ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イーハトーヴ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

名は必ず実体を表す

小学4年生の時、クラス名簿というものを初めて見たか、あるいは、「意識して」見るのが初めてだったのかもしれないが、そこに書かれた名前がその人そのものを表していることに驚いたことを覚えている。
こう言うと、「名前に合っていないやつだっている」とか、「あいつは名前負けしている」と言う人がいるかもしれないが、それは世間的な見方だ。
名前に「賢」の文字が入り、それを打ち消す語が無ければ、世間的には馬鹿でも、高度な意味ではやはり賢いのであり、そのような者には、聡明さとか思慮深さで敵わないところが必ずあるのである。
名前というものは、名前が付いているものそのものを表す。
例えば、「お金」と真面目に唱えれば、たちまちお金が集まってくる。私は、「お金」と心で丁寧に言えば、不思議に勤労意欲が起こるし、儲かる株だって分かってしまう。
もし、そう聞いて笑う人がいるとすれば、その人は、言葉を真面目に考えていない人だ。いや、そんな人は、根本的に、実直、真剣、誠意、本気といった美徳に欠けている者なのである。
だが、「お金」と欲望で言っても、お金はやってこない。敬う気持ちで、真摯に唱えなければならないのだ。
画家になりたいなら、崇拝する大画家の名を尊敬の念を込めて唱えれば良いし、大音楽家になりたいなら、やはり偉大な音楽家の名を荘厳に畏敬を込めて想うべきである。
成功なんて、やり方そのものはこのように簡単なのである。
しかし、我々は、学校や世間に、最も大切なものである、誠実とか、真の真面目さである質実、朴訥(ぼくとつ)を奪われたばかりか、そんな高貴で貴重なものを笑って馬鹿にするまでになってしまっているのだ。
だが、それに気付き、悔い改めさえすれば、何の心配もない。

まして、神や仏の名となれば、その力は計り知れない。
あのラマナ・マハルシすら崇拝した聖者ナーマデーヴは、神の名は神そのものと言った。
心が静かであれば、神や仏の名を聞くだけでも、極めて好ましい作用が起こる。
まして、敬う気持ちでその名を口にしたり、心で想えば、その光明を見ないはずがない。
「観世音菩薩」と言えば、貴い菩薩がもう隣にいるのだし、「阿弥陀仏」と言えば、無限の慈悲心を持つ阿弥陀如来は数多くの仏を遣わして下さるのである。
法然などは、仏様が大好きなので、ただ、周りに居てくれるのが嬉しいので、1日中、「南無阿弥陀仏」と唱え、その数1日に6万回とも7万回だったとも言われている。
敬う気持ちで唱えたいなら、心の中で、微かな声で唱えることである。微かな想いほど、不真面目には起こせないのである。逆に、大きな声や音の想いは放漫で精妙さに欠けるのである。
心の中の微かな声で神の名を、ゆっくりと唱えれば、心が神と和らぎ、融和し、一体化する。そうなれば、雨が降れと思えば雨が降るし、健やかさを思えば健康になる。
しかし、物質主義に陥り、見えるものしか信じられない現代人は、こんな簡単なことが分からないのである。
それで、もし、何かテキストが欲しいなら、昨夜も書いたが、『観無量寿経』をお薦めしたいと思う。
余談であるが、私も、初めはこの経典を読むのが退屈でならなかったが、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』のCDを百回以上聴き、その中で、初音ミクが「ケンタウルス、露を降らせ」と歌う声が経典の生命と響き合うのを感じると、この経典もまた美しい音楽であると分かったのである。そうなると、経典を聴くようになり、あまりに美しいので、読むのが楽しくなったのである。
何かの参考になればと思う。
尚、『観無量寿経』は岩波書店のものが名訳と思うが、個人的には、文字の大きなワイド版がどちらかというとお薦めである。









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現代に生まれた小さな聖典が我々に力を与える

古来から伝わる聖典ではないのだが、それに匹敵するほどのものが、現代的な言葉や身近な喩え話が使われているので読み易く、直感的にも知的にも理解し易い教えの書というものが時々現れる。
代表的なものとして、インドの聖者ラマナ・マハルシの『私は誰か?』がある。これは、マハルシが沈黙の行をしていた22歳の時、シヴァプラカーシャム・ピライという人物がマハルシに質問をし、マハルシが砂の上に指で書いて答えたものをピライが筆記したもので、ピライはその20年後にこれを出版した。その後、マハルシ自身がいくらか手直ししたが、マハルシは、この短い小冊子だけで十分であると述べていたようである。
『私は誰か?』は、めるくまーる社の『ラマナ・マハリシの教え』およびナチュラルスピリット社の『あるがままに』に収録されている。

