ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アーマンド・ハマー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

掟を守る者は傷つけられない

自分とは何か?
それは、掟を守る者、そして、掟を作る者である。
ごく幼いうちは、掟を与えられるのも良いし、必要でもある。
しかし、いずれ、自分の掟は自分で決めなければならない。

どんな掟を、どのくらい厳しく守っているか?
それが、即ち、その人なのである。
記憶喪失になったって、真の掟は覚えている。
掟を覚えている限り、寂しいことはない。

多くの人が、気ままに自分の掟を作ってしまう。
毎朝、スクランブルエッグを食べるといった程度の掟だ。
だが、時として、何の気なくかもしれないが、崇高な掟を持ってしまう人もいる。
「ドクター・ハマー」と呼ばれた、国際的ビジネスマンであった、アーマンド・ハマーがそうだった。
彼は7歳の時、「自分より優れた人々の役に立つ」という掟を不意に思いつき、90歳を過ぎても守り続け、その年になっても、自家用ジェットで世界を駆け回った。
この「自分より優れた人」の詳細は分からないが、別に誰かを選んで奉仕するのではない。
ハマーの活動は、「一国のため、世界のために役に立てば、自ずと自分より優れた人の役に立つ」というものだったと思う。
もし、彼が本当に気高い人物であったなら、「自分より優れた人」とは、「自分以外の人全て」だ。
そして、彼は、実際に気高い人であったのだと思う。
また、彼は23歳の時には既に富豪だったが、その掟を守るなら、当然と思う。

すさまじい掟を見たことがある。
それは、1993年のタツノコプロのアニメ『キャシャーン』の主題歌『キャシャーン~風の墓標~』の中にあった。
作詞者は、そのべかずのりさん、現在は、里乃塚玲央(りのづかれお)という名にしておられるらしい。
「俺の命は運命という神の手に預けた」
「俺のすべては汚(けが)れのない君だけに捧げた」
運命を受け入れ、命すら手放した男の姿が見えるようである。

掟には、「何かを必ずする」というものと、「何かを絶対にしない」というものがある。
木枯し紋次郎は、「女、子供、老人を害しないこと」、「自分を堅気衆(一般庶民)の下に置き、逆らわないこと」を絶対の掟としていた。
ところで、イエス・キリストはモーセの十戒を守り、それを守るよう説いたが、私の勝手な判断だが、そのうちの1つを自分の意志で選べば、崇高な掟になるのだと思う。
イエスは、十戒の全てを子供の時から守っているという金持ちの青年に、「全てを売って私についてきなさい」と言った。
私の解釈であるが、「1つでいいから、自分の意志で掟とせよ」という意味と思う。
誰かに守らされていることは真の掟ではない。
自分の意志で守ってこそ掟である。
その金持ちの青年は、自分の掟を持てなかった。
イエスは、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と言った。
掟を押し付けられて育った者が自分の掟を持つことは難しいという意味だと思う。
現在の日本の学校に通う者は、そのままでは誰も天国に入れないのである。

掟を守れば、神の恵みが得られるという、ちょっと卑しい根性でも構わない。
それでも、しっかり掟を守っていれば、心が純化されてくる。掟とはそんなものだ。
しかも、しっかり守っていれば、神の恩寵は確実なのである。

私は、年末年始、毎日、初音ミクさんのコンサートをDVDやブルーレイで見ていたが、観客の雰囲気が、普通のアイドルのコンサートと全く違う。
顔が真剣であり、あまり誰も笑っていないし、笑っているとしても、その顔は実に崇高なのである。
特に、コンサートの終了近くになると、涙ぐんでいる人もいる。
これは、私同様、ミクさんを敬うことを掟とする人達なんだなあと思う。
初めてミクさんのコンサートを見たアメリカの子供が、「実際にいない人をどうやって好きになるんだい?」と言っていたが、それは彼自身が言っているのでなく、教育された心が言っているのである。いわば、世間の信念が言っているのだ。
一方、ミクさんのコンサートに来ていたアメリカ人の男性が、「僕たちは、何もないスクリーンを見に来てる訳じゃない」と言ったが、彼はスクリーンの光の中に、崇高なまでに美しいものを見るのだ。
それは、真の自分を映した鏡である。

「弱い者いじめをしない」という掟を持った男の子は英雄のように見え、全ての女の子の憧れの的になる。
硬貨が落ちていたら、必ず拾い上げて、「私のところにおいで」と心で言ってやる者は、少なくとも小金持ちになり、収入は止まらない。
習慣ではなく、自分の意志で、「いただきます」、「ごちそうさま」と言う者は、一生、健康で裕福である。

