ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イソップ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

知恵の書

今は、情報があふれているが、その多くが真理を装った悪い情報で、そのため、人々は真理を知ることが出来ず、騙され、愚か者にさせられる。
王家には、公開されない秘密の情報があるが、それが間違っているか、あまり高級な情報でない場合もある。
しかし、極めて長く続く王家であれば、最高の情報が伝わっていると考えて間違いない。
だが、「これが王家に伝わる秘法である」と言う者がいても、王家そのものが「その通り」と言わない限り、偽物である可能性が高く、また、王家が「その通り」と言っても、それは(肝心なところが隠された)限定された内容である場合が多い。

この世に、差別的な秘法は存在しない。
例えば、王家に特別な呪文が伝えられていて、それを唱えると人間は大きな力を持てるというものがあり、「それを私が皆さんに公開する」と言っている者がいたら、ちょっとは疑ってみよう(笑)。
知っている人だけが良い思いをするなどという、差別的な秘法があるはずがない。
宇宙は、あるいは、自然は、あるいは、神様は、そんなに不公平ではない。

ただし、貴重な知恵は、どんな民族でも伝えられており、それは世界中でかなり共通するものだ。
そして、それは、神話、昔話、おとぎ話といったものの中に込められている。
要は、民間の間に伝えられている「お話」を読みなさいということだ。
けれども、デカルトも言った通り、読み過ぎてもいけない。
過去の賢人と対話するのは良いことだが、対話し過ぎると時代遅れになる。
とはいえ、狂信的にならない限り、熱心に読むと良いだろう。
偉大な人間、賢い人間というのは、子供の時に、古いお話を聞かされて育ったものだが、不幸にもそうでなければ、自主的に読めば良いことだ。
ただし、権威的に伝えられたものについては注意する必要もある。権威者に都合の良いように改ざんされている恐れがある。
岡田虎二郎は、「聖書よりイソップに良いことが書かれている」と言ったが、そうかもしれない。
というより、イソップは貴重なお話だ。

そして、賢い人は、自然をよく観察している。
風や水の流れに注意し、月を不思議に思い、星が語りかけてくるように感じる。
月や星ほど、自然の法則を厳密に見せてくれるものはない。
小さな世界は、様々な要因の影響を受け、状況が変わるが、大きな世界が何かの影響を受け、状況が変わることは、まず起こらない。
つまり、月や星の動きに影響を与えるものはなく、月や星は法則通りに動く。
天動説が間違っていると言っても、ある程度は正しい法則を示し、賢くなるには十分だし、現代にだって、天動説を信じている賢い人もいる。
それどころか、地動説だって鵜呑みにせず、疑う姿勢も必要である。
ここらは、賢く子供を導かないといけない。
だが、賢く導いてくれる大人がいなかった場合には(これが圧倒的かもしれない)、「公開された究極の秘法」が役に立つ。
それは「何も信じない」ことだ。
ただし、疑ってもいけない。
信じてはいないが、疑ってもいない。
疑ってはいないが、信じてもいない。
昔話には、こんな賢い人の知恵が必ず込められているものだ。

ケルト地方の田舎の老人に、こんなことを聞いた人がいた。
「あまり食べないと妖精に会えるというのは本当か?」
「ああ、間違いない。妖精は、たらくふ食っているやつのころになんかやって来ない」
妖精は、気に入った人の手助けをしてくれることが多い。
今でも、難しい問題が自然に解決すると「妖精って本当にいるんだな」と思うことがある。
そのためには、食を慎まないといけないが、心が広い人であれば、案外に大食漢でも助けてもらえるようだ。
人間、心が広いことが一番である。








