どうにも抜き差しならぬ状況を、大人であればいくらかは経験していることと思う。
自分ではどんな手も打てない、つまり、身動きできない状態だ。
状況によっては、我々は狼狽し、慌てふためくこともあるだろう。
パウロ・コエーリョの世界的人気小説『アルケミスト』で、主人公の少年がそんな状況になる。
彼は、ある大切な目的のために、長い時間かかってお金をため、遠い地に旅してきた。
ところが、そこに到着してまもない時に、全てのお金を騙し取られてしまう。
右も左も分からず、知り合いの一人もいない異国の地で、着の身着のままの一文無しになったのである。
ところで、私の従兄は苦学生だった。ある時、本当にお金がほとんどなくなったが、電話したらお金を振り込んでくれる親もいなかった。
幸い、その日、アルバイトの給料が貰えたので、なんとか食べ物にはありつけそうだった。
だが、もらったお金を入れていたカバンからちょっと目を離した間に、そのカバンを盗まれてしまった。彼が住んでいた町に知り合いはなく、お金を借りられるような友達もいなかった。
私も色々あったが、たとえば、外国の全く見知らぬ地で迷ってしまったということがあった。言葉が通じないこと以前に、人が全く見当たらない。自分は、3日後、生きているのだろうかと思ったほどだった。
仕事のこととなると、これが収束することがはたしてあるのだろうかという状況もよくあった。
そんな時はどうすれば良いのだろうか?
最初の『アルケミスト』の少年は、当然ながら、呆然として立ちすくみ、強い不安に襲われ、目の前が真っ暗になった。
ところが、やがて、少年の心が澄み渡り、不思議な落ち着きに包まれる。
少年は、困っている男の子を見つけると、当然のように、彼の手助けをした。もちろん、その男の子に何か期待するつもりはない。ただ、自然の流れとしてそうしたのだ。
私の経験からも、この少年のようであるのが良いと思う。
しかし、この少年には一体何が起こったのだろう。
どうすれば、この少年のように出来るのだろう。
以下は、『アルケミスト』に書かれていたことではないことを、特にお断りしておく。
少年は、絶望的な状況で、とにかく、考えることをやめたのだ。
考えても仕方が無い。
それは、現実を受け入れたということだ。
その時、何が起こったか?
私の場合もそうだったが、それまでと同じように目を開いて周りを見ているが、その見方が変わったのだ。
「観察」をやめ、「観照」していたのだ。
観察は、見たことに対し、思慮が働き、判断を行う。
しかし、観照は、一切の知的思考を放棄し、ただ、あるがままに見ているという状態だ。
毎日見ていて、見慣れている、あるいは、見飽きているものであっても、観察をやめ、観照すると、それが美しく見える。
ある詩人が、そんなものの見方を「新たな目で見ると、全て美しいのだ」と言っていたが、その通りである。
アラビアのロレンスとして知られる、T.E.ロレンスは、早朝、砂漠で目覚めて見る風景が、時々、いつもと違う荘厳さを示すのを感じたという。
これを、コリン・ウィルソンは、目覚めたばかりの時は、論理を司る左脳が目覚めておらず、右脳だけで風景を見たからであるといったことを、『右脳の冒険』で書いていたが、その右脳論が正しいかどうかはともかく、ロレンスは、思考を介さずに風景を見たというのは正しいことだろう。彼は、風景を観察せずに観照したのだ。
『荘子』では、荘子は、「視線を自然にし、一切の思慮分別をせず、あるがままに見れば、万物の背後に潜む道(タオ)と一体となれる」と述べる。
ただ、観照する、あるいは、道(タオ)と融合するということをしたところで、物事がうまくいくという訳ではない。
ひょっとしたら状況は変わらないかもしれないし、さらに悪くなるかもしれない。
しかし、たとえそうでも、不思議なことに、不安はなくなり、心が澄み渡るのである。
まあ、ほとんどの場合、そう悪い状況は用意されていない。
それは、神が仕組んだことで、我々には偶然に見えるが、必然であるのだ。
何が起こるかは、全て決まっており、それは決して変わらない。
しかし、全てを受容した時、我々は、状況に巻き込まれることは無くなる。そうすれば、我々は不幸ではない。
これが、荘子が言った、「全てをあるがままに受容する者には、鬼神も道を譲る」ということである。
観照するとは、既に決まっている運命をあるがままに受け入れ、それをただ、抗わずに体験しようとすることだ。
その時、ニーチェやイェイツは、あらかじめ決められた運命を、自らの意思とみなし、神に近付こうとした。
しかし、私は反対だ。運命が、真の自己である神の意思であるというのは正しいのだろう。
だが、決して自我が神ではない。運命を自分の意思と見なす「私」が存在する限りは、出来事は「私」の意志であると言うことはできない。その「私」は自我である。自我である私が消えた時、真の私である神が現れるだろう。
結局、ニーチェは発狂した。自我を持ったまま神になろうとした者の末路だったかもしれないが、それもまた、彼の避け得ぬ運命であった。
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自分ではどんな手も打てない、つまり、身動きできない状態だ。
状況によっては、我々は狼狽し、慌てふためくこともあるだろう。
パウロ・コエーリョの世界的人気小説『アルケミスト』で、主人公の少年がそんな状況になる。
彼は、ある大切な目的のために、長い時間かかってお金をため、遠い地に旅してきた。
ところが、そこに到着してまもない時に、全てのお金を騙し取られてしまう。
右も左も分からず、知り合いの一人もいない異国の地で、着の身着のままの一文無しになったのである。
ところで、私の従兄は苦学生だった。ある時、本当にお金がほとんどなくなったが、電話したらお金を振り込んでくれる親もいなかった。
幸い、その日、アルバイトの給料が貰えたので、なんとか食べ物にはありつけそうだった。
だが、もらったお金を入れていたカバンからちょっと目を離した間に、そのカバンを盗まれてしまった。彼が住んでいた町に知り合いはなく、お金を借りられるような友達もいなかった。
私も色々あったが、たとえば、外国の全く見知らぬ地で迷ってしまったということがあった。言葉が通じないこと以前に、人が全く見当たらない。自分は、3日後、生きているのだろうかと思ったほどだった。
仕事のこととなると、これが収束することがはたしてあるのだろうかという状況もよくあった。
そんな時はどうすれば良いのだろうか?
