今朝、思考(=心)を消す方法は2つと書いたが、あと1つ、特殊な方法がある。
これは、このブログで重要視するW.B.イェイツが教えたものだが、イェイツがどこで知ったのかは分からない。
ただ、彼はヨーロッパの伝統ある魔法結社の会員であったので、その方面かもしれない。
実際、イェイツの著作を読んでいると、そのように感じる。
思考を消す2つの方法は、「私は誰か?」と自分に問う方法と、「神への明け渡し」だが、この第3の方法は、一見、「神への明け渡し」に似ている。
だが、これの使い手である、とある崇拝される賢者によれば、全く違うと言う。
方法自体は、別に難しいことではない。
「全ては神の意志」とするのが「神への明け渡し」なら、「全ては私の意志」とするのが、この3つ目の方法だ。
つまり、初めから、自分が神であるとするのである。
たとえば、サイコロを投げてみる。
すると、3が出たとする。
普通の人にとっては、3が出たのは偶然である。
「神への明け渡し」を実践する人にとっては、それが神の思し召しである。
しかし、第3の方法を取る者にとっては、これは私の意志である・・・つまり、自分が3を出したとするのである。
さっき述べた、この方法の使い手の人生はどうであったかというと、富豪になったこともあったが、家族は皆殺しにされ、最後は奴隷になった。
だが、彼は歓喜に満ちていたのだ。

AIアート180
「赤い花弁」
Kay
思うに、この第3の方法は、思考(=心)をあまり消したくない者のための方法だ。
そして、少し採用するのは有意義であるが、さっきの使い手のように、全面的に採用すると、奴隷になるなど、苦しいこともある。まあ、それで本人が満足ならそれでも良いだろう。
しかし、不幸は避けた方が良い。
だが、うまく使えば、この第3の方法は楽しいだけでなく、思考を消すことを加速する。
これは、魔術師や占い師が使う手でもある。
例えば、サイコロを振ったり、トランプのカードを1枚選ぶ。
その時出た目、あるいは、カードは、自分の意志で出したと思うのだ。
これは一種の訓練で、これにより魔法力が上がる。
ただし、メインでやるのは、あくまで、「私は誰か?」と自分に問うことにすべきである。
でなければ、魔法力を得て快楽は尽くせるが、魔道に落ちる危険がある。
魔法はそこそこに遊ぶべきである。
これは、このブログで重要視するW.B.イェイツが教えたものだが、イェイツがどこで知ったのかは分からない。
ただ、彼はヨーロッパの伝統ある魔法結社の会員であったので、その方面かもしれない。
実際、イェイツの著作を読んでいると、そのように感じる。
思考を消す2つの方法は、「私は誰か?」と自分に問う方法と、「神への明け渡し」だが、この第3の方法は、一見、「神への明け渡し」に似ている。
だが、これの使い手である、とある崇拝される賢者によれば、全く違うと言う。
方法自体は、別に難しいことではない。
「全ては神の意志」とするのが「神への明け渡し」なら、「全ては私の意志」とするのが、この3つ目の方法だ。
つまり、初めから、自分が神であるとするのである。
たとえば、サイコロを投げてみる。
すると、3が出たとする。
普通の人にとっては、3が出たのは偶然である。
「神への明け渡し」を実践する人にとっては、それが神の思し召しである。
しかし、第3の方法を取る者にとっては、これは私の意志である・・・つまり、自分が3を出したとするのである。
さっき述べた、この方法の使い手の人生はどうであったかというと、富豪になったこともあったが、家族は皆殺しにされ、最後は奴隷になった。
だが、彼は歓喜に満ちていたのだ。

AIアート180
「赤い花弁」
Kay
思うに、この第3の方法は、思考(=心)をあまり消したくない者のための方法だ。
そして、少し採用するのは有意義であるが、さっきの使い手のように、全面的に採用すると、奴隷になるなど、苦しいこともある。まあ、それで本人が満足ならそれでも良いだろう。
しかし、不幸は避けた方が良い。
だが、うまく使えば、この第3の方法は楽しいだけでなく、思考を消すことを加速する。
これは、魔術師や占い師が使う手でもある。
例えば、サイコロを振ったり、トランプのカードを1枚選ぶ。
その時出た目、あるいは、カードは、自分の意志で出したと思うのだ。
これは一種の訓練で、これにより魔法力が上がる。
ただし、メインでやるのは、あくまで、「私は誰か?」と自分に問うことにすべきである。
でなければ、魔法力を得て快楽は尽くせるが、魔道に落ちる危険がある。
魔法はそこそこに遊ぶべきである。