ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イエス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

卑しい「ありがとう」を言わない

私がひねくれているだけかもしれないが、「ありがとう」という言葉を数多く言えば良いことがあるという教えには非常に抵抗がある。
ロンダ・バーンの『THE SECRET(シークレット)』のDVDで、若い男性の話者が、「着ている服があることに『ありがとう』、住む家があることに『ありがとう』と言いましょう」と澄ました顔で言うのを見ると、本当に気色悪く感じるのだ。
この話者が言うには、何かに感謝すれば、それが大きくなって返ってくるらしい。
たとえば、自分のポンコツの車に感謝すれば新車のベンツになって返ってくるみたいな感じである。
そのような「得をするために感謝する」という考え方が卑しく思えてならないのだ。

そもそも、感謝とは、何かをしてくれた人に対し、労(ねぎら)い、敬意、謙譲の気持ちを込めて行うものだ。
それに関しては、私も全く抵抗はなく、自然に行うことが出来ると思う。
しかし、見返りを期待し「ありがとう」を連発し、それと同じような感覚で、自分のために何かしてくれた人に対し「ありがとう」と言ってしまうことがあってはならないと思う。
「何もしてくれなくても感謝しろ」といった教えは、一見、貴いような気はする。
たとえば、社長が授業員に対して、逆に、従業員が社長に対して、あるいは、子供やペットに対し。
いやいやいや、従業員も社長も子供もペットも、自分のために、ものすごくいろいろしてくれているのであり、それに対して感謝するのは良いが、それを、何もしてくれていないと思い違いする愚かさを感じるのである。
それに、そんな従業員や社長や子供やペットに対して想うべきは、感謝と言うより敬意である。
実際、「ありがとう」と言いながら、敬いの気持ちを持たない者が多いような気がするのである。
自分のポンコツの車に「ありがとう」と言いながら、心では「お前みたいなポンコツは早く消えて、新車のベンツになってくれよ」と思うようでは、今持っている車を軽んじているのであり、そんな者は、人に対しても敬意を持たないものであると思う。

志賀一雅博士は、人間の脳の機能的にも、「よかった」と思った後に、その気持ちを表現するために「ありがとう」と思うのだと言い、やみくもに「ありがとう」と言うことには苦言を呈している。
それで、「よかった・ありがとう呼吸」を考案したのである。

イエス・キリストは、あまり感謝しなさいとは言っていないと思う。
福音書の翻訳の際、翻訳者が「感謝」という言葉を当てたところも、どうも違うと思うのだ。
実際には、イエスは「恵まれていることを知りなさい」と言ったのであると思う。
ポンコツでも、乗れる車があるなら、それは恵まれているのである。
ポンコツの車も得られない人は世界中にザラだ。むしろ、地球人口で言えば、動く車を持っている方が稀である。
スマートフォンを持っているなんて、稀の稀だ。そもそも、電話を見たことがない人だって少なくない。

上野千鶴子氏の2019年の有名になった東大の入学式の祝辞で、新入学生に対し、
「あなた達が今ここにいられるのは、あなた達が恵まれていたからだ」
と言ったのは、実に当を得ていたと思う。
もし、そこの学生が、「私は東大に入れて感謝しています」と言ったら、そいつアホかと思う。
「いえ、親や高校や予備校の先生に感謝しているのです」と言うなら、確かに、親や先生はいろいろしてくれたのだから真っ当な部分は当然あるが、それも、感謝というより、自分を助けることが出来る親などに敬意を持つ方が先なのである。
東大に入れたのは、自分の権利でも、自分が頭が良いからでも、自分が努力したからでもない。
そういった部分も確かにあるかもしれないが、最重要なことは、自分が恵まれていたからである。
それが分からないと、恵まれていなかったから、自分のように良い想いが出来ない人のことが分からないのである。
東大に入りたくて入れなかった人の中には、自分よりずっと優秀な人も沢山いるのである。
まあ、今時おかしな言い方だが、自分より優れているのに、向いていない肉体労働者になるしかない人もいるかもしれない。

イエスは、感謝しろと言ったのではなく、「恵みを知れ」「恵みを思え」と言ったのであると私は思う。
それは「ツイてるツイてる」と連呼することではない。
「これがあって良かった」と認識することである。
その結果、自然に感謝の念が起こるのは良いことである。
しかし、わざとらしく「ありがとう」と言うのは、私には馬鹿か卑しいかのどちらかとしか思えないのである。