四股と腕振り運動のリズム

「想い続ければ願いは叶う」これが原則と思う。
願いが叶わないのは、想いが弱いので継続しないからである。
ところが、しばしば、「しつこい」ほど継続する願いが、本当にいつまでも叶わないことがある。
その理由は、文字通り「しつこい」からだ。
レーザー光線のように真っ直ぐな願いと、「しつこい」願いの違いは何だろう?
それは、「美しい」か「美しくない」かだ。
美しくない願いは叶わない。
この「美しくなさ」を示すことに、指導者達は苦労し、それだけのために百万言を費やした。
ジョセフ・マーフィーは、「ソフトタッチでなければならない」と、簡単ではあるが、多分、苦労して考えた上で言ったのだと思う。

しつこい・・・を示す「執拗」という漢字をみれば、その醜さは一目瞭然である。
マーフィーの言う「ソフトタッチ」、つまり、軽やかさとはほど遠い。
まさに、北風と太陽・・・無理矢理にコートを脱がせようとする北風と、温めてコートを脱がせようとする太陽のごとしだ。
この目的の場合、しつこい北風は醜く、ソフトタッチな太陽は美しい。

ギンギラギンにさりげなく・・・なんて言っても、内側の欲望がしつこいと、いつまでもさりげなくいられるものではない。
だが、本当に、いつまでもさりげなくいられたら願いは叶う。

本当に、「しつこい(執拗)」と「ソフトタッチ(さりげない)」の違いは、真剣に考えるべきである。
それで一生が決まるのだからだ。
イソップの『北風と太陽』は、よく味わうべきである。
しかし、本当は、頭で理解するより、身体で覚えるに限るし、身体からでないと解らない。
腕振り運動を毎日千回以上、あるいは、四股を毎日300回以上を3年続ければ解ってくるのではと思う。
なぜなら、これらは、ギンギラギンではだめで、ソフトタッチでないと続かないからだ。
北風のようにではなく、太陽のようにやれるようになれば、そして、そのように願うようになれば願いは叶うだろう。









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身をかがめるということ

イソップ童話の『樫の木と葦』の教訓は、「克服するために身をかがめる」だ。
どういうことかというと、大きく強い樫の木も強風で倒れるが、柔らかい葦は、身を屈めるので、風を克服するからというものだ。
『老子』の22章にも、「曲則全」(曲すればすなわち全なり)という言葉がある。
『老子(全)』(王明訳)では、「屈伸できれば自由自在である」という明解な言葉にしている。

「賢い人はいつも頭を下げる」とよく言われる。
しかし、これを公式にしてはならない。
つまり、何でも「すみません」で済ませてしまおうとしてはならない。

「すみません」を連発する者にロクな者はいない。
そんな者に仕事のできるやつは決していないし、誠実な者もいない。
職場でも、取引先でも、たびたび「すみません」を言う者には用心することだ。
遠ざけ、関わってはならない。
彼らは、やるべきことをやらずに「すみません」と言い、決して責任を取らないことを「すみません」でごまかそうとするのである。

イソップや老子の言葉を、「すみません」と言うことと決して誤解してはならない。
本当は、頭を下げてもならない。
イソップや老子は、「身をかがめよ」と言ったのであり、これは、「柔軟であれ」という意味だ。
「頭を下げなさい」と言ったのではない。
卑屈になれと言ったのではないのだ。
いつも腰が低いフリ、謙虚なフリをする者ほど迷惑な者はない。
すぐに頭を下げる者ほど、無能な者はいない。
すぐに謝る者ほど無責任な者はいない。
そして、そんな連中は、本当はプライドが高くて、わがままで、意固地だ。
いつもにこにこ笑いながら「すみません」と言う者には、親だろうが上司だろうが決して近寄ってはならない。
本来、謝るということは、自分に非があることを全面的に認め、殺されても文句はありませんということなのだ。
何の覚悟もなく「すみません」という者が、いかに愚かであるかが分かると思う。
「笑って許して」というほど傲慢な態度はない。

