ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

イェイツ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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至高体験を起こす方法(2)

至高体験(Peak experience:絶頂体験)は、プチ悟り、瞬間的な悟りと言って良いと思う。
悟りを開いた人物は人類の歴史の中でも多くはないと思う。私の認識では、釈迦とイエス、それに、黒住宗忠とラマナ・マハルシを入れてもいいかなという程度である。
しかし、パートタイムの悟りである至高体験なら、誰でも起こすことが出来る。長く多く起こせた者が偉大な人物になる。
悟りを開いた人間は全知全能であるが、至高体験を起こすほどそれに近付き、引き寄せ程度であれば自在になる。
必ずしもそうではないが、子供の時は至高体験になることが多く、私ですらあり得ない出来事を数多く起こしたし、物理学者のフレッド・アラン・ウルフもテレポーテーションを体験したことを明かしている。

今回は、かなり強烈な至高体験の例と、その起こし方だ。
なぜこの話にしたのかというと、たまたま思い出したからだ。
ところで、至高体験では、「たまたま」ということがとても重要になる。
悟り自体がたまたまのもので、望んで得られるものではないが、至高体験にも似た性質がある。

今回の話は、アイルランドのノーベル賞作家でもある「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが気に入っていた話で、イェイツ自身が作ったものかどうかはっきりしない。
あるアラブ人の賢者(男性)の話だ。
そのアラブ人は、生涯に3度、最高の歓喜を体験する。イェイツはそう言ってはいないが、それは特に強烈な至高体験と言えると思う。
そもそも、イェイツの時代には至高体験という言葉はなく、イェイツは至高体験と思われることを、普通にエクスタシー(忘我、没我、法悦)と呼び、これ(エクスタシー)を芸術の目的と断じた。
そのアラブ人が最高に歓喜する原因になった出来事は3つ。
1つは家族を皆殺しにされたこと、1つは家を奪われたこと、1つは自分の死を悟ったことだ。
もう滅茶苦茶で、それでなんで歓喜するのかということに、普通はなるだろう。
なぜ歓喜したのかというと、彼はそれらの時、神になった・・・とまでは言えないかもしれないが、それに限りなく近づいたからだ。
そして、重要なことは、彼は、この3つの歓喜の体験によって、間違いなく、いつでも至高体験を起こせるようになったに違いないことだ。
つまりこうである。
家族が殺されたことは不幸な出来事だが、それを起こしたのは神である。
だが、彼は、それを神の思し召しとして受け入れたのではない。
それを自分の意思としたのだ。そうすれば、自分が神ということになる。
そして、いかなる偶然も自分の意思とすれば、いつでも自分は神なのである。
たまたま電車が遅れて遅刻したとしても、それ(電車が遅れたこと、遅刻したこと)を自分の意思とすれば、その出来事は神である自分が起こしたことになる。
好きな女の子にフラれたことも、目の前で黒猫が横切ったことも、何かの会場でたまたま知り合いに出会ったことも、全て自分の意思である・・・そう見なした時、自分は神である。
このように思うようになれば、至高体験が度々起こり、やがて当たり前になる。
まとめて言えば、いかなる出来事も自分の意思であると見なすのである。
風が吹いたことも、猫が鳴いたことも、岸田首相が野田元首相の圧力に屈し「政治資金パーティーはもうやらない」と言ったことも、受験に落ちたことも、ライブコンサートのチケットの抽選が外れたことも、宝くじで1億円当たったことも。

