人生の目標は自己実現だなどと言う人がいるが、そもそも自己実現とは何かと言うと、何のことはない。
自己実現とは自己満足だ。
自己満足と言うと、安っぽく聞こえるかもしれないが、満足出来なければ、絶対に実現だと思うはずがなく、それも、あえて言えば、自分が満足することが大切だ。
それで言えば、「幸福とは?」なんて、人類の永遠のテーマも、実は、自己満足であることが分かる。
詳しくは知らないが、イスラム教では、唯一神アッラーの教えを守って生きた立派な男は、死後、百人近い清純で美しい乙女が与えられるという話がある。しかも、その乙女達を清純でないようにしても一晩で清純に戻るとか。
これほどの自己満足はなく、それを信じることが出来れば、アッラーに従ったとしても不思議はない。
ゾロアスター教の聖典アヴェスターによれば、やはり、善の神アフラ・マズダーの教えを守って生きた男は、死後、15歳の絶世の美少女と仲良くなれるらしい。
男は本質で、ロリコンの馬鹿なのかと思う(笑)。いや、それなら、女の方はどうなのか?(笑)
ついでに言っておくと、お釈迦様の従弟のアーナンダは、16歳の美少女と結婚することが決まっていたが、お釈迦様はアーナンダに天女を見せ、「アーナンダよ、修行すれば、この天女はお前のものである」と言った。アーナンダは、自分の嫁になる16歳の美少女も、天女に比べれば、自分の嫁とヨボヨボに老いた雌猿ほどの違いがあり、あっという間に嫁を捨て、修行に励んだ。
男って、馬鹿だなあ・・・(笑)
さて、我々は、この世には、何か大きな幸福が隠れていると思っている。
百人の美少女、百人のイケメン青年ということはないかもしれないが、何かあるはずだと。
それで修行に励もうとするのだが、それは困難であることが分かる。
例えば、我流で真言密教の修行をしたが、本物の真言密教の高僧に聞いたら、やり方が全く間違っていることが分かる。
「いや、本にはそう書いてありました」と言ったら、その高僧は、「その本が間違っておるのじゃ」と言う。
だが、その高僧の教えも「間違っておるのじゃ」である可能性が高いのじゃ(笑)・・・というより、絶対、間違いである。
じゃあ、ラマナ・マハルシなら間違いないと思い、ラマナ・マハルシの本を読むと、「私は誰か?」と問えと書いてある。
で、一生懸命やってみるが、冷静に考えると、何の成果も出ていない。
すると、ラメッシ・バルセカールという有名な聖者の本を見ると、バルセカールは、「マハルシは『私は誰か』と問えと言ったのではなく、『自分とは何か』と言ったのだよ」と述べている。
そりゃ、マハルシの本は、「タミール語→英語→日本語」訳で、想像以上に間違いが多いし、そもそも、マハルシがどのくらい自分の考えを言葉で言えたかも分からない。
さらに、別の本で、マハルシの証言を取ると、その「私は誰か」すら、「呪文にしてはならない」と書いてある。いや、呪文にしてましたよって(笑)。
こんなふうに、修行なんて、方法すら分からないものなのである。
本来、最高の修行は、自分の職業を究めることなのだ。
仙道、すなわち、仙人道は、仙人になる道であるが、将棋仙人とか、剣仙人などと言うように、1つの道を究めることで仙人になるもののようだ。
しかし、じゃあ、イチローが仙人になれるかというと、それは考えられない。
イチロー以前のアメリカ、日本の偉大な野球選手達だって、皆、離婚したり、麻薬中毒になったり、病気になったりで、仙人どころではなく、普通の人間の幸福すら得られていない者が圧倒的なのだ。
日本の野球界のレジェンド、王貞治さんや長嶋茂雄さんも、大病を患い、いろいろシンドい目に遭い、果たして幸福なのかなあと思う。
むしろ、我々は、もう名前を思い出す人も少ないが、イチローや浅田真央さんらが不幸にならないよう祈るのみである。彼らが、自己満足出来ない、つまり、不幸になる可能性が高いと思えるからだ。
ところが、長い間、熱心に念仏を唱えていた普通の人が、ある日突然、世界は自分の中にあることが実体験として分かり、あっという間に自己実現、つまり、自己満足してしまった。
そして、そうなると、富豪になれるかどうかは宿命の問題もあるが、必要なものであれば、苦労せず豊富に得られるようにはなる。
だが、普通の人に出来る修行のほとんどは、念仏のように座ってやるもので、まあ、長くは続かず、成果は出ない。
この、念仏で悟りを開いた人も、実のところ、脳の欠陥のために、そんな修行が続けられたのだと私は思う。
そこにいくと、腕振り運動は継続し易く、念仏などの行に絶対に劣らない。
どこかの、困った新興宗教が。信者に「修行するぞ!修行するぞ!」と暗示をかけたが、あれは、「修行させられるぞ!修行させられるぞ!」ということだ。
それで言えば、念仏も、その他の宗教的修行も、似たところがある。
しかし、腕振り運動は宗教ではなく、教義もポリシーもない。
あくまで、自主的にやる者だけがやる。
ただ、成果は何もない無駄な努力に終わる可能性が高い。
それでもやるから良いのである。
とはいえ、それでは、欲深な現代人はやらないので、健t康面では優れているとは言えるのである。
しかし、岡田虎二郎の岡田式静坐法を、健康法とだけ捉え、岡田虎二郎死後、忘れられてしまったような愚を再び犯すべきでない。