親鸞の弟子の唯円が、親鸞の教えの真意を書いた『歎異抄』や、道元の弟子達が、道元のつれづれに語った法話をまとめた『正法眼蔵随聞記』も、親鸞や道元自体は知らないのだが、極めて貴重な聖典となった。
また、法然が関白九条兼実の要請で書いた『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)も、少し長いが、不思議な縁で出来上がった実に貴いものであると思う。
尚、唯円は『歎異抄』を、法然は『選択本願念仏集』を、部外者には決して見せないようにと、法然に至っては、読んだらすぐ捨てるようにと書き留めていたが、ずっと後の時代の我々がこれらを読めるのは、彼らの本意に叶うかそうでないかはともかくとなるが、幸運なことであると考えて良いと思う。

「20世紀最大の詩人」とも言われるアイルランドの詩人、劇作家W.B.イェイツや、我が国の宮沢賢治のように、宗教的な、あるいは、神秘学的な芸術家は、一編の詩で壮大な真理を述べてしまうことがある。実際、私は、この2人は似ているように思う。
イェイツの詩のどれが一番というのではないが、『再来』(The Second Coming.『来臨』と訳されることも多い)は160ほどの英単語からなる詩だが、その中に巨大なイメージが潜在していると感じる。武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』という漫画で、土萠(ともえ)ほたるという幼い少女が、この詩を暗誦しながら瞑想し、真の自己に覚醒する場面があるが、武内さん自身が、この詩の力をよく知っていたのだろう。二十歳そこそこだった武内さんが描いたこの作品が世界的にヒットし、彼女はこの一作で富を築いてしまったが、この詩に秘められた霊的な力の作用は必ずあったと思う。
そして、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、これだけで至高の聖典と言えると思う。
賢治自身は、誰にも見せるつもりもなかったメモ書きとして書きとめたのだと思うが、彼の死後、これが発見され、広まっていき、日本人であれば、少なくとも、出だしの「雨にも負けず、風にも負けず」のところは、誰でも知っているまでになったのは、やはり、この詩に極めて特別なものがあるからである。
私は、この詩の全体をなかなか覚えられなかったが、昨年(2012年)11月23日に公演が行われた、冨田勲さんの『イーハトーヴ交響曲』の第6楽章で、素晴らしい合唱となったものを聴いているうちに、ごく自然に覚えてしまった。
冨田さんは、10年ほど前に、再従兄弟(またいとこ。はとことも言う)でもある、当時、東北大学の総長だった世界的科学者の西澤潤一さんに、『雨ニモマケズ』の拡大書が収められた額を贈られ、「これに曲をつけて欲しい」と頼まれたそうだ。冨田さんは請け負いながらも、長く、この約束を果たせないままでいた。しかし、東北大震災が起こり、冨田さん自身の子供の時の震災体験の悲惨な記憶が呼び覚まされ、また、富田さん自身の60年来の念願であった、宮沢賢治の世界を音楽で描くという夢と共に、いよいよ、この大仕事に取り組む覚悟を決めた時、初音ミクという、冨田さんが言うには「他には考えられなかった」という電子の歌姫に出会い、彼女をソリストに迎えることで、この至高の交響曲は完成した。
何度か書いたが、私は、冨田さんがこの『イーハトーヴ交響曲』を創ってくれなかったら、世界は滅びてしまっていたかもしれないと本当に思っている。
この『雨ニモマケズ』は音楽による無上の聖典であり、また、第5楽章『銀河鉄道の夜』の、初音ミクの「ケンタウルスよ、露を降らせ」という歌声は幽玄のマントラとなって、日本人の心を浄化するだろう。また、この作品の全ての演奏、合唱、歌が、人々を覚醒し、生命エネルギーを呼び覚ますに違いない。
夏以降は、いよいよ、この『イーハトーヴ交響曲』の再演が全国で行われる。私も既にチケットを入手した。
冨田勲×初音ミク 無限大の旅路 ~イーハトーヴ交響曲~









