ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アルテミス

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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力ある女神達がイノセンスである理由

ギリシャ神話の神々のことを「人間臭い」と表現する人がよくいると思う。
完全であるはずの神に似合わないように思える行いがよく見られるからである。
しかし、それを、「人間臭い」というのとは違うと思う。
ひどく無邪気に感じる神々の行いは、全く人間臭くなく、それこそ神らしいと思うのである。

ギリシャ神話の最高位の神々であるオリュンポス十二神は、ほとんどがゼウスの兄と姉、そして、ゼウスの子で、例外は愛と美の女神アプロディーテーだけだが、アプロディーテーはゼウスの祖父ウラヌスから生まれた女神である。
オリュンポス十二神は、男神6柱、女神6柱だが、力や勢力において際立つのは、若い女神であるアテーナーとアルテミスである。
アテーナーは大神ゼウスとほぼ互角とまで考えられるし、ゼウスの後継者と思われるアポローンの双子の妹(一説には、先に生まれた姉)であるアルテミスも、アポローンと並び称される。
ところで、アテーナー、アルテミスとも処女神として知られる。
アルテミスは純潔の女神とも言われるが、この2柱の女神は徹底して処女であることに重きを置く。
アルテミスはカリストーという非常に美しく愛らしい精霊の少女を気に入って可愛がり、身近においていたが、カリストーは、彼女を見初めたゼウスと交わり身ごもる。
カリストーの妊娠を知ったアルテミスは、一切の事情を知ろうともせず、カリストーが処女でないという理由だけで追放する。
普通に考えたら、アルテミスの行いは理解し難く、カリストーを可哀想に思うだろう。

だが、ギリシャ神話でいう処女とは、固定観念を持たないということと考えると良いのだと思う。
知恵と戦いの女神アテーナーは固定観念を持たないが故に、知恵に優れ、軍神アーレスに打ち勝つほどの力を持つのである。
アテーナーは、その力を保つために、固定観念を持たないこと、つまり、処女であることに徹するのである。
アルテミスが水浴しているところに、たまたま通りかかったアクタイオンという男を、アルテミスは自分の裸を見たというだけで鹿に変え、アクタイオンは、彼が連れていた猟犬に食い殺される。
ここまでに処女に徹底するからこそ、つまり、固定観念を近付けないからこそ、アルテミスもまた、神々の中でも別格の扱いを受けるほどの力を持つ。
また、オリュンポス十二神には含まれないどころか、ゼウスの敵であったティターン族の女神であるヘカテーは、強大な権能を持っていたが、ゼウスはそれを取り上げなかった。
ヘカテーもまた処女神であり、ゼウスすら手が出せない、侵し難い力を持つ女神である。

恐るべき力を持つ処女神達は、とても無邪気である。この無邪気さが、固定観念を持たないことを表してもいると思う。
ところで、聖母マリアは処女のままイエスを身ごもったと福音書に書かれているが、それを表面的な言葉のまま受け取ってはいけないかもしれない。
こう言ったからとて、別にカトリックの教義を否定することにはならない。
マリアは不要な固定観念を持たない優れた女性だったということだ。
死海文書やエドガー・ケーシーのリーディングにおいては、マリアは普通の方法でイエスを身ごもったとされている。
言葉通りの意味でマリアが処女だったということに、こだわるのはおかしい。そんな信仰はレベルが低いと、未来において思われるかもしれない。
むしろ、マリアは世俗の固定観念を持たなかったこと、世間の教義や信念に平伏すのではなく、天の理を貴び、従っていたというところを強調すべきなのである。

我々も、アテーナーやアルテミスが固定観念を嫌っていたこと、マリアが固定観念に穢れない存在であったという視点でギリシャ神話や新約聖書を読むと、得るところは大きいのであると思う。
きっと、アテーナーやアルテミス、そして、ヘカテーの力の一端に触れると思う。









