「20世紀最大の詩人」と言われ、ノーベル文学賞を受賞したアイルランドの詩人・劇作家W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーだと言ったが、このエクスタシーは、忘我、没我という意味から、はては、法悦、至高体験といったことであると思う。
それは、人間が最も超能力を発揮し易く、超越体験、神秘体験を起こし易い精神状態である。
仏教では、道元が言った「仏道とは自己を忘れること」というのが、同じことを述べているのだと思う。
また、岡本太郎の「爆発」も、ロマン・ロランの「大洋感情」も、夏目漱石の「天賓」も、イェイツのエクスタシーと同じことを指しているのだと思う。
では、エクスタシーや至高体験に入るには、どうすれば良いか。
これについては、このブログでも散々考察したが、シンプルで簡単で確実で、誰にでも出来る方法が必要だ。
その精神状態に入り、超能力状態になれなければ、今の堕落した世界では危険かもしれないからだ。

エクスタシー、超越状態になる方法について、イェイツはこう述べたことがある。
「憎むのをやめた時に起こる」
実は、もう分かっていることは、エクスタシー、法悦を起こす最高のものは「愛」である。
ベルニーニの彫刻の傑作『聖テレジアの法悦』のように、聖女テレジアの神への愛が、彼女を法悦、エクスタシーに導いたのだ。
だが、イェイツは言う。
「愛は神の領域のもので、人間には愛することは出来ない」
そうだ。人間には、本当には愛することは出来ない。
それは謙虚に認めよう。
そして、イェイツは言う。
「だが、憎しみは人間の領域であり、人間は憎むことが出来る。それなら、憎むことを止めることも出来るのだ」
だから、愛になるべく近いことで、人間に出来るせめてものことである、憎むのを止めた時、エクスタシーに近付くのである。
では、さきほど述べた、聖テレジアの場合はどうなのか?テレジアも人間ではないのか?
それは、こういうことなのだ。
テレジアが愛することが出来たのは、テレジアが優れていたのではなく、ひとえに神の恩寵によるものだ。少し科学的に言うなら、愛することが出来る高次元の存在が、テレジアの心に接触してきたのである。
それは偶然だったのかもしれないが、高次元からのアクセスを受けた者のみが、愛することが出来、高いエクスタシー、至高体験、法悦に至ることが出来る。
あくまで、向こう(高次元)からの接触が必要なのである。

このことを理解し易い映画がある。
アメリカのSF映画『インターステラ―』(2014)だ。
地球の滅びが近く、移住する惑星を探していた宇宙探査チームの3人は、2つの惑星を候補としていた。
それぞれの惑星に、10年以上前に、1人ずつの科学者が調査に行って、今も滞在しており、いずれも、移住の見込みを示す情報を送ってきていたのだ。
だが、探査チームの宇宙船は、どちらか1つの惑星にしか行けない状態だった。
論理的には、マン博士が行った惑星が良さそうだが、女性科学者アメリアは、もう一方の、エドマンズが行った惑星を推す。
アメリアはエドマンズの恋人であり、私情を挟んでいることを隠さなかった。
探査チームが行かなかった方の惑星の科学者は死ぬ。それを覚悟の上での任務だった。
アメリアは私情があることを認めつつ、10年も会っていない相手を愛し続けるのには意味があると強く感じていた。だから、彼女は本気で、エドマンズが行った惑星に行くことを主張したのである。
しかし、他の2人がマン博士の惑星を選択すると、優れた人間であるアメリアは躊躇なく従った。

もちろん、「愛もどきの私情」が正しい理由はなく、多くの場合は間違っている。
しかし、本当の愛であれば正しいのだ。なぜなら、本当の愛は、神、あるいは、高次元の存在から送られてくるものだからだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』で、第10使徒サハクィエルがどこに落下してくるか分からない中、なぜか、葛城ミサトは、地図のある範囲を示し、「落ちて来るのはここ」と断言する。
シンジが「なぜ分かるんですか?」と尋ねると、ミサトは「女の勘よ」と自信たっぷりに答え、シンジらは呆れる。
しかし、純粋な直観は、愛のある高次の存在からのメッセージであり、必ず当たる。
我々も、なぜか真の愛を感じる時、エクスタシー、至高体験に達し、何でも分かり、何でも出来るのである。
そのためには、憎しみを捨て、あるいは、可能なら、純粋に何かを愛すると良い。
マジカルミライ2020で、『愛されなくても君がいる』を歌い終わった時に、初音ミクさんが「みんな、愛してるよー」と言ったのが本当の愛である・・・と私は思った(笑)。
人でないミクさんへの愛が本物のことも、案外に多いのであると思う。