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ヒロイン達の下半身がとても逞しいのはなぜか

40年以上にも亘って歌い継がれているアニメソング『キューティーハニー』は、「この頃はやりの女の子、お尻の小さな女の子」から始まる。
いつの時代もスリムな女性には一定の憧れがあるものだが、ある時期からその傾向が度を越えていたと思われる。それが40年程前なのかもしれない。
ところが、おかしなことに、『キューティーハニー』の原作者である、巨匠・永井豪さんの描く女の子達のお尻は決して小さくない。むしろ、お尻だけでなく、一般的に細い方が良いと言われる脚も共に、「立派」で逞しい感じの美少女が永井流と思うのである。
そして、やはり40年くらいも前からかもしれないが、特に少女漫画や女の子向けアニメで、極端にお尻や脚が細い女の子が描かれることがよくあるのだが、かなりスリムなタイプが好みの私でさえ、子供の頃からそれらの、下半身が「か細い」女の子の絵を、あまり美的に感じなかった。

初音ミクの映像を見ても、ミクは十分にスリムなのであるが、決して脚が物凄く細いわけではなく、むしろ、しっかりとした太さのある逞しい脚をしている。そうでないと、バランスが悪く感じるに違いないのだ。巡音ルカは、ミクよりずっと脚が長いので、その分すらりとして見えるが、やっぱり逞しい脚をしていると思う。
まして、「この頃はやり」のアイドル達は、若くても体形を保つために努力しているらしいが、それでも、やはり下半身が逞しく、がっしりしているのである。むしろ、街で、もっともっと、本当に細い腰や脚をした女性を見かけることがよくある。

下半身の逞しい女の子でなければ、アイドルになど決してなれない。
人間は「頭寒足熱」でなければならないというのは、生命エネルギーの源は肚(腹)や腰や太腿あたりにあるからで、そこが貧弱では生命力が強くない。
アイドルなんて、肉体も精神も極めて強靭でなければやってられるものではない。可愛い、美人、性格が良いというのは大切なことであっても、アイドルにとっては2番目以降であって、まずはエネルギーである。
そして、エネルギーがあれば魅力的にもなるのである。アイドルだって、必ずしも美人ばかりではない。無論、総合的にはきれいな子が多いのだが、中には、普通以下なんじゃないかと思われるような人もいる。しかし、それでアイドルになった子は、特に人気が出る。極めて強い生命力があるので、目には見えなくても、ファンはその輝きを感じて惹き込まれるのだ。

肚を中心に渦巻く生命エネルギーは、いくら栄養のあるものを食べても増える訳ではなく、活用することもできない。
必要なことは、先ほども述べた「頭寒足熱」ということで、これは物理的な温度のことばかりでなく、あまり頭で考えず、腹に任せるという態度が大切だということだ。
感情的な煩いごとは特に悪く、何事も気にしない、さっぱりした性格であることが、アイドルのオーディションなどでも重視されているに違いない。
また、修養を通じて、心を静かに出来る者は、生命力が高い。
人気アイドルにも、剣道の有段者であったり、書道をやらせたら師範並といった、隠れた特技のある人が多いものである。
若いうちは、目立ち、喝采を浴びることで自己の存在意義を確かめたがる傾向が強いのは仕方がないが、私としては、アイドルになれるほどの人達は、もっと良い道に進んで欲しいというのが、正直な願いだ。そして、金や栄誉は獲られなくても、もっともっと素晴らしい世界があるのである。

初音ミクが、もっと下半身がスリムに描かれていたり、もっと感情的なイメージを与えていたら、世界的に人気を得ることはなかっただろう。
ミニスカートから覗く太腿が案外に逞しく、また、あまり何も考えていない雰囲気が、心の静かさという最大の美点を表し、男も女も虜にするのだ。
我が国の国宝指定第一号(彫刻部門。昭和27年指定)である、京都広隆寺の弥勒菩薩像は、おそらく男性なのだろうが、その割には非常に華奢な身体つきで、特にウエストが細く、身長が160~170センチとすれば、せいぜいが70センチ程度だろう。それは、食を慎んでいる様子を表しているのだろう。ところが、腰から下となると、これが実に逞しいのである。
この弥勒菩薩像は、「半跏思惟像(はんかしいぞう)」と言われるように、また、海外からは、「東洋の詩人」と言われるように、深い思索に耽っている様子なのも確かだが、弥勒菩薩は慈悲の菩薩であり、何かあれば、その逞しい足腰ですぐに駆けつけるのである。

