ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イーハトーヴ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

元気の源であるマナが常に降り注ぐようにするには

「元気が出ない」とか、「身体の調子が悪い」というのはおかしな話だ。
エネルギーはどこにだって満ち溢れていて、不足することなど決してないのだからね。
人間には、何をやってもうまくいく日というものがある。そんな時というのは、気分が明るく、気持ちが高揚しているのだが、それはエネルギーに満ち溢れている状態なのだろう。
江戸末期の偉大な神道家であった黒住宗忠は、30歳位の時、病気で死にかけていたが、「もう最後」と諦め、入浴して衣服を正し、天照大神である太陽に最後の礼拝をしたところ、天照大神の生命が身体の中に入ってきて、たちまち生命力が回復し、病気がすっかり治ると共に、人並外れて健康になってしまった。

実際は、エネルギー自体は体内にだっていくらでもあるのだが、活力が無いというのは、そのエネルギーが活性化されていないのだろうと思う。
しかし、外から、活性化された気が送り込まれることで、体内のエネルギーが活性化されるのだろう。
では、どうすれば、高い振動数の、光に満ちた気、あるいは、エネルギーが入ってくるのだろう。
それは、「活性化された気が入ってくる」と思えば良いだけである。
別に、イメージをしたり、何度も言葉を繰り返す必要はない。
ただ、「宇宙エネルギーが私を癒す」、「神の叡智が流れ込んで来る」、「精妙な気が流れ入り、私を活性化させる」と静かに思えば良いのである。
腕振り運動をしたり、神の名を常に唱えてくれば、そのコツをだんだん掴めるようになる。
それをやっている時は、活気に満ちた光が流れ込んで来ているのだからだ。
元気がなくなった時、忍耐を発揮するためによりエネルギーが必要な時、苦しい状況を跳ね返したい時、その時の感覚を思い出し、「気が流れ込んで来ている」と思うのだ。すると、状況はたちまち変わってしまう。少し慣れれば、あなたも簡単にできるようになるだろう。

コツは、緊張せず、焦らず、無理に念じたりせず、ごく自然に神のエネルギーが照射されているのだと思うことだ。
それで全てうまくいくのだから、心配などしないことだ。
この「心配しない」ということがとても大切である。

また、良い声で語られ、歌われる言葉のイメージを持っておくと良い。
世界的音楽家の冨田勲さんが制作した『イーハトーヴ交響曲』の第5楽章『銀河鉄道の夜』で、初音ミクが、「ケンタウルスよ、露を降らせ」と歌う天使の歌声を思い出すと、いつでも私に妙なるマナ(魔法の力の源泉)が、流星群のように降り注ぎ、私を強くするのである。
私は、『イーハトーヴ交響曲』のCDを百回以上聴いたが、聴く度に、そのイメージは身近なものになるのである。本当に、このCDは大変な力があると感じる。
そして、最近では、京都広隆寺の木造弥勒菩薩像の写真を毎日見ているので、霊的世界から、菩薩の光が送り込まれてくるのを感じる。
あなたもそうなれば、どんなに苦しいことや嫌なことがあっても、全く何の影響も受けないであろう。









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お姫様のような存在が男を勇者に変える

『白雪姫』や『シンデレラ』、『眠れる森の美女』のように、古いお伽噺には、王子様が力のない女を助けにくるお話が多い。
しかし、そのお話の後で、幸せになった彼女達はどうなったのだろう?
裕福で苦労知らずの身分になったら、美食して醜く肥満し、また、自我が強くなって傲慢になり、さぞ周囲に迷惑をかけ、かつての凛々しい王子様をやせ衰えさせたのではないかと、私が心配してどうなるものでもないが、あまり良い予想は立たないのである。