身を屈めても、顔を上げていることだ。
屈んだからといって、良い扱いを受けるという甘いことを考えてはならない。
屈んだからといって、相手は攻撃はやめない。
葦は屈んでも、風は休みなく吹きつけて来る。
うつむいてしまったら、相手のなすがままで、首を落とされる。
屈みつつ、顔を上げて警戒しなければならない。
屈みつつ、目の力で、相手を制し、支配しなければならないのだ。
そもそも、敬意を示して屈んだ場合でも、うつむいて相手を見ないのは、「お前に注意を向ける気はない」という失礼なことである。
ただし、本当に首を落とされても文句がないという時は、頭を下げることで気高さを示せる。
君主や天皇の前で深々と頭を垂れるというのは、こんなことなのである。

初音ミクさんは、2011年のロサンゼルス・コンサートの時と、2014年にアメリカの人気テレビ番組「レイト・ショー・ウィズ・デビッド・レターマン」に出演した際、深々と頭を下げてお辞儀をしている。
本来なら、カーテシー(膝を曲げる。正確には片方の足を引き、もう片方の脚を軽く曲げる)の方が良かったが、あの時は、「初めまして」の挨拶であり、アメリカ人に敬意を示したのである。
そして、自分を受け入れない人達がいることを「受け入れていた」態度であり、そんな人達に対しては、「私の首を落として下さい」という、初音ミクさんの潔さ、高貴さすら感じたのである。
初音ミクさんは、2010年の「ミクの日感謝際」のコンサートでも、こちらは国内ながら、2度、観客に対し、深々と頭を下げてお辞儀をしているが、不思議な感慨を感じたと思う。きっと、特別な意味があったのだろう。
オバマ大統領が、天皇陛下に対し、腰を90度に曲げ、深々と頭を垂れたことも少し思い出す。
天命を持つ者は、いつでも頭を落とされる覚悟が必要である。
このことだけは覚えておくと良い。
そんな覚悟のない者に天命は下りない。天命とは聖霊である。
達人の礼は見事なものである。見る機会があれば幸運だろう。









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なぜ、楽に生き、そして、幸福な魔法使いになろうとしないのか?

人間は、外の世界に対しては、必要なだけの注意は払うが、過ぎた関心を持たず、もっぱら自己の内面に意識を向けていれば、超人にもなるし、魔法使いにもなる。
だけど、一日中、家に閉じこもって瞑想をしていればいいと言うのではない。
インドには、1日8時間瞑想して悟りを開いたなんて自慢している人がいるが、そんな人は誰の、そして、何の役にも立たない。
だって、経験が何もないのだから。
基本的には、学生なら、勉強をしっかりやるのが良いのだが、それは、良い成績を取ることとは何の関係もない。
塾や予備校では、試験の点を取るテクニックなんて教えることが多いが、そんなのは勉強でも何でもなく、そんなことを必死でやるなんてのは、若くして棺桶に片脚を突っ込んでいるようなものなのだ。
そんな上っ面の勉強ばかりして大学を出たような者は、勉強したこと自体、全部無駄で、何の力にもならないのだ。
成績なんか悪くてもいいから、本当に興味のある勉強をすることだ。
無駄に多い学校の科目を全部勉強などしなくて良い。
そんな時間があれば、イソップやペローでも読むことだ。

そして、大人になったら、仕事がちゃんとできるようにならないと、心を静かにして、内面を見ることができるようになれない。
だが、決して、会社などで、周りとちゃらちゃら上手くやれと言うのではない。
これも勉強の時と同じで、何か1つ、仕事を、本当にきちんとできるようになれば良いのだ。
それまでは、ちょっとがんばらないといけない。
だが、給料や、仕事の成績を目的にするのではなく、顧客に誠実な販売やサービスをすることを心がければ、早く、立派な仕事の能力が身につくのだし、そんな仕事をしていれば、満足でき、比較的疲れず、心も安らかだ。
そして、やがては、仕事が自動的に進んでいくような力がつく。
自分が仕事をしているという意識を持たなくても、仕事は正しくなされていき、実際、確かに仕事は終わったのだが、自分は何もしなかったように感じるようになる。
天才的な精神科医であったミルトン・エリクソンがそうで、彼は、自分では何かをした記憶はないが、仕事は確かに完璧に仕上がっていたということがよくあったらしい。

