になって、青酸カリという確実に死ねる毒薬を手に入れ、まさに口に含もうとした時、「意識が変わって」しまった。
ウィルソンは、敬愛する、イギリスが誇る世界的SF作家H.G.ウェルズの自伝的小説『ポリー氏の人生』にこう書かれていたことを思い出す。
「人生が気に入られないなら、変えてしまえばいい」
この言葉が、ウィルソンの座右の銘になったようだ。
それから、ウィルソンの壮大なヤバい人生が始まる。

大発明家であった理学博士、橋本健氏は、この世界は映画と同じで、我々は、映画を見ている客だと言う。
そして、見ている映画が気に入らないなら、映写室に行って、フィルムを取り換えてしまえば良いと言う。
映画がこの世であるなら、映写室は四次元世界で、本当の我々はそこに居るし、映写室には、どんなフィルムもあり、まさに人生は思い通りになる。
現代的に言うなら、この世界は三次元ホログラムで、それを作り出しているコンピューターがあり、そのコンピューターを操作すれば、世界は思い通りに変わるのである。
そして、この世界が、コンピューターが作る三次元ホログラムだというのは、「れっきとした事実」で、三次元ホログラムの内容は好きなように変えることが出来る。
どうすれば世界を思い通りに変えられるのかというと、思えば良いのである。
思い通りになるのに思わないから変わらないのだ。
そして、実際のところ、思い通りになったのが今の状況なのである。
その今の状況が気に入らないなら、『ポリー氏の人生』でウェルズが言ったように、変えてしまえば良いのである。
それには、気に入る状況を思えば良い。
例えば、今の状況は貧乏だから金持ちに変えたければ、「私は金持ちだ」と思えば良い。
まあ、問題は、なかなかそう思えないことだろう。
しかし、良い話ではないかもしれないが、ヒトラーの部下で宣伝部長だったゲッペルスが言ったように、
「嘘も百回言えば真実になる」
である。よって、
「私は金持ちだ」
と百回言えば良い。
悪者は役に立つことも言うのである(笑)。
ただ、そう言うと、普通の人はセカセカと百回言うのだが、「静かに、ゆっくり、丁寧」に言わないと、「思い」は変わらない。
また、これまで、「お前は貧乏だ」あるいは「お前が金持ちになるはずがない」としつこく言われ続けてきたのなら、なかなか「私は金持ちだ」と思えない。
そこで、ウィルソンのように死を意識すれば、ぱっと変わることがよくあるが、間違えて青酸カリを飲んでしまっては大変なので、別の手を使う。
1つは、「私は金持ちだ」と、千回言うことであり、それで駄目なら1万回言うことだ。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、ハンセン氏病(らい病)に罹った武士に、1日百回「ありがたい」と言うよう指示した。
だが、武士がその通りにしても治らない。
そこで、宗忠は、「では千回」と言い、武士は従ったがそれでも治らない。
「では1万回」
武士が1日1万回「ありがたい」と心を込めて言うと、1週間で治った。

「私は金持ちだ」と直接言っても良いが、宗忠が教えたように「ありがたい」と言うのも良いかもしれない。
あるいは、いつもお薦めする通り、「神様の奇跡が起こる」と唱えて大成功した者もいる。
どうしてもうまくいかないというのは、現在の状況に固定する設定が強過ぎるのだろう。
それでも、諦めずに世界を変えようとすれば、いつかは勝利するし、それで駄目なら、今後は、諦めたらうまくいくらしい。
ウィルソンも、諦めて死ぬことを選んだ時、世界が変わったのである。
ただ、死ぬ気になるのは良いが、本当に死んでは何にもならない。
そこまでうまくいかないなら、駄目な人達に教える役目でも選んでいるのかもしれない。
優等生だった教師が劣等生に教えることが難しいように、自分が駄目だったことがないと、駄目な人を教えられないからね。
そして、駄目な人、ものすごく増えてる(笑)。
教え方はいろいろなのだが、きっと忙しくなるだろう。