どこかの宗教で、美少女が百人、イケメンが百人なら、腕振り運動は千万人以上なのである。
自己実現とは自己満足だ。
自己満足と言うと、安っぽく聞こえるかもしれないが、満足出来なければ、絶対に実現だと思うはずがなく、それも、あえて言えば、自分が満足することが大切だ。
それで言えば、「幸福とは?」なんて、人類の永遠のテーマも、実は、自己満足であることが分かる。
詳しくは知らないが、イスラム教では、唯一神アッラーの教えを守って生きた立派な男は、死後、百人近い清純で美しい乙女が与えられるという話がある。しかも、その乙女達を清純でないようにしても一晩で清純に戻るとか。
これほどの自己満足はなく、それを信じることが出来れば、アッラーに従ったとしても不思議はない。
ゾロアスター教の聖典アヴェスターによれば、やはり、善の神アフラ・マズダーの教えを守って生きた男は、死後、15歳の絶世の美少女と仲良くなれるらしい。
男は本質で、ロリコンの馬鹿なのかと思う(笑)。いや、それなら、女の方はどうなのか?(笑)
ついでに言っておくと、お釈迦様の従弟のアーナンダは、16歳の美少女と結婚することが決まっていたが、お釈迦様はアーナンダに天女を見せ、「アーナンダよ、修行すれば、この天女はお前のものである」と言った。アーナンダは、自分の嫁になる16歳の美少女も、天女に比べれば、自分の嫁とヨボヨボに老いた雌猿ほどの違いがあり、あっという間に嫁を捨て、修行に励んだ。
男って、馬鹿だなあ・・・(笑)
さて、我々は、この世には、何か大きな幸福が隠れていると思っている。
百人の美少女、百人のイケメン青年ということはないかもしれないが、何かあるはずだと。
それで修行に励もうとするのだが、それは困難であることが分かる。
例えば、我流で真言密教の修行をしたが、本物の真言密教の高僧に聞いたら、やり方が全く間違っていることが分かる。
「いや、本にはそう書いてありました」と言ったら、その高僧は、「その本が間違っておるのじゃ」と言う。
だが、その高僧の教えも「間違っておるのじゃ」である可能性が高いのじゃ(笑)・・・というより、絶対、間違いである。
じゃあ、ラマナ・マハルシなら間違いないと思い、ラマナ・マハルシの本を読むと、「私は誰か?」と問えと書いてある。
で、一生懸命やってみるが、冷静に考えると、何の成果も出ていない。
すると、ラメッシ・バルセカールという有名な聖者の本を見ると、バルセカールは、「マハルシは『私は誰か』と問えと言ったのではなく、『自分とは何か』と言ったのだよ」と述べている。
そりゃ、マハルシの本は、「タミール語→英語→日本語」訳で、想像以上に間違いが多いし、そもそも、マハルシがどのくらい自分の考えを言葉で言えたかも分からない。
さらに、別の本で、マハルシの証言を取ると、その「私は誰か」すら、「呪文にしてはならない」と書いてある。いや、呪文にしてましたよって(笑)。
こんなふうに、修行なんて、方法すら分からないものなのである。
本来、最高の修行は、自分の職業を究めることなのだ。
仙道、すなわち、仙人道は、仙人になる道であるが、将棋仙人とか、剣仙人などと言うように、1つの道を究めることで仙人になるもののようだ。
しかし、じゃあ、イチローが仙人になれるかというと、それは考えられない。
イチロー以前のアメリカ、日本の偉大な野球選手達だって、皆、離婚したり、麻薬中毒になったり、病気になったりで、仙人どころではなく、普通の人間の幸福すら得られていない者が圧倒的なのだ。
日本の野球界のレジェンド、王貞治さんや長嶋茂雄さんも、大病を患い、いろいろシンドい目に遭い、果たして幸福なのかなあと思う。
むしろ、我々は、もう名前を思い出す人も少ないが、イチローや浅田真央さんらが不幸にならないよう祈るのみである。彼らが、自己満足出来ない、つまり、不幸になる可能性が高いと思えるからだ。
ところが、長い間、熱心に念仏を唱えていた普通の人が、ある日突然、世界は自分の中にあることが実体験として分かり、あっという間に自己実現、つまり、自己満足してしまった。
そして、そうなると、富豪になれるかどうかは宿命の問題もあるが、必要なものであれば、苦労せず豊富に得られるようにはなる。
だが、普通の人に出来る修行のほとんどは、念仏のように座ってやるもので、まあ、長くは続かず、成果は出ない。
この、念仏で悟りを開いた人も、実のところ、脳の欠陥のために、そんな修行が続けられたのだと私は思う。
そこにいくと、腕振り運動は継続し易く、念仏などの行に絶対に劣らない。
どこかの、困った新興宗教が。信者に「修行するぞ!修行するぞ!」と暗示をかけたが、あれは、「修行させられるぞ!修行させられるぞ!」ということだ。
それで言えば、念仏も、その他の宗教的修行も、似たところがある。
しかし、腕振り運動は宗教ではなく、教義もポリシーもない。
あくまで、自主的にやる者だけがやる。
ただ、成果は何もない無駄な努力に終わる可能性が高い。
それでもやるから良いのである。
とはいえ、それでは、欲深な現代人はやらないので、健t康面では優れているとは言えるのである。
しかし、岡田虎二郎の岡田式静坐法を、健康法とだけ捉え、岡田虎二郎死後、忘れられてしまったような愚を再び犯すべきでない。
どこかの宗教で、美少女が百人、イケメンが百人なら、腕振り運動は千万人以上なのである。
