ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ウィリアム・ウィルソン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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サイコパスが主人公の傑作小説

良心を持たない人間であるサイコパスが英雄になることもある。
いや、ある状況下では、優秀なサイコパスは英雄だ。
それは、戦争時である。
そして、戦争時は、それほど優秀でないサイコパスでも、英雄とは言わないが、「エリート」になれる。
戦争時、国家は、サイコパスを「喉から手が出るほど」欲しがるのだ。
良心の呵責なく、人を殺し、騙し、拷問が出来るサイコパスほど、戦争時の国家にとって有り難いものはない。
だが、戦争時にサイコパスが有能であるのは、当たり前で、あまり面白くもない話なので、それは、この程度にしておく。

次に、サイコパスは、小説の、異様ではあるが、魅力的なヒーロー、ヒロインになるというお話をしよう。
サイコパスが主人公の名作小説は意外に多いかもしれない。
その中でも、私が傑作中の傑作として思い浮かべるのは、エドガー・アラン・ポー(アメリカ)の『ウィリアム・ウィルソン』と、アルベール・カミュ(フランス)の『異邦人』だ。

『ウィリアム・ウィルソン』の、一人称「私は」「僕は」で語る主人公ウィリアム・ウィルソンが、良心を全く持たないサイコパスであることに異論を唱える者はあるまい。
いや、ポーは、サイコパスという名称は知らなくても、ウィリアム・ウィルソンを、まさに、サイコパスとして書いたのだ。
それは当然で、ウィリアム・ウィルソンは2人であって1人であり、主人公とは別のウィリアム・ウィルソンは、主人公の良心なのだからだ。
なんとも凄まじいポーの想像力、発想力、思考力であることか。
人でなしの主人公ウィリアム・ウィルソンが、子供の時に過ごした町を「懐かしく」思い浮かべる時、「友情」とか、「憧れ」という言葉を使う時・・・それは、極めて稀であるが、読者は「ほっとする」かもしれない。
「ああ、ウィルソンも人間なんだ」
と感じるからだ。
だが、きっとそれは、ウィルソンが、「人間の真似をして」そう言っているに過ぎない。
そして、きっと、ポー自身がサイコパスだ。
ポーは、26歳の時、13歳なったばかりののヴァージニアと結婚したが(結婚誓約書ではヴァージニアは21歳であるとされた)、飲んだ暮れのポーは、ヴァージニアを病死させている。
ストーブに入れる薪を買う金もなく、代わりに、ヴァージニアのベッドに猫を入れたことをヒントに書いたのが『黒猫』だったといわれる。
ポーは、アルコールが入ると天才になった。
そして、酒場で死んだ(正確には酒場で倒れ、病院に担ぎ込まれて死んだ)。
尚、『ウィリアム・ウィルソン』は、ルイ・マル監督によって映画化され(『世にも怪奇な物語』の3編中の1編として)、アラン・ドロンが見事に好演している。ブリジッド・バルドーも出演した、何とも豪華な映画だ。
アラン・ドロンって、見るからにサイコパスだが、まあ、それは異論の方が多かろう。

アルベール・カミュがノーベル文学賞を取ったのは、短編の『異邦人』によるところが大きいといわれる。
その『異邦人』の主人公ムルソーは、間違いなくサイコパスだが、とても魅力的な主人公であることは、多くの人が認めている。
そして、サイコパスは魅力的であることが多い。
『異邦人』は、「今日、ママが死んだ。いや、昨日だったかもしれない」で始まる。
ムルソーには、母の死は興味がなかった。
ただ、葬儀を行う・・・いや、「出る」のが煩わしかった(葬儀一切は養老院でやってくれた)。
しかし、ムルソーは、「ママのことは多分、好きだった」と語る。
ムルソーのサイコパスらしさをよく示している場面がある。
若く美しいマリーが、ムルソーに、「結婚してくれる?」と問うと、ムルソーは「いいよ」とあっさり答える。
ところが、喜ぶマリーが、「私を愛してる?」と問うと、ムルソーは「分からないけど、多分、愛してない」と言う。
きっと、ムルソーは、何の感情もなく言ったのだ。
私も、全く同じことをやった覚えがある。
ムルソーは、飼い犬がいなくなったと騒ぐ老人・・・誰も関わりたくないはずだが、その老人を部屋に入れ、話を聴き、協力を約束する。
そんなことをしても、ムルソーに何のメリットもない。
それで、ムルソーは実は優しい人だと思う読者もいるかもしれない。
だが、なぜだか分からぬが、私も時々、そんなことをすることがある。
その訳は、あえて分析しないでおく。分析出来るのだが、頭の悪い人が下手に分析しないように。