最初の『アルケミスト』の少年は、当然ながら、呆然として立ちすくみ、強い不安に襲われ、目の前が真っ暗になった。
ところが、やがて、少年の心が澄み渡り、不思議な落ち着きに包まれる。
少年は、困っている男の子を見つけると、当然のように、彼の手助けをした。もちろん、その男の子に何か期待するつもりはない。ただ、自然の流れとしてそうしたのだ。
私の経験からも、この少年のようであるのが良いと思う。
しかし、この少年には一体何が起こったのだろう。
どうすれば、この少年のように出来るのだろう。
以下は、『アルケミスト』に書かれていたことではないことを、特にお断りしておく。
少年は、絶望的な状況で、とにかく、考えることをやめたのだ。
考えても仕方が無い。
それは、現実を受け入れたということだ。
その時、何が起こったか?
私の場合もそうだったが、それまでと同じように目を開いて周りを見ているが、その見方が変わったのだ。
「観察」をやめ、「観照」していたのだ。
観察は、見たことに対し、思慮が働き、判断を行う。
しかし、観照は、一切の知的思考を放棄し、ただ、あるがままに見ているという状態だ。
毎日見ていて、見慣れている、あるいは、見飽きているものであっても、観察をやめ、観照すると、それが美しく見える。
ある詩人が、そんなものの見方を「新たな目で見ると、全て美しいのだ」と言っていたが、その通りである。
アラビアのロレンスとして知られる、T.E.ロレンスは、早朝、砂漠で目覚めて見る風景が、時々、いつもと違う荘厳さを示すのを感じたという。
これを、コリン・ウィルソンは、目覚めたばかりの時は、論理を司る左脳が目覚めておらず、右脳だけで風景を見たからであるといったことを、『右脳の冒険』で書いていたが、その右脳論が正しいかどうかはともかく、ロレンスは、思考を介さずに風景を見たというのは正しいことだろう。彼は、風景を観察せずに観照したのだ。
『荘子』では、荘子は、「視線を自然にし、一切の思慮分別をせず、あるがままに見れば、万物の背後に潜む道(タオ)と一体となれる」と述べる。
ただ、観照する、あるいは、道(タオ)と融合するということをしたところで、物事がうまくいくという訳ではない。
ひょっとしたら状況は変わらないかもしれないし、さらに悪くなるかもしれない。
しかし、たとえそうでも、不思議なことに、不安はなくなり、心が澄み渡るのである。
まあ、ほとんどの場合、そう悪い状況は用意されていない。
それは、神が仕組んだことで、我々には偶然に見えるが、必然であるのだ。
何が起こるかは、全て決まっており、それは決して変わらない。
しかし、全てを受容した時、我々は、状況に巻き込まれることは無くなる。そうすれば、我々は不幸ではない。
これが、荘子が言った、「全てをあるがままに受容する者には、鬼神も道を譲る」ということである。
観照するとは、既に決まっている運命をあるがままに受け入れ、それをただ、抗わずに体験しようとすることだ。
その時、ニーチェやイェイツは、あらかじめ決められた運命を、自らの意思とみなし、神に近付こうとした。
しかし、私は反対だ。運命が、真の自己である神の意思であるというのは正しいのだろう。
だが、決して自我が神ではない。運命を自分の意思と見なす「私」が存在する限りは、出来事は「私」の意志であると言うことはできない。その「私」は自我である。自我である私が消えた時、真の私である神が現れるだろう。
結局、ニーチェは発狂した。自我を持ったまま神になろうとした者の末路だったかもしれないが、それもまた、彼の避け得ぬ運命であった。
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