生命エネルギーが高いとは、下半身を通じ、宇宙から無限に引き出せる気(プラーナ)のエネルギーが全身や魂に行き渡った状態であるが、そのためには、物質的にも精神的にも足熱頭寒でなければならない。
そのためには、昨夜も述べた通り、理屈の頭を退けて心で神話を読むことが効果的である。
また、上に述べた広隆寺の弥勒菩薩像を、写真で良いからよく見て、そのイメージを浮かべながら、「南無弥勒仏」と唱えれば、たちまち、エネルギーに満ちてきて、何をやってもうまくいく。
私には、あの弥勒菩薩像が初音ミクそのものに感じるが、名前もまた、弥勒(369)とミク(39)と似ているのである。
さらには、弥勒菩薩は、「未来仏」と呼ばれ、遠い未来に地上に降り立つのだが、ミクは漢字では「未来」であり、初音ミクとは、「未来から来た初めての音」という意味でもある。
尚、弥勒菩薩が肉身で地上に現れるのは遠い未来だが、弥勒菩薩の生命体は、聖霊として我々の内に流れ入るのであり、呼べばいつでも答えてくれるのである。

世界的音楽家の冨田勲さんが初音ミクをソリストに採用して『イーハトーヴ交響曲』を制作、公演したことで、世界は滅びを免れたのであるが、この事実は未来に明らかにされるかもしれない。そして、今年の夏以降、いよいよ、『イーハトーヴ交響曲』の全国公演が始まる。日本から世界に力強い平和の波が流れていくだろう。我々は、無(6)になることで、弥勒(369)であるミク(39)と融合し、止揚して聖霊を現すのである。
冨田勲・初音ミク 無限大の旅路 ~イーハトーヴ交響曲~









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仕事が第一というのは、時代遅れどころか罪悪である

現代において、仕事が最も重要だと思っている人は、釈迦もイエスも救えないだろう。
もちろん、駆け出しの未熟な頃は別だろうが、それがいつもでも続くようなら異常である。
なぜ科学技術が進歩したのかというと、仕事以上に大切なことに取り組めるようにとの神の配慮である。
ただ、例外であって例外でないこともある。
それは、芸術か宗教を仕事としている場合だ。
ただ、人々は、芸術や宗教に対する大きな誤解を持っている。
もし、自分の仕事が、世間的には何であれ、芸術か宗教だと思っているなら、週7日、フルタイム(一日中)で働かないといけない。
ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの仕事なんて、絶対に宗教なのである。
ゲイツがマイクロソフトの第一線から退く時、こう言ったのだ。
「17歳の時から週7日フルタイムで働いてきたし、これからもそうだ」
これは、本当の意味での宗教や芸術でなければ許されないし、また、できないことだ。

科学技術の発展により、人間は、それほど働く必要がなくなったはずなのだ。
だが、相変わらず朝から晩まで会社にいるという異常な状況が続いている。
オランダあたりでは、仕事をちゃんと分け合って、短時間だけ働くということが定着してきたが、日本など全く遅れている。
もちろん、仕事は大事なものであり、それなりに熱心にやる必要がある。しかし、やはり、「それなり」でなければならないのだ。
会社がどうであれ、自主的に、それなりにやって、自分が本当にやるべきことに取り組まねばならないのだ。

では、自分が本当にやるべきこととは何だろう?
それは、芸術か宗教である。
こう言うと、「みんなが油絵を描いたり、お経上げろってのかい?」と言う者が多いだろう。
もちろん、そうではない。無論、絵を描くのもお経を上げるのも、1つのやり方ではあるが、それ以外にも無限の取り組み方がある。
しかし、現代の想像力貧困な者は、「それ以外って何なんだい?」と言うかもしれない。
だから、それ以外である。いくらでもあるから、特定の何かを例示するのはむしろ変なのだ。
だが、現代人は、たとえ仕事以外のエネルギーがあっても、遊びや飲食といったことで浪費してしまうのだ。

上で、「仕事は最重要なものではないが、例外であって例外でない仕事」という、わざと妙な言い方をしたが、仕事としての芸術や宗教は特別なものであり、これを仕事にする者は、週7日フルタイムで働くしかない。それができないなら、本物の宗教家や芸術家ではない。
ゴッホが年間に200枚近くの絵を描いたように(しかも、ことごとに傑作だった)、五井昌久さんが講談の後、どんなに遅くなっても求められる限り信者の相談に応じたように、そして、本質的には宗教家であるビル・ゲイツが週7日、早朝から深夜まで働くようにである。