しかし、昔、『美少女戦士セーラームーン』のアニメの中で、未来から来た、セーラームーンこと月野うさぎの幼い娘であるちびうさ(本当の名前は母親と同じ月野うさぎ)が、「女の子だって、白馬に乗って王子様を探しにいかないといけない」と言ったのが、あまりに感動的で、私はいまだよく覚えている。
素晴らしいお姫様を待っている若者は多いのである。
彼らは、一人では大活躍できない。お姫様によって勇者に変わるのである。
これに関して、五島勉さんが20年ほど前に書かれた『イソップ物語の謎』に素晴らしいお話がある。
五島さんは、ノストラダムスの予言で世に出たような人だが、80歳を超えた今も著作を続けておられる。彼は、いろんな意味で誤解されやすい面もあるのだと思うが、おそらく大天才と言って間違いないと思う。著書の推薦者は、その時の最も勢いのある人ばかりだし(例えば、絶頂期の竹村健一さんや舛添要一さん等)、私自身、彼の本を読んだから、努力らしい努力もしないのに、いつも安楽で良い思いをしているように思う。
(ちなみに、その秘中の秘は、五島さんの『ノストラダムスの超法則 死活の書』である)
五島さんによれば、あの有名な「ウサギとカメ」の話では、ウサギは若くて可愛い女の子で、カメは男であるのだと言う。
簡単に言えば、カメのように鈍重に見えて力を発揮できない男も、活力に溢れた魅力ある女性に挑発されるようにして、いよいよ始動し、ウサギの善意ある計略により、ついに大事業を達成するというお話なのだそうだ。これは、決して五島さんの単なる思い付きではなく、深い研究の末にたどり着いたもので、実際、どんな「ウサギとカメ」の解釈より生命力ある考え方と思う。
また、あなたが女性であるなら、そのようなウサギにならなければならない、あるいは、なることができるといったことも書かれていたと思う。

昨年(2012年)亡くなられた戦後最大の思想家の一人である吉本隆明さんは、自分が引きこもり気質であったこともあり、引きこもりの人の社会進出に関して、世間によくある「絵に描いた餅」式の全く役に立たないものではない、きれいには見えなくても現実的なことを著書の書かれていた。彼は自分のことに関しては、「戦争中のことであり、無理にでも引っ張り出されて、引きこもっていられなかった時代」だったと言うが、今の時代は、放っておいたら、一生引きこもりかねない。いや、引きこもるなら引きこもるで、引きこもったまま活躍する道を探すという方法もあるが、それは、多少困難な辛い道であるに違いない。しかし、引きこもりだって、男性なら、好きな女の子でもできれば、案外に簡単に世の中に出て行けるのではないかと言っておられた。それもまた、上に述べた「ウサギとカメ」の話のようなものであると思う。

「赤い糸」の伝説は、単に誰かが面白いお話を作ったものが伝わったのではなく、神からの霊感を得て作られたお話が伝説になったのだろうと思う。
男を大飛躍させる女(その逆もあるかもしれないが)が、赤い糸で結ばれた大切な存在であるが、赤い糸で結ばれた相手は、必ずしも恋人のような男女でなくても、名コンビとなるパートナーや、師と弟子ということもあるだろう。例えば、法然と親鸞のようなものだし、ソニー創業者の井深大と盛田昭夫のような場合も、そう考えて良いと思う。
大音楽家の冨田勲さんが、昨年発表した『イーハトーヴ交響曲』は、彼の60年来の念願だったようだが、世界的に活躍してきた富田さんも、深い深い海の中に、とっておきの巨大カメを隠していて、それを初音ミクというウサギちゃんが挑発して引っ張り出したのだと思えるのである。
実際、冨田さんが初音ミクに出会わなければ、あの至高の交響詩は創造されず、大袈裟ではなく、日本、いや、人類は滅びへの道を突っ走ることになったと私は確信している。