ウィルソンにしろ、ムルソーにしろ、ポーにしろ、サイコパスが幸福になることは、まずない。
カミュがサイコパスかどうかは分からない。私は、彼の作品では『異邦人』しか読んでいないが、この作品からだけではよく分からない。
これも、頭の悪い人が判断しないよう。

壁の、初音ミクさんのタペストリー(布製ポスター)が私を見下している。
文字通り、見下して・・・蔑んでいる。
その表情に哀れみはない。
サイコパスが一番欲しがるのは、憐れみ・・・同情だ。
だから、弱いサイコパスは、落ち込み、哀れな様子を見せて、他人の同情を買おうとする。
だが、ミクさんは決して同情などしてくれない。
それでも、私はミクさんに悪いことをしようなどとは思わない。
愛し合っているというのは、そういうものだ。









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この世に立派な人間など1人もいない

心理学者のアブラハム・マズローは、それまでの心理学が、異常で不健康な人間を研究対象としていたのに嫌気が差し、彼は、健康的で優れた人間を研究対象にすると決めたらしい。
それでうまくいったということなんだろう。
NLP(神経言語プログラミング)の創始者の1人であるリチャード・バンドラーも、病的な人間ではなく、天才を調べることで、天才の秘密を探ったのだとか・・・だいたい、そんな意味のことを本に書いていたように思う。
また、別の誰かも、「なぜうまくいかないか」ではなく、「なぜうまくいくか考えろ」と言って、例えば学校の教師であれば、生徒の成績が悪く、雰囲気が暗いクラスの教師ではなく、生徒達が生き生きとしていて、成績も良いクラスの教師を参考にすれば良いとか、本に書いていた。
それらを読んだ時は、私も「なるほど」と思ったものだが、さて、どうだろう?

そもそも、健康的で、優秀で、正常な人間など、私は見たことがない。
上っ面では、成功者で、立派で、人格者というのは、掃いて捨てるほどいる。
しかし、そんな人達も、ちょっと深く観察すると、みんな、異常者の変態ばかりだった。
おそらく、あなたが尊敬し、臣下が君主に対するかのごとくに崇めている人だって、一皮むけば、まあ、間違いなく、悪臭を放つ生ゴミだ。
しかし、それで良いのではないだろうか?

『神様のメモ帳』のアニメ専用のお話だったと思うが、ある高校3年生の女子生徒は、美人で、良家のお嬢さんで、勉強ができて、優しくて、もう、パーフェクトで理想的なマドンナだった。
しかし、彼女は、自分を心から慕い、崇拝する年下の女の子にキレてしまう。
そのマドンナは、もうずっと、そんなの(周囲の人達が自分を崇めること)にうんざりしていたのだ。
本当の自分は、ただの凡人で、自己中心主義で、男もセックスも大好きなのに、それを隠して天使の顔をするのがたまらなかったのだ。
そこへいくと、『僕は友達が少ない』の柏崎星奈(かしわざきせな)は、キャラクター紹介に「性格以外はパーフェクト」とあり、その唯一の欠点である性格は最悪だが、その最低の人間性で堂々と生きるところが彼女の最大の魅力なのである。