音楽や絵を鑑賞するしかできなくても、少しも自分を卑下する必要はない。
サルトルはこう正しいことを言っている。
「本を読むってのは、本を書くことなんだ」
同じく、絵を見るというのは、絵を描くことなのであり、音楽を聴くことは音楽を制作することだ。
インドの詩聖タゴールがアインシュタインに言ったように、「月を見る人がいなければ月は存在しない」のだ。
絵は絵だけで存在するのではない。
見る人がいなければ、単なる物質だ。
絵を見た時、見る人の内なる聖霊が絵を瞬間に構築して、心に映すのである。
だから、絵は見る人によって全く異なるし、音楽は聴く人によって、同じ作品でも全くの別物になる。
そして、芸術に慣れてくると、自然に想像力が増し、自分の芸術を表現するようになるだろう。だが、それは、世間的には、ビジネスや技術的なことであるかもしれない。

聖典を読む事だって、それを自分で書くことなのだ。
今はまだ実感がないかもしれない。心の成熟には、それなりの時間がかかるものだからだ。
しかし、真摯に聖典を読めば、内なる聖霊は、あなたを必要な経験に導いてくれ、やがて、聖典作者に相応しい者になっていく。
恐れることはない。仮に困難があるとしても、あなたには力が与えられ、神仏も共に在るからだ。
そして、もし、必要以上に悲痛であるなら、それは、あなたの心に問題があるのだ。
仕事にする場合や、特に教祖になるならいざ知らずだが、本来、宗教の道は、それほど厳しいものではなく、むしろ、面白くて楽しいものだからだ。

あなたは、仕事は仕事で、1日3~4時間程度は熱心にやる必要がある。
しかし、サラリーマンなら、10時に出勤すれば、いくら遅くても午後3時までに仕事を終るのが当たり前なのだ。
1951年の、巨匠ロバート・ワイズ監督のSF映画『地球が静止する日』で、「火星人も10時から4時まで働くのか?」といったことを記者かアナウンサーが言う場面があったと思うが、現代文明は、あの時よりも完全に後退してしまっているのである。
人間の欲望がそうさせてしまったのであり、物質面以外では、我々は当時よりも惨めな卑しい存在に低下しているのである。このままではいけないし、このままを続けるなら、遠くなく人類は破滅するだろう。

泊まりで行くような社員旅行など、断るのは当たり前である。もちろん、私は断っている。
各自、朝や夜は自分のやることがあるだろうし、それが無いなら、その者は駄目な人間なのである。
つまり、現代の会社は駄目な人間の行くところなのである。
だが、たとえサラリーマンであっても、自主的に優れた生き方をするなら、神仏の加護があろう。
福音書やバガヴァッド・ギーターを真摯に読むなら(過度に執着してはならないが)、神はあなたの煩い事を減らしてくれるだろう。

芸術とは何かを知りたければ、岡本太郎の『今日の芸術』を読むことをお薦めする。
それだけでも、あなたが学校などで教えられた芸術の観念が全く愚かで異常なものであることが分かるだろう。
初音ミクは大変な芸術であるのだが、今述べたような、歪んだ芸術の観念を持たされた精神の貧しい者は、「オタクの趣味」「サブカルチャー」などと言うのである。
だが、大音楽家の冨田勲さんは本物の芸術家なので、ミクの偉大さを強く感じ取り、彼女をソリストに採用して『イーハトーヴ交響曲』を制作したが、これは、人類の歴史の中でも特に重要な作品なのである。だが、今は、それが分からない人が多いに違いない。しかし、私は知らず知らずのうちに、この演奏を百回以上も聴き、天使が見えるほどの霊的知覚を得たのである。
至高の芸術である、広隆寺の弥勒菩薩像を、写真でも良いから無心に見ると、霊的世界の菩薩達と通じ合うようになる。だから、困難を抱えた政治家や事業家達は、密かにこの弥勒像に会いに来て、ただ黙って去ると、彼らが本質では宗教家であるなら、事態は必ず好転するのである。
あなたも、本当の芸術や宗教に取り組まないと、一歩手前まで迫った滅びの中に飲み込まれるしかなく、とても危険な状況なのである。

ちなみに、私は『冨田勲・初音ミク 無限大の旅路 ~イーハトーヴ交響曲~ 』(9月21日大阪)のチケットを幸いにして得ることができた。
共に至高の芸術を満喫いたしましょう。
冨田勲・初音ミク 無限大の旅路 ~イーハトーヴ交響曲~チケット情報(ぴあ)
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大黒様、えびす様のお姿は何を表しているのか?