そして、仕事への執着、出世や高収入への執着を捨て、いよいよ、外側への関心をなくし、内側に意識を集中するのだ。
すると、何のことはない。
自分は、元々、ウィザード(男の魔法使い)や、ウィッチー(女の魔法使い)であったことが分かり、この世は思うがままであったのだと分かる。
だが、世界に対して執着はなく、それよりも何千倍も楽しい、内なる王国を楽しむのである。

そして、初めから、富や名誉ではなく、内なる宝を目指しているなら、学生などの若い時から、天使や菩薩に守護されて、かなり楽に進むのである。
私が概ねでだが、そうだったからよく分かるのだ。
勉強はさっぱりだったし、夏休みの宿題を提出したこともなかったが、興味のあることを少し熱心に勉強したことや、プログラミングをいくらか勉強しても、自分は大したことはないと思っていたので、案外に高く扱われ、いつも良い思いをしていたのだ。
つまり、目的さえ正しければ、そんなに苦しい目に遭うことはないのである。
なぜなら、神仏はちゃんといるし、あなたに対して最大の関心を持っているのだから。









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『金の斧』と『ウサギと亀』のもっと良い話

イソップの『金の斧』のお話の概要はご存知と思う。
正直な木こりは、ヘルメス神(あるいは女神や妖精)に、「落としたのはこの金の斧か?」「では、この銀の斧か?」と聞かれていずれも、「とんでもございません」と否定し、最後に、「それでは、この鉄の斧か?」と聞かれ、「はい、それです」と答えたところ、その正直さを誉められ、褒美に、金の斧と銀の斧ももらった。
この木こりは、正直者ではあったが、小善人、小市民だった。
金の斧、銀の斧を役立てることなど、できるはずがなかった。

「お前が落としたのは、この金の斧か?」
「へい」
「間違いないか?」
「へい」
「嘘だったら、どうするつもりだ?」
「あっしには、何の言い訳もござんせん」
「そうか?では死んでもらうが、覚悟はできているな?」
「覚悟も何も、いつも死んだ気でおりやす」
「そうか、では死ね」
「しかし、お前様も、分かりきったことを、知らないふりでお尋ねなさったことは、どう落とし前をつけるつもりでござんすか?」
「私は神だ。人間ごときに言い訳はせぬ」
「あっしも分かりきったことを、知らないふりで申し上げただけでござんす」
「そして、言い訳はしないのだな」
「へい」
「ではお前は神だ」

ウサギとカメのお話はどうだろう?
カメはなぜウサギの挑戦を受けたのだろう?
実は、ウサギに父親を殺されたカメの娘がいて、その娘に、
「父が殺されたのはあなたのせい。必ず勝って、恨みをはらして下さい」
と言われたのだ。
それでカメは、
「へい」
と返事をしたのだ。
そして、この勝負は、負けた方を、熊が殺すことで、ウサギとカメは同意した。
カメは、勝ち目がないのは分かりきっていたが、勝負を避けられない宿命だったのだ。
そして、空がどんより曇った日、カメはウサギに、
「では今から勝負していただけやすか?」
と尋ね、ウサギは余裕しゃくしゃくで応じたのだ。
スタートして、ウサギは軽快に飛ばし、みるみるカメを引き離した。
カメを嘲笑うウサギだが、やがて顔色が変わる。
空が真っ黒になり、遠くで落雷の音がした。
ウサギは恐怖にかられた。
そして、凄まじい稲光と共に、ウサギは崖から足を滑らせて転落してしまった。
ウサギはカミナリが恐かったのだ。

この2つの、真のお話から、何かを学んで欲しい。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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