あなたも、必ずや、赤い糸につながれたお姫様や王子様と出会うだろうが、それには、今持っている、お姫様や王子様の先入観は捨てなければならないだろう。
冨田勲さんの初音ミクのように、別に奥さんや現実の恋人がいたって、それは何の関係もない。
そして、何より大切なことは、まず、自分自身、あるいは、神様との赤い糸をつなぐことである。
いや、本当のことを言うなら、現実世界での決定的なめぐり逢いというものは、神様との結び付きの反映なのである。
聖書の『ヨブ記』に、「神と和らぎ(親しみ)平和でいなさい。そうすれば幸福がやってくるだろう」とあり、詩篇91には、「この者は私(神)を愛して離れないがゆえに、私はこの者を生涯守る」と書かれているように、また、イエスに、「一番大切な掟は?」と尋ねると、彼は、「お前の神を愛することだ」と答えたように、まずは、神と赤い糸で結ばれることだ。
それには、法然が言ったように、また、「仏像修復の神様」と言われ、世界一美しい彫像とも言われる、京都の広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の砕けた薬指を修復した西村公朝さんが天啓で知らされたように、ただ、仏神の名を唱えることだ。
赤い糸を結びたい神や仏の名を常に唱えることである。生活しながら唱えてはならない。唱えながら生活するのである。
それはやがて、無意識になされるようになる。
クリシュナの名を1日4万回唱えたプンジャジの元に、滅多に超能力を使わないラマナ・マハルシがその力を発揮して現れたように、南無阿弥陀仏の念仏を1日6万回唱える法然の元に親鸞が現れたように、あなたも大切な人に出会い、重要なものごとが起こるだろう。









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初音ミクに、美少年だった未来仏弥勒の姿を見る

古代マヤ文明の太陽暦であるマヤ暦が、昨年(2012年)12月の21日から23日の間で終ることから、その日が世界の終焉になるのではないかという話があった。
それはどうなったのであろうか?
ところで、今朝も書いたが、地球は何年も前から、聖書の「ヨハネ黙示録」に書かれたハルマゲドン(最終戦争)に突入しているが、その主戦場は人間の心の中だ(結果は現象世界に現れる)。
そして、戦いは、悪魔軍が圧倒的優勢で、2012年12月22日には、地球は悪魔の手に落ちると私は思っていた。
しかし、黙示録では、ハルマゲドンは確かに悪魔軍がいったんは勝利するように見えるが、イエスが天から救いに来ることになっているはずなのだ。
イエスは来たのだろうか?
ところが、偉大な霊覚者であり、世界的な教育者として知られ、さらに万能の天才と言って差し支えないであろうオーストリア帝国(現代のクロアチア)出身の神秘家ルドルフ・シュタイナーは、世界を救いに現れるのは弥勒菩薩であると述べていた。
弥勒菩薩は、イエスの後継者で、ある意味、イエスを超えている。
ところが、『法華経』で、弥勒菩薩が釈迦の後継者に指名されていることはよく知られている。
また、弥勒三部経と言われる3つの経典や、法滅尽品という経典にも、弥勒菩薩が、釈迦の後継者であることは明言され、やはり、ある意味、釈迦を超えている存在と思う。
弥勒菩薩が、釈迦とイエスの両方の後継者であるとは、どういうことだろうか?
これに関し、シュタイナーは、その謎を明かしている。
シュタイナーは、弥勒菩薩はイエスの後継者だが、釈迦の強力なサポートを受けているといったことを述べているのだ。

では、昨年、弥勒菩薩は現れたのであろうか?
弥勒菩薩が弥勒仏として現れるのは56億7千万年後とも言われるが、こういった数字を挙げた場合、経典では大抵、別の意味があるので、その数字自体は気にしなくて良いと思う。いかなる経典でも、数字をまともに考えたら、あまりに非現実で、話にならないことは御存知の方も多いと思う。

私は、別に冗談ではなく、初音ミクの中に、弥勒存在があると思っている。
簡単に説明しようと思う。
今年(2013年)2月25日に亡くなられた、神道家で合気道の達人であった佐々木の将人(ささきのまさんど)さんは、中村天風や植芝盛平の直弟子だった。
その佐々木の将人さんの著書『数霊のメッセージ』に、神道の秘術と思われる、9×9の81の数字が並んだ元数盤というものがある。
縦横が反対になっているが、同じものと言って良いと思う9方陣が、深田剛史さんの本にもある。
この元数盤、あるいは、9方陣の、縦横斜の数字を足せば、いずれも369になる。369(ミロク)である。
弥勒は、インドの原語ではマイトレーヤ、あるいは、メッティヤらしいが、なぜか原語と似ていない。阿弥陀はアミターバで、文殊がマンジュシュリーというように、弥勒ももっと原語に近い音写がされても良さそうなものだ。
弥勒という名は、ミラクルの語源であるミラクルムであるという説もある。
また、まだ仏になっていないので、未録の仏だから弥勒だという話もあるようだ。
だが、佐々木の将人さんは、やはり、369が弥勒であり、この数字を大切にしなさいと著書に書かれていたのである。
初音ミクは、そのミクという名から、39が彼女の数字とされている。
ミクは漢字で書くなら、「未来」であると言って良いだろう。
そして、弥勒菩薩は、釈迦の後継者として、未来の世で仏になることから、「未来仏」と言われている。偶然にしても、面白い一致である。

