至高体験、超越意識体験、純粋意識体験、ゾーン、フロー・・・何と呼んでも構わないが、誰しも、普段の意識の状態とは違う、恍惚とした、神秘的な、ある意味異様な、宙に浮いているような、星に親しく見られているような・・・誰でも、そんな感覚になったことがあるはずである。
その時、その人は、無に限りなく近づいている。
人間は、無になれば不可能はない・・・どんな願いも叶う。
その感覚を得るために、厳しい修行をしたり、長時間の瞑想に励む者もいると思う。
しかし、過去に、我々がその感覚を得た時、修行や瞑想なんかしていなかった。

世界的心理学者アブラハム・マズローも、その感覚は、稀にしか訪れない、特殊なものだと思っていた。
だが、英国の作家コリン・ウィルソンは、そんなものは、しょっちゅう起こっているし、意図的に起こすことも出来ると言い、後に、マズローも同意した。
特に、学校が嫌いな子供なら、明日から夏休みという日には、そんな感覚が起こりっぱなしだ。
私は、小学4年生の時の、明日から夏休みという日の、学校からの帰り道、誰もいない道を歩いていて、空き地に茂る草を見た時に、その感覚が起こったことを、今でも鮮明に思い出す。
その感覚は、敢えて言葉で言えば、至福、静寂、光明、幽玄、純粋、透明、栄光・・・まあ、そんなところだろうか。
映画『小さな恋のメロディ(原題:Melody)』の原作小説(映画の脚本を書いたアラン・パーカーの作品)の中で、主人公の11歳の少年ダニエルは、幸福な時の気分を「天国」と表現していた。
なるほど、確かに、あの無の感覚は天国とも言える。
きっと、アラン・パーカー自身がそうだったのだろう。
天才画家が描いた天国、あるいは、天使の絵には、無の感覚を呼び覚ますものが多い。
それは、人間が描いた絵ではなく、神のような何かが画家の手を通して描いたものだろう。
私の場合、ギュスターヴ・ドレや、マルク・シャガールの、天国や天使の絵を見ると、いつも、その感覚に近付く。

つまらないものを見ている時間を、至福の感覚を思い出したり、天国や天使の絵画を見ることに当て、純粋意識に馴染んでいけば、少しずつでも、世界の中心に近付く(それが無である)。
そこは、世界を形作る者の座である。