ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アーサー王

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

英雄誕生

子は親に似るのは確かだし、子は親の鏡であることは実際に多い。
親を嫌う子や、親に嫌われる子ですら、そうなのである。
そして、人間は、一生、親に似たままだ。
ただし、何もしなければ。

人間は、誰かの真似をする必要はなく、自分は自分であれば良いなどという。
しかし、自分であるつもりであっても、親、あるいは、幼い頃に長時間接した大人の影響はあまりに大きい。
だから、理想とする人間を選び、それに成ることも必要なのだ。
白鳥の子は、アヒルの子のまま生きるよりは、飛び切り素晴らしい白鳥の真似をした方が良いのである。

では、どうすれば、本当に理想的な人間になり切ることが出来るのだろうか?
アメリカ最大の賢者の1人、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの『歴史』にその素晴らしいヒントが書かれている。
それは、
「英雄の物語を読む時、それは自分の物語であると見なさなければならない」
である。
福音書には、イエス・キリストの物語が書かれているが、それは、実は自分の物語であると知らなくてはならない。
アーサー王は、生まれ自体は汚らわしかったが、偉大な英雄になった。それがあなたの物語なのである。
E.E.スミスの『レンズマン』シリーズのヒーロー、首席レンズマンであるキニスンの物語はあなたの物語である。
キニスンは優秀で勇敢であるだけでなく、一匹のクモにさえ借りを返す義理堅い男でもある。
平井和正原作、桑田次郎漫画の『8(エイト)マン』で、8マンは1人の子供のために1国を敵に回せる男・・・まさにあなたのことである。
いつか、トランプ大統領が、邪悪で強大な外国勢力と結びついた欲に塗れた連中(権力者や主要メディア)からアメリカを守った話が物語になるだろう。
それを自分の物語であると気付いた多くの英雄が、アメリカや、その他の国に生まれるのである。












自分に最適な呪文の見つけ方

我々が幸福になれるかどうかは、呪文を称えるかどうかで決まると言ったら、おかなしな話と思うかもしれないが、どうもこの宇宙にはそんなルールがあるようで、以前も述べたが、まるで、呪文でゲームのHP(ヒットポイント=生命力)を上げるようなものだ。

だが、インドの聖者ラマナ・マハルシは、マントラ(呪文と同じと思って良いと思う)は師から伝授されるものと、一貫して主張していた。
これは、彼の心の師ナーマ・デーヴの教えでもある。
だが、崇敬の念をもって神の名を称えることは良いとした。
また、マハルシは、「私」という言葉が至高のマントラであるとも述べ、いつも称えることを薦めていたようでもある。
ここらは、日本語の本になるまでに、マハルシの言ったことがかなり歪んでしまった可能性もある。
そもそも、マハルシから直接聞いた人すら、全てを正しく理解した訳ではないのだがから、それを別の誰かが聞き、またそれを、本にするために通訳を介して聞き、そして出来た本をまた別の人が翻訳し・・・とする間に、伝言ゲームのことを考えれば、オリジナルとは全く違うものになっているとしても不思議はない。
つまりこうだ。
自分のための最高の呪文は自分で探さなければならない。

一般に知られる呪文は、乱暴な言い方をすれば、光線銃のようなものだ。
それを持っていれば確かに無敵だが、それだけで人生を豊かにし、幸福になることはできない。
アーサー王子だって、神剣エクスカリバーを手に入れた意義は大きいにしろ、それだけでは、ただの力自慢に過ぎず、やがてエクスカリバーにも見放されたことだろう。
アーサーは個人的ではない信念に一致する「何か」を見つける必要があった。
それを一般的に言えば、崇高な理念とか人生の目標とかになるのかもしれないが、それらもまた借り物なのだ。
なぜなら、形ある理念は、いかに崇高に感じようが、いつかは廃れる。
その理念に執着すれば悲惨な滅びを迎える。
大企業はもちろん、国ですらそうである。

真の呪文は神そのものだ。
だから、それは神や仏の名である可能性が高い。
だが、「南無阿弥陀仏」という念仏は、無論、悪いものではないが、長い間に世間の手垢がつき過ぎてしまった。
我々の潜在意識の中で、南無阿弥陀仏という言葉に、悪いものがまとわりついてでもいるようだ。
もちろん、仏の名は、空が、鳥や雲の影響を受けないように、人間が何をしても穢れることはないのだが、「南無阿弥陀仏」というのは宗教の言葉であり、いわば、真の空を描いた絵のようなものであるから、汚れることもある。
だが、阿弥陀仏の本当の名であるアミターバは穢れない。
私の考えでは、「南無阿弥陀仏」の「南無」は敬う心であり、へりくだった心で称えることが大切で、言葉としては付けなくて良い。
つまり、「阿弥陀仏」と言う方が良い。