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アルテミスとカリスト

このブログで、黙って耐えることの大切さをよく述べているが、それには、自己否定の理解がなくてはうまくいかない。
偽りの自己である自我とは、「得をする」「楽になる」といった目的がなければ、何もしたがらないからだ。
しかし、黙って耐えても、得をすることはないし、楽にもならない。
それはただ、黙って苦しむことでしかない。
だが、損を捨て得を取ることを続ける限り、一生、自我の奴隷だ。
得を捨て、損を取ることで、自我から解放される。
「汝敗れたり、我が後方に退けサタン」
と自我に対して言えることになる。
たとえば、こんなことであるといった話をしようと思う。

カリストというのは、ギリシャ神話に登場するニンフだ。ニンフとは妖精のことで、聖霊、あるいは、下位の女神とも言われる。
カリストとは、「最も美しい」という意味らしく、その名の通り、絶世の美少女だった。
しかし、アポローンの双子の妹で、狩猟の女神であるアルテミスと気が合うだけあって、アルテミス同様、男嫌いだった。男の、美しい娘に向ける欲望を嫌悪していたのである。
オリュンポス12神の一柱でもあるアルテミスは月の女神とも言われるが、多くのニンフの少女を従えていた。あるいは、人間の少女もアルテミスの側に居れば貞節な清らかな乙女に育つというので、アルテミスに預けたといった話もある。
その中で、アルテミスもカリストを特に気に入っていて、可愛がっていた。
だが、アルテミスの父でもある大神ゼウスがカリストを一目見て、その美しさ、愛らしさにたちまち夢中になってしまう。
ヘシオドスの『神統記』にも書かれてあるが、ゼウスとはいえ、エロースの支配から逃れることが出来ないのである。
神には変身能力があり、ゼウスはアルテミスに化身してカリストに近付き、二人きりになると本体に戻り、強引にカリストを犯した。
その時、カリストはゼウスの子を身ごもり、純潔を何より貴ぶアルテミスに嫌われて追放される。さらに、ゼウス正妻である女神ヘラの怒りを買い、カリストは熊にされてしまう。それで、カリストは、他の熊や狩人を恐れながら、他の女に育てられている息子アルカスを見守っていた。
だが、成長し、立派な若者になったアルカスは狩の名手となり、熊の姿であるカリストを見つけると、母親であると知らずに狩ろうとした。息子に母殺しをさせる訳にはいかず、ゼウスは2人を空に上げ、大熊座と小熊座という星座にした。

さて、カリストにすれば、何とも理不尽な話である。
彼女は、一応は何も悪くないのに、災難、いや、悲劇が次から次に降りかかった訳である。
だが、カリストは黙って耐えるべきであった。
アルテミスに仕えたのも、ゼウスに見初められて肉を犯されたことも、ヘラに恨まれたことも、全て、運命として受け入れ、言葉も心も沈黙し、黙って耐えていれば良かった。
もし、息子に殺されるとしても、それも運命である。
アルテミスも、カリストが裏切ったと感じたかもしれないが、黙って耐えるべきであった。
そこには、アルテミスのカルマもあるのかもしれない。極端に純潔を貴ぶのも、神のすることであるので異論を唱えることは出来ないが、それが彼女の業となる。
実は、カリストはアルテミス自身であるという説もある。カリストは、アルテミスのカルマを背負ったのかもしれない。
カリストの苦しみの反作用は、アルテミスにも及ぶ。
この世の想い、言葉、行為の全てには反作用があるのだが、カリストと一体でもあるアルテミスの場合は、特にそれが顕著であろうと思う。

ゼウスは好色な神として知られ、あちこちで美しい娘を見つけては手を出して子供を作り、その多くは悲劇を生んだ。
しかし、ゼウスはそれらを受容するから偉大な神なのである。
彼は、エロースに操られて、差し障りがありながらも、美しい娘に惹かれることにも黙って耐えていた。
慈悲心はあっても、それを施すことが出来ない場合、黙って耐えた。それを嘆くことはなかった。
プロメテウスに騙された時も、実はゼウスはプロメテウスのたくらみを知りながら、黙って騙されたのである。
それで、オリュンポスは平和なのである。