天地開闢
AIアート711
「天地開闢」
Kay


いきなり究極的な方法になってしまった。
だが、これを実行するのはなかなか大変かもしれない。
とはいえ、これこそ、子供なら簡単に出来ることかもしれない。
私など、小学4年生くらいまでは、いつもではないが、この世界は自作自演の劇であると思っていたくらいだ。
家や学校やテレビの洗脳のため、だんだん全知全能から離れていったが、とんでもない場所で好きな女に子にぱったり会った時は、自分でやったことに気付いていたものだ。
偶然を自分の意思であると思うようになるほど、どんな偶然でも起こせるようになるのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)至高体験(コリン・ウィルソン)
(2)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(3)イェイツ(渡辺久義。あぽろん社) ※あまり知られていないが重要な書
(4)幻想録(イェイツ) ※原題はヴィジョン。イェイツ作の聖書のようなもの
(5)イェイツ詩集(対訳) (岩波文庫)
(6)まだらの鳥: 自伝小説(イェイツ) ※自伝小説というより自伝的小説

王のマントラ(真言)

昨夕、このブログで書いた「吾神なり(我神なり)」という言葉を、私は大変に気に入ってしまった。
この言葉がまさに、「この世界、あるいは、私の人生を創っているのは私である」という真実を表しているからだ。
つまり、これほどの真実の言葉はない。
合氣道家の藤平光一が、「真理を口にすれば氣が出る」、すなわち何ごとも思い通りになると書かれていたが、藤平氏が出した1つの真理の言葉が「重みは下にある」だった。もちろん、地球上においては正しく、この言葉を口に出せば氣が出るだろう。
ニサルガダッタ・マハラジは、最高の真理は「私は存在する」であり、これが最高の真言(マントラ)であると言った。
しかし、「吾神なり」「私は神である」は、最もストレートでシンプルな真理で、それらの言葉に優る。
なぜなら、「重みは下にある」や「私は存在する」の認識は、心や感覚器官に依存するが、「吾神なり」にはそれがない。

「吾神なり」は、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の文語的翻訳でもそう書かれていたが、どうも私は、この言葉の読みで「われ雷(かみなり)」という言葉が浮かんでしまう。
だから、素直に「私は神である」とか、「われは神」と言うことが多いが、ここらはこだわる必要はなかろう。自分が好きな言葉を使えば良い。学校なら、どれか1つに強制されるのだが。それも下らない理由で(笑)。

では、私は神であるのに、その割には人生がぱっとしないのはなぜだろう?(笑)。
それは、ラマナ・マハルシが説明している通り、簡単に言えば、神は心の潜在的傾向性を、そのまま外界に投影してしまう・・・つまり、心の深いところにある想いのまま世界を作るのである。
それで、その心の深いところの想いを好ましいもの(大金持ちや美男美女になるなど)にするというのが引き寄せのテクニックだが、それはほとんどうまくいかない。
なぜなら、それ(心の潜在的傾向性)は幼い時から、親や学校、そしてテレビによって繰り返し叩き込まれたもので、非常に強固であるからだ。
だが、「われは神」と言って、心の奥にあるものを外界に投影させているのが自分であると宣言することで、それ(心の潜在的傾向性)は消えていく。
魔物は正体を見破られると消えるというのは、世界中のおとぎ話のパターンである。

20世紀最大の詩人と言われたノーベル賞作家W.B.イェイツのお気に入りの話に、アラブの賢者の話がある。
この賢者は、家族を賊に殺された時、家を奪われた時、そして、自分の死期を悟った時という、普通なら最大の悲劇と思われる出来事が起こった時、最大の歓喜を感じた。
この賢者は、世界で起こること全てを自分の意思と見なしていて、それによって神に近付くと理解していたからだ。
だが、この話は複雑過ぎるし暗過ぎる。
全く、根暗なイェイツの好きそうな話だが(笑)、我々はもっとシンプルで明るいハッピーな形で理解すべきだ。
まあ、根暗な人はイェイツ式で行けば良い。実は、ニーチェもイェイツと同じ考え方だった(ニーチェの方は今回は省く)。