プライベートルーム
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「プライベートルーム」
Kay


「ありがとう」の大安売りをしても引き寄せは起こらない。
恵みを認識することで引き寄せは起こるのである。
それが当たり前の考え方であると私は思う。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)神さまの周波数とシンクロする方法(志賀一雅)
(2)新約聖書 福音書(塚本虎二)
(3)ジーザス・クライスト=スーパースター(1973) [Blu-ray]
(4)積極的考え方の力(ノーマン・ヴィンセント・ピール)
(5)無限供給の鍵(谷口雅春)

無料の聖なる光線銃

イエス・キリストは、「汝破れたり。退けサタン」と言って、サタンを黙らせたのだが、サタンは思考のことで、心、自我だと言っても良い。
たとえば、男の子が好きな女の子が出来たら、「彼女は僕が好きだろうか?」「彼女は僕を嫌いじゃないだろうか?」「彼女には好きな男の子がいるのではないだろうか?」「彼女に格好良いと思ってもらうにはどうすればいいのか?」など等、いろんな思考が起こる。思考するのは自我であり、心である。
イエスは、こんな思考、あるいは自我、あるいは心を黙らせたのである。
面倒だから、以下、思考、自我、心を、まとめて「思考」と言う。
思考を黙らせればキリストであり、全知全能だ。
そこで、思考を消す光線銃が欲しいものだが、思考は死なない。黙らせても、必ず蘇る。
だから、軽量小型の携帯性の良い光線銃を手に入れ、出てくる度に光線銃で撃って黙らせるしかない。
でも、そうやって何度も光線銃で撃っているうちに、思考は大人しくなってくる。

ラマナ・マハルシは、その光線銃は「私は誰か?」という想いだと言った。
ただ、マハルシのそれは、思考を黙らせると言うより、本当に思考を殺して二度と復活しないことを目的にするものだ。
その目的の達成はハードルが高い。
マハルシの光線銃「私は誰か?」は大型で強力なものと思われる。
だが、大型だけあって、少々操作が難しいかもしれない。
とはいえ、誰でも使えるのだから、時々は使うと良い。

妖精は光に透ける
AIアート595
「妖精は光に透ける」
Kay


そこで、いつでも手軽に使える、対思考用の軽量小型光線銃を手にしよう。
マハルシの大型光線銃に比べれば、パラライザー(麻痺させる武器)みたいなもので、一般に言う麻酔銃のような光線銃だ。
しかし、思考というお化けが出てきたら、とりあえずパラライザーで痺れさせれば安心だ。
そして、お化けも、何度も撃たれていたら、そのうち大人しくなる。その理由は、お化けがパラライザーを恐がるというより、撃てば痺れさせることが出来るというこちらの自信がお化けを威圧するのだ。
その小型軽量のパラライザー効果のある光線銃は、「だから何?」という言葉だ。
「だから何?」「それが何?」「それで?」「だから?」などのバリエーションがある。
英語では So What? だ。
性能が悪い光線銃「知らんよ」「知るもんか」「関係ない」「どうでもいい」だと、お化けはあまり大人しくならない。
だが、「だから何?」と言えば、お化けは確実に痺れて大人しくなる。
心配事や不安、悩み事が出てきたら「だから何?」と言ってやれば、その心配事を構成する思考は痺れて黙る。
そうすれば、心配する必要がない心配だと分かったり、あるいは、本当に必要なことが浮かび、それを何も考えず淡々と実行し、気が付いたら解決している。
そりゃ、思考がない時に浮かぶ解決策は天才の解決策なのだから当然だ。
つまり、思考を消せば、誰でも天才なのだ。
悪い意味で言う「思考停止」は、本当は思考が停止しているのではなく、愚かな思考にとりつかれた状態で、洗脳状態であると言うことが出来る。
この光線銃は、そんな愚かな思考も痺れさせ、黙らせる。
最新の、小型軽量、クールでイカした、それでいて性能抜群、いかなるお化け(思考)も痺れさせる光線銃、
「だから何?」「それが何?」「それで?」「だから?」
ただいま無料である(本当はずっと無料だが)。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え
(2)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
(3)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(4)こころの最終講義(河合隼雄)
(5)自我と無意識 (C.G. ユング)