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人生を世間に売った人の歩き方

私は、毎朝、通勤で駅へ向かって歩いている時、中学生が通学する集団と対向する形になる。
私は大抵、毎日同じ時間に家を出るし、彼らもそうであろうから、顔を合わせる相手はほぼ決まっているはずだ。
そこそこには、彼らの顔を見ているはずであるが、彼らの顔を憶えていることは全く無い。
ところが、ただ1人、はっきり憶えてしまった女子生徒がいる。
美少女なのかといえば、確かに美少女だが、同じくらいの美少女なら、多分、他にもいるだろうから、それが理由で憶えている訳ではない。

ところで、大学生も、あまり多くはないながら、すれ違うのであるが、こちらは、格好の良い服装をした女子大生や、逆に、あまりにだらしない格好の女子大生であれば、憶えていることもある。だが、見れば美人でも、顔をあまり憶えていない。そして、男子学生を憶えていることは全く無い。
ところが、やはり、女子大生の1人をはっきり憶えてしまった。こちらは、相当な美人で、服のセンスも抜群であるのだが、どうも、それが理由で憶えた訳ではないような気がする。

なぜ、女子中学生の1人、女子大生の1人をはっきり憶えてしまったかというと、それは目だ。
特に中学生の場合、前を見ないで歩いている子が多く、対向して歩いていると、こちらが避けないと衝突しそうな感じになることが多い。だがこれは、大学生でもあまり変わらないように思う。いや、実際は大人も同じなのだ。
誰も、意識して前を見て歩いていないのだ。
ところが、上記の2人は、そうではない。そして、今では珍しい特性と言えるが、自分から避けて道を空けるのである。特に、その女子中学生の慎ましい歩き方は好意に値する。また、その女子大生は、ちょっと鋭い感じの素晴らしい目をしている。私は、彼女を心の中でアテーナーと呼んでいる。最も輝く瞳を持つ女神だ。一方、中学生の子はアルテミスと呼んでいる。理性と芸術の神アポローンの双子の妹、最もおがやかな女神レートーの娘で、新月の女神とも言われる純潔の女神だ。

前を見て歩いていない者は、意識を捨てて生きている。意識を捨てているということは、人生を捨てているのである。そして、そんな人が非常に多い。

竹宮恵子さんの漫画で、純粋な心を持っているがゆえに、文明社会で生きるのが辛い青年の話がある。彼は、街の中の、虚ろな、死んだような顔の人を見るのが辛かった。きっと、そんな人々はいつもうつむき、前を見て歩いていない。だが、ある時、彼は1人の少女を見て驚愕する。「生きている!あの子は生きている」。彼女は、他の子と違う。生命が息づいていた。
古い漫画で、なんという題名だったか思い出せないが、ホラーもので、その少女も魔の者だったというおちであったとは思う。多分、『少女の魔女があなたの心臓を食べる歌』なんて歌になっている元の漫画のように思う。

本当に、前を見て歩いていない者が多い。人の行動は、心構えを表していることが多い。前を見て歩いていない者は、実際に、人生においても、前を見て歩いていない。
ずっとうつむいて歩いている女子大生と対向して歩いていて、試しに避けずに放っておいたら、本当に真正面ぎりぎりまできてしまったことがある。顔を見ると、きれいな顔をしているのに、知性が全く感じられない薄気味悪い顔だった。
携帯やスマホを見ながら歩いている者は、人生を携帯に渡してしまったと言って良い。この場合の携帯、スマホとは、世間の象徴である。まさに、自分の人生、自分の内面を見ず、世間だけを見ているのだ。世間にひれ伏す者は、自分で生きることを止めたのだ。イエスは、「私は生命を与えるために来た」と言ったが、その意味がよく分かるように思う。だが、現代はもはや手遅れかもしれないのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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