澄んだ空気
AIアート522
「澄んだ空気」
Kay


心の潜在的傾向性を自分で作る必要はない。
引き寄せのテクニックでは「私は金持ちだ」とか延々と唱えて、それを心の潜在的傾向性にしようというのだが、それはあまりうまくいかない。
なぜなら、本気で金持ちになりたいと思っている人でなければ、それを唱えることは長続きせず、無理にやればストレスでさらに悪い心の潜在的傾向性を作る危険があるからだ。
そんなことは何もしなくても、余計な心の潜在的傾向性が消えれば、神である私が心の奥にある良いものを取り上げ、外界に創造し、いずれ心が完全に消えれば、天国が現れるのである。それを悟りと言う。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
(2)ラマナ・マハルシの教え
(3)アイ・アム・ザット 私は在る
(4)氣の威力
(5)イェイツ
(6)ケルトの薄明(W.B.イェイツ)
(7)ツァラトゥストラ(上)

深呼吸で神に近づく原理

昔、ひろさちやさんの本で読んだだけだが、イスラム教徒は「インシャーアッラー」という言葉をよく使うらしい。
これは「もし神の思し召しがあれば」という意味で、例えば、明日の午後3時に待ち合わせをしようという合意をした後で「インシャーアッラー」と言う。
ところが、翌日、片方が時間に遅れてしまったが、遅れた方は、「神の思し召しがなかったから遅れた」と堂々と言う。
金を借りても同様で、「〇月×日に返そう。もし神の思し召しがあれば」と言い、返せなくなっても、「俺は返すつもりだったが、返すことが神の思し召しでなかった」と言えば良いのである。

こういう話をすると、決まって、「それええなあ」という感じで受け取り、「へーんだ!俺が約束を果たせないのは神の思し召しでなかったからなんだよー」と相手をあざ笑う態度を取れば良いのだと思う馬鹿がいる。そんな人間に見込みはない。
だが、先日のロシアのプーチン大統領の演説ではないが、相手を尊重する気持ちを大切にすれば、このやり方で、非常に平和な世界になるのではと思う。
相手を尊重しないのは、尊大で自己中心的に考えるからであり、根本的には欲張りなのだ。

今の世の中では、相手が欲張りでないことは求め難い。みんな、すっかり欲張りになってしまった。
だが、自分のことは、「もし神の思し召しであれば」と思うことは良いことである。
しかし、ここで重要なことがある。
それは、ニーチェが「運命愛」と呼んだもので、どんな運命であれ、それは自分の意志でもあるとすることだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツも同じ考え方をしており、イェイツの方が分かり易いかもしれない。
つまり、あらゆることは神の意志で起こるが、神の意志を自分の意志でもあるとした時に、自分が神に限りなく近づく。
それが神になる方法であり、また、アインシュタインが言ったように、「神は老獪である。だが悪意はない」のであり、全てはよくなる。

花の時
AIアート453
「花の時」
Kay


とはいえ、思考があるままでは、なかなかそうは思えない。
ひどく嫌な目にあった時、「これは神の意志であり、私の意志でもある」と思おうとしても、本心ではそう思っていないので、それは嘘になってしまう。
思考があると、ビートルズの『イエスタデイ』のように、「なぜ彼女は行ってしまったんだ」と嘆き、「それが神の意志であり、自分の意志でもある」などとは、とても思えない。
だが、思考を消し、積極的に同意しないまでも、静かにしていれば、彼女は実はひどい女であったと分かったり、あるいは、もっと素晴らしい恋人が出来るかもしれない。そんなことはよくあるだろう。

深呼吸を心掛け、思考を消していけば、自我の愚かしい願いは叶わないかもしれないが、それが何かは今は全く分からなくても、最高の恵みが得られるだろう。








私が一番恥ずかしいと感じる言葉

「愛こそ全て」なんて言うやつにロクなやつはいない(笑)。
私が、これほど恥ずかしいと感じる言葉は、まあない。
アインシュタインが娘への遺言的な手紙に「愛が一番強力な力だ」と書いたという話があるが、それは日本語の「愛」とはニュアンスが違うのではないかと思う。
荘子流に言えば、「愛は愛という言葉にした時に愛でなくなる」であり、イェイツ(アイルランドの詩人)は「愛は神の領域。人間には分からない」と言うが、その通りと思う。