奇跡は意外によく起こる

私は、中学1年生の時に読んだ、イギリスの作家ハーバート・ジョージ・ウェルズの短編『奇跡を起こせる男』(1898)のことを、今でも時々考える。
この小説に登場する「奇跡を起こせる男」の名は、ジョージ・マクワーター・フォザリンゲーで、私はぱっとしない名であると感じるが、この小説でも「けっして、人に奇跡を期待させるような名前ではない」と書かれている。
この奇跡の男は、小説内では、常に「フォザリンゲー氏」と呼ばれている。
そして、フォザリンゲーは、いかにも「大したことない男」だ。
年齢は30歳で、小柄、容姿は十人並み以下だろう。仕事は店員で、重要人物ではない。
議論好きではあるが、それで一目置かれている訳でもなく、その議論好きな性質は周囲の人達にとっては、どちらかというと迷惑でしかないだろう。
だが、彼が起こせる奇跡の力は天井知らずで不可能はない。
もし、『涼宮ハルヒの憂鬱』から始まる『涼宮ハルヒ』シリーズをご存じなら、フォザリンゲーの力は涼宮ハルヒと張れるほどだが、フォザリンゲーの場合、その力を意識的に自由に発揮出来る。
例えば、「1万円札を千枚、ここに出せ」と言えば、その通りになる。
いや、1万枚、さらには、百万枚でも全く同じだろう。
ある時は、1人の刑事に対し、「地獄に行け」と言ったら、その刑事は消えてしまったが、悪いと思って、戻ってこさせたことがあった。その刑事が実際にどんなところに行っていたかは分からないが。
『サクラダリセット』のヒロイン、春埼美空(はるきみそら)は、「リセット」という、世界を最大3日、巻き戻せる驚異の能力があるが、フォザリンゲーにだって出来る。いや、フォザリンゲーなら、春埼美空のリセット能力にある様々な制限はないと思われる。

ウェルズは単に空想的な作品を書く人ではなく、『タイムマシン』や『宇宙戦争』といった作品も、どこかリアリティがあるので、いまだ映画化されるのだと思う。
私も、『奇跡を起こせる男』に関しては、単に、自分もそんなことが出来たらいいなというのではなく、当時から、どこか現実味を感じていたのだ。
というより、時々書いているが、私も奇跡を起こしたことがあったからだ。
猿が紙にインクをなすり付けたら小説になるというのを、奇跡と捉えることも偶然と捉えることも出来るが、私の奇跡は、そういった類のものだ。
その意味、私の奇跡は、涼宮ハルヒやフォザリンゲー、あるいは、春埼美空のように、確率の問題ではない超常現象を起こすのとは、奇跡の種類が違うかもしれないが、「ありえないこと」という意味では同じだ。
だが、私の奇跡も、フォザリンゲーらの奇跡も、この世界が、コンピューターが作っている仮想世界だとすれば、原理的には同じように可能なのである。
つまり、この世界が、『マトリックス』や『ソードアート・オンライン』に出てくるような作り物のデジタル世界であればである。
今、何かと話題になる49歳の世界一の大富豪イーロン・マスクは、この世界が仮想世界でない可能性はほぼゼロと言っているらしいが、今や、そう考える人は決して珍しくはない。
むしろ、本当に頭が良いかどうかは、この世界が仮想世界であることを、どう肯定するかで大体解るのではないかと思うほどだ・・・というのは私の主観だが、この世界が仮想世界であると語る賢い人達を見ていると、そう思うのである。

そして、我々凡人にとっては、この世が仮想世界であることの重大性はどうでもよく、重要なことは、フォザリンゲーのような奇跡の力を行使して、ぱっと幸せになれるかであろう。
もちろん、この可能世界を作った人間、あるいは、AI(のようなもの)は、我々の意思が実現するシステムに、何らかの制限はかけているだろうが、一定の範囲では、実現可能になっているのだと思う。
だから、私にだって、ある程度の奇跡は起こせる。
そして、奇跡を起こす鍵は、案外に、そこらに散らばっている。
『奇跡を起こせる男』なんて小説もその1つだ。
「神様の奇跡が起こる」と唱え続け、1憶円を2回当てたホームレスの話も、まさにそうだろう。

イギリスの作家コリン・ウィルソンは、23歳の時に書いた『アウトサイダー』で、ヒッピーから一夜で世界的作家になったが、彼が座右の銘とするのは、ウェルズの自伝的小説『ポリー氏の人生』にある、「人生が気に入らないなら変えてしまえばいい」だ。
超駄目男ポリーも、そうやって人生を変えたのである。
きっと、この仮想世界を操作する鍵を見つけたのだろう。