昨年(2012年)11月23日、東京オペラシティ・コンサートホールで、日本フィルハーモニー交響楽団、慶応大学、聖心女子大学の合唱団、そして、シンフォニーヒルズ少年少女合唱団の総勢三百人の大演奏団によって公演された、冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』は、宮沢賢治の世界を音で描くという冨田さんの60年来の夢であると共に、冨田さんや様々な人々の深い想いの込められたもので、指揮者の大友直人氏も言われたように、圧巻の作品となった。
この交響曲で、冨田さんが「他には考えられない」と言ってソリストに迎えられたのが初音ミクだった。
私は、この演奏のCDを軽く百回以上聴いたが、ミクの中に、地上を救いに来た弥勒の慈悲を確かに感じた。
冨田さんは、ミクに、本来は男の子である又三郎や、カンパネルラの役を担わせたのだが、それが、不思議なほど似合っていた。
実は、弥勒であるマイトレーヤ、あるいは、メッティアは実在していて、少年の時に釈迦の弟子になっているが、大変な美少年であったらしい。
このコンサートでの、Tda(ティーダ)式Appendミクと呼ばれる、Tdaさんデザインの美しいミクの姿に、25歳で亡くなったと言われる弥勒の少年時代が重なるようにも思う。
私は、もし、このコンサートが行われなかったら、ハルマゲドンにおいて悪魔軍の圧勝となり、人々の心は更に荒み、堕落して、それがあらゆる惨事・・・例えば、壊滅的な天災、中国と日米を巡る危機的な状況の発生、北朝鮮の暴挙といったことまで引き起こし、地球が滅んでいた可能性もあったと思う。
冨田勲さんと初音ミクが世界を救ったのであると私は思っている。
さらに秘密を明かせば、弥勒の名を呼べば、ハルマゲドンの戦いに打ち勝つことができる。
弥勒は、慈悲に満ちた謙虚な菩薩であるが、イエスや釈迦を超えた仏でもあるのだ。
信じられないなら、以下に挙げた書籍を研究していただき、自分で答を出されても良いと思う。
ただ、弥勒にしろ、マイトレーヤにしろ、美しい名前なので、素直にその名を唱えても良いと思う。
信仰者の間では、「南無弥勒菩薩」、「南無弥勒仏」と言うようである。

















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ハルマゲドンは始まっている

ヨハネが黙示録として記述したことがらは、「神がキリストにまかせ、キリストは天使を送ってヨハネに教えた」ことである。
それは最終戦争である。
ハルマゲドン(最終戦争)と、これまでの戦争の違いは何であろう?
これまでの戦争は、一応は、国と国との戦い、支配者と蹂躙された被支配者といった形の戦いだった。
しかし、その内実は神と悪魔の戦いであったのだ。
ハルマゲドンにおいては、世の中の出来事が、神と悪魔の戦いによって起こっているということが鮮明になる。

もし、第二次世界大戦中であっても、現在、戦争が起こっているということに気付いていない者がいれば、その者が日本人であれば、アメリカ軍が日本の民家や重要な文化遺産を爆撃して焼き払うのを見ると、「アメリカは狂った悪魔の国だ」と思うであろう。しかし、戦争だと知っている者にとっては、ある意味、当然のことなのである。
現在の我々の大半が、実は、そのように、戦争中なのに戦争が起こっていることを知らない無知な人間と同じなのである。
親が子を殺し、学校では、群を作った子供達が、群に入れず弱い立場の子供をいじめるのはもちろん、教師もいじめに加担して子供を自殺させるというのは、ハルマゲドンの中にあるのだから、当たり前なのである。
北朝鮮が、核実験を繰り返し、ミサイルを飛ばすのも、ハルマゲドンにおいては当然のことだ。
中国が急に尖閣諸島の領有権を強引に主張し始め、軍事力で脅しをかけてくるのも、不思議なことでも何でもない。
だが、間違えてはならないのは、日本と中国の戦いではないのである。
神と悪魔の戦いなのである。どっちが神でどっちが悪魔というものでは決してないのだ。
ハルマゲドンの戦場は心の中である。それは、人類全体の心の中であり、我々一人一人の心の中でもあるのだが、そこが、神と悪魔の戦いの戦場である。