「行け俺」のノリで「消えろ俺」と言う

キリスト教に興味がなくても、イエス・キリストの荒野の試練の話は何となく知っているのではと思う。
これは簡単な話ではあるが、福音書に載っているままでは、それでも複雑過ぎるから、もっともっと単純に言ってみる。
イエスは、粗末な服と靴だけで・・・小屋のような建物すらなく、食べ物が入ったリュック1つない状態で40日を過ごしていた。
そんな、食べ物だけでなく、物質的なものへの欲求が極大になっているイエスのところに悪魔がやってきて、「俺に従うなら、何でも、世界中の富ですらやる」と言って、自分に服従するよう誘惑する。
福音書では、イエスがそれを断る理由をいちいち書いているので話をややこしくしているが、つまるところ、イエスは、「いらん。サタンよ、お前の負けだ。失せろ」と言ったのだ。
この「失せろ」もまた、福音書では「退けサタン」などと変な書き方をするから誤解を生むのだ。

ところで、このサタンの正体は、自我(エゴ)で、これは心であることは間違いないと思う。
そこまでは指摘している人は多い。
だが問題は、「失せろサタン(福音書的には「退けサタン」)」と言ったのもまた心だということだ。
なぜなら、心ではない本当のイエスであるキリスト(魂。真我。聖霊。内なる神)はそんなこと言わないからだ。
これはちょうど、馬鹿なことをした自分に、自分で「この大馬鹿者」と言うのと同じだ。
「この大馬鹿者」と言っている自分も、言われている自分も同一人物で、つまるところは同じ心だ。

イエスは、自分に対して「失せろ」と言い、自分が本当に失せた・・・つまり消えたのだ。
「行け俺」と言って俺が行くのは分かるが「消えろ俺」と言って俺が消えるのは奇妙に感じるが、同じことだ。
「自分を甘やかす」という言葉があるが、甘やかすのも甘やかされるのも自分・・・同じ心だ。

イエスの「退けサタン」は、「失せろ俺」という意味だが、この俺は心である。
よって、イエスは「失せろ心」と言ったのである。
これなら「退け心」と言っても良い。
だが、「失せろ」「退け」とは言ったが、実は、「消えろ」とまでは言わなかったのだ。
これはちょうど、議論をしていて、明らかに間違った論を主張する者に対し、正しい論を言う者が「失せろ」「退け」と言うのは正しいが「消えろ」と言うのは正しくないのと同じだ。論が間違っていても「居る」権利はあるのだ。
そして、間違った論を主張することをやめ、大人しくしていれば、正しい論による恩恵を間違った論を持つ者にも与えるのである。
これが真の民主主義である。

行け私
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「行け私」
Kay


では、間違った論を持つ者をどうすれば大人しくさせることが出来るかご存じだろうか?
仕事を与えることだ。
間違った論を声高に主張するのは暇だからだ。
簡単だが気を抜けない仕事を与えておけば、静かになる。
たとえば掃除とか在庫確認とか。
「いや、掃除や在庫確認は難しいこともある」という空気の読めない、IQが低い主張は、やはり暇な者のやることだ。
そこで、心に、腕振り運動とか、足踏み四股、マントラ、念仏といった単調な作業の監督をさせたり、最高なのは静かで深い呼吸をさせることだ。
これが、キリスト、あるいはブッダ(仏陀。如来)になる原理である。
尚、腕振り運動、足踏み四股、深呼吸は、ダイエットや健康や身体強化といったオマケも沢山付いてくるのだから、やらない理由がない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻
□足踏み四股に関して
(4)四股鍛錬で作る達人
(5)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌]
□呼吸に関して
(6)人生を思うように変える呼吸法
(7)弓と禅 単行本

山を歩かせて海に入れるには

イエス・キリストは言ったものだ。
「山に向かって、立ち上がって海に入れと命じ、命じた通りになると信じて疑わなかったらそうなる」
だが、イエスは、どうすれば信じて疑わないようになれるか語っていないことになっている。そこが肝心なのに。

イエスには十二使徒と呼ばれる12人の高弟がいたが、イエスはその12人を平等に扱っていたわけではなく、特にヨハネがお気に入りだった。
福音書には「ヨハネはイエスの胸に寄り添って」などといった記述があったり、なんとなく、ヨハネが美少年であったことを思わせる。
いずれにせよ、イエスは弟子たちを平等に扱っていなかった。
それに比べ、私の知り合いは、こんなことを言ってたものだ。
「俺の大学時代のラグビー部のコーチは平等だった。皆を平等にゴミ扱いした」
すると、平等には扱わないながら、誰もゴミ扱いしなかったイエスの方がマシだ(笑)。

そうだ。イエスは誰も差別しなかったが、決して、人を平等には扱わなかった。
本当に重要な教えは、隠れて教えた。
馬鹿に重要なことを教えて誤解されたら大変だからね。
本当に重要なことは、馬鹿には理解出来ないものなのだ。

