ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アンスクール

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

学校・教師は不要

子供達に教えるべきことは、独学の方法と、他人とうまくやっていく方法だ。
メンター(助言者)としての指導者は必要かもしれないが、今の学校の教師は全く必要ない。
そのメンターも、ルドルフ・シュタイナーが、優れた教師の第一の条件に挙げたように、「空気のような存在」であり、汚水や廃棄ガスのような存在じゃない。

教室も不要だ。
あらゆる年齢の子供が交流し、必要に応じて、勉強を、年長の子が年少の子に教えれば良い。
それが最もよく解るし、教える方も、教えることで大切なことを学ぶ。
アメリカに亡命したアインシュタインが、近所の見知らぬ中学生に数学の宿題を手伝ってくれと頼まれて、大喜びで引き受けたことがあった(言うまでもないが無料だ)。それを知った、その子の母親が仰天してアインシュタインに謝りに行くと、アインシュタインは、「僕の方が沢山教わった」と、本気で言ったのだ。そういうふうに思える人であれば、大人が教えるのも、とても良いだろう。

また、子供は、社会で働く大人と交流しなければならない。
日本の教師は、最も子供と接触してはいけない大人ではないかと私は疑っている。
塾の教師までがそうだとは言わないが、少なくとも、子供達は、学校の教師には接触しない方が無難と言えるのではないかと、私は思っている。
さらに望ましい交流は、年齢が違うことはもちろん、国籍や人種も異なる人達との交流で、そんなことが出来るコミュニティを用意してあげるべきなのだ。
様々な人々と交流すれば、ちょっと理解力がある程度の子供が、自分は何でも知っているという愚かな間違いをせずに済む。
また、そういった人々と自由に交流すれば、他人の個性が分かってくるし、自分の個性も発見してもらえる・・・あるいは、自分で発見出来る可能性が高まるはずだ。

日本では夢のような話かもしれないが、欧米の学校は、既にそのような方向にシフトしつつあるのだと思う。
全て子供達の自主的な学習にまかせるアンスクール(非学校教育)や、認知科学やAIの研究者で、教育テクノロジーの開発者であるスガタ・ミトラの教育活動の情報を見たが、それらを総合しても、どう考えても、上記に述べた方向性が正しいことは確実と思える。

そして、現代においては、昔と違ってインターネットがあり、それをうまく使える子供の学習効率は、極めて高い。
その正しい使い方は、多少は、賢い大人が見本を見せた方が良いかもしれないが、案外、子供達だけでもうまくやれる・・・そんな実験を見たこともある。
授業を見たければ、カーン・アカデミーが、学校の授業よりはるかに質の高いものを提供している。
学校で、嫌な教師の下手な授業など受けなくても、科学的なエビデンスのある授業のビデオを繰り返し見た方が、比較にならないくらい有益だろう。












当ブログ著者、KayのAI書。
Kndle版、少しですが値下げしたようです。Kindle版は、一部カラーになります。
Kindle版をご購入済みの方、値下げの恩恵を得られないこと、申し訳ありません。
数学が大好きで、プログラミングもバリバリ、AI理論もスラスラ理解出来るという方は、どうか別の本を選んで下さい。
そうではないが、実用的なAIを自分で作りたい方には、本書をお薦めします。
また、画像の文字が3か9かを判別するといった、自分と関わりがあると思えない問題を無理にやるのではなく、日常の問題、そして、面白い問題にAIで挑みたい方は、本書の採用をご検討下さい。

学生気分ではプログラミングは習得出来ない

職場に、30歳も過ぎているのに、特技は何もない上、コミュニケーション能力や社会常識もない男子がいて、雑用ばかりやらされていた。
また、彼は、先輩の命令で図書館に行ってIT関係の本を借りてきては、スキャナーで全ページ複製させられていた。それを社内共有しているのだから違法行為で、犯罪に加担させられている訳でもある(告発が必要か?)。
そこで私は、ExcelのVBAプログラミングの勉強を勧めると、彼も意欲を示したので、たまたま持っていた適当な入門書をあげると、彼も喜び、彼の自宅にExcelが使えるパソコンもあるので、勉強すると約束した。

数日経って、私は彼に、(Excel VBAの勉強を)やっているかと尋ねたら、彼は、憂鬱そうに言う。
「やってますが、本に書いてあるプログラムが動かないんです」
そして、本の内容について、本は自宅に置いてるので「あそこのあれ」という感じで尋ねてくるが、私は内容を覚えている訳ではないので、分かるはずがない。
そういえば、記述の誤りがいくつかあったことを思い出す。
私は、彼に、本に間違いがあるかもしれないと言うと、彼は「僕もそう思う」と言い、非常に困った様子を見せた。

しかし、本に誤りがあることは珍しいことではない。
特に、プログラムの間違いは多いのではないかと思う。
だが、それを自分で解決することで力が付くのであり、むしろ、そんな間違いは天の恵みとすら言える。
学校の教科書は、ほとんど間違いがないが、それが当たり前であると思わない方が良い。
結局、彼は、その勉強をやめてしまった。
何度か聞いたが、その度に「本の内容がおかしい」といったことを言っていたと思う。
改めて言うと、学校じゃないのだから、多少、本の内容がおかしかったり、間違いがあるのは当たり前だ。
間違いがなく、隅々まで配慮されてると思う方がおかしいのだ。