一方、観自在菩薩という名は、玄奘三蔵が、この菩薩の元の名であるアヴァローキテーシュヴァラをあえて音写せず、その働き「遍く見る自在者」という働きを名にしたもので、良い言葉になっている。
尚、玄奘は、観世音菩薩という言い方は間違いだと述べたらしいが、別の学者の研究では、間違いとも言えないという。
ならば、本当の名を称えても良いが、私は、観自在菩薩で間違いないと思う。
また、弥勒菩薩の本当の名であるマイトレーヤは美しい名だと思う。
この言葉の響きが好きなら、迷わず称えれば良い。

「アジマリカン」という呪文は、アーサー王の神剣エクスカリバーのようなものと思う。
エクスカリバーは選ばれた者しか手にできないが、アジマリカンは誰でも使うことができる。
だが、本質は同じだ。
邪まなことに使えば、結局、身を滅ぼす。
だが、弱い人間が保護を求めることに使いながら、へりくだった心を持てば、内なる師によって究極のものに導かれる。
ラマナ・マハルシも、その意味で「私」という呪文を授けたのかもしれない。
彼は、「師は外側にあるものではなく、真の自己が師である。ただ、師は慈悲深くも、外に姿をまとって現れることもある」と述べている。
求めよ、そうすれば与えられる・・・である。
ある神仏の名を美しいと思って称えていると、最も正しいものに導かれることであろう。









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宮沢賢治の理想とアーサー王の騎士道

宮沢賢治の『雨にもまけず』は、人に見せるための詩作ではなく、自分のために書いた手記であり、彼の死後に発見されたものらしい。
「そういうものに私はなりたい」と書いているところから、とりもなおさず、あれが賢治が理想とした人間の姿なのだと思われる。
しかし、賢治は、なぜあんなものを書いたのだろう?
私は、こう思うのだ。
賢治は、自分の心の醜さ、浅ましさに、ほとほと愛想がつき、自己嫌悪に陥っていたのではあるまいか?
そして、自分とはまるで違う、高貴な人間の姿を描き、こんな人になりたいと、心から願ったのだ。

私は自分の良心の足りなさを嘆いた時に、昔見た、アーサー王の物語を描いた映画を思い出した。
アーサー王はランスロットと出会うが、彼と決闘することになってしまう。そして、二人は激しく戦う。
アーサー王も優れた騎士であるが、ランスロットは剣の達人だ。
次第にアーサー王は追い詰められていき、ランスロットの勝利が間近になった時、アーサー王は神剣エクスカリバーの魔力を解放し、一瞬でランスロットを吹き飛ばす。
倒れたランスロットを前に、アーサー王は理性を取り戻して激しく嘆く。
「私は何ということをしてしまったのだ!この立派な騎士の方が勝っていたのに、私は卑怯なことをしてしまった」
アーサー王の騎士道は、決して伝統やしきたりに支えられた道徳のようなものではない。
そのようなものであれば、あれほど激しく良心の呵責に苦しむことはない。
真の騎士道とは、神性に基くものである。
それは、命に代えても守らなければならない神の声だ。
アーサー王は、その大切な道から外れてしまったから、あれほどに嘆き、後悔したのだ。
だが、ランスロットはアーサー王の忠実な臣下となり、アーサー王もランスロットの主君に相応しい王になっていったのだ。

賢治もアーサーもただの人間だった。
しかし、彼らは、良心という神の声を大切に守ろうとしたのだろう。
そして、良心は、求めさえすれば、誰にでも平等に与えられるものに違いない。
だからこそ、人には生きる価値があり、良心を忘れない人生は値打ちのあるものになるのだ。

昨年の12月26日に亡くなった、『サンダーバード』などで世界的に知られる映像作品プロデューサーのジェリー・アンダーソンが、初めて人形ではなく、人間の俳優を使って制作したテレビドラマ『謎の円盤UFO』(原題:UFO)にこんな話がある。
生命の危機に直面したストレイカー司令官と、司令官よりいくらか若いフォスター大佐がこんな会話をする。
フォスターがこう言う。
「なぜだろう?若い時は、死ぬことなんか恐れてはいなかったのに・・・。しかし、今は死ぬのが恐ろしい」
年長の、上司にして友人のストレイカーは言う。
「年を取ったんだ」
フォスターが、「どういう意味ですか?」と問うと、ストレイカーは静かに答える。
「年を取ると、人生の値打ちが分かってくるんだ」
だがそれは、きっと、良心に目覚めた人のことだ。
ストレイカーやフォスターは、自覚はなくても、年を取るたびに、良心という神の声に従いたいと思うようになったのに違いない。
良心を大切にする人の人生には値打ちがあるのである。