山が海に入ることについて、有名な牧師でも理解出来ず、困った解釈を言う者も多い。
例えば、ロバート・シュラーは優れた人ではあったが、この件について、
「イエスは、どれくらい時間がかかるとは言わなかった」
と、「おお、なるほど!」と言ってもらえそうなことを言った。
分からないなら分からないって言えば良いものを・・・
そこにいくと、道元は、『正法眼蔵』のどこだったか忘れたが、山が歩いて海に入ることについて書いている。
で、どうすれば、そうなると書いていたと思う?
私もよく覚えていないが、つまるところ、「そんなモンなんだ」だったと思う。
つまり、「山が歩いて海に入った?それが何か?」である。

黄昏時
AIアート519
「黄昏時」
Kay


夢の中でなら、「山が歩いて海に入る」ことも、「あって当たり前」とまでは言えなくても「あってもいいんじゃないか」くらいには思えるだろう。
そして、我々が現実と思っているものも夢と変わらないのだ。
ラマナ・マハルシは、
「夢は短く、目覚めは長い。その他に何の違いもない」
と言ったが、その長さの区別も怪しいものだ。
確かに、マハルシに対し、夢と現実は違うと言い張る者もいたと思うが、マハルシはそんな者を論破しようとはしなかった。
禅の公安の中に、旗が風になびくのは、風が動いているのか旗が動いているのかという議論がある。
それを大真面目に討論し合い、相手を論破しようとしているのを見ても、関わる気は起らない。
マハルシも、それと同じだったのだろう。

そんなわけで、山を歩かせて海に入れたいなら、この世界が夢であると見なすことだ。
そして、信じて疑わないようになれば、全て思い通りである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)現代訳 正法眼蔵
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)アイ・アム・ザット 私は在る
(4)新約聖書 福音書 (岩波文庫)
(5)江戸川乱歩作品集 110作品収録+関連作品
(6)千夜一夜物語 巻1の1

悔い改めようなどとしてはいけない理由

新約聖書の福音書によると、洗礼のヨハネと呼ばれるヨハネは、人々に「悔い改めよ」と訴えたらしい。
イエスもそう言ったとされているが、私はどうもピンとこないのだ。
だって、「悔い改めよ」と言われて、
「あ、俺が悪かった。悔い改めるよ」
と思う人間なんていないと思うからだ。
だから、実際は、イエスは、人々に直接「悔い改めよ」と命じたのではなく、悔い改めればこうなるとか、悔い改めなければああなると言っただけなのだ。あるいは、祈りの中の言葉として「悔い改めよ」と言っただけである。

ディケンズの『クリスマス・キャロル』という傑作小説がある。
クリスマスの精霊が現れ、守銭奴のスクルージに、スクルージの未来をリアルに見せるが、その未来があまりに悲惨なので、怖くなったスクルージは心を入れ替える。つまり、スクルージは悔い改め、未来を幸せなものに変えることに成功したように思える。
しかし、スクルージは、単に、我が身可愛さのために慈悲深くなっただけで、これって実に浅ましくはないだろうか?岡本太郎流に言えば「卑しい」のではないか?
本当の悔い改めというのは、自分はどんな目に遭おうとも、それに関係なく、利他的なことをすることではないのか?

たとえば、私が天使に、「10万円を寄付しなければ3年後に重病で苦しんで死ぬぞ」と言われたら、10万円を寄付するだろうが、それは善意でも何でもない。単に自分が辛い目に遭いたくない、死にたくないだけだ。
スクルージもそれと同じだ。
※ただし、1938年の映画『クリスマス・キャロル』では、スクルージが今のような人間になった経緯が物語られ、クリスマスの精霊は、スクルージの心を癒すことで、スクルージが悔い改めるよう導いている。

サンセット
AIアート469
「サンセット」
Kay


人間は、自分の想いで悔い改めることは出来ない。
だが、悔い改めなければ、未来が悲惨なことは、ヨハネ、イエス、クリスマスの精霊が言わずとも確かで、現在の日本などの、ほとんどの人間が人生の終わりに、激しく後悔することになる。

悔い改めなど必要なく、ただ、神のようになればよいのだ。そのためには、深呼吸をし薄目で世界を見れば良いだけである。
自分の想いで悔い改めようなどとすれば、ますます神から遠ざかる。
そうではなく、思考を消さなければならない。
そのためには、深呼吸をすればよく、薄目で世界を見れば、さらにうまくいくだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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