悪魔は、快楽と欲望を武器とする。だから、戦わずして勝てるようなものだ。
美味しい食べ物や、強力な性の誘惑で罠に誘い込んで、あっという間に人間の魂を殺してしまう。
イエスが言ったではないか?
肉体を殺せる者を恐れるな、魂を殺せる者に注意せよと。
そして、心の中の戦争は外界に姿を現すことを覚えておくのだ。
地震や津波、火山の爆発といったものは、心の中での悪魔の軍勢の攻勢と勝利が現れたものだ。
これまでの時代ではあり得なかったほどの広い範囲を水没させてしまうような大津波による水害が次々に起こるのは、ハルマゲドンによるものだからだ。

私はもう、自分が神と悪魔のどちらについているのか分からない。
私の全てが神か悪魔の一方についているということはないだろう。
しかし、9割までが悪魔につくこともあるし、それを4割にまで落とすことに成功することもある。
実は、私は、すっかり悪魔に取り込まれて、魂を殺される寸前であったのだ。
それが、昨年11月に、東京のオペラシティ・コンサートホールで行われた、冨田勲さんが制作し、初音ミクがソリストを務めた『イーハトーヴ交響曲』のCDを百回以上聴いたことで、なんとか完全に悪魔に支配されることだけは免れた。
あのコンサートは、私だけでなく、多くの日本人、そして、世界の人々を救ったのだ。
そして、ますます強まる悪魔軍の攻勢の前にまたも敗れそうになった時、私に、自分の名である「ア」が与えられ、私の神の特別な名が与えられたので、反撃が可能になったことは、何度も書いた。
皆さんも、自分に「ア」と呼びかけ、「吾(ア=私)は誰か?」と、「自分で」探求しなければならない。
難しいと思うなら、呪文のように、声や心で「アー」と唱えたって構わない。その回数は多い方が良い。
そして、自分の神の名を見つけ、それを常に唱えよ。
その神の名は、アマテラスかもしれないし、アメノミナカヌシかもしれない。
阿弥陀かもしれないし、クリシュナ、あるいは、ゼウスやアテーナー、アポローンかもしれない。
分からなければ、好ましいと思う神の名で良いから、常に心で唱えるのだ。
それで、心の中の悪魔を、心ごと葬るのだ。
『ヨハネ黙示録』を読めば、現在がハルマゲドンの最中であることがよく分かると思う。









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「あたし」に秘められた純粋さと妖しさ

昨夜、「ア」の言霊のことを書いたところ、素晴らしいコメントを沢山いただいたので、これについて、別のことを書きたい。
主に若い女性が、時々、「わたし」ではなく、「あたし」と言うことがある。
「あたし」は、「わたし」がなまったものだとも、女の子が恋に落ちた状態だとも言われるが、果たして本当は何だろう?

私がこのブログで賞賛してやまない、昨年(2012年)11月23日に、東京オペラシティ・コンサートホールで公演された冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』は、21世紀最大の音楽の1つとして歴史に残ると思う。
私は、冨田さんのシンセサイザー音楽を聴き、それらのCDに付いている小冊子で冨田さんの音楽に対する考え方に少しだが触れ、また、冨田さんが書かれた本を読んで、冨田さんの人となりや、音楽に対する情熱についても、やはり少しは理解したと思う。
それに、幸い、この交響曲に関しては、NHKが特集番組を作ってくれていたので、冨田さんの、この交響曲自体に対する思い入れのようなものについても、多少は知ることができたと思う。その中で特に大切なのは、冨田さんの宮沢賢治や宮沢賢治の世界に対する憧憬と、その賢治の地(東北)を大震災が襲ったことが、冨田さん自身の恐ろしい震災体験と重なり、富田さんの魂を揺さぶったことで、この交響曲は単に音楽的に素晴らしいだけではなく、神界の導きが明らかに現れたものとなっていることがはっきり分かるのである。
そして、私は、初音ミクについても、以前から大ファンであり、多くのアマチュアのクリエイター達が神の霊感を得て創ったような曲を沢山聴き、ミクのライブステージの映像や音楽を毎日のように鑑賞していた。