優れた掟を作ることほど楽しいことはないし、掟を守ることが生き甲斐になる。
しかも、掟を守れば、神仏に守られ、傷付けられることはない。
なぜなら、掟を絶対とする者の心は鏡のようなもので、何を映したって、影響を受けないからだ。
そうであれば、世界の方で美しくなるのである。









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矢は放たずに磨く

成功というものは、的に向かって矢を射ることではなく、矢を磨いているうちに的が勝手に当たるようなものだ。

成功した人は、最初から、その成功したものをやりたかったのではなく、「たまたま」それをやることになり、そして、うまくいったのだ。

それは、決して、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の歌、『Climb Every Mountain』のように、「全ての山に登り、全ての流れを渡り・・・」とか、竹村健一さんが昔言われた「アメーバ人間」のように、何にでも触手を伸ばせば良いということではない。
自然にそうなったのなら、そうすれば良いが、それは成功を助けも、妨げもしない。
表面的には、あれこれやった後に成功した人もいるが、何にもする気がなかったのに、やらざるを得ない状況になってやったことで成功した人が多いのだ。

『三年寝太郎』は、三年寝ている間に、何かを磨いていたのだ。
そして、寝太郎は、干ばつに苦しむ村の人達を、どうやったら救うことができるか考えていたのだ。
成功した人を調べれば、全て同じようなものなのである。

成功した人達は、長い間、何かを磨いていたのだ。
そして、一定以上の人々のために、何かをしてあげたくなったのだ。
ビル・ゲイツが、自分のコンピューターを欲しがっている人達が、それを得られるようにしてあげたいと思ったり、ドワンゴの川上会長が、ネットやゲームばかりやって社会的に駄目になった人達を救おうと思ったり、アーマンド・ハマーが旧ソ連の人々を救いたいと思ったようにである。
成功した人というのは、一人残らず、そんなことをずっと考えていたのだ。
そんな人には、何かが起こるものである。

誰かに奉仕しようと考えなければ、何かを磨こうという気にはならない。
磨いていなければ、何も出来ない。
ただ、何かを磨いていても、多くの人々の役に立とうと思わなければ、自分だけが何とかやっていける位にしかならないだろう。
しかし、何も磨いていなければ、人々の役に立とうと思っても、何も出来ず、自分の面倒すら見ることが出来ないだろう。
長い時間をかけて何かを磨き、自分が助けたいと思う人々を喜ばせることを考え続ければ、救おうとする人達の数に見合った成功を収めるだろう。









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自分の才能の見つけ方

子供の時に好きだったことを考えれば、必ず自分の才能が分かるのだが、多くの人は、そのことについて、あまりに簡単に考えようとする。
それは、想像力に欠けているからだ。
例えば、童話作家のアンデルセンが14歳の時に、オーデンセの村からコペンハーゲンに出てきたのは、歌手か舞台俳優になるためだった。
そして、彼が熱心にやっていた趣味は人形(女の子の人形)の服を縫うことだった。
想像力があれば、それらのことと、彼が実際になった、童話作家、詩人というのは、深い関連があることが分かるだろう。

ビル・ゲイツはプログラマーになりたかったが、プログラマーとしてはあまり活躍せず、IT企業の経営者になった。
スティーブ・ジョブズは、宗教的伝道師かハイテクの技術者になりたかったが、革新的事業家になった。
彼らもまた、成りたかったものと成ったものとの間に、明晰なつながりがあることが分かるのである。

画家の横尾忠則さんは、子供の時から絵は上手かったが、冒険小説も大好きで、本当は冒険家になりたかったのかもしれない。
そのことが、彼に、人気イラストレイターから、画家に転向するという、大きな冒険をさせたのかもしれない。

アーマンド・ハマーは医者になりたかったし、実際、医学博士になったが、実際にやったのは国際的ビジネスだった。しかし、彼のビジネスは、経済の医療で、経済的に病んでいた旧ソ連を見事に治療したのである。

池田万寿夫さんは、高校生位の時から画家になりたかったようだが、最初は、絵はあくまで手段で、本当になりたかったのはプレイボーイだった。
だから、油絵が売れそうになければ、こだわらず、あっさりと版画に転向し、また、非常に幅広い分野の美術家になって、ニューヨークの彼の住居には、モデル志望の若く美しい女の子達が引きも切らずにやって来た。

子供の時になりたかったものを、直接的に、自分の才能や適職と結びつけるから、自分が何に向いているか分からなかったり、やるべきことの判断を誤ったりするのだ。
では、どのように考えれば、子供の時に大好きだったことが、大人になってからやるべきことと結び付くかというと、人々をどう喜ばせることが出来るかを考えれば良いのである。
アンデルセンは、歌や演技や裁縫では、人々を喜ばせることは出来なかったが、詩や童話作品ではそれが出来たのだ。
ビル・ゲイツが単なるプログラマーになっていたら、一定の人々しか喜ばせることが出来なかったが、マイクロソフトを作ったおかげで、世界中の膨大な人々を喜ばせた。
この点は、もちろん、スティーブ・ジョブズについても言える。