だが、アインシュタインが良いヒントもくれている。
アインシュタインが「愛」をどんな意味で言ったのかは分からないが、愛なるものが宇宙最強の力だと言うなら、アインシュタインが言う愛とは、間違いなく「静寂」であると私は思う。
「沈黙」と言っても別に構わない。
そして、真の静寂、あるいは、真の沈黙とは、心の静寂、心の沈黙である。
つまり、いかなる思考もないことが、最強である真の静寂であり、それが、アインシュタインやイェイツが言う愛なのだろう。
私はそう確信する。

真の愛という意味なら、確かに「愛こそ全て」であるが、そんな意味で「愛こそ全て」と言う者や歌う者はいない。

ソロモンの花
AIアート419
「ソロモンの花」
Kay


どうすれば心が静寂になるか、つまり、思考が消えるのかと言うと、もちろん、深呼吸によってである。
それを補助するには、こんな言葉を利用するのも良いかもしれない。
「私は魂(神、内なる神、潜在意識、無意識など好きな言葉で言い換えても良い)に全てまかせ、私は何も考えない」
「現状肯定。過去オール善(現状を完全に肯定する。過去は全て最善であった)」
これらの言葉を受け入れるなら、何も考える必要はないからだ。
魂は脳の一億の一億の一億倍ほども、あるいは、それよりもっともっと賢い。
自分が何を考える必要があろうか?








第3の方法は魔法道

今朝、思考(=心)を消す方法は2つと書いたが、あと1つ、特殊な方法がある。
これは、このブログで重要視するW.B.イェイツが教えたものだが、イェイツがどこで知ったのかは分からない。
ただ、彼はヨーロッパの伝統ある魔法結社の会員であったので、その方面かもしれない。
実際、イェイツの著作を読んでいると、そのように感じる。

思考を消す2つの方法は、「私は誰か?」と自分に問う方法と、「神への明け渡し」だが、この第3の方法は、一見、「神への明け渡し」に似ている。
だが、これの使い手である、とある崇拝される賢者によれば、全く違うと言う。
方法自体は、別に難しいことではない。
「全ては神の意志」とするのが「神への明け渡し」なら、「全ては私の意志」とするのが、この3つ目の方法だ。
つまり、初めから、自分が神であるとするのである。
たとえば、サイコロを投げてみる。
すると、3が出たとする。
普通の人にとっては、3が出たのは偶然である。
「神への明け渡し」を実践する人にとっては、それが神の思し召しである。
しかし、第3の方法を取る者にとっては、これは私の意志である・・・つまり、自分が3を出したとするのである。
さっき述べた、この方法の使い手の人生はどうであったかというと、富豪になったこともあったが、家族は皆殺しにされ、最後は奴隷になった。
だが、彼は歓喜に満ちていたのだ。

赤い花弁
AIアート180
「赤い花弁」
Kay


思うに、この第3の方法は、思考(=心)をあまり消したくない者のための方法だ。
そして、少し採用するのは有意義であるが、さっきの使い手のように、全面的に採用すると、奴隷になるなど、苦しいこともある。まあ、それで本人が満足ならそれでも良いだろう。
しかし、不幸は避けた方が良い。
だが、うまく使えば、この第3の方法は楽しいだけでなく、思考を消すことを加速する。
これは、魔術師や占い師が使う手でもある。
例えば、サイコロを振ったり、トランプのカードを1枚選ぶ。
その時出た目、あるいは、カードは、自分の意志で出したと思うのだ。
これは一種の訓練で、これにより魔法力が上がる。
ただし、メインでやるのは、あくまで、「私は誰か?」と自分に問うことにすべきである。
でなければ、魔法力を得て快楽は尽くせるが、魔道に落ちる危険がある。
魔法はそこそこに遊ぶべきである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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