彼を見ていると、社会でうまくやっていけない人間とはどんなものかが解り、非常に興味深かった。
ある時、彼は、朝、廊下で他の社員が自分に挨拶してくれなかったと言う。
言うまでもなく、学校じゃないのだから、そんなことだってある。
そもそも、冴えないオッサンに挨拶したいなんて誰も思っていないという現実を認識していないことが問題だ。
そして、分かってきたが、Excel VBAプログラミングの勉強を通じて構ってやると、彼は私の前で、深刻に落ち込んで見せることが多くなった。
「調子が悪い」とかもよく言う。
私は言ってやった。
「若い女の子が調子が悪いと言ったら、皆がこぞって、『どうしたの?』『何かいる?』とか言ってくれるが、我々のようなキタナイおっさんがそんなことを言っても、ウザいだけだろ?」
「16の美少女と同じ扱いを求めるな」

彼のは、少々極端だが、彼に似た者は多いし、近年は、特に増えてきたと思う。
特に、若い世代の大半はそうで、それは、学校で、おかしな形で子供の権利を守ろうなんて言われるようになったからだが、おかしなことに、そうなるごとに、人権を踏みにじられる子供が増えているのである。
その理由は簡単で、馬鹿な人間というものは、「子供の権利を守ろう」ときれいごとを言い、規定なんてものを作れば、それで終りなのだ。
つまり、当事者として向き合う覚悟が全くない者達が、教育界の指導者なのである。
これでは、学校の有り様が歪むのが当たり前である。
アメリカ等では、学校を廃し、「教育は無用」と考え、子供を自主的に学ばせる「アンスクール(非学校教育)」が注目されている。
教育の専門家などという気色の悪い者は不要である。
社会で、モノを作り、売り、サービスを行うプロと接触することで、子供は成長する。
お勉強だけしてきた人間に子供をまかせるなんて恐ろしいことがよく出来るものだと思う。
学校がある限り、日本に未来はないだろう。
日本の学校の中では、ネットの高校であるN高等学校が、欠点が少ないという意味で、最もマシとは思うが、小学生、中学生を救う道は、今のところない。手遅れにならないことを願うが、既に、十分、手遅れなのである。








学校や教室から離れよう

インターネット時代はベタな(あたりまえの)ことが重要になる。
その中でも、最もベタなことが、人に負けない特技を持つことだ。
最初、人は何も持っていない。
何かを創造しない限り。
最も酷い間違いの1つが、学歴があることで、何かを持っていると思うことだ。
これまでは、そんな虚像の力も役に立つように見えたかもしれないが、今後は創造が出来なければ、学歴に何の意味もない。逆に言えば、創造が出来れば、学歴はなくて良い、いや、ない方が良い。
数学や物理学だろうが、文学や心理学だろうが、その知識を生かすことをゼロから始めて創造し、世の中の役に立つことをしない限り、子供と同じ未熟なままだ。
これからの世の中は、スガタ・ミトラらが言ったように教師は必要なくなるが、創造してきた者は模範になる。そんな者が事実上の教師だ。
だから、学校を出て教師になったような者が最も指導者に相応しくないことが分かるし、もうそれが分かっているので、アメリカではアンスクール(非学校教育)を目標にしている。別に日本が遅れを取っている訳ではないが、それは個人の努力によってであり、既存教育がのさばり過ぎている。まあ、障害があることも、前向きに捉えれば良い面もある。例えば、吉本隆明氏が指摘していたが、ロクでもない教師は、反面教師として役に立つ。ロクでもない人間もちゃんと見ておかないと、社会の中にいる超ロクでもない人間に会った時に対処出来ない。

学校を出ても、特技は持てない。
お勉強が出来るとか、サッカーが上手いというのは、1万人に1人とか百万人に1人をいう特殊な例外を除いて特技ではない。
もっとも、そのレベルに達した者は、学校の勉強やサッカーの枠をはるかに超えていたのであり、自主的に創造活動をしていたのだ。
そんな者達は、はっきり言わなくても、学校も教師も嫌い・・・というか、邪魔だったはずなのだ。

何かを好きになるのは良いことだが、創造を開始しなければ力がつかない。力がないというのは、その点では子供と同じなのだ。
例えば、音楽が好きでも、ただ聴いていたり、いかにハードであっても練習をするだけでは駄目で、音楽を作らなくてはならない。
プログラミングに才能はなく、上手くなる者というのは、自分で考えて役に立つプログラムを創造する者なのだ。
プログラミングの勉強というのは、ほとんど必要なく、作る過程の中で必要なことを習得すれば良いのだが、あらゆることがそうだろう。
基本が大事ということもあるだろうが、実を言えば、応用しながらでないと基本は身につかないのだ。
だから、武道では、一通り基本をやったあとは(この時点では基本は身についていない)、実戦形式の練習をし、後は実戦あるのみだ。
野球のバッターでも、基本が出来ている人というのは、実戦で基本を確認し続けた人なのである。

学校や教室からさっさと離れよう。
必要なら、教わるべき人に教われば良いが、学校や教室の先生には、あまり教わらない方が良い。
教員免許ほど下らないものはない。
誰でも、やりたい者を教師にすれば良い。ただし、創造力がある者を。そうすれば、学校にも意味が出てくる。
しかし、ある小学校か中学校で、本物の技術者に授業をやらせたら、生徒は向上したが、教員免許がない者に授業をやらせたことが問題になるという馬鹿なことがあった。
教師になるのに教員免許など必要ない大学でも、「それらしい」人ばかり教員にしているが、それが、沢山の大学が潰れる原因の1つだ。
一流セールスマンを講師にして、セールスの単位でも設置すれば、学ぶことに意味も出てくるが、一流セールスマンは忙しい。
生き延びたければ、竹刀しか振ったことがない教師ではなく、真剣で戦ってきた野武士に学ぶべきである。
そんな者達は、剣術以外にも、あらゆることを知っているが、竹刀教師は剣道しか知らないものである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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