この世の秘密を露わにする秘法

この世の秘密は自分で解明するしかない。
世界とは、自分とは、人生とは、モノとは、心とは・・・これらの本当の意味は、誰も教えてくれないし、聖典に書かれていても、おそらく比喩的にしか表現されていない。
その真の意味は、自分で見出すしかない。

「世界五分前仮説」といって、イギリスのバートランド・ラッセルというエラく賢いおじさんが言い出したものがある。
ラッセルは、最高クラスの数学者、論理学者、哲学者で、ノーベル文学賞を受賞しているが、「アリストテレス以来の大論理学者」と言われる知恵のある人物だった。
世界五分前仮説とは、世界というのは、実は5分前に出来上がったもので、それ以前の記憶なんて作り物の嘘だと・・・簡単というか乱暴に言えばそんなものと思う。
いきなりこう聞くと、ほとんどの人が、「そんなアホな」と言うだろうが、本当に馬鹿げたことと思うだろうか?
私は、4歳の時に、世界というのは、今この一瞬に出現したのだということを「知っていた」。
今は分からなくなっている・・・というより、意識しなくなっていいるだけなのだろう。
世界はずっと大昔から、確固としたものとして存在し、宇宙の年齢はだいたい137億年と言われ、まあ、人間からみれば、相当昔に出来たものらしいが、そんなのは嘘である。
試しに、何かに意識を向けてみれば良い。
例えば、ペンとする。
そのペンをじっと見ていると、どうも変なのだ(洒落のつもりはないが)。
ペンは、常にそこにある訳ではなく、一瞬前は存在しなかったことを感じる。
心が「ペンがそこに在ることを認識しようとする限り」、そこに出現し続けるだけだ。
心はペンを含む世界全てを創造しているのであり、今、創造し続けているのである。
あなたも、さっさとそれを見破ることだ。
そうすれば、世界という幻想を打ち破ることができる。

このブログでも何度も書いたが、私は小学4年生で天体望遠鏡を手に入れたが、土星を見たいと思えば、夜空の適当な星を選んで望遠鏡を向ければそれで良かった。
それはいつも土星だった。
私の超感覚が土星をキャッチするのだとも言えるが、私が土星を・・・というより、土星を含む全世界を創造したのである。
イギリスの作家コリン・ウィルソンがこよなく敬愛した同国の作家(特にSF作家として知られる)H.G.ウェルズの、おそらくはまだ翻訳のない小説『ポーリー氏の物語』でポーリー氏が述べ、ウィルソンが座右の銘としている言葉がある。
それは、「人生が気に入らないなら、変えてしまえばいい」だ。
世界は心が造っているのだから、そんなこともできそうな気がする。

心の源が何かというと、「私という想い」だ。
私という想いなくして心は存在しない。
石も花も海も星も、心が造り出したもので、その心は、「私」という想いにくっついている。
ならば、「私」という想いを探求すれば、全ての秘密は解ける。
人が「私」と言う時、自分の頭を指差したりしないし、まして、お腹や脚や手を指差したりしない。
顔を指差す時はあるが、それは、相手に対し、他の人間との識別を要求する時だ。人間とは、普通、顔で区別するものだからだ。
しかし、純粋に自分を指す時は、胸を指差したり、手を当てるものだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、神クリシュナが「私は人の心臓に宿る」と言った通りだ。
アニメ『デビルマン』のヒロイン牧村美樹が、幼獣ゴッドに対し、「神様は私達のここにいる」と言って、自分の胸に手を当てたのは、ごく自然に受け取れる。
初音ミクは、『ミクの日感謝祭』のコンサートの『恋スルVOC@LOID』という曲で、「私が・・・」と歌う時に、両手を胸に当てるが、それも、素直な所作だと感じるのである。
自分、私、我、主人公・・・どの言い方があなたにとってぴったりかは分からないが、それが何か問い続ければ、隠された秘密が明かされるだろう。
イエスは、隠されたもので露わ(明白)にされないものはないと言った。
何が明かされるのかは、その時のお楽しみである。
秘密が解ければ、人生を変えてしまうことも簡単なことかもしれない。

余談であるが、暴くことを意味する「露わ」という言葉に、露(つゆ)という字を当てるのは、実に叡智のあることだ。
「露の世」とはよく言ったものである。これは、「儚い世」という意味だ。
世界は本当に儚い。
『イーハトーヴ交響曲』の第5楽章『銀河鉄道の夜』で、初音ミクが「ケンタウルスよ露降らせ」と歌う声ほど美しいものはないと私は思っている。
これを聴いていると、私には全てが分かるのである。