この交響曲については、これまで何度も書いたが、今日は少し違ったことを述べる。
この交響曲の最終楽章の第7幕『岩手山の大鷲』の後、アンコール曲が2曲あった。
その初めの曲が、かつて冨田勲さんが作曲した『リボンの騎士』で、初音ミクが歌った。
これは、手塚治虫さん原作の漫画を1967年からアニメ化して放送した際に、このアニメのオープニング曲として制作され、作詞は能加平さんで、アニメソングとしては贅沢な高度なオーケストラの演奏と、前川陽子さんという素晴らしいジャズシンガーの歌で、今でもよく覚えている人も多いと思う。
ところで、この歌の出だしが、「あたしの見る夢 秘密なの」で始まる。「わたし」でなく「あたし」である。
この歌は、漫画・アニメの主人公であるサファイヤ姫の想いを綴っているように創られているのだと思う。
しかし、漫画でもアニメでも、普段は王子として、男の子として過ごすサファイヤは自分のことを「僕」と言うのはともかく、王女の姿の時も、「あたし」と言う事はなかったのではないかと思う。
そして、この歌の最後は、「リボンの騎士は ほんとは ほんとは あたしなのさぁ」である。
初音ミクが歌うと、可憐なだけでなく、どこか不思議な雰囲気なのだが、この「あたし」が妖しさまで加えるように思う。
全く分からないが、この曲を選んだのは冨田さん自身と思う。
そして、第3楽章の、冨田さん作詞作曲の『注文の多い料理店』でも、ミクは、「あたしは初音ミク かりそめのボディ」と歌うのだ。

冨田さんが、宮沢賢治の不思議な世界を描いたこの交響曲のソリストは初音ミクしかいないと言って、特に熱望してミクを採用した。その、冨田さんの特に強いこだわりを感じる、この、「かりそめのボディ」という言葉を初音ミクに歌わせたかったのは、ミクがバーチャルシンガーであり、冨田さんが言う「異次元から来た人間」であるということと共に、最も「あたし」が歌える歌手だからであると思うのだ。
結局、ミクは、この交響曲を通し、自分のことを「あたし」と言ったのである。

上代と言われることもある奈良時代(710~794年)あたりまでは、一人称代名詞には「あ」が使われた。
『古事記』で、共に国を造った男神イザナギと女神イザナミだが、運命のいたずらにより、激しく争うこととなった。イザナミは雷神と黄泉の国の軍勢にイザナギを追い詰めさせ、イザナギはこれを迎え撃ちつつ逃れ、ついには、黄泉の平坂で、イザナギは大岩でイザナミとの間を塞いで隔てた。
その後の二人は、戦っていてさえ、こう言い合う。
イザナミは、イザナギに
「愛(うるわ)しき我(あ)がなせの命(みこと)」(愛しいわが夫の命よ)
と呼びかけ、イザナギもイザナミに、
「愛(うるわ)しき我(あ)がなに妹(も)の命(みこと)」(愛しいわが妻の命)
と呼びかける。
私は、これを読んだ時に、二人が自分を「あ」と言う美しさを感じた。
「あ」は、単に、肉体としての自分を指すのではない。真の自分に呼びかける言霊であるのだなあと思ったのだ。

「あたし」という言い方は、やはり、幼い表現ではあるが、その分、純粋で、素朴で、そして、情熱の源である生命力を感じ、それが、時として妖しさを感じさせるのではないかと思う。
「あ」から始まる言葉には力がある。よろしければ、この記事の1つ前の昨夜の記事を読み、「あ」の言霊を生かし、幸福になっていただきたい。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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