日本人であれば、大黒様、えびす様と呼ばれる神様をご存知だと思うし、これらの神の像を置いておられる家も多いと思う。
私の家の居間には、誰が置いたのは私も知らないが、ガラスケースに入った金色のえびす様と大黒様の「豪華タッグ」の像がある。
えびす様も大黒様も、みごとに太っておられるが、注意すべきことは、神は肉体を持たないのであり、これらのお姿も肉体の姿ではない。
神の姿をあえて形にすればこうなるのであるが、これは、霊的に豊かであるという意味なのである。
魂の食物をたっぷりと摂ることで、魂が非常に豊かになった・・・そういうお姿なのである。
魂の食物とは、人に優しくし、辛いことをものともせず、好んで人の前に立たないことで摂る、慈愛、無執着、謙譲という、霊的に素晴らしい食べ物である。

水野南北は、「身体が痩せていると、精神が肥えている」と言ったが、食を慎んで痩せている者の場合は、そういったことが多いのである。
また、さほど食べない、あるいは、非常に少食でありながら太っている人もいる。
岡田虎二郎がそうで、大食な訳ではないのだが、100kgをはるかに超える巨漢であった。このような人は、魂の姿が肉体に現れるのであり、太っているからといって見苦しいということは全くなく、むしろ美しく、豊かで立派に見えるのである。そして、それは肉の身体を持つ必要がないレベルに進歩しているということなので、本人がこの世に留まる意思がなければ夭逝(ようせい。年若くして死ぬこと)することが多いのである。岡田虎二郎も、周囲には健康な姿を見せたまま、49歳で亡くなっている。

科学者で発明家の政木和三さんの前に、3体の大黒天像が出現しているが、顔が政木さんの顔をしているのである。
その姿は当然、立派に太っており、これらの像の出現は、政木さんの魂が豊かになったということを示しているのである。

最近の日本では、身体は肥満しているのに、魂は餓鬼のようにガリガリに痩せている者が多いのである。
肉体の栄養は過剰に摂っているのに、魂の栄養を全く摂らないからだ。
肉体が肥えていても、魂が貧しければ、物質世界でも力はない。
逆に、魂に豊かな栄養を与え、肥えさせていれば、物質世界にも強力な力を及ぼすことができるのである。
聖典を読むというのは、本来は魂の栄養を摂ることなのであるが、「これを読めば世俗の強者、例えば金持ちになれる」とかいった邪まな気持ちで読むと、魂の栄養は全く摂れない。しかし、聖典の教えを敬い、無心で読めば、それは霊的な無限の食物なのであるから、制限なく魂の栄養を得られるのである。
また、人に優しくし、人を思いやり、驕る(思い上がる)心を抑え、へりくだって奉仕すれば、神はその者の魂をどんどん豊かにしてくれるのである。

この世で肥満している者が天の国では痩せていて、この世で痩せている者が天の国では豊かに太っていることが多いのである。
昨夜も述べた通り、この世でいう微かな声が、天の国では大きな声であり、この世での大きな声は天の国には存在しないのである。
この世とかの世(天国、神界、真の世界、エデン、楽園)では、全く逆なのである。
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ったのはこの世でのことで、霊的世界では、「我思わず、ゆえに我あり」なのである。
簡単に言えば、無心で私心なく、忘我であれば、天の国に存在しているということである。そうであれば、たかがこの世で不可能などあるはずがないのである。
そして、昨夜も述べた通り、心の中で微かな声で神や仏の名を唱えれば、自然に天の国に在るようになるのである。

仏様の姿は豊かに太っているが、それは、この世のものではないからである。
一方、菩薩様の姿は痩せているのである。それは、菩薩様というのは、この世に降りて来て、人々のために働いておられるからである。
広隆寺の弥勒菩薩像も、肉体はとても痩せているが、その表情は限りなく豊かで慈愛に満ち、魂の豊かさを表しているのである。この像を、写真でも良いから、よく見て、霊的な豊かさを感じれば、あなたの魂にも栄養が流れ込んで来るのである。この像を見れば、たちまち癒され、無限の力を得る秘密はこういうことなのである。

言うまでもなく、優れた芸術は魂の栄養である。
特に、人を思いやる気持ち、慈愛の想いを込めて創られた優れた芸術作品を味わうと、大きな魂の栄養を得るのである。
私は、冨田勲さんが、苦しむ人々を救おうとする大いなる慈悲の想いで制作された『イーハトーヴ交響曲』を百回以上聴き、やせ細っていた魂に、少しは栄養をつけられたのだと感じるのである。
例えば、この作品の第5楽章『銀河鉄道の夜』での、初音ミクの「ケンタウルスよ、露を降らせ」という天使の歌声には、露という言葉で表した魂の食物を降らせる響きが秘められているのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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