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名作文学は「痛小説」だ

シェイクスピアを高く評価するのは作家で、高度な作家であればあるほど、シェイクスピアを賞賛し崇敬する。
ところが、アメリカの大作家カート・ヴォネガットは「シェイクスピアは下手な作家だが、人間をよく知っていたのだ」という。
なるほど、優れた作家とは、人間をよく知っている作家のことなのだろう。加えて、多少下手かもしれないが、リズムがあって、心を惹きつける物語が書けるのだ。
シェイクスピアのお話自体は、今の時代では、さして面白いものではない。血沸き肉踊ったりしない。現代の刺激的な小説や、映画、漫画などに慣れてしまっていれば、かなり退屈かもしれない。しかし、人間に対する彼の洞察は色褪せない。

SF作家のH.G.ウェルズは、作家も大衆も高く評価する作家だ。
多くの作家が、ウェルズをSF分野に限定せずに大作家と賞賛し、人類規模でベストな作家と断言する者すら少なくはない。
彼の作品は、必ずしも、いつも大スペクタクル(壮観、壮大)ではない。しかし、比較的地味な展開に見えても、これが恐ろしく面白い。ウェルズは、良い作家であると共に、上手い作家でもあるのだと思う。彼の上手さを支えていたのは、科学者で通用するその圧倒的知識で、実際に、彼は科学者と見なされている場合もあり、科学の本も執筆している。無論、一般の人の認識をかけ離れた難しいことは書かないが、科学原理をさりげなく、そして、分かり易く書く才能もあったのだ。
科学に弱いSF作家もいると言うが、それはネタだろう。もし、科学に弱いSF作家がいれば、その作品はやはり安っぽくなる。
優れたSF作家は、ウェルズほどではなくても、やはり科学に精通しているか、少なくとも、深い関心を持ち、それなりの知識があると思う。
アイザック・アシモフは、『アイ、ロボット(われはロボット)』で、陽電子頭脳という、特に意味のない用語を使ったりはしているが、それは話を面白く感じさせるための工夫であり、彼は本物の科学者で博士の学位も持っている。

そして、ウェルズもアシモフも、やはり、人間をよく知っている。
ウェルズの作品は、語り手が物語を語るという形式のものが多い。
語り手は、物語の登場人物の1人を兼ねている場合もある。あるいは、語り手が最初に、おもむろに(落ち着いて)登場し、「私はこんな話を聞いたのだが・・・」として語り始めることもある。
だが、いずれの場合も、語り手は、自分自身のことは最小限に語るに留め、「出しゃばらない」。
ところが、これらの語り手達は、物語の主人公達について、あからさまな批判はしないが、多くの、いや、全ての主人公達は、人間としてどうしようもない欠点を持っていることを、さりげなく、しかし、鋭く描写してしまう。
もとより、欠点の無い人間などはいないが、ウェルズの物語の主人公達は、それを読者に曝(さら)されてしまうのだ。
だから、読者に洞察があればあるほど、人間として成熟していればいるほど、読者は主人公達に同情する。
なぜなら、知恵のある人間ほど、他人の欠点は自分の欠点と認識し、物語の主人公達の欠点を見て、自分を憐れむ気持ちが起こるからだ。
いや、ひょっとして読者が高慢な人間であっても、物語の愚かな主人公達を笑いつつ、どこか、「笑えない」ことに気付くのだ。
だから、ウェルズの作品は、私のような知恵のない人間が読んでも、かなり「痛い」のである。
今の若い人などが、「痛いやつ」「痛い話」「痛い子」「痛車」なんて言い方をよくするが、そのルーツなんてものがあるとすれば、実に、大作家の作品の中にこそあると思う。

ところで、ウェルズの作品でも、一見、主人公達が人格者で、英雄的ですらあるものもある。それは主に、長編の場合だ。
『タイムマシン』、『宇宙戦争』がそうである。
しかし、これらの作品にも、「愚かな主人公」はいる。
『タイムマシン』では未来人で、それは、とりもなおさず、我々人類そのものである。
『宇宙戦争』では火星人だ。強大な科学技術や文明を持ちながら、遅れた後輩に与えられているもの(土地や自然)を取り上げて自分のものにしようとする愚かさ、あるいは、劣った存在であっても、自分と同じ心を持っていることを無視して家畜のように扱う浅はかさである。