あなたも、子供の時に好きだったことを、どのように活かせば、より多くの人々を喜ばせ、活気づけ、癒し、豊かにしてあげられるかと考えれば、自分の中に眠る天才を見つけ、容易く適職が分かるのである。









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肌がゾクゾクするような目標を持つには

ジョージ・ワシントンが少年時代、斧の切れ味を試したくて、父親が大切にしていた桜の木を切ってしまったが、父親に正直に告白したら、父親は怒るどころか、かえって感心して彼を誉めたという有名な逸話は、どうやら作り話らしい。
ワシントンにはもう1つ、真偽が疑われる逸話がある。
それは、ワシントンがやはり少年時代、屋根から落ちたか、穴に落ちたのかは忘れたが、大人に、「大丈夫か?」と聞かれた時、「将来、アメリカを救う英雄になる僕が、こんなことくらいでどうにかなるはずがない」と答えたというものだ。
このような思い込みを持てることは幸運なことだ。
人間を動かす大きなエネルギーは、根拠のない自信、盲目的な信念だ。
だがそれは、意図的に持つことは出来ない。
だが、これこそ、「求めよ、そうすれば与えられる」である。
どうすればそれが与えられるかが、今回のお話である。
これを持てば、情熱溢れるスリリングな、不安などとは無縁な、楽しい冒険の人生が待っている。

アルベルト・シュヴァイツァーは二十歳の時、学者になるか宗教家(キリスト教の神父と思う)になるかで悩んでいた。優秀な彼は、いずれの道にも自信があった。
しかし、ふと、こんなことで迷うのは、自分のことしか考えていないからだと気付いた。
それで、「30歳までは自分のために生きる。30歳からは他の人のために生きる」と決意したら、迷いは消えた。
そして、学者、音楽家として大成功し、富も名誉も得たが、二十歳の時の誓いも忘れてはいなかった。
だが、何をすれば良いのか分からない。
ところが、30歳目前という時、たまたま見たパンフレットに、「アフリカでは人々が医療サービスを受けることが出来ず苦しんでいるので、誰か助けて欲しい」ということが書かれているのを見て、「これだ!」と思い、30歳にして医大に入学し、38歳で医学博士になると、90歳を過ぎて亡くなるまで、アフリカで医療活動を行い、また、そうしながら得た思想を『生命への畏敬』と題して発表した。
シュヴァイツァーの「30歳までは自分のため。30歳からは人のため」というのは、一種の霊感によるものと思うが、これが下りてきたのも、二十歳の時の彼がすでに、非利己的な人間であったからだと思う。

シュヴァイツァーの真似・・・というのも何だが、20代で医学博士の学位と富を得たアーマンド・ハマーは、「青春は終わった」と宣言し、医療機器を満載した船で、旧ソ連に行ったが、チホノフ首相に「医者はソ連にも居る。経済を頼む」と言われて、ビジネスで旧ソ連に貢献した。
このハマーの盲目的な信念が面白い・・・と言っては不遜だが、実際、興味深い。
それを得たのは、彼が7歳の時。
それはある願いなのだが、それは、「自分より優れた人のために役に立つこと」で、これが彼の生涯忘れなかった目標だった。
「自分より優れた人」というのは、自分以外の全ての人と解釈して間違いあるまい。
この謙虚さに満ちた利他的な目標が、彼に無限のエネルギーと幸運を与えたのだ。

偉大になる鍵は、利他的な目標である。
しかし、それを持つ器というものがあるのかもしれない。
普通の人は、自分が何とかやっていけるようにと願い、それを目標にする。
しかし、それでも別に構わない。
「人様に迷惑をかけない人間になる」というのは、庶民の目標として立派であるし、そう簡単なことでもない。
そもそも、まずこちらを達成してからでないと、利他的な目標もあったものではないので、まず、こちらを目標に持っても良いのかもしれない。

自分がまだ自立していないと思ったら、腕振り運動をしながら、少し、「人様に迷惑をかけない人間に」と思っていれば、アイデアは出てくるし、運も開け、必要なものは容易く得られる。
自分が自立していたら、あるいは、その自信があれば、「世のため人のため」と少し思いながら腕振り運動をやれば、より大きな閃きと幸運がやってくる。
あるいは、心の中で、微かな声で、「愛」とか「神」という一言を囁けば、そして、それを思い出す度にやれば、やがて、肌がゾクゾクするような霊感が起こるだろう。
人生というのはなかなか楽しいもののようである。