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サルトル、エマーソン、マーフィーが明かした秘法は同じだった

小説の中には、一人称で語られる、つまり、全体を通して、「私は・・・」「僕は・・・」といった調子で書かれたものがある。この場合は、主人公である1人の人物の視点で描かれた作品ということである。だが、そうでなくても、どんな作品でも、大なり小なり、主人公の視点が大きな割合を占めているだろう。登場人物達の視点が公平に取り上げられていたら、さぞ締まらないものになるのは間違いない。
『フランダースの犬』では、主にネロの視点で語られるし、『三銃士』だって、ダルタニアン視点の描写が当然多い。『若草物語』では、4人の姉妹のそれぞれの感情が表現されはするが、やはり、作者自身でもあるジョーの視点で描かれている。

ところで、小説は、主人公ではなく、別の登場人物の視点で描き直すと、実に斬新で面白いものだ。
実際、ある作品を、本来の主人公とは異なる登場人物を主人公にして作り直すこともある。ただ、小説作品で、そんなことを同じ小説の形で行う権利があるのは著者だけであるので、古典的作品を映画で行うようなものが多いだろう。例えば、『アーサー王物語』をランスロットやマーリンを主人公にした映画にする等である。

『涼宮ハルヒの憂鬱』および、その後の涼宮ハルヒシリーズでは、主人公は、「俺は・・・」と一人称で語り続けるキョンである。ハルヒは主人公ではなく、ヒロインとでもいうものだ。
しかし、これを、「私は・・・」とハルヒ視点で語ると面白いかもしれない。だが、そんなことをしなくても、作品中で、ハルヒや、あるいは、別の登場人物達の視点や感情が、キョンを通して描かれることは多い。それを、キョン自身は気付いていないように描いてしまうこともある。読者は分かるが、語っているキョン自体は分かっていないという奇妙なものだが、これもまた、小説を面白くする手法の1つかもしれない。
むしろ、ハルヒ視点のものを、著者が本当に描くよりも、ハルヒの視点や感情がぼかされるのが良いに違いない。
『僕は友達が少ない』は、主人公は小鷹という高校2年生男子だが、著者自身がヒロインの三日月夜空視点で少し描き直した企画が実施されたが、読んでみて案外に面白くないと感じたものである。やはり、ものごとは、曖昧に語り、想像させることが大切なこともある。俳句や和歌に風情があるのは、著者が語ることを最小限にすることで、後は読み手の想像力に委ねるからである。

ところで、物語には、登場人物が1人か、ほとんど1人というものがある。その場合は、一人称で語らず、むしろ、客観的に描くことで、読者の想像力に訴え、作品に深みを与えるものである。
ゆえに、読み手に想像力や深い思想がなければ、何の価値もない作品になることもあるが、読むべき者が読めば、壮大であったり、深遠な作品になるのである。これは、登場人物が多い小説でも同じであるが、1人の登場人物を見つめるものは、特にそうで、読者が試されるのである。そのような作品として、『老人と海』や『マッチ売りの少女』が思い浮かぶ。こういった作品を読みながら、読者は想像力を働かせているうちに、物語の1人の登場人物を見守る神になるのである。そして、その神の視点で自分を見つめるようにもなる。
偉大な文学を読む意味もそこにある。
『新約聖書』の4つの福音書は、主人公のイエスを、4人の異なる著者が客観的に描いた物語である。そして、この物語は、それよりも昔に、既に予言されていることが展開していくのである。読者は、イエスの言葉を学ぶ真摯な弟子であると共に、イエスを見守り、イエスの物語を決定した神に近いものなのだ。イエス自身、父なる神と自分は一体であると言う。実に、読者、主人公、著者と真の著者である神、全てに区別が無いのである。

サルトルは、小説を読むことは、その小説を再度、自分で書くことであると言った。
エマーソンは、いかなる偉大な人物の物語を読む時も、自分のことが書かれていると思わなければならないと言った。
ジョセフ・マーフィーは、『ヨブ記』など、古代の偉大な書を読む時は、かつて自分がそれを書いた時のことを思い出して読めと言った。
福音書を読む時、我々は、教えを受ける者であり、イエスであり、神なのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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