優れた小説は現代のバイブル(聖書)である。
その想像力の源泉は、本物のバイブルと同じである。それは人の心の深奥にあるエデンの園(楽園)、エリュシオンで、そこから現れる叡智を、霊感、神の火花、楽園の乙女、ダイモニア(ダイモーン)などと言う。
無論、小説は娯楽として楽しく読むものであるが、少しは、自分の心の奥の痛みにも気付いてあげないといけないのである。









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叶うはずのない敵にどう対するか

イギリスの作家H.G.ウェルズの『宇宙戦争』は、1953年に映画化されているが、2005年には、これを原作とする3つの映画作品が公開された。非常に珍しいことである。
私は、2005年のものは、スピルバーグ作品だけ一度観たが、1953年の作品は何度も観た。
1953年の作品は、特撮の方も、スピルバーグ作品には劣るかもしれないが、素晴らしいものだ。
原作は1898年に発表されたものだから、百年以上前のものである。
火星人の侵略を受け、地球人類は必死の反撃を試みるが、戦車に立ち向かうカマリキのごとしで、かすり傷一つ与えることも出来なかった。
しかし、火星人は、地球のウイルスに倒されるのである。

地球人になす術もなく、火星の宇宙船が地球の都市を壊滅させていく中、人々は教会に集まって祈っていた。
祈っていたと言っても、神に救いを求めたのではなく、諦めていたのだろう。
その時、偶然に、地球のウイルスが火星人に感染し、免疫のない火星人はあっという間に死亡する。
あらゆる小説、映画、アニメ、あるいは、詩や俳句や音楽でも、全ての作品は、人の心の中から始まるが、それは個人的な想像ではなく、深いところにある英知から来るものを、何らかの形で表現したものだ。表現する段階で、作者の特性が混じり、場合によっては、元の姿とは全く異なるものに変質することが多い。
フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を作詞・作曲したのは、プロの音楽家ではなく、音楽が趣味の職業軍人だったが、深いところからものを、自我のフィルターをかけずに表現したので、一夜で、この世界的名曲を生み出したのだ。これを、天啓とか言うのだろう。
『宇宙戦争』の小説や、それをかなり忠実に描いた1953年の映画も、そんな天啓のようなもので創られたに違いない。

火星人がウイルスで滅ぶことが分かっていれば、無駄な抵抗をせずに待っていれば良かったと思うこともあるだろう。
だが、人によっては、「いや、最善を尽くしたからこそ、万策が尽きた時に初めて神が助けたのだ」と言うかもしれない。
実際、この映画の最後のナレーションも、「万策尽きた時に、奇跡が起こった」であった。しかし、別に、「万策を尽くしたから」とは言っていない。
昔、『虐殺の橋』という映画があった。ある村を占領した敵国の軍隊が、村人に、村からの逃亡を禁じた。村から出るには、ある橋を渡るしかなかったが、村人は、一定時間ごとに、誰かが橋を渡って行き、その都度、射殺され、橋の上には死体が増えていく。最後に、兵隊達に集団レイプされた少女と、その恋人の男が橋を渡った時、遂に、占領軍は屈服する。
『宇宙戦争』だって、地球人が、運命を受け入れて沈黙していれば、火星人は何も出来なかったかもしれない。
まあ、このあたりは意見が分かれるだろうが。
ただ、いずれにしても、人類、特に、アメリカは、最初から諦めるという選択は決してしなかっただろう。
そして、人間個々についても、打ちのめされるまでは諦めないものなのだ。
人間は、経験を積むにつれて、結局のところ、自分には何の力もなく、どんな状況も自分がコントロールすることは、実際は全く無いということを認識するかもしれない。それが悟りなのであるが、死ぬまでにそこに到達する者は少ない。
イエスは、それを早めてあげようと、「身体を殺せるものを恐れるな。魂を殺せるものを恐れよ」と教えたのだ。
アセンション(次元上昇)後の世界では、自我が残っていれば、速やかに完膚なきまでに打ちのめされるだろう。それは、形の上では、強大な敵が襲い来て滅ぼされることだ。
だが、沈黙し、静寂の中に居る術を身に付けた人間が傷付くことは全くない。それは、老子にも書かれている通りである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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