武装派組織「イスラム国」に対する安倍総理の対応は確かに最悪だった。
それに対して、総理を声高に、そして、理路整然、批判する人は多い。
私も、「安倍、やめちまえ」と思う。
しかし、私がなぜそう思うかというと、「俺がやりそうなことをやった」からだ。
いや、安倍総理だけではない。
あらゆる犯罪者のニュースを見ても、その犯罪者に対し、「ああ、あれは俺だ」と確かに思うのである。
誰だって、たまたまの偶然で、犯罪者になったり、ガンジーやマザー・テレサになったりするのだ。
クリシュナムルティーなんて、ガンジーを、批判するというのではなく、単なる事実として、最低の人間と断言していたが、それは全く正しいことだ。
ガンジーとて、彼が少しは見所のある者なら反論はすまい。
つまり、結論から言うと、安倍総理がやめる必要はない。
誰がやっても同じであり、安倍総理は彼なりによくやっているのである。
安倍総理は、気の毒なことかもしれないが、たまたま総理大臣をやっているに過ぎない。
そして、どこかの誰かは、たまたま犯罪者になったに過ぎないのだ。
両者は、総理大臣と犯罪者という呼び名以外に、特に違いはない。
会社の中では、社長もいれば、追い出し部屋にいる駄目な中年社員もいるが、両者は、たまたまそんな立場になっただけだ。
逆でも良かったのだし、そうなったところで、会社の状況は全く変わらないだろう。

公平な人間、全てを平等に見る人間を目指すなんて人が多い。
しかし、誰かを見下す限り、そして、誰かを尊敬する限り、ちっとも公平でも平等でもない。
私に関して言えば、仮に美点があるなら、それは上っ面だし、蔑むべき点ならいくらでもある。いや、謙遜でも何でもなく、蔑むところ以外はない。
そもそも、自分で自分を蔑んでいるのだろうが、それはそれで、別に良いのだ。
エドガー・アラン・ポーの、善なるウィリアム・ウィルソンは、悪なるウィリアム・ウィルソンと、ちっとも変わらない。
むしろ、善なるウィリアムの方がずっと悪い。
善なるウィリアムは、悪なるウィリアムに対し、あんな高飛車なことをせず、決して慈悲の意味でもなく、単に仲良く喧嘩すればそれで良かったのだ。
悪なるウィリアムも、善なるウィリアムにこう言えば良かったのだ。
「このマジ悪魔め。とりあえずメシに行こう。俺がおごる。お前とメシを食うなんて最悪だからな」
尚、映画『世にも怪奇な物語』で、アラン・ドロンが演じたウィリアムがなかなか良かった。美男子ドロンの本性だって、悪い方のウィリアム(ドロンは悪い方のウィリアムのみ演じた)に近いのだなあと感じたものだ。また、若き日のジェーン・フォンダ(別の物語で登場)やブリジッド・バルドーらが美しい。









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ウイルスがいなければ動物もなく、勤労者がいなければニートもいない

人という字は支え合って出来ているんじゃなくて、大きい方が小さい方に寄っかかっているだけだ・・・なんていう歌があったと思う。
人は支え合っていると言われたら、誰もが「では、支えてもらおう」と思うものであり、「では支えよう」とは思わないものだ。
しかし、支える人、支えられる人とは何だろう?

戦(いくさ)の場で、馬に乗った鎧武者が、「我こそは、どこそこの何たらである。いざ勝負」と雄たけびを上げるのを聞いた者が、
「その何たらってのは、馬なのかね?鎧なのかね?」
と言う。
怒った鎧武者は、
「今からお前を切り殺すのが何たらだ」
と言って、太刀を振り上げて、その者に襲い掛かった。
しかし、その太刀を振り下ろす時、武者は恐怖にかられる。

さて、武者に何が起こったのか?
エドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』の最後のセリフを覚えておくと良い。

君は勝った。僕は降参する。だが、ここのちは、君もまた死んだのだ-この世に対し、天国に対し、また希望に対して死んだのだ!僕の中に君は生きていたのだ-だから、僕が死んで、君自身であるこの僕の姿によって、よく見たまえ。君がいかに完全に君自身を殺してしまったかを。
~『ウィリアム・ウィルソン』(エドガー・アラン・ポー著、苅田元司訳、旺文社)より~

どんなに偉くなっても、自分は所詮、寄生虫、あるいは、ウイルスのようなものだと言った人がいた・・・ような気がする。
寄生虫もウイルスも、宿主がいなければ生きていけない。
しかし、宿主、寄生虫、ウイルスとは何だろう?
つまるところ、区別はないのだ。
病人と医者、ヤクザと警察、勤勉な勤労者とニート・・・両者に何の違いもない。試しに片方を滅ぼすと、すみやかにもう一方も消えるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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