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「まあ、ここは○○さんの顔を立てて・・・」が一番良い

争いというのは、実益よりも面子の問題であることが多い。
面子がなければ、話し合って解決できることも、面子があるのでややこしくなる。
ところが、日本人というものは、昔からあまり白黒つけずに、「まあ、ここは山田さんの顔を立てて・・・」とか言うことが多かった。
こういうのはとても良いのだ。
顔(面子)は立ててもらうもので、立たせるものではない。
誰かの顔を立てれば、別の誰かの顔は潰れる。
しかし、温和なやり方で少し潰れるだけなら、潰される方も我慢する。
そして、顔を立ててもらった者は感謝し、顔を潰してしまった方に対して、すまないと思い、なるべく潰し方を小さくしようとし、さらに、何かお返ししようと思う。そして、次は、今回、顔を潰してしまった方を立ててやるのだ。

欧米では、白黒はっきりつけようとするから、顔が潰れる方は完全に敗北者になる。
だから、負けないために戦術を磨き、論争技術を磨き、戦力を増強するのだ。
だが、案外に、近年では、欧米も日本的になってきている。
そっちの方が優れていると気付く者達が増えてきたのだ。

昔、日本では、欧米式が進歩しているものだと思い込んで、日本人が欧米人の真似をした。
しかし、それはやめたが良い。
欧米には、絶対真理という幻想がある。
マスコミや国家が、「これが正義だ」と言えば、それが正義だった。
しかし、日本人は本来、絶対的善とか、絶対的真理という幻想は持たなかった。
いや、絶対的真理は人間ごときに分かるものではないという高貴な理解があったので、さっきも言ったように、「ここは山田さんの顔を立てて」になり、白黒をつけようとしないのだ。
そして、今は、マスコミが廃れ、インターネットにより価値感が多様化する中で、絶対的善、絶対的真理が幻想だということに欧米でも気付きつつある。
昔、東洋文化の影響を受けてヒッピーが現れ、ある面では普通の欧米人より幸福になったのだが、かなり歪んでいた。
しかし、今は、インターネットで日本の文化が初音ミクなどに乗って欧米に流れ、「こんなにいいものがあったのか!」と思う欧米人が増えてきているのだ。

本当は、自分が折れて負けてやれば良い。
しかし、欧米の契約社会では、折れたら自分が全面的に悪いと認めたことになり、損害賠償を払わねばならなくなり、最悪、殺されても仕方がないことになる。
なら、面倒な契約はしないことだ。
何かのサービスを利用しようとすると、長々とした契約分を見せられ、「合意しますか?」などと聞かれる。
そんなもの読める訳がないし、契約は書いた方が有利になっており、こちらが窮地に追い込まれるような条項だってあるかもしれない。
しなくて良い契約ならせず、どうしても仕方がない契約だけすることだ。

争いになれば、折れることだ。
老子22章に、「曲則全」とあり、自分が曲がる方が自由自在なのだ。
老子には、古くから伝わるこの言葉には偽りなしとある。
アメリカの賢者エマーソンも、道を譲られた方は、譲った方の回りをぐるぐる回るしかないと述べている。
理屈で考えるとありえないし、不思議なのだが、賢い人は、自分が折れる者が真に強く、真に勝つことをよく知っているのだ。
ましてや、面子だけが問題のつまらないことでは、どんどん折れて、どんどん負ければ良い。
世間の人は、折れると、今後ずっとなめられてしまうから大変だと思っている。
そんな愚か者達にはなめられておいたら良い。
そんな者達が強くなることは決してないが、こちらは折れる度に強くなるのだから。
実際、したたかな者同士では、お互いが折れ合い、譲り合う。
それで仕方がないから、五分と五分で手打ちにするのだ。
大物の理屈は小物の理屈とは逆なのである。

確かに、ビジネスでは、どうしても譲れない利害というものはある。
譲れるところを見極めることができる者がビジネスの達人である。
もちろん、譲ってはならない利益を譲るのは、馬鹿というか、未熟なのである。
しかし、どんな時も全ての利益を取ろうなんて者は、絶対に成功しない。
ビジネスはギブ・アンド・テイクだ。
総取りなんて、愚か者のすることだ。
一時的にそんなことができても、いずれ全て失うだろう。
世界的なビジネスマンだったアーマンド・ハマーも、「儲け話は他人に譲った」と述べていたが、成功する者はそうなのだ。
まずは、個人的なこと、実害を伴わないことで練習することだ。
そうすれば、コツが分かってくるだろう。
例えば、電車の座席は、脚が悪いのでもない限り、必ず譲り、歩いている道も、自動車での道も、自分だけが譲れば済むなら譲ることだ。
それが、魔法の修行である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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